プロローグ
「じっちゃん……俺、街に降りるよ」
祖父の墓の前で、ティス・クラットはつぶやいた。
ずっと祖父と二人きりで暮らしてきた。
自給自足の生活で、他の人間なんて見たこともない。
この山の奥の小屋で、祖父と二人きりの暮らしだった。両親の顔も知らない。話は聞かないことにしていた。祖父が語りたがらなかったから。
自分が十五になった今日、祖父は他界した。
眠るように穏やかな最後だった。
ただ、薄々と死期を自覚していたのかもしれない。
自分がいなくなったら、街に降りて人を頼れと最近はよくこぼしていた。
狩りと家事の腕、それに自分の持つ知識と武芸はすべて叩き込んだからと。
祖父は、自分は変人なのだと言っていた。
たくさんの知識、野獣も倒す剣の技量と体術。過去のことは語りたがらなかった。
でも、よく笑う。そんな祖父がティスは大好きだった。
生前、祖父がよく話していたことがある。
――良いか、ティス。俺たちは男だ。世の中には、女ってのがいる。
――女はな、柔らかいんだ。そんでもって、可愛い。
――惚れた女を守れるのが、一人前の男ってもんだ。俺の世界じゃそうだった。
ホレル、その意味はわからなかったけど。
一人前の男、という言葉には憧れた。
だから、一人になって、ティスは決意した。
「俺、街に降りて……女の子に会いに行くよ」
*******
旅の支度をして、山を降りることにした。
荷物は多くない。
多少の道具と、街への地図。沢で水を汲み、塩の鉱床から岩塩を削り取った。
食糧は干物が少しと、後は狩りで賄うつもりだった。
うっそうと茂る植生の中を進み、獣道を歩く。
崖のような急勾配を慎重に降り、湧き水で水筒を満たす。
山道を進むうち、雨がぱらついてきた。
あまり良くない兆候だ。雨音で、獣の接近がわからなくなる。
果たして、その危惧はあたった。
茂みの向こうに、獣の陰が見えたのだ。
それも、ただの獣じゃない。
「ゴブリン……ッ!」
魔物と呼ばれる凶種だ。
小柄な矮躯に濁った瞳。毛髪は無く、裂けたような口に牙が覗く。
危険なのは牙ではない。
手には棍棒を持っていた。この種は、普通の獣と違って武器を使う。
「シャア――――――ッ!」
叫び声とともに、こちらを見つけたゴブリンが茂みをかき分けてくる。
ティスはすぐさま応戦の構えを取った。
腰に下げた剣を抜き、両手で構える。
振りかぶった棍棒の一撃を、身をよじってかわした。
草が飛び散り、地面を叩く音の重さが威力を伝える。
落ち着け。ゴブリンを相手にするのは初めてじゃない。
迫り来る棍棒の打撃を、冷静に見切って避ける。すばやさはこちらの方が上だ。
すれ違いざまに、ティスの剣がゴブリンの腹を横一文字に裂いた。
「ギャ……!」
地面に倒れるゴブリンの首を跳ね、足元には屍が残るのみ。
ゴブリンは食べられない。肉の量が少ないうえに、臭くて不味い。
けれど森の獣がついばむことがあるので、そのまま残して先を行くことにした。
このまま置いておけば、山に還るだろう。
「なんだ、問題ないじゃないか。緊張してたのかな」
そう楽観的につぶやいて。
ティスは後悔した。
茂みの彼方から、雨音に負けない大きな音がやってくる。
鳴き声が聞こえる。ゴブリン、それもかなりの大群だ。
倒せるか――?
距離的に逃げられないことを察し、ティスは剣を構えなおした。
息を呑む。いくらも数えないうちに、ゴブリンの集団と対面する。
そこからは、余力の無い戦いだった。
次々と飛び掛ってくるゴブリンを、ティスの剣は斬り落としていった。
山の中に、ゴブリンの屍が積み上がる。
けれども、キリが無かった。際限なく襲い掛かってくる大量のゴブリンを相手に、ティスの息が上がってくる。休む間もなく襲い掛かられるプレッシャーも、ティスの体力を削った。
何だ、この量は? ゴブリンの集落の大移動か――?
かつて体験したことの無い数を相手に、ティスの体力は限界を迎えた。
棍棒の一撃が、ティスの腹を打ち据える。反撃で斬り倒したが、立っていられず、ティスは近くの木によろよろと倒れこんだ。
「はっ、あ、はっ――!」
呼吸が整わない。酸素が足りず、腕が上がらない。身体を起こせない――
残りのゴブリンが、迫ってくる。
死ぬ。
こんなところで。街に降りると決意して、まだ一日も経ってないのに。
ティスが伏しながら歯噛みした、その瞬間、
「そぉ――らァ――ッ!」
ゴブリンたちが、草木ごと蹴散らされた。
ゴブリンの集団の向こうに、動く人影が立っていた。その人影はティスを襲おうとしていた集団の背後から、草を刈るように無数の矮躯を打ち倒し続けた。
「……男? こんな山奥に、一人で?」
「おんやァ――? こーりゃ、かなりの別嬪さんじゃないか!」
やがて、そんな声が聞こえた。
ティスは顔を上げた。そこには、二人の人間が立っていた。
一人は剣を持った長身。一人は、小柄ながら頭の横に獣のような角が生えている。
どちらも革の鎧を身に着けていたが、祖父とは違う点が二つ。
声が高く、胸元が不思議なほど盛り上がっている。
その特徴を目にし、ティスは思い至った。
まさか、この人たちが、祖父の語っていた――
「……女性……?」
「いかにも。我々は冒険者だ。近くのゴブリンの集落を狩りに来た」
剣を持った長身の女性は、ティスに尋ねた。
「少年よ、問おうか。――なぜ、『男』がこんなところに一人でいる?」