また、電話する
不眠症――。
自律神経失調症やうつ病によく見られる症状。自律神経のバランスが狂い、交感神経の緊張が続く。何の事だと思うが要するに興奮状態が続いて眠れないのだという。
人の脳は基本3%程度しか機能していない。大多数の人間が9割以上の未知を内に潜め日々を過ごしている。そう考えれば人間が自分の心すら御しきれない生き物である事にも多少納得がいく。
幽霊なんていない。有り得ない事は、有り得ない。頭では分かっている。それでも怖い話を聞けば肌が粟立つし背筋が凍った。
また、電話する――。
また、なんかない。
そんな事分かりきっているのだ。
「俺の秘密を話そうか」
加賀直孝は煙草に火をつけ、相手の反応を窺った。少女は胸にトレイを抱えたまま固まっている。大きな瞳がきょとんとこちらを見ていた。
「加賀さんの秘密?」
「うん」
「それより注文は、何にします?」
加賀は煙を鼻から吐き出して、紅茶を頼んだ。この少女の笑顔が見られるのは注文を頼んだ時だけだ。その金城鉄壁たるや。学生と聞くが、遊びたい盛りに一切の遊びを排他し週6勤のアルバイトに励むその姿勢はまるで修行僧のようだ。
彼女がそのそれなりに恵まれた容姿を、天から与えられた才を、男遊びに活用する事は生涯ないのかもしれない。親御さんはさぞ安心だろう。
「俺の秘密、聞いてくれよ」
同情を引くよう努めて懇願して、ようやく彼女の視線だけはこちらに向ける事に成功した。しかし、出かかった言葉は喉の手前で別のものに変わる。
「失恋したんだ」
「あら。そうなんですか」
「死にたいよ」
「説得した方がいいやつ?」
「そうだな、こう言ってくれ。“加賀さん死なないで!一人にふられたからって何よ!女なんて星の数程いるじゃない。例えば、貴方の目の前にも”」
「紅茶、おかわりは?」
「お願いします」
寂れた喫茶店。外の通りは昼休みで人の往来の多い頃だというのに、客は加賀しかいない。商店街の繁栄に乗り遅れ、後は廃退していくだけの悲しい店だ。
「それで加賀さん最近元気なかったんですね」
「分かる?」
「痩せちゃったし、目の下のくまも酷いじゃないですか。本当に、大丈夫?」
「どうだろう。自分でも分からない」
「お相手は?会社の同僚さん?」
「いいや。学生の時からの知り合い」
「友達、じゃなく?」
「うん。最近まで二人きりではまともな会話をした事すらなかった。でもずっと好きだったよ。三年間くらいの片想いだった」
「素敵な人だったんですね」
「素敵なんてもんじゃない。正真正銘の天使だった。こんな人間がこの世にいるんだって、信じられないくらいに」
「諦められないんでしょ」
「まあね」
「もう一度アタックしてみたら?」
「もう駄目さ」
「何故?」
「自殺しちゃったから」
少女は怪訝な顔付きでこちらを眺めた。
加賀は精一杯笑ってみせて、紅茶の代金をカウンターに置くと店を後にした。
太陽は嫌がらせのように激しく照りつけている。ふっと意識が遠退きかけた時、誰かに肩をぶつけられて目が覚めた。
“俺の秘密を話そうか?”
ポケットに手を突っ込んで歩き出す。
“もう10日間、一睡もしていない。”
医者から貰った睡眠薬は糞の役にも立たなかった。人間の断眠の限界は2週間程度であるという。もしこのまま眠れないと俺は死んでしまうのだろうか。
風呂に入る時、鏡の中の自分の姿を見て愕然とする。怖くて体重計に乗れない。人間がたったの10日でここまで痩せられるのかと思う。
苦笑する。苦笑するより他ない。確かにずっと怠いし、奥歯が痛い。ずっと意識が朦朧としているし何にも集中出来ない。しかし基本的に、ただ眠いだけだ。それだけで本当に人間が死ぬのだろうか。
しかし、ただ眠れないだけで死んだとしたら、全く無意味で馬鹿馬鹿しい。ある意味俺には相応しいのかもしれない。
糸部啓子との出会いは大学最後の夏だった。それを運命の出会いと呼ぶにはあまりにも素っ気なく、退屈で、当たり前過ぎた。
「温めますか?」
「お願いします」
それが、二人の最初の会話。土日にコンビニのレジで働く糸部を見て、随分可愛い子が入ったな、と思っていたが、まさか同じ大学の学生であるとは思いもしなかった。
サークルの後輩に罰ゲームでセッティングさせた合コンで、偶然彼女と出会った。向こうもこちらを覚えていて、接客の時とは違った笑顔を見せてくれた。
でも彼女には既に別の男がいた。一度だけコンビニで、高級車に乗って迎えに来た所を見た事があった。社会人で金持ち。挙げ句に容姿も非の打ち所ない男だった。加賀に付け入る隙など微塵もなかった。
「温めますか?」
「お願いします」
会話といえば、それだけだ。
青春でもなんでもない。しかし社会に出て働くようになってからも、失礼な話別の女を抱いている時でも、ふと、彼女の事を思い出す事があった。
でもいつかはさっぱり忘れるだろう。そう思って日常を過ごしてきたのだ。
「糸部先輩、彼氏にふられて自殺未遂したらしいっすよ」
大学時代の後輩にその話を聞いたのは一月前だった。普段から悪ふざけが過ぎる奴で、加賀が糸部に恋心を寄せていた事も知っていた。だからいつもの笑えない冗談だろうと、最初は聞き流していたのだが、その時はどうやら空気が違った。
「マジっすよ先輩、救急車に担ぎ込まれるわ、警察がくるわ散々だったらしいんすから」
「お前それ下らない冗談だったら殺すよ?」
「マジですって。真紀子から聞いたんだから間違いないっす」
「いつ?」
「一週間前。今はもう退院して家にいるらしいっすけど、仕事も辞めちまったって」
「……」
合コンの時に聞き出した、一度もかけたことのない電話番号を眺めながら、加賀はベッドに横になった。
馬鹿馬鹿しい、と思う。携帯を投げ出してうつ伏せになる。しかし結局手にとって、勢いに任せて発信を押した。
「――」
コール音が、異様に長く感じられた。
『もしもし?』
声の主は紛れもなく彼女だった。
「コンビニで豚カルビ弁当ばっかり買ってた奴、覚えてる?」
『加賀くん?』
「ああ、覚えててくれたんだ」
『ううん。でも、携帯のコール画面見て思い出したよ』
彼女が思いの外普通の調子で喋るのを聞いて妙に安心する。
「久しぶりだね」
『うん、久しぶり』
「調子はどう?」
『真紀子から聞いたの?』
「何の話?」
敢えてとぼけていると、彼女はくすりと笑った。
『なんでもない。どうしたの?』
「いや、用って程の事じゃないんだ。ただ、声が聞きたくなってさ」
『……やっぱり私の事、聞いてたんじゃない?』
「触れない方がいいと思った」
『いいんだよ。ありがとう』
「……実は俺、霊能力者なんだ。相手の男を末代まで祟ってやろうか?俺の呪いは凄いぞ。三日三晩は腹を下して、トイレから出てこれなくなっちゃう」
『ちょっと、何それ、もう』
電話の向こうから微かな笑い声が聞こえて、加賀も口元を弛めた。
下らない事を、話し合った。思い出話だ。共通の知人の馬鹿話、近況。最近の映画の話。テレビ番組の話。接点の少なかった学園生活でも、共通の話題は幾らでも絞り出せた。気がつけば30分も会話していただろうか。
「……ねえ、今度会わないか。飯でも食いにいこう。明明後日、日曜日、駅前通りで」
『……うん、いいよ』
「本当?楽しみにしてるよ」
本当は少しだけ、不安だった。
何に、かは自分でもよく分からない。3年間想いを寄せていた女性と食事にいくのだから、もう少し気分が高揚してもいい筈だったのだ。
妙な胸騒ぎがして落ち着かなかった。
待ち合わせの時間を30分過ぎても彼女は現れなかった。電話にも出ない。もういい加減諦めて帰ろうかという時にコールが鳴った。
『もしもし?加賀くん?ごめん、いけなくなった』
「何かあったの」
『本当に、ごめん』
「いいよ気にするな」
『ありがとう』
「何が?」
『話、聞いてくれて。出来ればもっと話したかったな』
「いつでも話せるだろ?」
『うん……また、電話する』
彼女は自殺してしまった。
外でご飯を食べてくると家を出ようとした矢先、父親と口論になり、部屋に籠って手首を切ったという。発見されたのは翌日。後輩から話を聞いたのは、その更に翌日だった。
あの電話は、死ぬ直前にかけてきたのだろうか。
しかしこれから死のうという人間が律儀に電話をかけてきたりするのだろうか。
疑問は山のように残った。でも思うのは一つだけ。
俺が誘わなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。
葬儀には出なかった。その勇気がなかった。
その事を知ってから10日間、一睡もしていない。
瞳を閉じれば学生時代の彼女の笑顔が見える。
また、電話する――。
また、なんかない。
そんな事、分かりきっているというのに。
「……」
夜、ベッドに横になる。身体も脳も疲れきっている。死ぬ程眠いというのに、睡魔はいつまで待っても訪れない。
昔、ガキの頃、よく夜更かしをしておふくろに怒られたものだ。観たいテレビがあった。やりたいゲームがあった。夜更かしをする理由など幾らでもあった。あの頃の自分に今の自分を見せてやりたい。おふくろの言っていた事は、何一つ間違っていなかった。
考えている内に、うとうととしてくる。ぼんやりとした頭で、ああ、今夜は眠れるかもしれないな、と思う。
頭の上の方から曲が鳴った。着信音だった。舌打ちして携帯をとる。マナーモードにしておけば良かったのだ。眼を開かず手だけ動かして耳に当てる。
「もしもし」
向こうから聞こえてきた声に、加賀は少し苦笑した。
「……分かった。明日、いく」
携帯を放り出して大の字になる。
身体が水になってしまったようだ。もう指先すら動かす事が出来ない。
ようやくだ。
そうして加賀は眠りについた。
深い、深い、深い眠りへ。