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「若、上機嫌ですね?」
「ふふん、わかるかい?」
いつも送迎を頼んでいる運転手に声を掛けられ、青年はにんまりと笑う。
「今夜の取引が上手くいったのですか? さすが若ですね」
運転手に持ち上げられ、青年も悪い気はしない。
「まあ、おれの人望あってのことだよ。周囲もようやくそれがわかってきたってことさ」
帰りの車内で、青年は上機嫌だった。
会合した外国企業から、奥様にと、レースの肩掛けをプレゼントされたのだ。
もちろんこれがビジネスである以上、その見返りを要求される。
その外国企業は、実際に確かな技術を持っていたし、取引相手としては申し分ない。
青年はその新技術で編まれたレースの肩掛けを喜んで受け取り、従兄弟の少女にプレゼントするつもりだった。
帰りの車の中で、青年はその肩掛けを箱から取り出し、その編み目の細かさに驚嘆する。
この国のどの企業も、ここまで精密な織り方は出来ないだろう。
それに絹のような肌触りは、どこにも真似出来ないその会社独自の技術だった。
服飾を学んでいた青年は、自分のデザインした服に、ぜひともこの素材を使ってみたいという気持ちになった。
最近忙しくて自分の時間が取れなかったが、優秀な部下に任せておけば、これからは財閥も少し落ち着くだろう。
――その前に、オリガとゆっくり旅行でもしたいな。彼女も大変な目に合った後だから、気晴らしも必要だろう。どこがいいだろう。静かでのんびり出来る自然豊かな保養地がいいだろうか。
そんな取り留めのないことを考え、青年は車のシートにもたれかかる。
穏やかな気持ちで屋敷にたどり着く。
「お帰りなさいませ」
屋敷の扉をくぐると、広間で使用人たちとばあやが頭を下げて青年を迎えた。
「あぁ、ただいま」
青年は使用人の列をぐるりと見回す。
「オリガはいないのかい? 珍しいね」
青年はネクタイを緩めながら尋ねると、ばあやが答える。
「オリガ様にもお声を掛けたのですが、具合が悪いと言って、部屋から出ては来ませんでした」
「具合が悪い? オリガが?」
「はい。使用人の話によると、夜食を食べすぎたとかで」
青年は呆れたように金髪をかく。
「何だいそれ? あのオリガが食べすぎるなんてことあるのかい?」
ばあやの代わりに、部屋に夜食を運んだ使用人がおずおずと答える。
「あの、オリガ様はたいそう食欲があるようでして。その、普段召し上がられる量からは想像も出来ないほどの料理をお部屋に運ぶように仰せつかって」
「ふうん」
ネクタイを外した青年は首を傾げる。
「まあいい。おれがオリガに直接聞いてみるよ。具合が悪いのなら、医者を呼ばなければならないからね」
コートとネクタイ、鞄などを使用人に手渡し、青年は肩掛けの入った箱を持って広間の階段を上っていく。
ほとんど足音の立たない厚い絨毯の敷かれた廊下を進み、従兄弟の少女の部屋の前にたどり着く。
部屋の扉をノックする直前、青年は少し考える。
――本当なら、異常に食欲が出たりした場合、妊娠を疑うんだけど、おれはオリガに手を出してないからなあ。だからと言って、あの慎みのあるオリガが、他の男の子どもを宿しているとも考えられない。こんなことなら、前もってオリガに手を出しておくべきだったかな? そうすればおれが事実上の財閥のトップとして、財閥内で盤石な地位を築くことが出来たし、おれに反感を持つ重鎮も黙らせることが出来たんだけどなあ。
肩掛けの入った箱を小脇に抱え、青年は扉を叩く。
部屋の中は静まり返り、物音ひとつ返ってこない。
扉の取っ手に手をかけると、すんなりと開く。鍵はかかっていないようだった。
「オリガ、入るよ」
青年は声を掛けてから、扉を開ける。
部屋の中では暖炉の炎が赤々と燃え、明かりがついたまま人の気配はなかった。
「オリガ、どこだい? 寝てしまったのかい?」
青年は隣の寝室ものぞいてみる。
薄暗い寝室にも少女の姿はない。
青年は部屋の中を見回し、テーブルの上に置かれた便箋と小箱に気が付く。
「これは、手紙?」
便箋の一番初めに、青年の名前が記してある。
「それに、これは」
青年はテーブルの上に置かれた小箱を手に取る。
そのふたを開ける。
その小箱の中身を見て、青年は泣きそうな顔になる。
小箱の中身は、かつて青年が彼女に渡した婚約指輪だった。
青年が手渡して以来、彼女は肌身離さず左手の薬指に付けていた。
それを手放すなど、よっぽどの事情があったに違いない。
そらがわからない青年ではない。
「オリガ」
青年は部屋の絨毯の上にへたり込む。
小脇に抱えていた箱が床に落ちる。
婚約指輪の小箱がここに置かれている以上、手紙の内容は見なくてもわかる。
恐らくは、青年に対して彼女の謝罪と別れの言葉が書かれているのだろう。
優しい彼女のことだ。
何の理由もなく、青年の前から姿を消すなど考えられなかった。
「ははは、おれは要するに彼女に振られたってことか」
青年は小箱をテーブルの上に戻す。
手紙を読む勇気は、今の青年にはまだない。
青年はテーブルのそばのソファに座る。
背もたれにもたれかかる。
「うん、別にいいさ。女性の心はアジサイの花の色のように移り変わりやすい、って昔から言うからな。仕方がないさ」
天井を見上げる。景色が滲んで見える。
「わかってたことさ。彼女の心がおれに無いことくらい。彼女は誰にでも等しく優しい。高山に咲く穢れを知らぬ白百合だからな」
青年の深緑の両目を涙が伝う。
頬を伝った涙を手の甲で慌てて拭う。
そんな彼女を自分のものに出来ると慢心した自分が悪いのだ。
彼女はただの優しさで青年のそばにいただけだ。
財閥が安定すれば、いずれは青年の元を去るつもりだったのだ。