旅のはじまり
その姿をひと目見た日を忘れはしない。
男であれば虜となり、女であれば羨望の目で見つめる。
彼はあの瞬間から彼女を愛した。
真夏の密林を想わせる濃い緑の瞳。
その視線は相手を射竦める。
月のない夜の闇よりも黒い髪は、
大河のようにうねりながら彼女の背を流れ落ちた。
肌は生命を芽吹かせる母なる大地のような褐色に染まり、
ゆるやかな曲線を描く肉体は風にのって運ばれる甘く魅惑的な花の香りの如く、
死をも忘却させ未踏の奥地へと誘う。
どうしてこの想いに抗うことができよう。
もしあの瞳に自分の姿を見つけられたら。
彼女の舌が彼の名を呼び、
その唇から流れ出る熱い吐息を頬に感じることが出来たなら。
どんな犠牲も厭いはしない。
なぜ旅に出る気になったのか分からない。
その理由を思いつく前に、彼女は異国の鄙びた町を見下ろしていた。
休暇は3週間、予定は何もなかった。
買いためた本を部屋で読むか、映画館へ行くか。
それが唯一、彼女が知っている休みの過ごし方だった。
それなのに、雑誌に載っていた旅行会社の広告に心を動かされたのは締め切りの日だった。
濃い緑の山。
鮮やかな色の花と透き通る空の青。
別段、特徴のある景色でもない。
断られるに決まっている。
予約は半年も前から始まっていたのだから。
それでも彼女は受話器を取った。
心の中では締め切ったと云われるように願っていた。
なぜなら彼女自身がこの旅行に本当に行きたいのか分からなかったから。
電話をして断られたら、それで気が済む。
ところが、受話器を戻したとき翌朝の便の席と、ホテルの部屋まで決まっていた。
ついている時というのは、呆気ないほどすんなりと物事が運ぶものなのだろう。
例え本人がこの期に及んでも迷っていたとしても。
友人でアパートの管理人でもあるホリーは、後でそれは運命だと云った。
10才以上年上の彼女の方が、少女のように今日の運勢を信じていた。
”見えない力が貴女をその地に招いたのよ。きっと何かが起こるはずよ”
ホリーと違い、彼女は占いや迷信といったものを信じていない。
旅行をはじめて3日間は時差に体が着いて行かず、来たことを後悔したくらいだ。
寝不足からソファでうとうとまどろんでいると、夢をみた。
空を覆うジャングルの木立、にぎやかな鳥達の鳴き声、光が無ければ水があることすら気付かない何処までも透明な泉。
目が覚めてホテルにいる自分に戸惑いを感じるほど、それは現実味をおびていた。
午後の強烈な日差しが魅せた不可解な夢。
日が経つにつれて、それも忘れてしまった。
そんな旅も明日で終わる。
この旅は望んだ以上の時間を与えてくれた。
風に運ばれる花の香り、
珍しい果実と料理
情熱的な調べ。
青白かった肌は小麦色に輝き、頬には朱が注している。
はじめこそ時差に苦しんだが、今は細胞の一つ一つが歓喜の歌を歌っているように感じられた。
でも、何かが欠けている気がする。
何を期待しているのか、自分でも分からない。
いっそ部屋を借りて、しばらく暮らしてみようか。
半ば本気でそう考えた。
この国の物価なら仕事が見つからなくても、これまでの蓄えて半年は生活できる。
一軒家を借りて野菜を育ててはどうだろう。
開け放した家々の窓には、吹き込む風に鮮やかな色のカーテンが揺れている。
市場に行って果実を買い、夕日が沈むまで本を読み、蝋燭の明かりで食事をするのも悪くない。