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「熱っぽいな」
青年はそう言って体温計を取り出す。
たった今測った自分の体温を見る。
「三十七度か。少し熱があるかな」
最近は特に忙しい日が続き、休みらしい日もなかったせいだろう。
そう言いつつも、青年は休んではいられない。
傍らに控える部下を振り返る。
「今日の予定は?」
青年がそう尋ねると、部下の男は書面に記された予定をすらすらと答える。
「アレクセイ様の財閥副総帥としての本日の予定は」
午前中は会議、昼は国務大臣との会食、昼過ぎは財閥の会社の視察、夜は外国企業との会食。
青年は部下の口にする予定を聞いて、正直うんざりしたが、それを言っても仕方がないことは十分に自覚していた。
何しろ自分は財閥の副総帥なのだから。
自分が動かなくては財閥が上手く回らないことは十分に自覚している。
財閥の総帥を自分の弟、三男に任せたものの、体の弱い彼は無理は出来ない。
ただでさえ財閥内の権力争いで傾いているのに、これ以上放っておいては財閥が瓦解してしまうことは目に見えていた。
それは青年の望むところではない。
青年にとって恩のある人々が路頭に困り、財閥が瓦解するのは何としても止めたかった。
青年は体温計を部下に渡し、席を立つ。
「今は、おれがしっかりしないといけないんだよなあ」
溜息一つ、青年はスーツの襟元を整え、午前中の会議の場に急いだ。
一日の予定をすべてこなし終えたのは、深夜を過ぎてからだった。
時間は十二時を回り、青年は自分の屋敷へと戻る。
自分の部屋のベッドに倒れ込む頃には、体力も気力も尽きかけていた。
元々風邪気味だとは思っていたが、夜になってさらに悪化したようだった。
青年は服を着替えることも出来ずに、ベッドの上でそのまま動けなくなっていた。
頭が痛く、寒気もする。典型的な風邪の症状だった。
青年が幼い頃、このように風邪をひいたときは、決まって母がリンゴとレモンとハチミツの入った甘いヨーグルトを作ってくれたものだ。
食べやすく栄養もあるからと言って、リンゴをすりおろしてヨーグルトの中に入れて、レモンで味を整え、ハチミツをたっぷりかけて食べさせてくれた。
そしてその日は仕事を休み、ベッドのそばにずっとついていてくれた。
なにかと世話を焼いてくれた。
普段から母は服飾の仕事で忙しかったので、風邪をひいたその日だけは青年は思う存分母に甘えることが出来た。
風邪をひけば母が心配してくれるので、その時は風邪をひくことが嫌とは思わなかった。
懐かしい昔を夢に見ていた青年は、ふっと深緑色の目を開ける。
熱のためにぼんやりとする頭で、ベッドに倒れ込んでからのことを思い出す。
部屋の中は既に夜が明け、薄明るくなっていた。
「夢か」
青年はベッドの天蓋を見上げる。
首を動かして傍らを見ると、ベッドのそばのテーブルの上に薬やコップや水差し、氷水を張った桶と濡れたタオルが置いてある。
使用人の誰かが置いてくれたものだろう。
それに処方された薬は、何者かが青年のために医者を呼んだのだろう。
後で使用人に礼を言わなければいけないな。
青年は額に置かれた濡れタオルを意識し、もう一度寝入ろうと目を閉じる。
そこへ部屋の扉がゆっくりと開く。
扉から数人の女性が部屋に入ってくる。
「風邪の時は、バナナがいいんですよ。バナナは柔らかくて、食べやすいから、病人にはうってつけです」
「冷たい食べ物よりも、温かい物の方が食べやすいのでしょうか? わたしが風邪の時は、母がよく温かいスープを作ってくれました」
「風邪の時は、甘い物がいいんです。口が不味くなっているから、甘い物じゃないと食べられないんです」
ばあやを先頭に、従兄弟の少女と、メイドが銀板に食べ物を乗せてやってくる。
目を開けている青年を見て、ばあやが驚いた声を上げる。
「あら、坊ちゃま。目が覚めていらっしゃったんですか? 風邪で倒れたと聞いていたので、心配していたのですよ?」
「ああ、すまないな」
青年はかすれた声で応える。
まだ相変わらず熱はあって、とても仕事の出来る状態ではなかったが、こうして女性陣に心配されるのは悪い気はしない。
「よかったです」
従兄弟の少女とメイドが見るからに安心したように息を吐き出す。
二人で青年を心配そうに見下ろしている。
「そう言えば、坊ちゃま。朝食はまだでしょう? 何か召し上がられますか?」
それぞれが持ってきた銀板の上には、バナナ、温かいコンソメのスープ、ジェラートが乗っている。
「さあ、坊ちゃま。召し上がれ」
有無を言わさぬばあやの口調に、青年は苦笑いを浮かべた。