第42話 笑う悪魔と殻壊す歌姫
「ッッ……」
逃げろ、と本能が叫んだ。
戦うな、と全神経が警鐘を鳴らす。
雪菜は条件反射のように、防壁の歌声を歌った。
「悪魔の風」
雪菜の判断は正しかったのだろう。
雪菜が歌い出すのと同時に、男は蛙の王に使ったものと同じスキルを、全員に向けて放つ。
雪菜、勇人と裕司、精市、シルビィと晋也、位置の関係から別々に張られた四つの結界を、黒い風が激しく切り付けた。
結界から響く鋭い音に、皆顔を歪める。
「頑丈だなぁ。……お、丁度いいんじゃねぇ? あれ、やってみたかったんだよ。そう、あれ、変身ってやつ? 悪魔化」
黒い風が収まり、無傷な結界を見た男が顔を顰めたかと思うと、今度は愉快げに笑い、次のスキルを行使した。
すると、スキル名を告げた男の身体が、唐突に脱力し、がくんと顔が俯く。
止まった攻撃。止まった動き。
皆、固唾を飲んで男を見つめる。
徐々に後退しながら。
皆、同様に目を離してはいけない気がしていた。
「は、え、はあぁぁ?! ちょ、ちょ、そいつなんなんだよぉッ?!!」
男の変化にいち早く反応したのは、意外にも晋也であった。
彼は目を丸くしながら、まるでホラー映画で幽霊が出て来た時のように、何処か恐怖の滲んだ声で叫ぶ。
(っやばい!)
背筋を悪寒が走り、脳内の警鐘が激しさを増す。
それに促されるように、現状が不味いと判断した雪菜は、歌を止め、弾かれたように駆け出していた。
精市が、勇人が、裕司が、名前を呼ぶが、雪菜に気にする余裕はない。
(っ、この男をこのまま……!!)
雪菜の頭を塗り潰したのは負の感情で、雪菜の身体を突き動かしたのもまた負の感情だった。
目隠しをされたような不明瞭な不安。
白紙に黒のインクを零したように、侵食してゆく恐怖。
ただ目の前の脅威をどうにかしなければならないと、本能的に悟る。
声が遠い。景色が遠い。
雪菜は男の喉笛を切り裂かんと、ダガーを振るった。
けれど、それは男に当たる事はなかった。
────こいつは、人間じゃないの?
過った疑問が、雪菜の手を止めさせたのだ。
目の前の男は、人か否か。
恐らく、それによって彼女は────攻撃出来なくなる。
「…………」
「っっ?!」
男の身体が、酷い音を立てていた。
不意に、男は俯いたまま、自分の首にダガーを突き付けたまま、制止してしまった雪菜の手首を握る。
ぎりぎりと握り締められる手首から、嫌な音が聞こえた。
堪らず痛みに顔を歪め、雪菜は男の手から腕を引き抜こうとする。
だが、力が強くびくともしない。
睨み付けるように見つめる先で、男の姿形は変わってゆく。
頭上に、鬼のような黒い角が生え、臀部からは悪魔のような黒く尖った尾が伸び、背中はまだ形状を整えるように、音を立てて、ぼこぼこと動いていた。
「うぁー、変身中に攻撃とか、不粋だろ?」
男は一回伸びをすると、にんまりと口角を上げ、雪菜に顔を向けた。
ようやっと形状変化の終えた身体。
その背には、蝙蝠のように黒く、大きな一対の翼が揺れている。
「っえ……っっ、か、はっ!」
雪菜に取って、それは一瞬だった。
ほんの一瞬。
視界に捉えられない速度で、動かされた男の右拳。
次いで、鳩尾に激しい衝撃が走り、嘔吐感と痛みが身体を襲う。
口から空気が吐き出され、崩れ落ちるように前傾する身体。
からん、と乾いた音を立てて、手からダガーが零れ落ちる。
(っ、息が……)
衝撃に耐えられなかった身体が、呼吸困難を訴え、まるで魚のように口をはくはくと動かす。
雪菜の肺は、確かに空気を欲っしているのに、身体は思うようにそれを取り込めない。
「弱ぇなあぁッ!!」
身体が地面にゆっくりと崩れ落ちる。
寸前、男は追い打ちのように、今度は雪菜の腹部を思い切り蹴り飛ばした。
「っ、ぁ、っ…………?!!」
一瞬の出来事に、精市達は反応する事も出来ずに、ただ雪菜の名前を叫ぶ。
後方へ蹴り飛ばされた雪菜の身体が、勢いよく背中から壁に叩き付けられた。
激しい音を立てて壁が僅かに崩れ、クレーターを作る。
背中に加えて、頭を強かに打ち付けたのか、雪菜の頭部からは、だらだらと真っ赤な血液が伝う。
衝撃と痛みに、息が出来ない。
まるで、水中に沈むように、雪菜は息が出来なかった。
(息、を……息を、しな、きゃ……)
そう、思考していても、一向に呼吸器は機能しない。
それ所が、次第に瞳もその働きを緩め、霞み、瞼が重くなる。
「い、いや、いや、いやあぁぁ?!!! セツナ様あぁぁッッ?!!」
石壁に、力なく身体を埋める雪菜の姿に、シルビィが堪らずに悲鳴を上げた。
敵などもう眼中になく、雪菜だけを見つめて、シルビィが駆け寄ろうと動くのを、晋也が「シルビィさん! 駄目だ! アンタ後衛職なんだろッ?! 殺られに行くだけだろッッ?!!」と、身体を押さえて制止する。
「次は誰が逝きたい?」
男は笑う。
にんまりと笑う。
さながら、己がその姿形通りの悪魔であるかのように。
(……赤坂、くん)
霞む視界に、映るのはクラスメイトとシルビィと、男の姿。
態と緩慢な動作で、追い詰めるように近付いて来る男に、精市が皆を庇うように、片手剣を構える。
男の表情は変わる事なく、笑みを称えていた。
男が片足を、踏み込む。
あっという間に、縮まる距離。
蹴りの一撃で、精市の身体が地面に崩れ落ちる。
次いで、勇人、裕司も同様に、蹴られ、殴られ、倒れ込む。
地に伏す三人が、痛ましげに小さく呻き声を上げた。
圧倒的力量差。
行われるのは、戦闘ではなく、まるで蹂躙。
男は止まる事なく、今度は晋也の頭を掴み、そのまま地面に叩き付ける。
とうとう残るは、シルビィただ一人。
男の前に立っているのは、彼女だけになってしまった。
「あ、ぁ、あっ……あ、ぁっっ…………」
その赤い瞳に溢れんばかりの涙を溜めて、シルビィは小さく嗚咽を上げながら後退る。
一歩。二歩。
肉食動物に睨まれた小動物のように、恐怖から後退していたシルビィが、足がもつれさせ、その場に尻餅を付く。
立ち上がる気力すらなく、シルビィは自分に迫る男を見上げた。
男はただ愉快そうに、シルビィを見下ろす。
(っ、息を、しろ。息をしろ。私の身体、でしょ……少しは、言う事を聞いてッッ……)
雪菜は遠退く意識を、気力だけで繋ぐ止めると、ぐっと拳を握り締める。
視界の先で、男がシルビィに向けて、手を伸ばす。
「っ、は……!! げほ、げほっ……!」
男とシルビィを視界に捉えながら、雪菜は胸をとんとんと拳で叩き。
肺に、呼吸に集中する。
それにより、機能を取り戻し始めた肺が、一気に空気を取り込んでしまい、僅かに噎せ返った。
(……シルビィさんを。でも、どうやって、どうすれば。ああ、早く)
取り戻した酸素に、雪菜は呼吸をして、身体を起こそうと僅かに腕を動かす。
酸欠により、脳がまだ上手く働かず、意識は霞のようにゆらゆらと揺蕩う。
「……っ薬」
雪菜はぽつりと呟くと、壁に付いていた腕を離し、収納魔法の中に放り込まれたままの小瓶二本を手に取った。
(……鑑定)
最後の一本となった魔力回復薬小を、胃に流し込み、雪菜はもう一本の小瓶、いのりに渡された小瓶と一緒に混ざっていた、謎の液体の入ったそれに、スキルを使用する。
五分間の力。飲み薬。
鑑定の結果、表示された情報に、雪菜は緩く笑った。
薬品の効能はいまいち分からないし、飲んでどうなるかも分かりはしない。
けれど、毒ではない事は分かった。
飲み薬である事も分かった。
このままでは、手も足も出ずに、自分達が殺されるだろう事も分かる。
ならば、生き意地汚く、足掻くべきなのだろうと、雪菜は静かに思う。
五分間の力。
そんな名前なのだから、五分間だけでも力をくれたらいいのに。
痛む身体を動かせる力だけでも、くれたらいい。
そして、雪菜はそんな願いと共に、一思いにその薬品を飲み干した。
一滴残らず、体内へと、流し込んだ。
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長くなったので、一度区切ります。
以下、おまけ。
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美夜「……」
いのり「…………」
正樹「………………」
永久「……誰かなんか喋れ」
美夜「なんか」
いのり「なんか?」
正樹「なんかー」
永久「俺の事、馬鹿にしてる……?」
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