目ざめ 2
サラはその目を見た。
「裏切り者」
そう言って、男は引き金を引いた。
痛みは不思議と感じない。
ただ身体が冷たくなっていくのが分かった。
朦朧とする意識の中で、その男がもう一度引き金を引く様を他人ごとのように彼女は眺めた。
倒れたまま、サラは空を見上げていた。
深く青い空に浮かんだ白い雲がゆっくりと流れていく。
身体が冷たい。
銃声が遠のき、辺りは静寂に包まれている。
これで死ぬのだと、と覚悟した。
恐ろしさはもうなかった。
いまあるのは、心残り。
なんだろう、と薄れる意識の下で考えた。
考えてみたが上手く捉えることが出来なかった。
邪魔をするように、空間に木霊する調べが聞こえる。
刻が経つにつれて、それは大勢の祈祷の声になる。
”女神がお戻りになった、女神がお帰りになられたぞ”
それらは徐々にはっきりとした言葉になり、サラの間近に迫った。
「おい、君、しっかり!」
その声に目を開けると、かぶさる様に男がいた。
「まだ息がある。彼女は生きてる!」
男が叫んだ。
自分を見下ろす男ををサラは見た。
そうだ、と彼女は思う。
なぜ忘れたりしたのだろう。
その時、温かいものが彼女の身体を包んだ。
なぜ忘れたり出来たのだろう、こんなに大切なことを。
吹き上げる風を感じた。
陽に火照った肌をなぞるそれは、上等な布地のように柔らかく心地よい。
ただただ、神殿から遠ざかる為に歩いて来たが、本当に道に迷ったらしい。
構うのもか、と彼女は勝ち誇ったように思う。
女神が消えたと知れば、誰も彼も肝を冷やすに違いない。
だが、後の祭りだ。
女神の不在に気づいた頃、彼女の体はとっくに朽ち果てているのだから。
森は唯一、彼女が安らげる場所だった。
植物は彼女に触れることを恐れず、彼女を利用しようと阿ることもない。
先代の王は争いを好まず、託された地を守るだけを己の役目とした。
その息子は、次々と土地を奪っている。
女神の予言に若き王の死は顕われず、見えるものは血と殺戮ばかり。
今朝夢に観た子供の骸は、まだ歩いてもいない幼子だった。
王は泣き叫ぶ子の首を切り落としていた。
暗闇のなかで目を覚ました時、全身から噴き出した汗は恐怖の匂いがした。
それはいく度泉で沐浴しても消えてくれず、彼女をあの場に引き戻した。
あの咽るような血の臭いと阿鼻地獄へ。
目の前にぽっかりと黒い口を開けた風穴の奥を、彼女は覗き見た。
足元の岩は脆く、彼女の重みが少し掛かるとパラパラと砕け闇にのまれて行く。
どのくらい深いのか推し量る術もないが、人が落ちれば生きていられないくらいには深いだろう。
女神とて体は人と同じ。
肉が裂ければ朱い血が流れ出る。
試してみるのも悪くない、と彼女は黒い闇に身を乗り出した。
ところが体は落ちるどころか岩にぶつかり、ゆらゆらと空中で揺れている。
見上げると同時に引き上げられ、罵声をあびた。
「何を考えている、死ぬところだぞ!」
顔を上げると其処に男がいた。
「おまえは誰だ?」
いる筈のない場所に人がいることに驚いていた。
「命を救われて云う言葉がそれか。女神とは随分礼儀知らずだな。」
「助けてくれと頼んだ覚えはない。」
地面に上がって初めて、恐ろしさが込み上げてくる。
死ぬのが怖いのだと彼女自身、いま気づいた。
「そうか、邪魔をして悪かったな。」
彼女が女神と知っている。
知っていながら男は不敬な態度をとっている。
「応えろ、おまえは誰だ?ここで何をしている?」
「何をしていようがおれの勝手だ。」
「村の人間か?禁制の場所に入った者を捕らえるよう命じることも出来るぞ。それが嫌なら・・・」
それを無視して、男は背を向け歩き出す。
「好きにしろ。」
「おい!」
といって彼女は腕輪のひとつを抜いて相手に投げた。
子供じみた仕返しをしたつもりでいた。
ところが、まるで其処に飛んでくるのが分かっていたように、それは男の手のなかに納まってしまう。
「これはこれは、なんとお優しい。女神自ら腕輪を賜れるとは。」
「それでは不服か?」
「こんな物を身に着けられるのは、王の一族と女神だけだ。」
金の腕輪を手に、彼女を振り返った。
「おれを盗人として捕らえるための目印か?」
「いらぬ物なら捨てればいい。」
「気前が良いことだ。」
男はそれを詰まらぬ石か何かのように、放って寄越した。
「気に入らぬのか?」
「ああ、そうだ。おれはそんな物を与えられるような、大そうなことはしていない。礼なら感謝の言葉で十分だ。」
「お前の望みはなんだ?私に何を望む?」
「もういい。また穴に落ちる前に、早く神殿に戻れ。」
「王に口添えしてやろう。」
男を引き止めたい気持ちが強くなる。
だが、歩き去る足を止める事はできなかった。
「余計なことだ。」
「私は死ぬのが怖いらしい。お前が邪魔をしなければ、私はそれを知らずに死んでいた。だから礼がしたい。他の物を遣りたくても、私にはそれしかない。溶かしてしまえば使いようもあるだろう、だから貰ってくれ。」
思わず本音を口にしていた。
すると木の陰に入った背が、そこで止まった。
「なぜ女神が己の死を望む?」
願った通り、男は足を止めた。
「言伝えを試してみたまでだ。」
彼女を恐れず話す者は、これまで一人もいなかった。
「それで判ったのか?」
「まぁな。それでお前はなにをした?」
「何とは?」
「ここは禁制の森だ、狩をしようにも獲物はいない。ならば森で隠れていなければならない、なにかを仕出かした。盗みか、それとも誰かの女に手を出したのか?」
立ち上がろうとすると、足に痛みが走った。
「勝手に決めるな。」
「何をしたにしろ、ここは隠れるには良い場所だ。皆、私に生きたまま食われると信じて誰も近づかないものな。」
「女神の生贄とは初耳だ。」
「私もだ。なんでも女神の力を保つ為に、人の肉を食らっていると噂になっているそうだ。お前、家族はいるか?」
「いない。」
「そうか、私と同じだな。」
知って、彼女はほっとした。
「女神には姉がいると聞いたが。」
「あぁ、姉だと名乗る女達が、これまでに数十人は遣って来た。女神の姉だと云えば、贅沢な暮らしをさせてもらえると思うらしい。」
男に気付かれないよう足を盗み見ると、踝辺りが赤く腫れ上がっり肉の一部がさけている。
それを隠すように、足を裾の奥へと入れた。
「いくら追い返しても止む様子がない。だから、ある日女の一人と逢うことにした。私に家族の記憶はない、話して聞かせてくれと頼んだ。すると女は夕立のようにしゃべり始めた。最後には神殿の兵達が私を奪って行くまで、家族みんなが末子の私をとても大事にしていたとまで云った。」
このままキズを放って置いたら、死ぬのだろうか?
「ならば、そばに来て私を抱きしめてくれないか。そういったとたん、騒がしかった女がぴたりと口を閉じて、丸太のように動かなくなった。仕方なく私の方から女の側へ行き、腕を回しかけたが逃げられた。」
「その女はどうなった?」
「死んだ。慌てたんだろう、逃げていくとき階段を踏み外して首の骨を折った。」
「家族が欲しくはないのか?」
彼女は上を見上げた。
葉が茂り光を封じられた空を。
「私を恐れている者を、どうして家族にできる?」
目を戻して、男を見た。
「お前は私が恐ろしくはないのか?」
「恐れる理由がない。」
「私に触れた者は皆、死ぬと云われているのにか?」
「ばかばかしい。」
「本当だ。私を引き取った神官の家族が殺され、その後を継いだ神官もすぐに死んだ。だから女官たちは着替えの時にも、私には絶対に触れない。ある者が私の運が強すぎる為に、周りの者が不運を被るのだと云っていた。」
「随分と甘やかされていたらしい。家族を殺された者は国中にごまんといる。彼らは女神さまのように、嘆いているh暇すらないんだ。女官に傅かれていなもいなければ、護衛もいない。自分で食い扶持を稼ぎ、己の身を守るんだ。」
「お前、女神に説教をする気か?」
「己を憐れんだところで、運命には逆らえないと云っているだけだ。」
「女神に選ばれたことを喜べと?」
それは散々聞かされた言葉だった。
「腹を括れといっているんだ。どうせ逃げ道はないんだろう?」
そう云われ、彼女には寓のねも出ない。
「癪に障るやつだな、お前は。私を云い込めて楽しいのか?」
意地の悪い笑みを浮かべる相手を睨んだ。
「暇つぶしにはなった。」
「可笑しなやつだ。」
いつの間にか、纏わり付いていた恐怖が薄らいでいる。
「お前のその図太さが、おまえ自身を死から遠ざけているらしい。その分なら、お前は長生きできるだろう。」
「女神のお墨付きとは心強い。」
気づいてしまうと足の痛みが増してくる。
話すことも辛くなってきた。
「暗くなる前に、森から離れろ。いくら図太いお前でも、これだけ奥深い森では無事にいられる保証はない。私以外の者は森の毒気に中てられる。夜は特にな。それがこの森に獣がいない理由だ。」
「気使いには感謝する。その前に足を見せてみろ。」
男が目の前に膝間づき、彼女は慌てた。
「何でもない、放っておけ。」
「そうは行かない。一様わが国の女神さまだからな。」
「望んでなったのでもない。」
ぼそりと云った。
また反論されると思っていた。ところが・・・
「あぁ、そうだな。」
下げた腰の袋から葉で包んだ物を取り出し、ひとつを彼女の前に差し出した。
葉の中には黒く小指の先ほどの丸い物が、十ほど並んでいる。
「これをどうしろと?」
「飲めば早く傷が治る。」
「始めて遭った見ず知らずの者から、薬と云われて私が口にするとでも思うのか?」
「殺すつもりならば、助けたりはしない。」
毒がないと示すように粒の一つを千切ると自分で飲んで見せた。
「信じられなければそれで構わない。裂けた肉が腐るとどうなるか、観察してみるんだな。」
口とは裏腹に己の腰布を裂き、もう一つの葉を開いた。
「さぁ、どうする。まだおれを疑うのか?」
向けられた男の目を見る。
そして彼女は首を振った。
足の痛みが強くなっていたこともある。
だが何より、この男は嘘を付いていない。
残された薬を口に含むと、余りの苦味に吐き出しそうになった。
「それは男でも飲み込むのを躊躇う味だと、云うべきだったか?」
「この味自体が体に毒だ。よくもこんな物を飲ませたな。」
「明日になれば感謝している。」
笑いを含んだ声が応えた。
手当てをされながら、彼女は居心地の悪さを感じていた。
側に仕える者たちから与えられるのは義務と使命感でしかない。
これまで一度も親しみや温かさという感情とは無縁だった。
「もういい、もう十分だ。もうすぐ日が暮れる、行ってくれ。命の恩人に何かあっては目覚めが悪い。」
逃れるように身を遠ざけた。
「殊勝なことを云う。」
「本当だ。」
「その足で歩いて戻るのは無理だろう?」
「大丈夫だと云っただろう。私のことより、自分の心配をしろ。」