きすのひ
それは、かぐやがやって来て間もない頃のおはなし。
「と〜さん」
「ん…?」
縁側でいつものように昼寝していると、かぐやに呼ばれた。
目を開けると、透き通った深緑を思わせる翠の瞳が、上から自分を覗き込んでいた。
「いっしょに遊びたい」
「…んあ?兄ちゃんはどうした?」
「おでかけだって」
「そうだったな。あー、よし、遊んでやる。何したい?」
黒い浴衣に付いた埃を手で払うと、起き上がって小さな少女と向き合った。
両膝をついて座ると、今度は小さいかぐやを見下ろす形になる。
「父さん、かぐや、『白雪姫』ごっこがやりたい」
「かぐやなのに、白雪姫なの?」
「うん」
かぐやは満面の笑みを浮かべて大きく頷く。
何だか嬉しそうだ。
蔵の本は好きに読んでいいと言ってあるから、きっと童話が気に入ったんだろう。ごっこ遊びがしたいと言うのも、このくらいの年の子供らしい。
「父さんが王子さまだよ。ちゅーしておきるところやりたい」
「うん??いや待て。というか、王子様っつったら兄ちゃんのが適任だろが」
今は市場に行かせていて此処に居ないが、リウは色白赤眼に、さらさらな白髪、それに顔面だって中性的で美人の部類に入る。
白馬の王子様と言ったらあいつの方だ。
いや、寧ろ白馬の方かもしれないが。
「とにかく、人には適材適所ってモンがある。おれじゃ、王子っつーより魔王の類になっちまうぞ」
「かぐやは父さんとちゅーしたいの」
「なに?」
謎の発言に眉を顰める。
おれは軽く腕を組んで唸った。
「…白雪姫じゃなくて、今日は別のにしな」
「じゃあ、『眠り姫』がいい」
「…」
どうしたんだこの子は。
「だめ?」
つやつやした短い黒髪の間から、子犬のような瞳で見つめられる。
「うぐ」
かぐやのこの目に弱いのだ。
純真無垢な子供のきらきらした目に。
「しゃーねぇなぁ。ってか、なんでそんなにキスにこだわんだ?」
「だって、すきなひとにはちゅーするってリウ兄が言ってたから」
「…あのバカ…」
頭を抱える。
一体どういう流れで年端も行かない幼い子供に、そういう事を吹き込む事になるんだ。
「それにしたって、好きの意味が違ぇだろ。家族でそれはおかしい」
「リウ兄は、「家族はキスやハグをする」って言ってた」
「何教えてんだ、あンの阿呆は…」
頭が痛い。
あいつはまだ自分たちヒトと暮らし始めたばかりで、発展途上なところがある。中途半端な知識だけは持ち合わせているが、経験不足過ぎて、使いどころを正しく理解していない。
見た目は大人、頭脳は半分お子様なのだ。
「はいっ、かぐやが眠り姫ね」
と、勝手に遊びを始めたかぐやが、ばふっ、と並べた座布団に仰向けになる。
胸の上で手を組み合わせて、眠り姫のポーズまで真似している。
どうすっぺかなぁ、これ…。
「困った子だ…」
暫し思案した後、かぐやの横に跪いた。
身を屈めると、後ろで一本に纏めた長い黒髪が、肩から床に流れ落ちる。
おれは目を閉じているかぐやの不揃いな前髪を持ち上げると、額に軽く口づけを落とした。
「はい。おしまい」
「やだ!」
がばっ、と起き上がって抗議する。
「それじゃあ、リウ兄に相手してもらえ」
半ば笑いながらそう言うと、かぐやは、むっとして、不満そうにしていた。
こんな風に我儘言うようになったのも、まあいい傾向か。
大分打ち解けてきた事に安堵していると、自分の横でかぐやがすっくと立ち上がった。
「?……っ!」
突然、横から肩に抱きついてきたかぐやに、頬にキスされた。
「父さんだいすき」
えへへ、と照れ笑いしながら言う。
「おめぇ、なぁ…」
あまりにも自由奔放過ぎる愛情表現に瞠目していると、かぐやはぎゅっと横から抱き付いた体勢のまま、こちらを見上げた。
「あのね、父さん。お山でケガしてたときに、かぐやのことたすけてくれて、ありがとう。今ね、毎日しあわせだよ」
にっこりと、一点の曇りもない朗らかな笑顔でそう言う。
「……おお。そーかよ。そりゃ良かったなァ、かぐや」
「うん!」
と、襖の向こうでガラガラと格子戸が開く音がした。
その途端にかぐやが部屋から廊下へと駆け出していく。
玄関先から、リウ兄聞いて!とかぐやの明るい大きな声がしてくる。
思わず、くっ、と笑いが漏れた。
「救われてるのは、こっちの方だっての。まったく…」
襖の間から微かに見えるかぐやの無邪気な後ろ姿に、目を細めた。
05/23
大分遅れた接吻の日の小咄でした。おしまい。