動き出す針 2
濡れた体で一歩を踏み入れる。
むっとする熱気が肌を包んだ。
五歩進むと、体全体から湯気が上がった。
さらに進むと、皮膚を切られるような痛みが襲う。
さらにその奥、闇に目が慣れてきたころに幼子の姿を見つけた。
膝を抱え、怯えたように彼を見上げている。
この耐え難い熱波の中で生きておいでとは。
やはり、この娘は女神であらせられる。
安堵すると同時に、哀れみで胸が詰まった。
娘は老いた人間のように、すべてを諦めた目をしていた。
ひどい扱いを受けてきたことは、ひと目で見て取れた。
「貴女をお迎えに上がりました。」
頬は落ち窪み、手足は枯れた小枝のように細く、
触れたとたん折れてしまいそうだった。
生まれて三年は経っていると云われて来たが、とても立って歩ける状態ではない。
「貴女に害を為す者がいれば、今後は我らが命に代えてお守りいたします。
私と共にお出で頂けますでしょうか?」
幼子の側に膝を付くと、それまで感じていた刺すような熱気からふっと解放された。
よく見れば、不思議と幼い体のどこにも火傷の跡らしきものがない。
神官はその幼い姿に似合わぬ大きな力を感じた。
長きに渡り現女神に仕えてきたが、この娘が見せたような奇跡は目にしたことがない。
云い伝えられている歴代の女神であっても、奇跡と呼ばれる類の話は余り残っていない。
しかし、極稀にそんな話が出て来ることがある。
語り部たちですら知らない話、代々語り継がれて物語をたった一人の老婆が覚えていた。
並々ならぬ力を持った女神が現れ、邦は例を見ない繁栄を得る。
が、女神はなぜか短命だった。
女神は元々短命な存在だ。
普通の女の寿命が五十才ならば、女神は三十代で命が尽きる。
現女神は四十二才で自分の死期を悟った。
女神としては長寿といえる。
だが、その女神に限って二十才になるかならないかで死んだようだ。
しかも、確かとは云えないが・・・殺されたらしいフシがある。
なぜなのか調べたかったが、資料はひとつも残されていなかった。
この娘が女神であることは間違いない。
そして稀代の力を持つことも。
彼が腕を伸ばすと、怯えた目が追ってくる。
だが、触れたときも抱き上げたときも、むずかる様子はなかった。
その代わり、こちらへ己から手を伸ばして来ることも無い。
何もかも為されるがまま。
意志など無い様に見える。
抱え上げた体は殆ど重みをかんじない。
生まれたばかりの赤ん坊でさえ、もっと腕にずしりと存在があるというのに。
見えない傷はより一層深いようだ。
あまりに過酷な日々に、抜け殻になってしまわれたのか。
まるで重みの無い体を抱え、急いで表へと走り出た。
二人を迎えたのは、奇妙な興奮と驚愕だった。
次期女神の生存に一先ず安堵したものの、その姿に誰もが唖然としていた。
抱いている神官でさえ、それは同じ。
彼の息子が同じ年のころを知っているだけに、不憫さが込み上げてくる。
「わたしは大丈夫だ。それよりも、水を差し上げたい。」
水をかけ様とした者たちの手を止めさせ、安心させるように彼は云った。
明るい日の下で見る娘の姿は、惨たらしいと目を背けさせるほどだった。
躊躇うように一人の兵士が差し出した水を、神官が礼を云って受け取り娘の口元へ押し当てた。
「お飲み下さい。大丈夫、ただの水です。今日は暑いですから、貴女も喉が渇いておいででしょう。」
娘は小さな手を器にかけ、ゆっくりとひと口飲んだ。
そしてもう十分だと云うように体を預け、目を閉じた。
「輿をこれに!」
「いや、わたしがこのままお連れする。構わないだろう?」
「もちろん、構わない。だが、長い道のりだぞ。」
「こうして、次期女神がご無事だったのだ。他になんの心配があるだろう。後は帰るだけ、大した事はないよ。」
「あの村の者たちはどうすべきだろう?見せしめに村へ出向いて、首を刎ねてしまおうか。」
目を向けられると、男たちは弱い者の常で震えながら互いに身を寄せた。
「何もする必要はないだろう。見た所、もう十分に怯えている。それに彼らを生かしておけば、自分たちの身に起きたことを
死ぬまで伝える役目を果たせる。女神の威信の為に、彼らは必要だ。」
「あなたがそう、云われるなら。」
彼は身振りで放して遣れと、部下に命じた。
娘はきれいな布に包まれて、神官に抱かれたまま村を後にした。
娘はその姿を誰に晒すことなく、都へ入った。
兵士達は口止めをされ、娘の体を清め新しい布を着せたのは神官の妻だ。
その間も、娘は言葉を話さず、泣きもしなかった。
それが弱った女神の寝間を訪れたときのこと。
老いた女神の節くれだった手が娘の頬を撫でると、一粒だけ、ぽろりと涙を零した。
娘が涙を見せたのは、このたった一度だった。
それまで誰とも目を合わせようとしなかったが、女神に対しては食い入るようにその瞳を見つめていた。
まるで言葉ではなく、全てを分かち合うかのように。
しばらくすると、二人は互いを労わるように眠りについた。
女神は幼い女神を見届けたことを安堵したのか、翌日旅立だたれた。
娘の存在は一部の限られた者たち以外、知られることはなかった。
幼い女神の安全のため。
そういえば聞こえが良いが、正直なところ表に出せる姿ではなかったのだ。
王はさすがに何も云わなかったが、その息子はあからさまに娘を嫌った。
なぜか皆が娘の姿に怯えるのだ。
娘は神官の家族が世話をした。
彼らにとって、娘は小さな子供でしかない。
十一になる神官の息子も、小さな妹として彼女をかわいがった。
皆がこの小さな娘を恐れるのは、秘めたる力の強さを無意識に嗅ぎ取ってのことかもしれない。
あの日、煮え滾った洞穴のなかで、この娘は火傷一つ負っていなかった。
そして彼女を抱えて表に出たとき、彼の両腕の皮膚は酷い火ぶくれになっていたが、
娘と触れていた顔や胸、腹や背に火ぶくれは出来ていなかった。
次期女神は歴代を凌ぐ力の持ち主。
それだけに行く末が案じられた。
やがて娘は五才になり、ふっくらとした頬の愛らしい子になった。
神官家族に良く懐き、彼らも娘に甘かった。
言葉も覚え、兄のように慕う神官の息子と毎日声を上げて笑い転げていた。
女神として見出される娘は、大概十を過ぎていた。
「女神がこれ程幼かったことが、以前にもあたのだろうか。」
満点の星空の下で酒を酌み交わしながら、顔に傷のある兵士は友に尋ねた。
「少なくとも、保管されている記録の中では一度も見た事は無い。」
その上、女神の力は見出されてから目覚めるはずだが、あの娘はすでに十分過ぎるほどの片鱗を見せている。
「だから余計に気遣わしい。」
「何を心配している?」
ほとんど口を付けていない相手の盃に目を遣り、その顔を窺い見た。
「なんと云えば良いのか分からない。女神をお迎えに上がった時、ずっと以前に語り部から聞いた話を思い出したせいかな。」
「それはどんな話だ?」
「何代かに一人、稀代の女神が現れるという。わたしが若い時に勉強の為にと村々を歩き回っていた頃に、
出会った老婆から聞いた話だが。伝説のように語り継がれて来たもので、その女神は絶大な力を持ち、天変地異さえ意のままに操れたそうだ。」
「後の者が大袈裟に云っただけではないのか?」
「わたしもそう思っていた、ついこの間までは。現女神にお会いする前まで。」
「もし女神が、その稀代の存在だとて、悪いわけがあるまいに。」
「無論そうだ。だが、あの村の者たちを見ただろう。それに王も良い顔はされていなかった。」
「村の者たちは女神とは知らなかった。村中の災いを、誰かのせいにしようとしただけのこと。
王は元々女神をお好きではない。」
「畏れは誰の中にもある。もしも民が女神を畏れたら?」
「そんなことがあるものか。民は女神を尊ぶ存在と分かっている。この地の繁栄も、我らが日々生きていけるもの、
女神あってのこと。」
「それなら良いのだが。」
「あなたは心配し過ぎる。偉大な女神が我らの代にお出で下さった。喜んで差し上げなければ、
幼き女神がお気の毒ではないか。あなたが心配だと云われるのなら、我らが一層護りを固めよう。
我らが命に代えて女神は必ずお護りする。それでどうだ?」
友の言葉はとても心強い。
だが、彼の不安を消し去ってはくれなかった。
「もっともな意見だ。我らは女神が無事成人されるよう、しっかりとお護りしなければ。」
「本当の兄妹のようだな。」
神官の息子が作った木彫りの動物で遊ぶ二人の姿に、男たちは目を細めた。
「ずい分とお変わりになられたな。」
村にいた憐れな娘と現在の姿を、結び付けられるものはいないだろうと兵士は思った。
「今しばらく笑ってお過ごし頂きたいと思っている。」