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青年の風邪が治ってから、数日後。
今日は仕事で会合があるため、青年は夕食はいらないということだった。
姉は一人で夕食をとった後、自室で編み物をしていた。
昼間は屋敷を尋ねてくる財閥の来客を相手にし、またある時は、次男に代わって会社の視察もこなさなければならない時がある。
夜会に招待される時もあるため、こうしてゆっくりできる夜は珍しかった。
毛糸で編み物をするのにもすっかり慣れた姉は、目が見えないため編み目を指で確認しながらマフラーを編んでいた。
あまり上手ではないため、完成したマフラーを誰にあげるのかはまだ考えていない。
財閥内での権力闘争がひと段落し、屋敷での仕事が忙しくなってから、思い出されるのは血の繋がらない弟のことだった。
弟は元気にしているのだろうか。体の調子は崩してはいないか。
弟と最後に会ったのは、財閥内の権力闘争がひと段落する前のことだった。
あれ以来、弟の行方は知れない。
今、どこにいるのかわからない。
姉はふうと息を吐き出し、編み物の手を止める。
編み棒と毛糸をテーブルの上に置いて、ソファから立ち上がる。
杖を手に部屋の窓辺へと歩く。
見えない目で窓の外を眺める。
冷たい空気が窓ガラスを揺らし、姉の物憂げな顔が映っている。
ガラスに左手を添えると、こつりと小さな音が響く。
音の原因が左手の薬指にはめた婚約指輪であることに気付く。
姉は左手の薬指にはめた指輪を指でなぞる。
以前、この指輪を青年に送られた時、これが様々な宝石のあしらわれた高価な品だと聞いたことがある。
――わたしには、この指輪は高価すぎる。
口には出さないが、目の見えない姉には、財閥の副総帥である青年との婚約は重荷だと思っている。
青年に不満があるわけではない。
彼は目の見えない姉にとても優しくしてくれる。
今の立場に不満があるわけでもない。
財閥の元総帥の娘として、いずれは自分が担わなくてはならない役割だ。
それに対しては不満があるわけではない。
けれど、時々どうしようもない虚しさに襲われる。
自分が本当にこの場所にいていいのかわからなくなる。
すべてを捨て去って逃げ出したくなる。
両親が死んで、姉自身目が見えなくなって、唯一の肉親である弟とも離れ離れになってしまった。
従兄弟の青年の手助けで生活しているものの、姉一人では何もできない。
――わたしは、本当にここにいていいの?
青年は姉の協力を申し出る時に、自分の婚約者になって欲しいと言った。
自分の婚約者として自分と共に表舞台に立って欲しいと。
姉は青年の申し出に応じた。
それが自分の身を守り、彼女の命を狙う長男一派に対抗する手段になると考えたからだ。
すべてが収まった今、姉がここに留まる理由はない。
もう当初の目的は達成されたのだから。
本来ならば、青年との婚約を破棄し、婚約指輪を返して、どこへともなく姿を消してもいいはずだった。
この財閥で必要なのは青年であって、自分ではない。
そう信じ込んでいた。
姉は窓ガラスに額を寄せる。
外の冷気がガラスを通して伝わってくる。
こつり。
不意に窓ガラスに何かが当たる音がした。
「何かしら?」