シンデレラは雨の日に
かこん、かこん、かこん。
すれ違う人の多い大学の廊下を歩くたびに、自分の足元から変な音がする。隣を歩いている優菜がそのおかしな足音に気づかないわけがなく、会話が途切れた空白に、不意に優菜の視線が足に落ちた。
「……亜妃。靴、どうしたの?」
優菜は足を止め、まじまじと私の足を見ている。見てしまうのも、しょうがないと思う。
私の左足、お気に入りの黒いパンプスのストラップが、壊れてしまったのだ。
壊れたのは大学に着いて教室移動している最中で、何故なのかは分からないけれど、金具がどうやっても前みたいにはまらなくなってしまった。大学の近くには靴屋さんも、ましてや靴を修理してくれる店もない。どうしようもなくて、とりあえずそのまま履いている。けれど、ストラップで固定されていない、更に履きこみの浅いパンプスというのはとても脱げやすくて、足を動かすたびに半分脱げそうになる。そのせいで足を持ち上げるたびに、かこんかこんと、おかしな音がしているというわけだ。
「ストラップ、壊れちゃったみたいで。まだあんまり履いてないんだけどな……」
「えー、最悪じゃん。雨で床濡れてるし、転ばないように気をつけなよ」
「うん。あ、今度、試作品食べてくれる?」
「大学祭で売るやつ? いいよ、おいしいの持ってきてね」
「腕によりをかけて頑張る。じゃ、また明日」
「じゃあね」
肩にかけていた鞄が落ちてきていたので掛け直し、優菜と手を振って別れた。午後一番の講義は、今いる階の一つ上だ。左足を気にしつつ、秋雨のせいで濡れて滑りやすくなっている階段を、一段一段慎重に上る。横をすいすい通り過ぎていく人の邪魔にならないように、階段の端の方を、ゆっくり上った。
折り返し地点の踊り場まであと二段というところで、不意に、左足が外気に触れてひやりとする。あっ、と思った時にはもう遅く、慌てて振り向くと黒いパンプスがリズムよく、コンコンコンッと階段を転がり落ちていくのが見えた。
「あー……」
誰に、何に向かって怒っていいのか、そもそもここは怒るべきなのか。諦め半分、うんざりした気持ち半分に、無情にも階段を転がり落ちていくパンプスを見送った。この濡れた階段を片足で下りて、またパンプスを履いて上って、長い廊下を歩いて教室に向かうのを想像したら、おそろしく面倒くさそうだった。いっそのこと、パンプスを脱いで歩いた方が早いのではないだろうかという考えが頭をよぎったけれど、足の裏が雨と汚れでぐちゃぐちゃになる気がして、実行する前に頭の中で却下した。誰もいなかったのが不幸中の幸いだったと自分で自分を慰めながら、階段下に転がっているパンプスを目指して、けんけんをする要領で、手すりに掴まりながら階段を下りる。二、三段下りてすぐに、パンプスを履いたままけんけんで濡れた階段を下りることの難しさを痛感したが、ここで立っていても講義に遅刻してしまうだけなので、上る時よりもさらに慎重に、一段ずつ階段を下りた。
あと何段だろうと思い、足元に集中していた視線をパンプスの方へ向ける。濡れた階段を転がっていったパンプスは案の定少し汚れているようで、力なく床に伸びるストラップが、怪我をして倒れているように見えた。伸びたストラップに影が降ってきて、影を辿って目を移すと、パンプスから少し離れた場所に人が立っていた。
その人の黒いカーディガンやインディゴ色のジーンズは少し秋雨で濡れているようで、蛍光灯の光をきらきらと散らし、片手に持っている柄の黒いビニール傘は、まだ水滴を身に纏っている。その人はパンプスを興味深げに見下ろしていて、そうかと思うと急に、こちらへ目を向けてきた。彼と視線が勢いよくぶつかって、名前も知らない人に普段ならありえないような間抜けな状況を見られたことが恥ずかしくて、頬が急激に熱を帯びる。思わず顔を下に向け、クリーム色の、汚れて黒ずみのある階段に視線を逸らした。逃げ出すことも、顔を上げることも、拾いに行くこともためらわれた。もしも近くに穴があったら、一目散に穴の中へ行ってしまいたい気分だった。
そのまま、どれくらい階段の途中で、固まったままでいたのだろう。静かな足音が近づいてきて、明らかに目の前で止まった。一つ下の段に、自分のものよりもだいぶ大きなスニーカーが乗っている。見なかったことにして通り過ぎてほしかったけれど、優しいのかそうじゃないのか、とにかくその人は私を放っておいてはくれないらしい。膠着状態をどうにかするために意を決して顔を上げると、逆に彼の方が驚いたようで、少し上にある彼の焦げ茶色の目が丸くなった。
「はい。これ、君のでしょ」
「あ……は、い」
何事もなかったかのように差し出された手の中には、私のパンプスがあった。躊躇いながらも両手を差し出すと、その上にそっとパンプスを置いてくれた。
「雨だし、気をつけて」
やわらかく、ふわふわのタオルで優しくくるんでくれるような笑顔を見せた彼は、そのまま私の横を通り過ぎて階段を上っていってしまった。私はそのまま、靴底のゴムと階段のこすれる音を見送った。そして、彼が完全にいなくなってから、大きく息を吐いた。頬が先ほどよりもさらに熱くなっている。走った直後のような鼓動に見ないふりをして、私はパンプスを履いた。受け取ったときには気づかなかったけれど、落ちたときよりも汚れが少ない気がした。彼がはらってくれたのだろうか。
再び踊り場の方に向き直り、今度こそ落とさないように階段を上りきる。時間ぎりぎりで入った教室はほぼ満席で、いつも一緒に講義を受ける友人の顔を探すのも大変だった。何とか見つけた友人のところへ行き、とっておいてもらった席へと腰を落ち着ける。そこでようやく、人心地ついた。座って周りを見渡すと、前方に見える座席に、靴を拾ってくれた彼がいた。あれが誰なのかと隣の友人に聞く前に教授がやってきて、開きかけていた口をつぐまざるを得なかった。教授はマナーに口うるさい人として有名で、講義中に私語をしようものなら即刻退場させられるくらい厳しい。たくさんの人がいるにもかかわらず静まり返った教室に、教授が出欠を取る物々しい低い声だけが響く。けれど、その出欠のおかげで、彼が同学年であることと、彼の名字が「ヒムロ」だということを知った。
その日から、よく彼を見かけるようになった。
よく見かけるようになった、というのは、事実とは少し違うかもしれない。大学内を歩く時、講義を受けている時、食堂でお昼ご飯を食べている時、友達と何気ない雑談をしている時。視界の端に、不思議と彼が映り込む。同じ学部、同じ学年だから授業が重なるのは仕方がないとも言える。けれど、今まで全く私の世界に認識されていなかった彼が、様々な場面で姿を現す。前までは集団を構成している大勢の一部というだけだった人が、集団の中から一人、特別に浮き上がって見えた。
「自然とその人を目で追っているなら、もう落ちてるんだよ」
視界に入る彼をなんとなく目で追ってしまう私に、正面に座る優菜がそう教えてくれた。私は食堂の白い机に頬杖をついたまま、楽しそうに喋っている彼の方から、大学祭で売る予定の試作品を食べる優菜の方へ視線を移す。
「落ちるって、それじゃ事件じゃん。……でも、そうなのかなぁ……」
「気がついたら落ちてるものだって。シンデレラみたいなきっかけもあったわけだしさ」
しれっと言う優菜は喋っているうちに一つ食べ終え、沢山作ってきたマドレーヌをもう一つ手に取る。ココアを混ぜ込んで作ったマドレーヌは、茶色やチョコレート色を通り越して深い焦げ茶色をしている。そのマドレーヌが優菜の口に入っていくのを見ていたら、知らないうちにため息が漏れていた。
「幸せ逃げるよ。早く吸い込んで吸い込んで」
「これくらいで逃げちゃう幸せとか、儚すぎない?」
「それもそうだね」
そう言って二つ目のマドレーヌも胃に収めた優菜は、三つ目を食べようか悩んでいるようで、マドレーヌの入った箱に手を伸ばすものの、手をつけようとしない。だけどこの食欲を見る限りでは、マドレーヌはまずまず美味しいということだろう。
「亜妃、あたしこっちのが好きだな」
そう言って優菜が指差したのは、ココアの入っている方だった。ベーシックな方が好きかと思っていたけれど、ココアを入れるだけではなくチョコを溶かして入れたのが功を奏したのかもしれない。
「ほんと? そっちのが手込んでるんだよね。両方ともまずくない?」
「すっごくおいしい。大丈夫、これなら売れる」
「ほんと? よかったぁ」
お日様みたいな笑顔と太鼓判をもらって、どちらを大学祭で売るかはサークルの子と決めようと思い、箱の蓋を閉めようとした時だった。
「なーに食ーべてんのっ?」
優菜の背後に現れたのは、優菜と高校が一緒で、現在優菜の彼氏である島本君だった。女子校出身で男の人と話すのが苦手な私にとって、優菜の彼氏で私にも気さくな態度で接してくれる島本君は、時々押されることもあるけれど、比較的話しやすい男の人である。
「亜妃の作ったマドレーヌ。学祭に出すやつの試作品だって」
「オレも食べたいなー。いい?」
「あ、うん。感想聞かせてくれると嬉しいな」
「やった」
蓋を横に置いて箱を差し出すと、島本君は優菜の後ろから私と優菜の間に移動し、満面の笑みで一つ手に取ると、かぶりついた。あまりにも嬉しそうなその様子は、大型犬がしっぽを振り全身で喜んでいる様子を彷彿とさせて、微笑ましい。大きな一口に半分ほどを入れ、数度口を動かしてごくりと飲み込む様子を、どきどきしながら見守った。
「……すっげーうまい。アッキー料理上手!」
きらきらと、ぬいぐるみのように丸い瞳を輝かせて、全身で表現してくれる。あまりにも素直な感情表現のおかげで、その言葉がお世辞じゃないと伝わってきて安心した。
「レシピあれば誰でも作れるよー? でも、おいしかったならよかった」
「優菜もこういうの作ってよ。オレ喜んで食べるし」
島本君はあっという間に食べ終えて、二つ目に手を伸ばしながら優菜の方をちらりと見る。見られた優菜はものすごく嫌そうな顔をして答えた。
「えぇっ、ヤだよ。こんなおいしいの食べた後になんて、食べさせらんない」
「優菜が作ったやつならいいんだって」
「こっちはよくないのっ」
「アッキー、優菜が冷たい~」
その仲のいい会話が微笑ましくて小さく笑ったら、しょんぼりしている島本君を尻目に、優菜が不機嫌な顔でそっぽを向いていた。普段の優菜もかわいいけれど、そんな風に拗ねたように怒っている様子は普段見られなくて新鮮で、島本君の前ではこんな幼い表情もするんだと、新たな発見をした気分だった。
「優菜には今度違うお菓子のレシピあげるから、作ってあげなよ」
「うー……亜妃先生が直接指導してくれるなら」
「いいよ、特別にタダで教えてあげる」
「やった! 楽しみにしてる!」
飛び上がって喜びそうな勢いの島本君を見て、優菜はまんざらでもない様子で苦笑する。なんだかんだで、好きな相手の可愛い我儘を叶えるのは、そんなに嫌なものじゃないのだろうなと思った。
「あんまり期待しないでよ? この頃全っ然作ってなかったんだから……」
「おっけーおっけー。そうだアッキー、他の奴の意見も聞きたい?」
二つ目を食べ終え、三つ目を手に取りながら島本君が話題を振ってきて、思ってもみなかったことに少々困惑してしまった。
「え……?」
「というのはタテマエ。さっき一緒にいた奴らの中に、甘いの好きな奴がいるからさ。そいつがコレ食ったら喜びそうだし」
「シマの友達にそんなに甘い物好きがいたの?」
「いるんだなーこれが。ヒムロっていう奴なんだけど、知ってる?」
その珍しい名字と、島村君が指差した方向にいる男子の中についさっき話題にしていた彼がいて、おもわず優菜と顔を見合わせてしまった。謀られたような驚きと偶然に、私は言葉が出なかった。
「「……」」
二人で黙っていたら、島本君が何かを察してくれたようで、不思議そうに聞いてきた。
「あれ、知り合い?」
「知り合いというか……あたしは亜妃の話で一方的に知ってるだけ」
「あれ、アッキー知り合いだったの?」
「違うの、知り合いじゃなくて……なんて言うか……その……」
「……シマ、耳貸して」
パンプスを落とした時の恥ずかしい記憶を鮮明に掘り起こしてしまい、恥ずかしさのあまりうまく口が動かせなくなってしまった私に代わって、優菜が島本君の耳を拝借して説明してくれた。耳元で内緒話のように小声で説明してくれていたから、どんなふうに言われたのかはわからないけれど、島本君の顔を見ていたらなんとなく、どう説明したのかわかった。何故ならば、島本君の顔は真面目な顔からだんだんと、にやけて楽しそうな表情に変わっていったから。
「……じゃ、なおさら呼ばなきゃな」
「ぜひ呼んであげて。亜妃、せっかく共学に入ったんだし、青春しておいで」
「やっ、ちょっ、優菜、何て説明したの!?」
「事実のままに。亜妃は奥手なんだから、きっかけがないとね」
「おーい、氷室ーっ」
「島本君っ!」
予想外の早さで話が進みすぎて、二人を止めようとしても時は既に遅し。私の心が焦ってぐちゃぐちゃしている間にも、島村君が呼んでしまった彼が近づいてきている。もう、今すぐこの場から脱兎のごとく逃げ出してしまいたいくらいの気分になり、知らず知らず、頬が微かに熱を持ち始める。せめて平静を装っていたいと思っても、ぐちゃぐちゃの心が表情に出てしまいそうで、そんな不器用な顔を見せる勇気もなく俯いてしまった。
「シマ、何?」
「コレすっげーうまいから、食ってみ」
「じゃ、一個もらう」
机の上に置いた箱が下向きの視界から消え、すぐ近くに彼がいる気配がする。階段で聞いた、彼の声が聞こえる。低すぎず高すぎず、すとんと心の中に落ちてくる声。次に何か彼が言うまでの間は長すぎて、それが私には判決を言い渡されるのを待っている気分になって、何故だか泣きそうだった。
「どうどう? うまい?」
「ん、うまい。君が作ったの?」
「ううん、あたしじゃなくてこの子。亜妃、ほら顔上げて」
優菜にあっさりと言われ、これ以上俯いていることも出来なくて、恐る恐る顔を上げたら、彼と視線がぶつかった。その途端、彼は少し驚いた顔をして、つい口を突いて出たという様子で呟いた。
「シンデレラだ」
端的で的確な言葉に、あの時の恥ずかしさが呼び起されて、一瞬で顔が紅潮してしまったのがわかった。今鏡を見たら、林檎に負けないくらい顔が赤いに違いない。
「あ、あのときは、ありがとうございました……」
あの時言えなかったお礼をなんとか言ったものの、口の中はからからに乾いてしまってうまく喋れず、声は蚊の羽音よりも小さかったに違いない。きっと周囲の音に紛れて聞こえにくかっただろうと思うと、自分が情けなかった。
「いえいえ。無事に家に帰れた?」
「あっ、はい」
「よかった。大丈夫かなって気になってたんだ」
ふわり、優しく包み込んでくれるような笑顔が、周囲の雑音の中をすりぬけてクリアに聞こえる声が、カチカチに凝り固まっていた私の心と体を溶かす。
「アッキー、もう一個もらっていい?」
「やっぱあたしも貰っちゃおっかな」
「俺ももう一個いい?」
「あ……どう、ぞ。いっぱい作ったから……」
想像以上に好評なのか、先程は我慢していた優菜も島本君に釣られたように、結局手を伸ばす。沢山作ってきたはずのマドレーヌは、三人によってだいぶ減った。人間、緊張が長く続くと段々感覚が麻痺して慣れてくるようで、あんなに彼の前から逃げ出したいと思っていたのに、島本君と優菜のおかげか、昼休みが終わるまでに、なんとか雑談が出来るまでになった。
「あ、やっべ。氷室、次六階だよな。じゃー優菜、アッキー、またな」
「ごちそうさま、おいしかったよ。また作ったら食べさせてね」
「あ、うん」
「二人とも、またね」
「ばいばーい」
時間に追われて忙しなく去っていく二人の背中を見送り、私達も次の講義がある教室へ移動するために席を立つ。ずいぶんと軽くなったマドレーヌの箱を紙袋に入れ、鞄と一緒に持って食堂を後にする。次の講義が行われる教室に着き、無事に席を確保して教科書やルーズリーフを取り出していたら、不意に優菜が真剣な表情で呟いた。
「氷室くん、かなりの好青年じゃん。亜妃、頑張んなよ」
「何を頑張るの」
「氷室くんなら、亜妃をわかってくれると思うよ?」
「だーかーらーっ、人のことからかって遊ばないでよっ」
優菜の言葉に怒ってみるものの、私の頬は正直で、カッと熱くなった。緊張していて、さっき何を話したのかすらよく覚えてないのに。出会いだって最悪で、まるでお笑いみたいだったのに。きっと第一印象はドジな子で、全然いいイメージはないだろうに。
こんな状態から、素敵なことなんて生まれないに決まってる。
バイバイではなく、またね、と言ったまさにその言葉通り、氷室君は私達を見かけると一言二言、何かしら話しかけてくるようになった。大学の教室で、廊下で、食堂で、図書館で。私が見つける前に氷室君が私を見つけて話しかけてくれることも多くて、こんなに沢山の人がいる中で、よく私を見つけられるものだと逆に感心してしまうくらいだった。私が取り立てて体に特徴があるわけでも、珍しい髪色をしているわけでも、特徴的な持ち物を持っているわけでもないのに。
中学・高校と女子校にいたからか、男の人と話すのはいまだに苦手だけど、何度も会って話す機会があれば、なんとなく打ち解ける。その存在を知って、名前を知って、名前を呼ぶようになってから、まだ短期間しか経っていない。けれど、そのやわらかく受け入れてくれる物腰や、必要以上に荒げることの少ない声や、なにより相手に自分を押しつけることなく隣に寄り添うような態度は、私の中にこびりついていた男の人に対する苦手意識を少しずつだけれど変えてくれて、他の男の人とも、前よりは緊張しないで話せるようになってきた。赤面症といってもおかしくない頬の紅潮も、減った気がする。
知らないものは、よくわからないものは怖いけれど、ちゃんと知って、ちゃんと理解すれば怖いことはないのだと、氷室君は行動で教えてくれた。
きっと私は、彼のそんなところに惹かれていったのだと思う。彼を目で追う回数は増え、彼と言葉を交わすと胸の奥で名も知らない赤い花が育っていく。芽を出し、蔓を伸ばし、沢山の蕾をつけたその花がいつか咲いてしまうのが、私は怖くて、その花の上が見えないように何度も蓋をした。
修理に出していた、黒のパンプスが返ってきた。ストラップの金具もしっかりはまり、外れることやはまらなくなることは、もうなさそうだった。
お気に入りの靴が久しぶりに自分の手元にあるのが嬉しくて、早速履いて出かけたら、朝はあんなに晴れていた空が昼過ぎには雲行きが怪しくなり、午後の講義を終える頃にはポツリポツリと降り始めていた。鞄の中に入れたままだった、アポロチョコレート色の折り畳み傘が久しぶりに役立つ時が来たなと思いながら、大学内にある図書館に駆け込んだ。図書館でレポートに必要そうな本を探して歩き、借りる頃にはすっかり本格的に降ってきていて、外は夕刻ということも相まってかなり暗かった。講義が終わってだいぶ経ったはずなのに、図書館の入り口付近には雨宿りをしている人がまだ何人かいて、その中に見知った背中もあった。
「氷室君」
ところどころに水滴の跡があるジャケットを身に纏い、沢山の水滴がとめどなく伝い落ちていく窓を仰いでいる氷室君に声をかけると、彼はすぐに反応してこちらを向いた。
「あれ、亜妃ちゃんも雨宿り?」
「ううん、本借りに来たの。傘、持ってないの?」
「残念ながら。小降りだから走ればいいかと思ったら、本格的に降ってきたからさ」
「そっか……。駅まででよかったら、入る?」
鞄から折り畳み傘を取り出し、示して見せる。この降り方では、夏のように通り雨や夕立ちであるとは到底思えなかったし、雨足が弱まるのを待っていたら何時になるかわからない。折り畳み傘だからそんなに大きくはないけれど、前に傘を忘れた優菜を入れたことがあるから、一応二人なら入ることができるはずだ。
「え、いいの?」
「うん。前に靴拾ってくれたし、困った時はお互いさま」
「じゃ、お言葉に甘えて」
氷室君はそう言って、はにかむように笑った。連れ立って図書館を後にして、一つの傘に二人で身を寄せ合って入り、歩きだす。私が傘を持とうとしたら、「俺のが背が高いから」と言って、氷室君が傘を持ってくれることになった。
すっかり暗くなった外は、もうすでに街灯がちらちらと灯り始めている。月末にあるハロウィンのイルミネーションの置かれた店が通り道のところどころにあり、オレンジの温かな光を周囲に振りまいている。この雨と時間の遅さであまり人通りのない中を、一つの傘に入って歩いていく。傘を叩く雨音を音楽に、大学祭が近いねとか、大学祭でマドレーヌをいくつ作るかとか、サークルでは何をしているのかとか、本当に他愛もないことを話した。触れ合う肩は温かく、雨と外気による寒さも、あまり気にならない。氷室君との今までにないくらい近い距離に、よく考えたら大胆なことをしているな、と急に気恥ずかしくなって、つい少し俯いてしまった。
「靴、直ったんだね」
話題が変わって、ふと落ちる氷室君の視線を追えば、雨粒をはじく黒のパンプスを見ていた。彼があの時と同じ靴なのだということに気付いたことに、内心驚いた。
「あ、うん。修理に出してたんだけど、やっと直ったから」
「じゃあもう、シンデレラにはならないんだ」
「や、もう、あれは一刻も早く忘れてください……」
何度思い出しても恥ずかしいものは恥ずかしいものでしかなくて、確かにあれが第一印象では忘れたくとも忘れられないのはわかる。わかるけど、いや、わかるからこそ、早く忘れてほしかった。
「強烈だったからなー……忘れられないかも」
彼は、おかしそうに少し笑いを洩らす。普通に友人の彼女の友達、と紹介されるより何十倍も強烈な印象を与えることを否定できず、私は曖昧な返事をして言葉を濁した。
「それに、忘れたくないし」
「……え?」
彼が何気なく発した言葉が不思議で、つい聞き返してしまった。
忘れられない、ならばわかる。強烈な記憶は忘れられない。しかし、忘れたくないだと、彼が意識して記憶を残しておきたいということを示している。後々の笑い話のネタとして残しておきたいくらいの出来事だということだろうか。
私がそう思いながら聞き返すと、氷室君は不意に足を止めた。彼が止まると傘も止まる。私も合わせて足を止め、一体どうしたのかと思い彼を見た。外の暗さと傘の陰になり、細かな表情はよくわからなかったけれど、何かを迷っているような気配は伝わってきた。
「あー……えっと、急に言われて、困るかもしれないんだけど……」
体の向きを変え、私の方を向いて真剣な表情で見つめてくる氷室君に、何故かこちらが緊張する。何か、私のこれからを変える大事なことを言われる気がして、それに真摯に応えたくて、私も氷室君の方に体を向けた。
「俺、亜妃ちゃんのこと、好きだよ」
雨音が、遠のいた。
頭の中を一杯にしていた疑問符が、その言葉によって全部消される。
頭の中が、氷室君の声で、埋め尽くされる。
氷室君は言い終えた後、空いている右手で口元を覆い、視線を逸らした。イルミネーションに照らされるその顔は、赤みを帯びている。私は馬鹿みたいに、その様子を見つめていた。あまりにも驚きすぎて、彼から目が逸らせなかった。体の動かし方を忘れてしまったようで、もどかしいほど、呼吸すらも満足にできなくなっていた。彼の顔に穴があくほど見つめただろうか、ふと、傘を持つ彼の左手が、微かに震えていることに気付いた。
それを見た途端、固まっていた口が自由になった。
「私……も、です」
好き、という言葉だけは、恥ずかしくて言えなかった。胸の奥で一輪、赤い花が蕾をひらく。沢山の赤い花が、その花を中心に咲いていく。
「……本当? 本当に?」
口元を覆っていた右手が外れ、逸らされていた焦げ茶色の瞳が私を真正面から射抜く。私は数瞬前の自分がとても大胆な発言をしたように思えて、からからに乾いてしまった口を再びうまく動かせなくなって、精一杯、首を縦に振ることで答えた。
氷室君の表情が、ほどけていく。真剣な、緊張した面持ちは消え去り、心底安堵したような、いつものふわふわのタオルみたいにやわらかな笑みが戻ってきた。それを見ると、私の心はあったかくなって、私も顔が緩んだ。
氷室君は思い立ったように左右を見回し、何かを確認する。どうしたの、と聞こうとしたら、彼の大きな右手が私の頬を包み込む。傘の位置が低くなる。近づいてくる彼の顔を見つめることができなくて、私はきつく目を閉じた。
おでこに、やわらかい何かが、触れた。
温かな手が頬から離れるのを感じて、そっと目を開けると、氷室君は照れながらも笑顔で、こう言った。
「本当は抱き締めたかったんだけど、ね。帰ろっか」
触れられたおでこが、頬が、燃えるように熱くて、甘く痺れる。人に触れられることがこんなにも心地いいということを、初めて知った。その感覚が心に刻み込まれるのを感じながら、私は頷いた。
並んで歩きだすと、少し前より、世界が輝いている気がした。天から降ってくる雨も、それに濡れても温かな光を放つイルミネーションも、すべてがきらきらしている気がした。
このままずっと、駅に着かなければいいのにと思った。
駅に着いても、別れるのが惜しく感じられて、二人で並んで他愛もない話を続けた。
そういえば携帯電話の番号は交換してないね、という話になって、交換しようかということになり、携帯電話を鞄の中から探し出して取り出した。すぐに取り出せる場所にあった私は、氷室君がごそごそと鞄を探している様子を見て、待っていた。ジャケットの右肩だけが不自然に濡れているのが、目に留まる。
「あったあった」
氷室君がそう言いながら携帯電話を取り出すと、ストラップに引っかかって、何かが鞄から落ちた。
「あ、落ちたよ」
手を伸ばし、タイルの床に転がった黒いものを拾う。拾った黒く細長い、リモコンくらいのサイズのそれ。
「これ……傘?」
しまったと顔に書いてある氷室君を見て、疑念を確信に変える。少し青ざめ、視線を逸らす彼に傘を渡しながら、一応聞いてみた。
「なんで、嘘ついたの?」
「…………」
青くなっていた顔は、視線を泳がせて、口を幾度か開いたり閉じたりしているうちに、段々赤みを帯びてきて、仕舞いには真っ赤になっていた。
「……――から……」
「え?」
「……帰りに亜妃ちゃん見かけて、もしかしたら一緒に帰れるかなーって思って……つい、口が滑っちゃって……」
焦ったり、困ったり、普段以上にくるくると表情が変わる氷室君は、新たな一面を発見したようで、それが私は嬉しかった。
「ごめん。本当にごめん」
手を合わせて深々と頭を下げる氷室君を見ていたら、笑いがこみあげてきた。