秘めた想い
神官は逸る想いを胸に、勇んで謁見の間へと入った。
部屋の中は想像していたよりも暗く、女神の姿は殆ど影となっている。
先代の女神の時代から比べると、部屋はガランと殺風景になっていた。
夜は明けているにも関わらず、東側の窓は鎧戸を閉めたまま。
女神が座る台座は北を背に一段高く作られ、いま神官は石の床に額突いていた。
「女神がご無事と伺い、誠に安堵いたしました。侵入者があったと聞きました時は、どれ程心配申し上げたことか。
二度とこのような失態が起こらぬよう、わたくしがしっかりとお世話させて頂きますので、どうかご安心くださいますように。
お可愛そうに、今宵はさぞや怖い想いをされたのでありましょう。なんとお慰め申し上げたものか。
わたくしに出来ますことがあれば、何なりとお申し付け下さいませ。」
「その血はお前のものか?」
神官は初めてこの女神の声を聞いた。
幼子の声でありながら老練な意地の悪さを覗かせ、応えに窮した。
「いえ、これは・・・子供を助けようとした際に付いたのでしょう。
このような姿で初めてお会い致しますことを、深くお詫び申し上げます。ですが、女神のご無事をこの目で確かめなくてはと、
着替える間を惜しんでやって参りました。」
「まるで血の池を歩いて来たようだな。」
年端もいかぬ子供のこと。
当然べそをかいているものと侮っていたが、こちらがドキリとする言葉を口にする。
この娘、全てを気付いているのでは?
まさか、そんな事があろうはずがない。
不安を打ち消し、体勢を立て直す。
「兄はお前に何か云ったか?」
「あのような者を兄とお呼びになってはいけません。あの者たちの無責任さが、あってはならない事態を引き寄せたのです。
死んだこととて、自業自得というものです。」
「私の父や母が死んだことが、自業自得なのか?」
「ご家族が欲しいと思われるお気持ち、痛いほどお察し致します。ですが、あの者たちは貴女様を利用するために、
家族のふりをしていたに過ぎません。
幼い貴女様にはお分かり頂けないかもしれませんが、人とは与えられた以上のものを欲するのです。」
「お前の欲しいものは?」
「は?」
「お前も欲しいものがあるのだろう?」
「わたくしは女神のお世話が出来るだけで、他に欲しい物などありません。」
「ならば、お前もそれ相当の覚悟をしなくてはな。」
「それはどのような意味なのか、わたくしには分かりかねます。」
「気付かぬはずあるまい、私の父と母、それに兄が死んだ理由を。
私の世話をするというならば、同じ運命を辿るやもしれんぞ。」
「この様な事は、二度と起きはしません。それをわたくしが証明してご覧にいれます。」
「その願い、叶えばよいな。」
再び床に下げた頭の先で、紅色の光がゆらゆらと動いている。
あれはと、顔を上げて見た。
闇に紛れた女神の姿をじっと見据える。
小さな体の中央、丁度腹の辺りに一瞬光るメダルを見つけた。
「失礼ながら、そのメダルは?」
なぜ女神があのメダルを持っている?
「父から貰った。」
「それは神官長の証となる物です。どうかお返し下さいますように。」
「今となっては父の形見。お前はそれを取り上げるのか?」
「いえ、それは。わたくしもその様なことは望んでおりません。」
それはわたしの物だ!
「では、私が持っていてもよいな?」
「はい。ですが、わたくしが神官長であることを、皆に示さなければなりません。
その為には、誰もがひと目で分かる物を身に着けているべきかと。」
神官長の地位は手に入れたが、それ以外は何もかも裏目に出てばかりだ。
小娘までもが、わたしの邪魔をする。
「それならば、神官を束ねるお前の腰布を、その血と泥の色に変えればいい。」
「何と申されます?」
「それは私の為にお前が払った犠牲の色。それを見る度、私は今日のこの時を思い出すだろう。」
ぎくりとして、体が強張る。
子供と思って甘く見ていたが、これは女神なのだ。
こちらの策を見破っていたとしても、不思議ではない。
例え表情は見えずとも、相手がじっとこちらを見据えているのが分かる。
まるで己の心を見透かされるようで怖ろしくなり、承知するふりをして視線を外した。
だが、日が経つと共にその恐怖は薄れ、高慢さが頭を擡げた。
己が神官の長の座に納まると、以前仕えていた者たちは殆ど任を解かれた。
彼は己の身内の者を、その値もないにも関わらず要職に就けた。
女神の女官たちも、すべて入れ替わった。
何もかも己の思い通りに事を進め、欲しい物は一つ残らず手に入れた。
女神を除けば。
所詮、女神とて他愛も無い子供。
子供が喜びそうな物を、毎日与えてやった。
なのに、娘はにこりともしない。
可愛げのない。
そこで無視することにした。
すぐに折れてくる。
祭事を取り仕切り、王への進言も偽った。
そんな夏間近のある日、神官は体に変調を感じた。
体の奥の鈍い痛み、騒ぐ程のことはない。
忙しいが為に疲れただけだと、放っておいた。
痛みはじきに消えた。
秋が深まり、すっかり痛みのことを忘れかけた頃、再び腹の辺りに痛みが走った。
今回は鈍いとは云い難い。
きりきりと差し込むような痛みが、引っ切り無しに起こる。
余りの痛みに腹を抱え、唸り声が口から洩れた。
周りの者たちがそれに驚き祈祷師を呼んだが、薬は苦いばかりで痛みはまったく引かない。
夜は眠れず、食べることも水を飲むことさえ出来ない日々が続いた。
そんな時、女官達が噂している話が耳に入ってきた。
女神の食事や着替えなどを世話する女たちで、それらを束ねるのは、彼の妹だ。
その女官達が、女神の側近くで世話をするのはもう厭だと訴えて来たという。
最初は仕え始めて半年が過ぎた頃、一人の女官が運悪く事故で死んだ。
洗濯へ川へ出て、深みに嵌ったようだった。
何処からともなく、女神のせいではないかと噂が発った。
以前から喋るどころか笑いもしない幼子の女神を、薄気味が悪いと云う者たちもいた。
それから一ヶ月も経たずに、三人の女官が辞めたいと云い出した。
理由を質せば、このままでは自分たち三人もいずれ女神のせいで死ぬことになると、口を揃えた。
笑って一蹴しようとしたが、彼らの怯えた目がそれを許さなかった。
女神の世話係りになれば、一見煌びやかで憧れる者も多い。
望めば誰でも就ける訳でなく、生娘であることが条件。
あとはこねが物をいう。
そうしてやっと就いた女官の役を辞めたいと云うのであれば、余程の決意だろう。
そんな筈はないと否定したものの、気になる話は幾つかあった。
女神の親兄弟、村の者も大勢死んだと聞いた。
女神の生まれた村の者だという男から聞いた話だ。
嘘ではなかろう。
その上、女神の世話をしていた前の神官長一家も、酷い殺され方をした。
これらが皆、女官たちの畏れを煽った。
あの女神には何か在るのやも知れぬ、と兄に伝えた。
神官は初めて厭な心地がした。
腹の痛みは日に日に増し、神事の間も油汗をかくほど酷くなる。
腹の痛みなどでこの座を手放すものか。
女神に最も近い権力者、それがわたしだ。
こんな痛みなどで!
神官は朝一番に汲んだ泉の水を女神に捧げる。
これが毎朝、最初の仕事であった。
神官が謁見の間へ入って行くと、あの冷めた目が此方を見据えている。
あの目、それは初めて女神を見た日からまったく変わっていない。
もしや勘付いているのでは?
己が利益の為に賊を誑かし、神官家族を皆殺しにさせたこと。
では、なぜ云わぬ?
なぜ口に出して、わたしを責めようとしない?
やはり知るはずがない。
知れるはずがないのだ。
賊どもとて、あの夜片付けたではないか。
もし女神が事前に知っていれば、神官家族は今も生きていて、代わりにわたしが火焙りとなったはず。
だが、そうはならなかった。
女神といえど幼い子供。
畏れる必要など何処にあるものか。
わたしは王の信頼を得ているのだ。
誰も手出しは出来ない。
なにも出来はしないのだ。
自信を取り戻し、水の入った盃を頭上に捧げ、女神の前へと進み出た。
台座の前に膝間付き、そして盃を差し出した。
すると腹を貫くような痛みに襲われ、ぐらりと体が崩れていく。
拍子に盃を持った手が、女神の指を掠めた。
満たした水が零れ落ち、盃は割れて辺りに散った。
「苦しいか?」
床に倒れたまま動くことが出来ずにいる神官を、女神が見下ろしている。
優しい気遣いかと、初めは思った。
しかし顔を上げ目を合せてみると、とんでもない間違いだと知った。
「私に触れるなと云ったろう?」
一年前だ。
あれはなんの時だった?
そうだ、女神が神殿を出ようとした時、抱きとめようと腕を伸ばした。
あの時、女神はこう云った。
”早死にしたくなければ・・・”と。
何か云わなければと、口を開いた。
だが、出てきたのは言葉でなく、ぽたりと何かが床に落ちた。
目を落としてそれを見る。
朱い。
血のように。
痛みと共に吐き気が込み上げる。
気付くと辺り一面、血の海だった。
「ばかなことをしたな。」
次の吐き気に襲われ、それが何を意味するのか聞きそびれた。
「それは私の痛み。」
神官は何の事かと聞き返したかった。
ところが口から洩れたのは、血反吐と小さな喘ぎ。
「まだ分からぬか?あの夜、お前に触れたは私だ。」
なんの話だ?何を云っている?
「忘れる筈なかろう、望んだ物を手に入れた日だものな。」
まさか、まさか、そんなはずはない!
こんな小娘が知る術はない。
これはただの出任せ、はったりだ。
それでもふと考えた。
小娘がはったりなど云うものだろうか?
盗賊は皆殺しにされ、王の兵とて己の身を危うくする事を軽々しく口にはしない。
女神とて姿を見られず人に触れることなど出来はしない。
歴代の女神について書かれた退屈な書物にも、そんな記述はなかった。
なにか云わなければ、わたしは何もしていないと。
誤解されているだけだと。
朝だというのに辺りが暗くなり、そのまま意識が遠のいていった。
神官はその後、五昼夜悶え苦しみ抜いて息を引き取った。
この日以来、女神に触れた者は災いに遭うと、疑う者はいなくなった。