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姉ははっとして辺りを見回す。
目の見えない彼女には、その音の原因が何なのか見ることは出来ない。
じっと耳を澄ます。
こつりこつり。
窓ガラスを叩く音は断続的に続いている。
「誰? 誰か外にいるの?」
姉は窓ガラスからそろそろと離れる。
屋敷の庭は警備の者が見回っているが、この屋敷の金品を狙って強盗が押し入ってくることも十分に考えられる。
「あ…くだ…さい」
窓を叩く音に混じって、人の声が聞こえる。
次いで窓ガラスを叩く音。若い男性の声が彼女の耳に届く。
「お姉さん、開けて下さい。あいつが、白犬が、あなたの弟の命が危ないんです。ここを開けて下さい」
姉は息を飲む。
窓のそばに寄り、尋ねる。
「あなたはどなたですか? それに弟の命が危ないとは、どういうことなのですか?」
若い男性は窓ガラスを叩くのをやめて、慌てた声でまくしたてる。
「俺は白犬の、あなたの弟の仕事仲間です。名前は、ええと、俗にワタリガラスと呼ばれています。俺がここに来たのは、他でもないあなたの弟が命の危険にさらされているためです。詳しい話は部屋の中で話します。だからどうか中に入れて下さい」
姉は考え込む。
果たしてこのワタリガラスという男性の言葉を信じていいものかと訝しむ。
「わかりました。部屋の中に入れましょう。ただし、少しでも怪しい動きをしたら、人を呼びますからね?」
姉はバルコニーのガラス扉の鍵を開け、ワタリガラスを部屋の中へ招き入れる。
「外はこんな猛吹雪でやんなっちまうよな。ずっと外にいたら雪だるまになっちまうとこだ。それにこの厳重な警備な中、ここまで来るの本当に大変だったんだよ?」
ワタリガラスは窓辺で服に付いた雪を払う。
部屋の中に入ると、先程まで姉が座っていた暖炉に一番近いソファに腰を下ろす。
姉はその遠慮のない態度に呆れつつも、ワタリガラスの向かいに座る。
「それで、弟が危ないと言うのは」
ワタリガラスに尋ねる。
「あ、美人なお姉さん。何か温かい物を頼めるかい? 俺ここに来るまでずっと何も食べてなくてさ。お腹が減って死にそうなんだ。温かいスープとパン、出来れば血のしたたるような肉の料理もあるとうれしいな。ちなみに俺がここにいることは屋敷の人には内緒にしておいてね。そうしないと俺、不審者としてここから叩き出されちゃうからさ」
弟の命が危なくて、一刻を争う事態じゃなかったのだろうか。
姉は使用人に頼んで、夜食を部屋に運ばせる。
「少し、お腹が空いてしまって」
使用人にはそう誤魔化したが、それは姉一人が食べる量とはとても思えなかった。
運んできた顔馴染みの使用人も驚いたほどだった。
姉が使用人に電話している間、その後ろでワタリガラスがあれこれと注文を付けたからだ。
野菜と魚介類のたっぷり入ったクラムチャウダーに、焼き立ての白パン、近くの河でとれたマスのフライにソースと野菜を添えて白い皿に盛られ、チーズとハムの乗ったサラダと、子牛を丸ごと窯に入れた姿焼きが銀板に乗せられている。
食後には高級な果物をふんだんに使ったフルーツポンチに、チョコレートのたっぷりかかったガトーショコラだった。
夜食を部屋に運んだ使用人でさえ、姉一人が食べると話すと、訝しそうに眉をひそめた。
「多ければ、残して下さいね。夜に食べすぎるのは、体にあまり良くありませんよ?」
心配そうに言う使用人に、誤魔化す姉は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「いただきま~す」
ワタリガラスは姉でさえ胸やけがしそうな量を嬉々として食べ始める。
途中、うまいうまいと言いながら、それらをすべて完食した。
「はあ、俺はこんなうまいものが食べられて幸せだ~」
満足した様子で、ワタリガラスはソファに寝っころがる。
温かいハーブティーを飲みながらそれを眺めていた姉は、もしやこのワタリガラスがたまたま聞いた弟の名を出して、食事をたかりに来たのではないかと勘ぐってしまうほどだった。
「あの、それで弟が命の危険にさらされている、という話は」
姉はソファに寝っころがるワタリガラスに尋ねる。
「あぁ、その話ね。もちろん忘れてないよ?」
ワタリガラスは膨らんだ腹をぽんぽんと叩き、ソファから起き上がる。
おほんと咳払いをする。
「俺がそもそもここに来た理由は、お姉さんにそれを伝えたいからなんだ。つまりあんたの弟の命が危ないと。あいつは俺と同じ組織に所属してたんだけどね、あいつが仕事でミスして、そのせいで処罰されそうになっているんだよ」
姉はワタリガラスの方に身を乗り出す。
「ミス? あの子が? どうしてですか?」
「まあ、それは色々と。誰だって仕事でミスくらいするし、そのせいで処罰されることもある。ただあいつのミスは、かなり大きかった、ってことだ。組織のボスの怒りを買って、あいつは命を奪われそうになっている」
ワタリガラスは息を吐き出す。
「この際、はっきり言ってしまうけど、あいつはお姉さん財閥一家の命を守る護衛の役を任されていた。けれど、両親は死に、お姉さんは視力を失った。あいつはその責任を取らされて、殺されそうになっている。けれど、本来はあいつ一人の責任ではない。事前に察知できなかった、俺や他の奴らの責任でもある。けれど元々あいつを気に入っていなかったボスは、あいつ一人に責任を負わせ、処分しようとしている」
「あの子が殺されそうになっているのは、わたしのせい?」
「そうとも言うな」
姉はぎゅっと両手を握りしめる。
「そ、そんな。何とかならないのですか? あれはあの子一人の責任ではないはずです」
姉は悲痛な声で訴える。
「何とかならないこともないけど、組織を動かすには金と権力とコネ次第、ってとこか。お姉さんの力があれば、組織のボスを何とか説得することも出来るかもしれないけど」
「ほ、本当ですか? それで弟の命を助けることが出来ますか?」
姉の顔がぱっと明るくなる。
一方のワタリガラスは渋い顔のままだ。
「けれど、ボスを説得するには、お姉さんが直接組織に来てもらうしかないよ? ボスは用心深い人だ。代理人を立てて話し合いをしても、信用してはもらえない。危険だけど、お姉さんに来てもらって、ボスと直接交渉してもらうしかないよ? もし交渉に成功して、弟の命が助かっても、お姉さんが無事に帰れるかどうかもわからない。組織と深く関わってしまったら、元の生活には戻れないかもしれない。今の生活を捨てることになるけれど、それでもいいのかい?」
「今の生活を、捨てる?」
姉は黙り込む。
静寂が訪れ、暖炉の薪のはぜる音が必要以上に大きく聞こえる。
右手を左手に重ねる。
左手の薬指にはまっている婚約指輪をなぞる。
「元々弟がそうなってしまったのは、わたしの責任でもあるのですよね? ならば、わたしがその責任を取らなければなりません。わたしが交渉すれば、弟の命が助かるかもしれないと言うのなら、わたしは行きます。それで今の生活を失ったとしても、弟の命が助かると言うのなら、迷う余地はありません。そもそも今のわたしには、この生活は不相応です。あまりにも恵まれ過ぎていますから」
姉は左手の薬指にはまった婚約指輪をそっと外す。
ソファから立ち上がり、戸棚の引き出しに入れてある指輪のケースを取り出す。
指輪のケースを開け、その中に婚約指輪を収める。
わずかに名残惜しい気がして、指輪の表面を指でなぞる。
その指輪の裏側には姉の名前が彫ってある。
――アレクセイ兄さま、あなたのご厚意に感謝いたします。ありがとう、そして、ごめんなさい。
心の中でつぶやくと、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
喉の奥に何かがつかえたように苦しくなる。
――わたしは、アレクセイ兄さまの幸せを、心より願っています。兄さまにはもっと相応しい女性がいると信じています。
姉は戸棚から便箋とペンを取り出すと、従兄弟の青年に向けての手紙を考える。
「アレクセイ兄さまがわたしを探さないように、手紙を書きます。少しの間待っていて下さい」
姉は泣き出しそうな顔で笑い、便箋とペンを持ってテーブルへと向かった。