濃き緋色
濃緋の色
先日、久しく懇意にしていた大工のひとりが梁から落ちた。十一月下旬のことであった。経験豊富な五十過ぎの大工であった彼は、どっしりと腹の出た恰幅のいい男で、落ちたときにはそこら中に響きわたるほどの大きな音がしたという。
「登る前に工具で躓いたらしい。あいつらしくもない」
雪の中、赤ら顔の棟梁は九州訛りが残る平らな口調でそう言って、「登るべきじゃなかったな」と続けた。新九郎はそれに頷くとともに、その場で彼がそうするとは、とてもではないが想像できない、とも思った。あの誰からも慕われていた偉丈夫はたいそうな意気地者であった一方で、そのような慎重さとは無縁な男であった。照れ隠しに悪態のひとつでもついて、梁に登る彼の姿が容易に想像された。
落ちたとき、彼の禿頭のかわりにヘルメットは真っ二つに割れたという。どうにか一命を取りとめた彼は意識を戻すことなく、医師に脳死と診断されてから三日後、病室でひっそりと息を引きとったそうだ。彼には養う家族はなく、東北にいるという親戚たちとはもうずいぶんと長く疎遠であったらしい。葬式からあれこれの面倒は結局、この棟梁が見ることになった。
「まあ、神社の改修工事でよかった。落ちたのが人の家ならいろいろと都合も悪かった」
雪が降る境内で、男たちがせわしく作業を続けていた。テントの下、パイプ椅子に座った棟梁は膝に乗せた傷だらけのヘルメットを撫でながら、その様子を眺めていた。
「寝たきりにならんとあっさり逝ってくれて、正直、助かったわ」
「そうですか」
うん、と答えた棟梁はそれから、腹の奥になにか燻るものがあるかのような響きで低く唸った。彼は尻を揺らしてパイプ椅子を鳴らすと、今になって初めて気がついたとでもいうように、新九郎の足元に置かれた紙袋の中の花束に目を向け、「こんな日に墓参りか」と言った。ええ、と新九郎が答えると、彼はまたその唸り声を上げた。新九郎は手にした湯呑をぐっと呷るなり、立ち上がった。
「長居しましたね」
「いや、後のことは任せてくれ」
「また伺いますよ」
おう、と言って棟梁もまた腰を上げ、ヘルメットを目深に被った。そうすると、もう若くもない彼の顔がよりいっそう翳って見えた。
別れの挨拶を言葉少なに済ませて、新九郎は車に向かった。
離れていたわずかな時間に、車内はすっかりと冷えこんで、その寒さが新九郎の身に沁みた。彼がせかせかとエンジンをかけると、動きだしたワイパーが黒く細い腕を往復させて、フロントガラスに浅く積もった雪を払い落した。
ガラスの向こうに背を伸ばし声を張り上げる棟梁の姿が見えた。彼は腕利きの職人で、いかにも古風な大工らしく粋な人物であった。その彼にもついに衰えがやってきたようで、日に日に意気をなくし、困難を前にして動揺する姿を見かけるようになった。
利きの悪いヒーターが低く鈍った機械音を音を鳴らすと、どうしてかそれがあの棟梁の唸り声のように聞こえた。まだ車内が暖まりきらないうちに、新九郎はアクセルを踏みこんでいた。
さて、工具で躓いたとき、それを自分の生死に結びつけられる者などそうはいまい。そのようにあっけない、無残な運命をどうして想像できるというのか。だが、思いがけず不幸に見舞われるたび、我々は儘ならない身の上を否応なく思い知らされるのだ。
一年前に新九郎の母が脳卒中で倒れたのもまた、そうした巡り合わせのひとつに思われた。
妻に電話で知らせを受けて、新九郎は急いで隣の市の大学病院に向かった。時刻はすでに深夜であった。見知らぬ機材が置かれた所狭い病室に案内された彼は、そこで母に対面した。その姿は白い糸に包まれた繭のように思われた。ベッドに横たわる彼女の頭にはネットが被せられ、シーツの中に埋もれたその身体からいくつもの管が伸びていた。心音計の音が甲高く響く中、しばらく固唾を飲んでそれを凝視していた彼は、彼女の口元に填められた呼吸器が息に合わせて白く染まるのを見て、ようやく母が生きているのだと実感することができた。
「後遺症はあるかな、と思います」
背の高い、やけに頬のこけた若い医師は淡々とした口調でそう言った。
「後遺症とは、意識が戻らないことはあるんですか」
「いやあ、それはないです。検査次第ですが」
「はあ」
照明灯の消された暗い部屋の中、やたらと固く座り心地の悪い椅子に座らされて、新九郎はその医師から説明を受けた。骨が軋むような疲労感に苛まれながらも、この場を妻ひとりに任せてはおけないという義務感に体躯を支えられ、彼は医師との間で事務的な会話を続けた。
日が昇ってから母は目覚めたが、その後の検査で左半身麻痺であることが判明した。
「もう倒れたときにはどうなるかと思って、こんなときに限ってお父さんは家におらんし」
「仕事や。仕方ないやろ」
「もう、そんなことわかっとりますよ。まあ、とにかく義母さんが無事でよかったわ」
「ああ」
新九郎の妻は、母の無事を純粋に喜んでいるようであった。威勢のいい彼女に乗せられてか、母もそのことを喜んでいた。二人して「よかった」という言葉を呪文のように繰り返した。その日は結局、後のことは妻に任せて新九郎は仕事に向かった。
「あれ、あかんなあ」
新九郎が職場から早退して病室を訪れたとき、面会にきた新九郎の息子に手を握らせて母はそう呟いた。なにをしているのかと新九郎は疑問に思ったのだが、どうやら孫に触れられれば、その左手が動くようになると彼女は期待していたらしい。
そのようなドラマのような奇跡はそうそう現実に起こるはずもない。耳が痛くなるような沈黙が満ちていく中、彼女はなんども確かめるようにして孫に手を触れさせていた。そのときの母の茫然として、思いもかけない裏切りにあったかのような顔を彼は忘れることができない。母と、なによりも息子を不憫に思った新九郎は、それとなくその行為を止めさせた。ここにいたって母は現実を理解させられたのかもしれない。そう思うと、新九郎はやるせない気持ちで胸が痛んだ。
一週間もしないうちに、母は大学病院から地元のリハビリセンターに移された。その頃の母はひどく塞ぎこんで、家族以外の来訪者を、たとえ遠方から訪れた者であっても、すぐ帰してしまった。施設でも他の入居者と関わろうとせず孤立していた。
「あの人ら絶対おかしいわ。おかしな話ばっかりしてんねん」
「母さん。仕方ないねんから、そんなこと言うもんちゃう」
新九郎が根気よく言い聞かせても、最後まで彼女は入居者たちの頓珍漢な言動が彼らの症状によるものだと納得することができなかった。彼はそのような母の態度に困惑せずにはいられなかった。本来の人当たりがよく、聞き分けのいい彼女の姿を知っていた彼からすれば、信じられない思いであった。
「今はなあ。ショックなんやろ、仕方ないわ。そのうちよくなりますよ」と、妻は常として楽観的であった。
しばらくすると、彼女の言っていた通り母は次第に本来の社交性を取り戻していき、以前のように部屋に閉じこもることもなく、周囲の者たちとも自然と交流する姿が見られるようになった。しかし、新九郎がひと安心したのもつかの間、今度は母の痴呆が目に見えて進行しはじめた。
「あそこのKさん」母はひとりの老人を指さし、「あの人、あんたの学校の先生やったやろ。あんたも教わってんから、挨拶しゃな」と言った。
「違う。名前は同じやけど、違う人や」
「せやけど、挨拶しゃんな失礼やろ。ほら挨拶しゃんな。先生! 先生!」
新九郎の言葉を無視して、母は窓際で呆けた風にぼんやりと外を眺めているその老人に大きな声をかけて近づいていった。かっとなった新九郎は車いすを押しとどめて怒鳴り声を上げた。
「だから違うって言ってるやろうが! いい加減にせえや!」
Kは潰れた自転車屋の店主であったが、母の頭の中では新九郎の元教師であった。彼女は日ごろから彼を「先生」と呼び、その後も、Kの容態が悪化して施設を去るまでの間、新九郎と彼女が会うたびに必ずそのやり取りが繰り返された。ついには他の入居者たちまでも彼を「先生」と呼びはじめたのだが、当のK本人は満更でもない様子であった。
周囲との関わりを頑なに拒む、あの母の強張った表情が思い起こされた。ここでの生活を受け入れて馴染むことがどういうことなのか、きっと彼女は知っていたのだろう。そのように彼はようやく理解した。
二ヶ月のリハビリセンターの暮らしを経て、新九郎は母を家に連れて帰ることを決意した。
十二月三十日、初雪は冬至を過ぎてから訪れた。今年もようやく冬めいてきたようである。この三輪の地は山際の盆地であるから、山を下りてきた乾いた空気をよく孕む。雪は降っても道の草を枯らすばかりで積りことはめったになく、身を寄せあった家々の合間を冷たい風が吹き抜ける。墓参りを終えた新九郎は、車から降りると肌を刺すような寒さに身を竦めながら我が家へと向かった。
玄関から土間を上がってすぐの、元は居間であった場所が母の寝室であった。もう夕方であるのに、そこで彼女は熱心に化粧を施していた。土間から上がり外套を脱いだ新九郎はそれを見るなり彼女を咎めた。
「みっともないで」
「これくらいしか楽しみないねん」と、母は新九郎のほうを見向きもせずそっけなく答えると、こたつの上に置いた手鏡を覗きこんで眉を塗り続けた。それが新九郎の癇に障った。しかし、喉元にまでせり上がってきた苛立ちは突如として萎んだ。黒々と念入りに眉を塗る細い手に刻まれた皺をむなしい思いで見つめた。聞き覚えのある呻き声を小さく漏らした。
「ああ、お帰り」という声とともに居間の襖が引かれ、ひょっこりと新九郎の息子である泰助が顔を出した。年末とあって大学生である彼も下宿先の大阪から実家に帰省していた。
「あれ、ばあちゃん。またそんな眉毛描いて遊んでる」と彼は祖母の姿を見ると、そう言って笑った。「暇してたんか」と言って彼がテレビをつけると、どっと大音量がぶちかまされた。もう耳が遠くなりはじめた母が音量をいじくったのだろう。慌てて音を小さくした泰助はまた笑った。
「音おっきいで」
「だって聞こえへんもの」と、母は拗ねたように唇を尖らせた。
「それは大きな音に耳を慣れさせるからやって。ほら、ちゃんと聞いてみ」
うん、と素直に頷く祖母を見て、泰助はにこにことしていた。
「なんや大きな音したけど、またお父さん怒ってるん」と、今度は新九郎の妻が居間に現れた。これに新九郎は盛大に顔をしかめると、一度脱いだ外套をまた着こみ、外に向かった。「どないしたん」と尋ねる妻に、彼は「タバコ」とだけ答えた。
新九郎は母屋から庭に出た。相変わらず外は寒かったが、今の彼にはむしろ心地よかった。彼は外套のポケットからタバコを取り出すと火をつけた。こういったときにこそ、タバコは役に立つのだ。と、細く立ち上っていく煙を見つめて、彼はぼんやりと思った。そうしてタバコを咥えて突っ立っていると、多少はましな気分で物思いにふけることができた。
近頃ふとした拍子に若い頃の記憶が、あやふやな情景として浮かび上がることがあった。とくにこのような季節には、防寒具で着膨れた母の自転車をこぐ姿が思い出される。どうしたことか、最初に思い浮かぶ母の姿は、決まって背中を向けていた。
新九郎の母が離婚したのは、彼が一七歳のときであった。彼女は高校を卒業してすぐに働き出そうとした息子を止め、大学に進学させた。「お金のことなんかどうにでもなる」と彼女は言っていたが、実際にはパート収入に頼った苦しい生活だった。もともとの性質もあっただろうが、この頃から彼はなおさら真面目一辺倒になり、学友からは「草の根のようだ」と揶揄された。「お前は周りが春だろうが、夏だろうが、お構いなく、地面の下で土の味を味わっているような奴だ」と。大学卒業後、地元の役所に勤めはじめた新九郎は、やっと母親を解放してやるのだと、気が晴れる思いで仕事に打ちこんだ。
タバコの先から雪のように落ちていく灰を眺めて、新九郎は思った。あの頃の情熱はどこに行ってしまったのだろう。積もり積もった習慣は骸骨のように躰を支える一方で、彼の躰は骨のように固くなり、降りかかる出来事をコントロールできなくなっていった。歳を重ねるごとに得るものより失うもののほうが多くなっていく気がする。人生の最期には、知識と経験によって人は老練な識者になれるはずではなかったのか。だが今の彼の脳裏に思い浮かぶのは、自分の身に起きたことが何ひとつ分からないという顔で茫然として横たわる、あの母の姿ばかりであった。
もう一年が経つ。どれだけリハビリをしても母の左の手足は動かない。それどころか彼女の肘から先は力なくしな垂れ、肘の間接は定規のように曲がったまま硬直している。足からは筋肉がそげ落ち、ぴくりとも動く気配がない。それにも関わらず母は自分の手足にほとんど関心がないかのように振る舞っていた。日通いのリハビリセンターから帰れば、家の中では弄ぶかのように動かない手足に触れるばかりで、その様を見た新九郎がもっと熱心にリハビリをするように説得するのだが、彼女は息子が口うるさく言えば言うほど、あからさまに彼を拒絶するようになっていた。それがまた新九郎をひどく苛立たせた。
「何年か後に、今の義母さんへの仕打ちを後悔しても知りませんよ」と賢い妻は彼に言った。一度は死にかけたのだ。次に倒れた時に彼女の命はないかもしれない。ならばむしろ、余生を少しでも笑顔で過ごせるようにしてやるのが、最後にしてやれる親孝行ではないのか。妻や息子がそうしているように、母の痴呆じみた振る舞いを前にしても、笑って受け止めてやるべきではないのか。それでもやはりまだ彼は心のどこかで踏ん切りがつかないでいた。
指の先でタバコがもうずいぶんと短くなっていた。日没とともにますます冷えこんで、新九郎の身にも寒さが沁みる。さて、もうそろそろ家に戻るかと彼が思っていたところ、母屋のガラス戸が引かれ、そこから泰助が顔だけ出して、夕飯の支度ができたことを知らせた。
おう、と答えて新九郎が吸殻入れを取り出していると、出し抜けに泰助が驚きの声を上げた。なにかと思って息子が見つめる先を見ると、三輪山が見えた。もう火照りを失いはじめた空の下、ちらほらと明かりが灯りはじめた家々の先に、なだらかに整った御結び型の姿があった。冬の静かな山であった。今さら新九郎も感嘆の声を漏らした。
「きれいやな。地元に居るときは、あんまり気にしなかったけど」
それに頷くと新九郎はあらためて、しんとして佇む三輪の山を眺めた。
「ああ、そうそう、社会学でレポート出てな。大神さんで繞道祭あるやろ。俺、ちょっと取材に行ってくるわ」と泰助はいつの間にか軒下に出てきて、そう言った。
「繞道祭か」
それは毎年元日に大神神社で執り行われる神事で、日本で年初第一番目の祭りとして知られている。仏教において巡礼の道を意味する繞道を名に持つが、そう呼ぶよりも、「お松明祭り」のほうが地元の者にとって馴染み深い。祭りにおいては神火を灯した巨大な松明を担ぎ、三輪山の山麓に鎮座する大神神社の摂社、末社十八社を一晩で駆け巡る。元旦の参拝者が多く、あまりにも混雑するため、人混みを疎む新九郎はいまだに参加したことがなかった。
「俺も行くわ」三輪山を仰ぎ見ながら、気がつけば新九郎はそう口にしていた。
「お、ほんまに」
「ああ、婆さんの健康でも祈願しようとかな」
「そら、ご利益あるやろなあ」
泰助から祭りの話を聞いたとき、突如としてある種の捨て鉢な覚悟が新九郎の胸のうちに去来した。母に対する気持ちに踏ん切りをつけなけなければならない。そうするのであれば、あの地よりふさわしい場所はないように思われた。
三輪山の西側、初瀬川と巻向川で囲まれた地を古くは「水垣郷」と呼ぶ。この地の出身者の多くは大神神社の氏子である。この神社に本殿がなく拝殿だけがあるのは、神を設け祀るのではなく、三輪山をご神体として拝むからだ。すなわち仰ぎ見ることそのものが信仰の形態であり、この地の人々は日々、東にその神体山を仰いで暮らしている。新九郎はそのような土地に住んでいた。
新九郎と泰助が家から表の通りに出たときにはすでに、大和造りの古民家に囲まれた細い道は、大勢の人でごった返して大変な賑わいであった。三輪駅から神社へ向かう参拝者なのであろう。この三が日におよそ五十万人もの参拝者が訪れるものだから、やはりその混雑具合は凄まじい。さらに赤提灯が灯された屋台が立ち並ぶ表参道に進むと、いっそうと騒々しかった。右に左に人々が行き交い、熱気が溢れる中で、新九郎と泰助は人の流れに押されるようにして、二の鳥居を通り抜け、大樹が囲う鎮守の杜を渡り、やっとのことで断崖壁の手前の広場に辿り着いた。そこから石段を上がるとようやく拝殿が見える。その拝殿のさらに奥には千年古、斧が入れられたことのない三輪山の禁足地が広がっている。
拝殿前に辿り着く頃には、新九郎は人混みの熱気に酔って疲れ果てていた。もう夜は深く極寒であるはずなのだが、彼は寒さをまるで気にしなかった。祭りが始まるまではまだ時間があったので、二人は灯篭や照明が参拝者を照らし出す場所から外れて、暗がりへと逃げこんだ。
「すごい騒ぎやなあ。昼間とは大違いや」と泰助もどこか疲れたように言った。
昼間であれば、木漏れ日が満ちる参道は、常にどこかに水の気配を感じさせるような、けれど人が砂利を踏む音が絶えないような、散策に絶好の場所であるのだが、今はとてもではないが安らいではいられない。だが少し喧騒から離れると、思いがけず静かであった。
「なんか、人混み凄すぎて拝めそうにないな」
「ああ。泰助はレポート大丈夫か」
「うん、まあ、なんとかなるやろ」
「そうか」と新九郎が答えた後には、沈黙があった。彼はこの場所に訪れた理由を考えていた。決心をつけるために来たのだ。だが、新九郎にその決心をつけさせるなにかが、この活気と喧騒に満ちた場所から得られるとは思えなかった。あっけないものだ。三輪山のような特別な場所であれば、なにかの決心をつけさせるような、心を揺さぶるような出来事が起こるはずだと彼は期待していた。きっとそれは思い違いなのだ。自分はこのまま祭りを終えて、疲れて家に帰り、何も変わらない日常へと戻っていくのだろう。
「なあ、泰助。お前は婆さんのこと、どう思う」
「可愛らしい、お婆さん」
「なんや、それ」
「冗談でもなく、俺はそう思うんやけど」
そう言って、泰助は例のごとく笑っていた。
「手は、動くようになると思うか」
「それは、どうやろ。二年たって動くようになった人もいるって聞くし」
「そうか」と言って、新九郎は渋い顔で呻いていた。そのように楽観的でいられるのであれば、苦悩せずにすむのだろうか。
「まァ、なるようになるやろ」
「ああ」
拝殿のほうからざわめきが起こった。ぽつぽつと境内の灯りが消されていき、やがてあたりは星ひとつない深い夜の闇に包まれた。まるで神社が己の本来の姿を思い出したとでもいうように、その場の空気は一変して厳かなものへと変化した。それとともに、人々のざわめきもまたその質を変えた。ひそやかな、あたりの気配を窺うような、自然と身を小さくさせるようなざわめきである。きっと彼らはこの地が三輪山の中、すでに古き神の懐のうちであったことを思い出したのだろう。まさに祭りの始まりであった。
ちょうど新九郎と泰助が石段を上りきったとき、拝殿からほつと小さな火の玉が現れた。禁足地の奥で灯されていたご神火が、三つ鳥居をくぐって切り出されたのだ。宮司による祝詞奏上の後、斎庭へ降ろされたそれは三本の巨大な大松明に移され、たちまち夜空に向けて炎を立ち上がらせた。木が炎に巻かれ爆ぜる甲高い音と、煤けた匂いが新九郎のもとにまで届く。風に吹き流され、変幻自在に姿を変える濃い緋の色に、新九郎は魅了された。
不意に太鼓の音が腹に低く響くと、わっしょいと威勢のいい掛け声が上がった。ご神火のもとに集った白装束の男たちは大松明を肩にのせると、太鼓と掛け声が奏でる力強い祭囃子の中、一斉に走りだした。一行は山麓に鎮座する十八の社ごとに神事を繰り返しながら、およそ五キロの道のりを行き、迎えた新年をご神火で清め祝うことになる。参拝者たちも声を上げてこれを祝った。押し殺していた熱を再び取り戻したように、興奮のままに囃し立てる彼らの気勢に呑まれながら、新九郎と泰助は一行の後を追った。
山の辺の道は、三輪山の麓から盆地の東縁を北東に、山々の裾を縫うようにして通じる古道である。しばらくその山の辺の道を進んでからのことであった。周囲の人影がまばらになりはじめたとき、新九郎は泰助の姿を見失っていた。おや、と彼が不思議に思ってあたりを見渡しても、木々の下にぼうと松明の光に照らされた人影が浮かび上がるばかりで、やはり息子の姿はない。
近くの平等寺では鐘が打ち鳴らされ、第四番目の社である大行神社での神事を終えた一行は、走りだそうとしていた。これから狭井神社での神事を経て、さらに深く山へ分け入っていくのだ。もうすでに新九郎の足腰は重くなり、息は荒れていた。ここで下りるべきではないか。と、彼の心に囁きかける声があった。だが、ここで下りればそれまでである。わずかばかりの逡巡の後、彼は再び駆けだした。
険しい山道であった。一行は一本道を駆け足に進むため、引き離された新九郎は足元に残された赤い火の粉を辿りながら、暗い山道を進んで行かなければならない。足を踏み外せば山から転がり落ちるような道であっても、それだけが頼りであった。一歩足を進めるごとにひどくなる足の鈍痛は、体力の衰えを否応なく彼に知らしめた。ようやく新九郎がひとつの山裾を越えるときには、一行はすでにもうひとつ先の山裾を越えようとしていた。それぞれの手にご神火の宿った小さな松明を持ち、うねうねとした一本の山道を駆け上る氏子たちの火の列は、遠目に見るとまるで山を這い上がろうとする蛇のように見えた。山の向こうから聞こえてくる祭囃子の音を聞きながら、新九郎は点々と続く足元の赤い光を辿って歩いた。
真っ暗な山の中、彼はひとりだった。いまさらのように冬の寒さが彼の身に応えた。吐き出す息は白く、飲みこむ息は肺まで凍らせそうで、その足はズボンが窮屈に思えるほどに張っていた。上り坂の間、一歩また一歩と足を踏む出すごとに彼の体の傾きは増し、地面に沈みこんでいった。それでも歩みを止めれば火の粉が消えるのが分かっていたから、彼は己を叱咤してなんとか歩を進めていた。いまや遠くのほうからうっすらと音が聞こえてくるだけで、深夜の山中は静寂としていた。歩けど歩けど、変わることのない上り道に彼の頭は朦朧として、あれこれと意味をなさない考えが浮かんでは消えた。どうしてここに訪れてしまったのか。後悔の念が新九郎の体を絡めとってその足取りをさらに鈍らせた。
彼は母の背中を見ていた。あの背中だ。記憶の底から這い上がろうとするそれを、今の彼では留め置くことはできなかった。
「最近、腕が変に細くなった気がするわ」仕事で疲れた母が居間で横たわり、自分の腕を眺めてそう呟いたとき、かつての新九郎はなんと言葉をかけてやったのだろう。いたわりの言葉をひとつでもかけることはできただろうか。夜の底で、彼の呻き声が響いた。
祭囃子は止んでいた。足元の緋色の灯りだけが彼を支えていた。彼は母の背中に問いかけていた。なぜ、彼を苦しめるのか。答えはない。まるで自分が透明な存在になっていくかのような、むなしさだけが胸に宿っていた。彼の存在の痕跡すらも許さない、孤独であった。
どれほど歩いただろうか。はたと霧を突き破るかのようにして、あの祭囃子の音がした。
星ひとつない夜闇の中、緋色の光だけが目の前の道を照らしていた。しばらく彼はその音に耳を澄ませて歩いた。と、そのとき、今度は足元からぱきりと乾いた音が鳴った。彼の靴が燃える木片をひとつ踏みつけたのだ。これまでなんとなしに彼が踏むのを避けていたそれは、思いがけず清々とした音を鳴らした。もはや勾配は緩やかになり、彼が背を曲げて歩く必要はなかった。山の頂まで、後わずかだった。
山裾を越えると、一変して視界が開けた。遠く地平線にちらほらと町が灯す小さな明かりが見えた。歩を進める先は暗い夜の海のようであった。その中で、彼は揺れる緋色の光を見つけた。その光に導かれて彼は道を下っていった。
境内では木々が爆ぜる音が絶え間なく鳴り響いていた。あたりには炎の色を映した橙色の煙が満ち、その中で人の影がぼんやりと浮かび上がっていた。その中心では大松明は置き捨てられて、ただ燃え尽きるまで火にくべられていた。人の手から解き放たれたご神火の火勢は凄まじいもので、濃い緋の炎が火柱を上げ、まるで炎が自らを飲みこもうとするかのように激しく、うねり、渦巻いていた。新九郎がそろそろと近づいていくと、台風の眼の中のように煙がなく視界が開け、荒々しい熱気を叩きつけられた。
ようやく暖をとることができた新九郎が一息吐いていると、火焔を立ち上げる焚き火に腕を伸ばす参拝者の姿が見えた。手には細縄がついた竹筒を持っている。地元の人々であろう。ご神火を縄に移した者から順に、そろそろと大事そうに筒の中へと縄を入れていく。その火を消さないようにして家へと持ち帰って竈に宿し、無病息災を祈るという、この地における古くからの風習であった。彼らは粛々とご神火に手を合わし、頭を下げて静かにその場を立ち去り家路についた。
それをぼんやりと見やる彼の心は暖かく凪いでいた。目を閉じれば、すとんと胸におさまりよく流れこんでくる情景があった。それは新九郎が一七歳であったとき、母が離婚した年のこと。ある日、彼は母に抱きしめられた。そこに至る経緯までは思い出せない。その当時はいつも、終わりを予期させるものであっても長く続いてきた家族というものが一変してしまったことに不安を抱いていた。とにかくその時、彼女はその腕の中に彼を包みこんで言ったのだ。
「ずっと、こうして抱きしめてられたらいいのにな。でもいつでも心の中では抱きしめてるから。それだけは忘れやんといて」
静かに目を開けると、濃い緋の色が彼の瞳に映りこんだ。
思えばその時から自分は草の根であった。たとえ見栄えはしなくとも、しっかりと人生という大地にその根を伸ばして生きてきた。それからいくつもの記憶が想起されたが、そのどれもがどこか気恥かしいものばかりであった。そうして彼が思い出に浸っていると、それに相反するようにして、やせ細った母の背中が思い出された。もはや母は立ち上がることも、その腕でなにかを包みこむこともできない。灯りが消えてしまったかのような、小さな寂しさが胸に宿った。だが不思議と苦しみはなかった。
しばらく人々はご神火の焚火のもとに集い、それを囲んだ。その中でにわかに氏子たちが騒ぎはじめた。すると彼らの中から、あの長大な松明が三本取りだされ、天高く掲げられたかと思うと、やおらその焚火の中へと突きこまれた。その瞬間、獣が吠えるかのような音とともに、火の粉をのせた炎の息吹が噴出された。一斉に歓声とも悲鳴ともつかない声が人々から上げられ、再び例の祭囃子が奏でられはじめた。祭りの始まりよりもいっそうと高らかで力強い響きであった。やがて重さを感じさせず宙を舞う火の粉が、人々を緋色の光で包みこんでいった。その光景を、新九郎は目に焼きつけた。
そうして山道を行く者たちを照らし続けたご神火は、かつて宿りとした松明を捨て去り、また新たに生まれ変わった。
この神社がちょうど繞道の道程の半分であった。ここをひとつの区切りとして、ご神火を新たにした一行は神の住まう山から下り、人が暮らす家々を通り抜け大神神社へと帰っていく。
よく見知った三輪の古民家が立ち並ぶ道を、新九郎は落ち着いた足取りで歩いていた。午前三時を過ぎた頃だったが、戸口からは住民たちが次々と顔を出し、ご神火隊に身内がいる者は家族に声援を送った。親の手元から放たれた子どもたちは道に残された燃える木端に群がると、それを踏み潰して遊んだ。暗闇の中、ぽつぽつと灯った赤い光のもとで笑い声を上げる無邪気な姿が現れては消えた。やがて大神神社の表山道にまで出ると、再び大勢の参拝者たちが見られるようになった。
一行の後を追っているのは、新九郎と大きなカメラを首にかけたメガネの青年だけであった。ほかの参拝者たちは街中のマラソンランナーに声援を送るように、道を開けて見学しているのだが、なぜか新九郎とこの青年までも声をかけられ、カメラのシャッターを切られた。彼らはもしかすると二人を一行の関係者はないかと勘違いしていたのかもしれない。ぜいぜいと息も絶え絶えなかすれ声が聞こえ、新九郎が隣を見てみると、そう若くもない宮司が烏帽子をあごにぶら下げて、装束を振り乱しながら懸命に疾走していた。これには新九郎も声を上げて笑うと、疲れも忘れてその後を追った。
彼は結局、最後まで祭りを見届けた。下山すると思いの外に腹が減っていたことに気づき、あてどなく屋台の間を歩いていると、アユの塩焼きとボタン鍋を出している店を見つけた。店先でアユとビールを注文した彼が簡易テントの中を覗いてみると、そこでは途中はぐれたはずの息子が見知らぬ中年の男たちとボタン鍋を囲んでいた。
「おい、泰助、お前、どこをほっつき歩いとってん」
「ああ、おお、父さん、いやあ、暗くて迷ってたんよ。ていうか、よく追いかけられるわ。なんも見えへんのに」
「お前、それでその人らは知り合いか?」
「いやあ、どうやろう。ていうか、このおっさんら、誰やねん。よう知らんわ」と泰助が首をかしげていると、どっと笑い声が上がった。そのまま、新九郎も陽気な酔いどれ共に引きずりこまれるようにして、この一座に加わった。
まだ明けきらない冬の朝、二人は家路を歩いた。家に着くと、泰助は一眠りすると言ってすぐに自室へ引き上げた。新九郎が居間を覗くと、ベッドに横たわった母が穏やかに寝息を立てていた。その母の傍らで介護のために布団を敷いていた妻は、人の気配で目覚めてしまったのか、薄目を開けてこちらに目を向けた。起してしまったことを申し訳なく思いながら、彼が土産に持ち帰った日本酒を掲げてみせてやると、彼女は柔らかに顔をほころばせた。静かに引き戸を閉めた彼は、そのまま庭に向かった。
東の空に朝焼けの気配があった。あたりに音はなく、耳に沁みるほどの静けさがあった。祭りのざわめきも熱気もすべて嘘のようで、はるかに昔の出来事であるかのようであった。白く霧散する息をひとつ吐き出して、彼はポケットの中に手を突っこみ、タバコを探った。すると思いがけず指先に固い感触が返ってきた。取り出してみると、それはあの大松明の木片であった。今もなお、煤けた香りを残すそれに、新九郎は確かに濃い緋の色を見た。
軒下に佇む彼の足元に光が差した。朝焼けをした空へ、三輪の山々から霧が立ち上っていた。東の山間から差しこんだ澄んだ光は、三輪の山々を紅く染め上げていく。その光景を新九郎は静かに見守った。やがて彼は手にしたタバコに火を灯すこともなく、家の戸に手をかけた。
彼が東に仰ぎ見た三輪山は、そうして新たな一年の始まりを告げた。
ここまで私の拙い文章を読んでいただいて、ありがとうございました。
このお話は2年前に私が参加したお祭りの思い出をもとに書いたものです。気になる方は「大神神社 繞道祭」でぜひお調べ下さい!ネット上の写真だけでも雰囲気を感じていただければ嬉しいです。
にしつかさ