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それを繋ぎとめておくには、婚約指輪だけでは足りなかったのだ。
「こんなことなら、もっと頑丈な鎖を用意しておけば良かったな。簡単には切れない鎖を。それでがんじがらめに縛っておけば、彼女もおれを置いて遠くに行くことはなかっただろうに」
青年はそう呟いて、左手を明かりに透かす。
その薬指に光る婚約指輪を眺める。
「これも結局、役には立たなかったな」
外そうとも考えたが、外してしまってはいけないような気がした。
もしも彼女との婚約が破談になったと財閥中に知られれば、折角安定した財閥の基盤が揺らぎかねない。
長男側の残党が動き、財閥を二分する結果となってしまうかもしれない。
彼女がいなくなったことは、人には知られてはいけない。
当分は伏せられなくてはならない。
「やはり、指輪は外さない方がいいだろうな。彼女は目の治療で外国へ行っていて、しばらくは帰って来れない。彼女が目の治療に専念するためには、おれが財閥をまとめなければならない、と」
そんな筋書きならどうだろう。
そしてゆくゆくは、目が見えるようになった彼女と結婚する。
財閥内での争いはなくなり、子どもにも恵まれて幸せな家庭生活を送る。
間違っても親族がいがみ合ったり、兄弟同士が争い合ったりしない、穏やかな家庭を作ろう。
そうすれば母が死んだ時のような悲劇は、二度と引き起こされないだろう。
「うん、悪くはないな」
青年はそこまでの筋書きを考えて、ソファから起き上がる。
テーブルの上に置かれた便箋にざっと目を通す。
そこには弟を助けるために彼女自身、生きて戻れるかどうかわからない旨が記されていた。
青年は便箋を燃え盛る暖炉へと放り込む。
「大丈夫だよ。弟君の組織のトップは君の伯母さんだ。間違っても君を手に掛けようなんて思わないはずだ」
便箋はすぐに燃え尽きて、白い灰になる。
青年は考える素振りをする。
「そうだな。でも、万が一のこともあるからな。君が無事にここに戻って来れるように、あらゆる手を打っておく必要があるな。どれ、組織にも少し圧力をかけてみるか」
まるで明日の献立を考えるように、青年は気楽に言う。
テーブルの上に置かれた小箱を手に取る。
「君が戻るまで、これはおれが預かっておくよ」
青年は小箱を懐にしまい、床に落ちた箱を拾う。
箱を開けると、レースの肩掛けが入っている。
「こちらは、どうしようかな? 少し派手だが、ばあやにプレゼントしよう。きっと喜ぶはずだ。いつか帰って来る君には、別のもっと良いものを用意しておこう」
青年は箱を小脇に抱え、部屋を出ていく。
使用人たちには、彼女がいなくなったことをどう説明しようかと頭をひねる。
「まあ、それは何とでも誤魔化すことが出来るさ」
青年はいつもの調子でぶらぶらと歩いていく。
何事もなかったかのように部屋から出ると、静かに扉を閉める。
青年が窓に目を向けると、外では雪が吹き荒れ、風が荒れ狂っている。
深緑の目を細め、昔の記憶に思いを馳せる。
財閥を取りまとめる総帥の親族として生まれながら、優遇されなかった幼少時代。
ずっと母と弟の三人で暮らし、父親がいるとは思わなかった。
母は兄弟を優しく、時に厳しくしつけた。
他の兄弟と違って、彼と弟がまっとうに育ったのは、一つには母の教育のたまものだと言える。
母が死んで実の父に引き取られるまで、他の兄弟の存在さえ知らなかった彼らだった。
他の兄弟と初めて顔を合わせた時は、衝撃的だった。
青年はふと足を止め、いなくなった姉のことを思い出す。
苛立たしげにくしゃくしゃと金の髪をかきまわす。
彼にしては珍しく、怒りを露わにする。
「けれど君は見る目がないな。おれのどこに不満があるって言うんだよ。こんなにも君に優しくしているじゃないか。生活にも不自由させてないし、まっとうに働いているだろう? まあ確かに、最近は仕事が忙しくてあまり一緒にはいられなかったけれど、それだって君をないがしろにしていた訳では」
そこまで考えて、青年は首を傾げる。
ある考えに至る。
「そうか。君はつまり、おれがいなくて寂しかったんだね。それならそう言ってくれれば良かったのに。夜ぐらいゆっくりベッドの中で一緒に過ごしてあげたのに。おれに遠慮して、素直に言うことが出来なかったんだね。オリガは、慎み深いからなあ」
ぽんと手を叩く。
先ほどの怒りも消え、勝手に納得して、すっかり上機嫌になる。
軽い足取りで廊下を歩いていく。
「今度オリガと会う時は、もう少し予定を開けて置かないといけないよな。そのためには財閥がもっと安定している必要があるし、兄貴の残党にも目を光らせておかないといけないよな」
青年は前向きにこれからのことをのんびりと考える。
窓を揺らす吹雪を気にした様子もなく、深緑の瞳で前を見据え、真っ直ぐに歩いていく。
「今は君は君の信じる道を行くといい、オリガ。おれもおれの信じる道を行く。けれど、いつかおれたちはまた出会うだろう。責任感の強い君が、財閥をこのままにしておくなんてとても思えないからね。その時こそ、今度こそ、君を逃がさないからね」
わずかに目を細め、ぽつりとつぶやいた言葉は、窓を揺らす風の音にまぎれて消えた。
その頃、吹雪の中をワタリガラスと一緒に歩いていた姉は、突然の寒気に襲われる。
ぶるりと全身を震わせる。
「どうした、お姉さん」
手を引いて雪の中を歩いていたワタリガラスが姉を振り返る。
「い、いえ、急に寒気がして」
厚手のコートを着て、フードまでかぶっていた姉は、たった今出てきた屋敷の方を振り返る。
目の見えない姉には、その様子は見えない。
叩きつける雪と、吹雪の音だけが聞こえてくる。
「風邪かい? それなら気を付けてくれよ。ここであんたに倒れられちゃ、元も子もない。あいつの助かる命も助からなくなるからな」
「わたしは大丈夫です。さあ、早く弟のところへ行きましょう」
姉は再び前を向いて、明かりを持つワタリガラスに手を引かれて歩き出す。
首に巻いたマフラーを手繰り寄せる。
――ごめんなさい、アレクセイ兄さま。
心の中でそっとつぶやく。
――さようなら。
吹雪の中をしっかりした足取りで歩いていく。
そうして二人は次男の広大過ぎる敷地内を夜通し歩き続けた。
夜明け近くには吹雪いていた風も弱まり、雲が晴れ、空から光が差しこんできた。
街に着いた二人はすぐに車に乗り、ワタリガラスの荒っぽい運転にもめげず、弟のいる隣国へと向かった。