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女神  作者: 都の辰巳
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動き出す針

母親は娘を産み落とすと、その日に死んだ。

産気づいて三昼夜、苦しんだ末だった。


父親は女房の命を奪った娘を忌み嫌った。

国の北に位置する寒村では、女子供も働かなくては生きていけない。

その働き手がひとり欠けたのだ。


一番上の娘が八つ。

それを頭に年子の娘が五人。

やっと生まれた男の子は、まだ二つにもならない。

生まれてきたのが男なら、少し経てばやくにも立ったろう。

だが、生まれてきたのは女。


もう娘はたくさんだ。

大した力も無いし、狩も出来やしない。

なんてうるさい泣き声だ。

父親は産婆に云った。

始末してくれ、と。


村では良くあることだ。

不具や弱い赤ん坊の息を止めてしまうのは。

膝で口を押さえてしまえばいい。

簡単なことだ。

その産婆も、これまで沢山の子をそうしてきた。

遣り方なら心得ている。


それでも出来ない。

なぜか今回は怖ろしいと感じた。

これまで一度もそんな風に感じたことは無かったというのに。

産婆は嫌だと応えて、そのまま男の家を去った。


赤ん坊は声を限りに泣いている。

まるで誰も世話しないと怒っているようだ。

その腹には赤黒く、ぬらりとしたへその緒がまだ付いていた。

それは父親の目に汚物のような汚らしい存在に映った。


子供が死んで、女房が生きてりゃ良かったのに。

そうすりゃ、また子が出来るまで女房は働けるし、男が出来たかもしれない。

赤ん坊は何の役にも立ちやしない。

手が掛かる分、仕事が遅れる。

うちには赤ん坊の面倒を見てやる余裕はない。


まったく、なんて大きな泣き声だ。

頭がおかしくなっちまう。

うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!

男は赤ん坊の足を掴むと、柱めがけて打ち付けようとした。


その手から捥ぎ取るように、子を奪った者がいた。

死んだ女房の妹だった。

語気の荒い声が、何をするつもりだと聞いた。

男は正直に、女房と同じ所へ送ってやるのだと応えた。

ならば私が貰う、と義妹が云う。


義妹の所には、男の子が三人いる。

義妹が続けて男の子を生んだと聞いて、男は妹の方を貰えば良かったと独りぐちた。

女房に聞こえたかどうか、気にもかけなかった。

生まれてくるのは女ばかり、食い扶持が増えるだけだ。


男が女房を取るとき、あの妹は若すぎて手が出せなかった。

お陰で何時まで経っても畑を広げられない。

文句は無いだろうと義妹に重ねて云われ、勝手にしろと云った。

どうせ、ろくな子じゃない。


それから2年も経たない頃、義妹一家が見たことのない病で次々に死んだ。

まず子供が、そして義妹の夫、最後に義妹自身。

唯一、娘だけが生き残った。


村の者は病が広がるのを恐れて、遺体と家を焼いた。

男は娘も一緒にと云ったが、誰も耳を貸さなかった。

歩くようになっていた娘は、また父親の元に戻った。


男は家畜のように娘を床下へ放った。

食べ物は憐れに思った村の年寄りが、黙って投げ入れた。

床下から這い出そうとすると、棒で叩かれた。

空腹のあまり土を口に入れると、姉たちが嘲った。

のどが渇いたら、窪みの水を飲んだ。


男はもう子を作れない。

村の規範で生娘は貰えないのだ。

夫を失った女なら執れるが、子を産めるほど年の若い女はいま村にいない。

それで余計に辛く当たった。

こいつさえいなければ、という憎しみが日々募って行った。

姉たちも末の妹を構わなかったので、覚えかけていた言葉もすぐに消えた。

幼児特有のふっくらとした身体つきが枯れ枝のようになるのに、それほどの日数は掛からなかった。


娘が戻って季節が夏に移ろうという頃、一人息子が死んだ。

鶏を追って遊んでいると、何かに躓いて転ぶのを姉のひとりが見ていた。

いつもなら大声で泣き出すのに、そのときはいつまで経っても泣き声が聞こえてこない。


変に思って三つ上の姉が様子を見に行くと、弟は地面に突っ伏したまま動かない。

ふざけているのだと足を蹴る。

それでも動かない。


弟は構って欲しくて、怪我をした振りをする。

姉が忙しい思いをしているときに、必ずといっていいほど。

父は弟を大事にしている。

弟に怪我をさせたりすれば、怒られるのは自分だ。

その弟の面倒に手間取って、一つでも云われた仕事が残って叩かれるのも自分。


まだ焚き木を拾いに行く仕事が残っている。

弟の甘ったれに付き合っている暇はなかった。

だから腕を持って無理にでも立たせようとした。

ところが、弟の体は地面を引き摺られるばかりで、起き上がろうとしない。

それどころか地面に朱い血溜まりが出来ているのに、姉はようやっと気付いた。


恐怖が皮膚を這い上がって来る。

姉は弟の腕を投げ捨てると、声なき悲鳴を上げながら父親のいる畑へ走った。


父親は息子の遺がいを見るなり、獣じみた声を上げて泣いた。

女房ば死んだときも兄弟が死んだときも、男は泣かなかった。

娘たちは自分たちのせいにされるのを恐れた。

父親は怒ると容赦なく拳で彼らを殴る。

だからその父親が立ち上がって向かって行ったのが家の床下だったので、全員が詰めていた息を吐いた。

末の娘は、父親に床下から引き摺り出されても、声を上げなかった。

もう大分前から、自分たちの足元に人がいることすら、誰も思い出さなくなっていた。

残飯はたまに遣っていたが、食べているのかどうか気にかけて、見に行くほどのことはしなかった。

あの死んだ息子だけが、蹲った背に石を投げて遊んでいるのを姉たちは知っていた。


知っていても放って置いた。

家畜に怪我をさせれば父親は怒るが、床下の存在に何があっても気にしない。

それを姉たちは承知していた。

結局、父親は娘を村の外れの洞穴へ置き去りにした。

村の者たちも酷いことをするとは思ったが、あえて止めはしなかった。

不吉な娘だと女房が死んだあの日から云い続けてきた男の言葉を、これまで取り合わなかった村の者たちも、

近頃では一理あると考えるようになっていた。


あの娘が生まれてから、作物のつきが悪くなった。

”そう云えば、芋の実が大きくならない”

そんな会話が村のあちこちで交わされ、それが段々広がっていく。

今年は特に酷い旱魃で、穀物は実を結ぶ前に立ち枯れ、鶏も殆ど卵を産まなくなった。

なにより堪えたのは、これまで涸れた事など無かった川までがひび割れた川底を晒したことだった。


娘はいつも薄暗い床下で、小さな体をさらに縮めるように生きてきた。

だから父親に腕を掴まれ引き摺られるように洞穴へ連れて行かれたときも、声ひとつ立てなかった。

それから何日かして、畑のなかで男が空を睨むような顔で死んでいたのが見つかった。


すると村の者たちは、これ以上の不幸を招かない為に娘を殺すことに決めた。

しかし、みな自分が手を下すのは嫌がった。

幼い子供を殺すのに引け目を感じたからでなく、己に災いが降り掛かってくるのを恐れたのだ。

畑で死んでいた男のように、あの娘と関わった者はみんな死んでいる。

全員でしばらく話し合い、焼き殺すことにした。

収めた焚き木や枯れ草を、穴の口に積み上げた。


洞穴の口は大きくない。

大人がひとり、身を屈めてやっと通れるくらいの幅があるだけだ。

ずっと昔からある横穴で、村の者はひとり残らず子供の時に一度は中へ入ったことがあった。

子供の足で五十歩も行けば行き止まる。

しかし十歩も進むと光は届かなくなり、夜よりも暗い闇に飲み込まれる。

年端の行かない子には怖がって泣きながら逃げ出し、年嵩の子数人が自分の怯えを悟られないよう互いを見張るように、

奥まで行って戻って来る。

そんな場所に置かれても、娘の泣き声は一度も聞こえなかった。


普通の子ではないからだ。

そう思って、みなは己を奮い起たせた。

ひとりの男が起こした小さな火種は乾いたクワに燃え移り、あっという間に大きな炎となって焚き木を嘗め尽くす。

炎は朱の舌となって、後ずさる男たちをも襲った。

男たちはいま、あの洞に入った時と同じ逃げ出したいほどの恐怖を味わっていた。

恐ろしさで動けなくなり、地面に足を踏ん張って立っているのがやっとだった。

例え助けてやりたいと思った者がいたとしても、炎の勢いは人を寄せ付けない。

もうだめだと皆が思い始めた頃、突然、空から大きな雨粒がざっと落ちてきて、火膨れた男たちの肌を打った。


それは村の全員が待ち望んだ雨だった。

この三ヶ月、一粒の雨も降っていない。

おかげで村は飲み水にも事欠く有様だ。

娘が死んで災いが晴れた。

そう思って天を仰ぐ。

これで安心だと誰もが思った。

だが、こぼれ掛けた笑みが戸惑いに変わる。


空にひとつも雲がない。

上には澄んだ青い空が広がっている。

男たちの背を悪寒のようなものが駆け下りた。

見回すと雨が降っているのは、ほんの僅かな範囲だけ。

降って来た時と同様に、突然、雨は止んだ。


見ればあれ程勢いのあった火が、わずかな煙を上げて消えていた。

辺りはしんっと静まり返った。

なにかが、あの娘の死を邪魔している。

それは良いものであるはずがなかった。

いま気づいたことだが、ここには鳥の声も小動物が走り回る気配もない。

それどころか虫すら飛んでいなかった。


薄気味悪さに男たちは立ち尽くす。

まるで自分たちの方が、あの洞の中に居るような気がした。

自分たちが子供で、得体の知れないものが迫り来る恐怖に怯えていたあの日に。


あの炎だ。

子供ならば死んでいるに違いない。

でも・・・もし死んでいなかったら?

なんとしても殺さなくてはならない。

彼らはあの娘を殺すように云われてここへ来た。

もしも娘を殺せなかったら、彼らは村で生きていけなくなる。


もう一度、火をつけよう。

ひとりが云った。

それがいい。

其処に居た者が全員、提案に賛同した。

あの娘が生きている限り、また村に災難が降りかかる。

このまま不作が続き、雨も降らなければ、村そのものが壊滅してしまう。

これ以上の死人が出るのはたくさんだった。


湿った木を皆で引き抜くと、洞の中から熱気を帯びた風がゆらゆらと噴き出して来た。

それに触れると皮膚を焼くような痛みが起こる。

あれが人なら、とても生きては居られない。

でも人でないなら?


男たちはなにも云わず、乾いた焚き木を集めて組み直し、種から採ったほんの僅かな油を掛けた。

村にとっても貴重なものだが、万が一のためにと持たされた物が役に立った。

これで火種が無くても火のつきが格段に良くなる。

ところがガタガタと震えている男の手は、思うように石を打ちつけることができない。

早くしろと、苛立った声が上がる。

怯えているのは、みな同じ。

こんな事は早く済ませて、ここから立ち去りたい。

それが本音だった。


貧乏くじを引いたばかりに、こんな役目を押し付けられたと思っていた。

しかし、仲間のひとりは酷い愚図ときている。

満足に火も点けられやしない。

男たちの言葉は、余計に男を焦らせた。

そうして焦れば焦るほど腕の震えは酷くなり、火は一向に点かなかった。


業を煮やした別の男が、横手から石を奪い打ち付ける。

見守るように周りを囲んでいた男たちの顔に、ぱっと飛沫が飛び散った。

なにが起きたのか分からぬまま、男たちは血のついた互いの顔を呆然と見つめ、

それから地面に突っ伏した仲間の男に目を移した。


男はすでに事切れていた。

頭の皮がぱっくりと割れ、大きな血溜まりの中にぐにゃりとした灰色のものを食み出させて。

自分たちの足を濡らしているのが仲間の血だと気付くと同時に飛び退き、そして逃げ出した。

洞から少しでも遠ざかろうと、くぼ地を駆けた。


あれは禍々しいものだ。

途轍もなく怖ろしい、悪いものだ。

殺される、みんなあれに殺されてしまう。


転がるように崖の斜面を登りかけたとき、上には物々しい兵士の集団で塞がれていた。

彼らが兵士を見たのはこれが初めてだった。

こんな辺境な村に、王の兵士はやって来ない。

自ら望んで兵士になる者もいたが、そいつは二度と村へ戻らなかった。

だからこんな所に何で兵士がいるのか、どうして自分たちに槍を向け怖い顔で睨んでいるのか、

まったく分からず腰を抜かして見上げるしかなかった。


だが数人の兵士が洞に積んだ薪を退かし始めたのに気付くと、慌てて声を上げた。

「おい、ちょっと待ってくれ!あんた達、あれを始末するために来てくれたのか?それなら、俺たちに用はないだろ。

あれに関わるとみんな死んじまう。あれの親と叔母夫婦、それに従兄弟たちと幼い兄が死んだんだ。

その上、作物は悉く枯れ果てて、川まで干上がった。だから村の者達全員が、あの娘を始末することに決めた。

でも、とてもおれ達のてに負えるもんじゃない。今だって仲間がひとり殺された。

見たろ、あの死に様を。あとはあんた達に任せるから、俺たちを帰してくれ。」

一気に捲くし立てた。


村へ戻ろうとしたその男の前に、ひとりの兵士が立ち塞がる。

その男が兵士達を率いているのは間違いない。

岩のように鍛え上げられた体には無数の傷が残り、幾多の戦いに勝ち続けたことを物語っていた。

なにより男たちを震え上がらせたのは、自分たちに向けられた目だった。

殺される、そう思った。

「この痴れ者どもめ!もし次期女神のお命になにかあれば、村の者全員の命で償ってもらう。

お前達虫けらどもの命では到底贖えるものではないが、怒りの捌け口にはなってもらうからな。」


女神の存在は村でも耳にしたことがあった。

しかし、それは年寄りが子供にしてやる寝物語でしかない。

女神が本当にいるにしろ、食べ物を恵んでくれる訳でなし、彼らにとってはどうでもよかった。


あの娘が女神であるはずがないと思ったが、男たちはすっかり畏縮してしまい声など全く出せなかった。

ひとりの兵士が洞から駆け戻り、悲痛に曇った顔を横に振った。

「中は酷い熱さで、何度もお声をお掛けしましたがお返事はなく・・・」

「何ということをしてくれた!お前達は二度も火を点け様としていたのか!小さな子になぜそんな酷い仕打ちができる?

お前の仲間を殺しただと?殺したは我らだ。不作も旱魃もお前達の村だけではない、この邦中で起こっていることだ。

お前達は己の弱さから生ずる恐れを、ひとりの幼い娘に押し付けて殺したのだ!」


「おれはこんな事、望んでいなかった。でもくじで決まって仕方なく・・・やらなきゃ家族が村でのけ者にされる!

やるしかなかったんだ!」

ひとりの男が涙ながらに訴えた。

「己の命は惜しいか?見苦しいことだな。」

冷たく言い放たれると、男は声を上げて泣き崩れた。


「わたしが行く。」

そう告げたのは兵を率いている男よりいくらか若い、細身の男だ。

鍛えてはいるが、体つきや着ているものが他の兵とは違う。

「ばかな真似はよせ。女神と神官二人を失くしたと、わたしに云わせるつもりか?」

「仮にも女神だ、生きておいでだと思う。」

「生きておられるなら、出て来られるだろう?」

端正な顔立ちの神官は、黙って首を横に振った。

「村からこれ程離れた場所へ、幼い娘が自分で来られるはずがない。誰か大人がここまで運び、あの洞穴へ入れたんだ。

だから出てはいけないと思って居られるんだろう。迎えにいって差し上げないと。」

「だが、生きておられる保証はないのだろう?せめて、もう少し待ってはどうだ。」

兵を率いる男は、なんとか神官の無謀な行いを止めようと試みた。

しかし、男が見せた笑みで無駄だと知った。

「まったく貴方ときたら、呆れてしまう。誰かこの男に水をかけてやってくれ。帰りの飲み水をギリギリ確保した残りを半分、

後は出て来た時に。」


洞は草地を下ったくぼ地に入り口がある。

足場は脆く土が崩れ、足がとられ易い。


兵士は洞穴の入り口まで一緒に付いて来て、小声で云った。

「貴方が目を瞑ってくれるなら、わたしが行く。」

「女神のお側に近づけるのは神官だけ。そして神官はわたしなんだ。」

兵士はため息をひとつついた。

なかは冷めて来たとはいえ、まだ煮え湯のように熱い。

「あの男たちの話では、奥までそれ程長くはないらしい。十歩ほど行くと天井が高くなるそうだ。気をつけて、長居はするな。」

分かったと応えて、彼は洞の中へと入っていった。






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