14歳
約束通りに、リゼさんは物見の丘の木の下で待ってた。
赤いワンピースだけを着て、風にさらされるままにしている。優しい顔なのに、体温を感じない微笑み。なんだか彫像みたいだと思った。
きっと神様か何かなんだ。だって夜なのに、ここだけ明るくて全部が映えてる。
「まだ九時よ。随分早いじゃない。そんなに考える時間がほしいの?」
わたしはうなづく。あのとき聞いた声と全く同じだった。ぶしつけだけど、不快じゃない。高くて細い声が、わたしの心をくすぐる。ひんやりとして、気持ちいい。
「お話ならいくらでもしてあげるわ。大切な選択をするときだものね。
三時間。……そうね、三時間もあればいくらだって話せるわね」
わたしは思い返す。どうして、何のためにここに来たのか。
* * *
わたしはもやもやなんかを、石ころにまとめてぶつけて蹴った。そしたら、水溜りにぽちゃりと飛び込んでいった。
波紋が広がる。わたしの中に気持ちよく、ひんやりとした音が響く。
少し立ち止まって、その余韻に浸った。
雨上がりの曇り空。
世界で一番静かなひとときを、わたしは胸いっぱいで味わう。
――そうしたら、異世界が聞こえた。
「……受け止めたわ」
かすかに、かすかに。
高くて細い声がわたしに呼びかけた。
水溜りが、声帯を震わせてる。水面を揺らしながら、私に音を運んでる。
わたしは水溜りを覗き込んだ。
揺れる鏡の世界。だけど、その世界はここと違っていた。
その中で、わたしは水の妖精みたいな格好をしていた。
二人とも不思議そうな顔をしてるのは同じ。
でも、わたしはわたしじゃなくて、ここはここじゃなかった。
あっち側には、もっと不思議が詰まっていた。
光だとかシャボン玉だとかが、目一杯ちりばめられてた。
きれいな光景。向こう側のわたしは、ちょっと照れくさそうに笑っていた。
羨ましい。ずっと見てたい。揺らして損ねてしまわないように、わたしは身を固めて見守る。でも、あっちから勝手に揺れるんだ。曇って、向こう側のわたしは見えなくなる。わたしの努力なんて無力だ。
なんて賑やかな世界だ。
「いい蹴りだったわ。あなたの『思いっきり』を感じた」
これは誉められてるんだろうか。わたしはそっと『ありがとう』と呼びかけた。全然意味が分からなかったけれど。わたしの息吹に応えて、水溜りさんは震える。
「あなたはかわいい。だけど、うずくまってるわ。それがすごく惜しいの。こっち側で、もっと遊んでみない?」
すてきな姿をちらつかせながら、ゆらゆらとわたしに話しかける。
「こっちに来る方法があるのよ。でも、それは今のあなたにしかできない。この場所は分かるかしら?」
水溜りの中の誰かが手を振って、映る風景が切り替わる。その場所は、物見の丘の木の下だった。
「ここに、来てちょうだい。
時間は、あなたが14歳から15歳になる瞬間の零時に。
私の名前はレアリーゼ。リゼでいいわ。
聞きたいことがあるのなら、日が沈んでからずっとそこにいるから、早めに来てもいいわ」
今だってたくさん聞きたいことがあった。だけど、もう見えなくなりそうだった。雨がチラチラと、わたしの視界をさえぎる。
だから、一つだけ。『どうしてわたしなの?』、と聞いた。
「一番楽しい旅をしてくれそうだからよ」
見えなくなり始めた水面に、ぼやけてるけど誰かの笑みが見える。
きれいで涼しい笑顔だった。きっと声の人なんだろう。イメージにぴったりだ。
でも、その顔はすぐに雨で散々に踏みにじられて、分からなくなってしまった。
わたしはすがりたいと思った。そこに手を伸ばせば、何かが掴めると思ったんだ。
* * *
「気付いてる? 世界が歪み始めているでしょう。ここは現実と幻想の境界になってるの。刻限が近づくほど、あちら側に近づくわ。
ここからは月が明るくて、雲まで鮮明に見える。そろそろ月が増えるわよ。
ほら、お家も少しずつ歪み始めてるでしょ。そろそろお家は色を失うわよ」
雲が流れてく。見慣れてたはずの街が、姿を変えてく。
ここから下がったなら、世界は元に戻ってしまう。
ここから上ったなら、もっと世界は新しくなる。
「今のうちに振り返りたいことはある?
ここから先に行けば、引き返せないかもしれないから」
わたしはためらいそうになったけど、うなずいた。
いいんだと思う。
わたしには少しでも多くのものが必要なんだ。
そんな風にしたら、リゼさんは呆れたようにため息をついた。
「あなたはそこだけが気に食わないの。どこか素直じゃないのよ。あなたはもっと世界を自由にできるはずなのに」
わたしはちょっとうなだれる。確かにその通りなんだ。
「ふふふ。そうやってすぐ態度に出るから、かわいいのよね。
いいわ、私が選択を手伝ってあげる。
この腕を広げた範囲くらいなら、私は自由にできるの。あなたを映し出してあげる」
そう言って、リゼさんはわたしの肩を掴む。
戸惑うわたしを引き寄せて、
わたしに――
――キスをした。
舌が入ってくる。わたしと絡もうと、押し込んでくる。濡れた先が触れ合う。体温の違いが伝わる。リゼさんは、意外と熱い。わたしはされるがままだ。だ液を押し込められて、吸われる。わたしは溶かされそうになる。頬が熱くなって、めまいがする。息が続かなくなって、視界がくらんでくる。よろけながら、わたしはようやく解放される。
糸が引いて、リゼさんとわたしはつながったまま。
リゼさんはうっとりと呟いた。
「うん。少し分かった気がする。
じゃあ、映すわ。
だけど、これはね、私だけの力じゃない。
これがあなたがこれから手にしていく魔法なの。
私がこれから映すのは、あなたの原風景。
あなたは今まで、どんなものを感じてきたのでしょうね」
白い天井が広がっていく。
わたしは落胆する。これが私の原風景なんだ。
何もない病室の中で、わたしは手を伸ばしていた。
ぎぃとベッドがきしむ。そのままわたしは何も掴めずに手を下ろす。
見てられなかった。だけど、確かにこれはわたしだろう。
すごく惨めだ。
「つらそうね。でも、目を背けちゃ駄目よ。
まだ、あなたの渇きは始まったばかりなんでしょう」
その言葉に、わたしはぞくりとした。
だけど、リゼさんは労わるような優しい目つきをしていた。
わたしには分かった。この人はわたしの風景を悪いようにはしないと。
だから、わたしは安心して次を委ねようと思った。
今度はグラウンドだ。
わたしは目をつむりたくなる。
かけっこだろうか、マラソンだろうか。
わたしは追いつこうとするけど、みんなが先に行ってしまう。
だけど、待ってもらうのも申し訳なくて、わたしは差し伸べられた手をゆっくり払う。
そして、わたしはさらに遅れていく。泣き笑いしながら、みんなを見送る。全然平気じゃないのに、『大丈夫』とつぶやく。
「そう……。これは切ないわね」
ようやく外に出ても、わたしには何もなかった。
話す材料も、したいことも、伝える方法も。
隙間を埋めるための何かが欠けていた。
だから、空っぽはそのままで満たされない。
「もういいです!」
思わずわたしは叫んでしまった。
鮮やかすぎる思い出の情景は、急に真っ暗になる。
わたしが幕を引いたんだ。
「ずっとこうだったから。そしてこの先もきっと変えられないから。
だから、違う世界で探したいと思ったの。
わたしには何もなかった。それに、どう伝えていいか分からなかった。
だから、いつも誰にも近寄ることができなかった。
『ない』と見抜かれるのが怖かった。
それを実感して、自分が空っぽだって思うのも嫌だった。
そして、わたしには空っぽをごまかすことさえできない。
だから、遠ざかろうとしたの。
でも、あんなきらびやかな世界なら、きっと見つかるって思って。
この胸一杯に光の粒を抱いていられると思って。
自分だけしか知らないものを大切にしていけると思って。
向こう側は願いがかなう場所に見えたの。
だから、ここから旅立ちたいって思ったの」
行き場のない言葉をぶつけて、わたしは息がきれそうになる。
もうすぐぜんそくが来る。
外の世界だけじゃない。わたしは、わたしからさえ不自由。
「うん。だから、あなたを選んだのよ」
リゼさんは寂しそうに微笑んだ。
わたしを知ってるみたいに、寂しそうに。
「でもね、私が気付いてほしいのは、そんなことじゃない。
さっきは、わざとつらいものばかりを映したの。
あなたにしっくり来る様に。
これがあなたのこれまでの魔法だったんだ。
だから、これ以上は見せられない。
これからはあなたが作っていくんだから」
リゼさんは指を弾く。
黒が晴れていく。明るい夜がまたやってくる。抜けるように白い雲がまぶしい。
もうわたしの街は原型を留めていない。わたしの知らないものへと、変わっていく。
地面なんていらない。空を飛べばいいから。できるだけ、遠くへ、……遠くへ。
「……まだ勇気が出ないのね。
じゃあ、分かった。特別に私の魔法を見せてあげるわ。
私はこれで卒業。だから、変なことをしても叱られやしないんだから」
リゼさんは目を閉じて祈る。
世界がまた黒のスクリーンに置き換えられる。
そして、あのときの水溜りがよみがえる。
あちこちに波紋が広がる。
黒が揺れては、薄められる。
鮮やかな情景が広がっていく。
たくさんのものが見えた。
花畑、湖、山の緑、帰り道、続く白、雨の静けさ、夕焼け、車に電車、愉快な仲間、暖かな街、親子、兄弟姉妹、従兄弟に従姉妹、誰かの歌声、人形、積み木、翼、絨毯の染み、ささいな後悔、無力感、ささくれ、淡い恋。
全部が漠然としたイメージだった。
でも、そのどれもがわたしの知っているもののような気がした。どこかで見聞きしたものだった。その場所に行きたいと思うような情景だった。
これがリゼさんの原風景なんだろうか。それに比べて、わたしはなんて乏しいんだろう。
また、わたしは空を飛びたくなる。
「まちがえないで。原風景は自分だけの狭い世界のものじゃない。
憧れでもいい。よく見る夢のことでもいい。何もなくたっていいの。
全部知らなくても、世界と心を揺らすものはたくさんある。それを少しずつ、自分のものにして、形にしていく。
それが、あなたがこれから知っていく魔法なのよ」
でも、本当にわたしにできるのだろうか。
「あなたには白がある。叫びたくなるほどに底なしの白があるの。
だから、いくらでも塗っていけるわ。そこに一つ一つの印象で、緋や蒼や碧を加えていく。上書きはできないけど、積み重ねることはできる。
それを連ねて、綺麗な黒を作るの。そして、その黒はたくさんの色の引き出しになる。そこから何だって作れるのよ」
空を歪めれば歪めるほど、わたしは異世界に近づいていった。
底なしの世界。
どこから始まって、どこで終わるのか。
分からないくらいに平らで、果てしない奥行きのある世界。
「あなたなら、たくさんのものを見つけられると思う。
そして、いろんなものを見せられるようになってほしい。
約束なさい。
あなたはもっときれいなものを、画けるようになる。書けるようになる。奏でられるようになる。
その魔法を学ぶために、これからあなたは旅立つの。
すてきなものをたくさん見つけて、きれいな飾り方を知っていくために」
わたしは怖くなってきた。そんな約束なんてできない。
期待をさせて、失望させるのは嫌だ。
足りない場所でもいい。密やかな楽しみでも暮らしていこう。
わたしはこっそり脱出しようかとも思った。
「逃げることはもう許さないわ。
私はあなたに見出したの。
タダで自分の道を示してもらえると思った?
世界の裏の反対側からここまで来てみなさい。
そしたら元の世界に戻れるわ。きっとあなたにならできる」
時計は十一時を指していると安心してた。
だけど、リゼさんが指をかざしてちょきんとすると、世界は急に動き出した。
三日月が回る。それと一緒に時計の針が加速していく。
そして、月は止まる。
時計も一緒にあと少しで零時になりそうなところで止まった。
わたしはドキドキしてきた。ぜんそくの発作なんて忘れてた。
確かにずっと憧れてたんだ。
憧れにすら臆病になってたけど、確かに憧れてた。
いつももう少し伝えられたらと思ってた。
この空みたいに鮮明に、だけど広がりを持って、何かを伝えられたらと思ってた。もっと表現できるようになれたら、どんなにいいかと思い浮かべる。
そうしたら、わたしは前に進めるんだろうか。
白いキャンバスに虹色を画いて、やがて鮮やかな黒を見出せるのだろうか。
いつでも、誰にでも、どこでだって、わたしは誰も傷つけずに、わたしを伝えられるようになるんだろうか。
そうできたらな、と思う。そのために、世界にわたしを投げ出してみるのも、悪くない気がしてきた。
「さあ、時間よ。あなたにとって最も長い一分間が始まるわ。
14歳の最後の旅。そして、早く15歳になるために。
いつかこうしてあなたも誰かを導くのよ。
あなたの見せられる希望を全て伝えるの。
そして、この時間は連綿と繰り返される。
世界中が原風景で埋め尽くされるほどに、私たちは影響力を行使していくの。いつでも思い出せるように。大切だと気付けるように」
わたしにとって、この言葉が道しるべ。
だから胸に刻む。そうなったらなと思う。
何も伝えられないくらい拙い人たち。
わたしと思いを同じくしている人たちを、いくらでも救えたらいい。
たくさんの手段を見せて残すんだ。
そうすれば、わたしにもできそうと一歩踏み出してくれるかもしれない。
空が澄み渡る。わたしはその果てに吸い込まれる。
まるで鳥になったみたいに、わたしは飛んでいく。
「世界の反対側に着いたら、また人の姿に戻れるわよ。
それまでたくさんの風景が見れるわ。堪能なさい」
リゼさんが見送っていた。
勤めを果たし終えたような清々しいような顔で。
わたしもあんな風に何かをもたらせる様になりたい。
全身ではばたきながら、わたしはその方法を感じ始めた。