山小屋を目指して
ティスが宿屋《銀輪亭》で働き始めて、一ヶ月が過ぎた。
当初の予想を超える客入りに、女将はご機嫌だ。
宿泊客の他に、新しく常連になった人たちもいた。
そんな中、もう一つ朗報が届いた。
「もう、鍋を振っていいって言われたよ」
旦那の折れた腕が治ったのだ。
医者の見立てでは、まだ二ヶ月ほどは骨が固まっていないので無理はしない方がいい、とのことらしい。けれども、日常生活に支障はないとのことだった。
料理の勘が鈍るのを避けるため、料理番に復帰するらしい。
「って言っても、毎日続けると無理がたたるかもしれないからねぇ。――ティス。あんた、冒険者になれなかったら……ううん、冒険者になっても、一日おきくらいにここで働いておくれでないかい?」
正規の料理番である旦那の補欠、というわけだ。
ティスとしても冒険者を目指しながら定期収入を得られるので、否やはなかった。
まして、生活面でも教育面でもお世話になった夫婦の頼みだ。
「はい! こちらこそお願いします、女将さん!」
「良かった! あんたを目当てに来るお客さんも多いからね! それに、あんたの作る料理を詳しく教えてもらわないとさ!」
ティスは、旦那の腕が治ったら、料理を教え合う約束をしていた。
今までにも少しずつ口頭指導と試食を繰り返して旦那の味を覚えている。
旦那の腕が治れば、物珍しいと騒がれるティスの料理が宿に受け継がれる。
この宿の新たな名物になるだろう。
「それでは女将さん。お話していた通り、お暇をいただいてもいいですか?」
「ああ。気をつけて行っておいでよ!」
女将の威勢のいい見送りを受けて、ティスは背後を振り返る。
「というわけなので、二人とも。よろしくお願いします」
「ああ、承った」
「平穏無事に連れてってやるぜ、ティス!」
ティスの出発を待っていた、ユーリカとミレアがうなずいた。
この二人を護衛として、ティスは先月まで住んでいた山小屋に戻る。
待つ者は誰もいないが、一時の帰省だ。
頼れる人たちと知り合えたことを、祖父の墓に報告しよう。ティスはそう決めた。
*******
正門をくぐり、街の外へ出る。
朝方とあって、反対側には街に仕入れに来た行商人が列を成していたが、出る方は気楽なものだ。持ち出し禁止品の確認も手短に、ほぼ素通りで抜けられた。
草原が広がり、遠目に森や農村が見える。
一気に広くなった景色を見渡しながら、ミレアたちは準備運動を始めた。
「さて、ユーリカ。どうする? ティスはあたしが負ぶってくか?」
「その方が早いだろうね。ティスの脚だと、おそらく一日じゃ間に合わない」
「え? え? 負ぶってくって……」
冷静にすっとんきょうな相談を交わす二人。ティスは思わず目を瞬かせた。
まるで当たり前のことを話すように、ミレアが告げる。
「いや、ティスの住んでた山まで、実は結構離れてるんだよ。あたしが負ぶって駆け下りたから、街道まで早く着いただけで」
「早く済ませるに越したことはないよ。ティス、ミレアに背負われなさい。道中の敵は私が引き受けるから。今日のうちに山小屋まで走ろう」
そう言って、二人は彼方にある山脈を指し示す。
ふもとが霞んで見える。障害物がないので全容が見えてはいるが、かなりの距離があるだろうことは予想できた。
あんなに遠い山だったのか、とティスは思う。
あの、彼方の山まで半日で走ろう。
二人は、こともなげにそう言ったのだ。
「え、本当にやるんですか……わっ、ミレアさん!?」
「よっ、と。シャルロットたちがいなくて良かったな! すぐに着くぜ!」
「《クラン》でも合同依頼でも無いのに、級が違うシャルロットが私たちと組むのは、実力的に無理があるよ。成功報酬とは言え、依頼するお金ももったいないしね」
ユーリカの身体が、淡い光に包まれる。
女性の持つ、創世の女神の『加護』が強く発動しているのだろう。
彼女が本気を出しているということだ。
「行くよ、二人とも」
ユーリカと、ティスを背負ったミレアが同時に走り出す。
驚くべきことに、景色が視界を流れていった。
放たれた矢のごとく、二人は街道をひた走る。おそらく馬より速い。
山の獣や凶種でも、これほど早く走れる生物はいないのではないか。
そう思わせる神速だった。
さらに信じられないことに、二人はその速度を維持し続けた。
息も切らさず平然と走り続けるその姿に、ティスは思わず声を上げる。
「こ、これが人間の、女性の脚力なんですか……!?」
「何だ、ティス? 風で聞こえねぇ! しゃべってると舌噛むぞ!」
「移動に全力を費やしてるだけさ! これが標準というわけじゃない!」
風を切り裂いて走る二人の前に、野犬の群れが現れた。
ミレアが微かに速度を落とし、ユーリカが先行する。
剣士の手元がかき消えたかと思った瞬間、野犬の群れはすべて両断されていた。まるで駆け抜ける風の刃だ。
野盗を振り切り、獣や凶種をものともせず、三人は山の中へと辿り着いた。
ティスとユーリカたちが初めて出会った場所だ。
まだ、日は中天にある。
今日中どころか、数時間と経たずに二人は彼方を踏破した。
あまりに自分の認識とかけ離れた身体能力に、ティスはもはや言葉もない。
「さ! こっからは道案内を頼むぜ、ティス!」
「きみの山小屋の場所はきみしか知らないからね。先導は頼むよ」
わかりました、とティスはふらつきながらも答えた。
背負われているだけでも疲労が激しい。悪酔いしたように気分が悪かった。
「ユーリカさんは特別だとして……ミレアさんは、何でこんなに脚が早いんですか? やっぱり、大きな加護を受けてるんですか?」
「あー……そか。あたしはな。竜人族って言って……その……」
なぜだか歯切れ悪く、ミレアが口ごもる。
何かを怯えているような素振りだ。彼女は不安げにティスの顔色を伺っていた。
「ミレアは亜人なんだよ。強力な身体を持つ竜種の血を引いた、竜人族だ。純粋な人間種ではなく、種族的に人間よりはるかに強い力を持っているんだよ」
「てめ……ユーリカぁ!」
牙を剥き、彼女はユーリカを怒鳴りつけた。
ユーリカはまったく動ぜず、ティスを見て微笑んだ。
ティスはきょとりと、
「えと――それは、竜とか獣みたいな、凄い力がある人、ってことですか?」
「あ……そ、そうだ。怖いよな? 人間の男は皆、力の強い生き物を怖がるからな……」
眉をひそめ、うつむく竜種の少女。
しかし、ティスの反応はミレアの予想だにしないものだった。
「格好いいですね、ミレアさん!」
「か、かっこいい?」
「獣みたいに野山を駆けられるんでしょ? 俺も、あんな風に速く動けたらなぁって思ったこと、何回もありますよ!」
まるで無邪気な子どものように、ティスは表情を輝かせていた。
他人を知らずに育ったティスだ。思慕も憧憬も恐怖も、人間ではなく野生の獣に向いている。幼い頃から、彼にとって強さを学ぶ相手とは、祖父と、山野の獣だったのだ。
そのことを悟り、ミレアはぐすり、と鼻を鳴らして笑った。
「……ったく。ティスはお子ちゃまだなぁ、おい」
「え? 何でです、俺、もう十五歳ですよ!?」
不服そうなティスの頭を、ミレアは手を挙げてくしゃくしゃに撫でる。
その表情は、たまらなく嬉しさの滲んだ、安らぎの表情だった。
「いーんだよ! あたしのことは、そのうち詳しく話してやる! それより、お前が生まれ育った場所に行こうぜ、ティス!」
ミレアのことをもっと聞きたがったが、本人にそう言われては仕方ない。
何より、今日の目的は別にある。
三人は、ティスと彼の祖父の暮らした山小屋へと向かった。