タイトル未定2026/10/25 17:44
ラジオだ、と思ったのも束の間、私はイヤホンをしていないのに気がついた。
それどころか、ラジオさえ持っていない。
遅い午前の電車は空いていて、長いシートに座る私の目の前の女性は目を閉じていた。
流れる会話を停止するボタンはどこだったかと考える頭を振る。
少し離れて座る二人組が話している様子が目に入ったが、彼らの会話だとしたら、内容がどうにも変だ。
パーソナリティが何かの実況をしている。
よく聞き取ろうと耳を澄ますが、聞き取れるようになる前に目的の駅名が聞こえた。
通ったはずの駅の名前を聞いた覚えがない。
居眠りをしていたようだ。
実況は夢の続きか。
身の回りを確認する。
散らかしてはいないが、忘れ物がないように気を配る。
お土産が入った紙袋を握った。
電車が緩やかにブレーキをかける。
今日は祖母の家に行く。
毎日の長時間に及ぶ残業と上司による締め付けで精神に異常を来たし、休職している私の、リハビリのひとつだ。
祖母の家行く時は、美味しいお菓子を持って行くと決めていた。
少し高価で見た目が凝っているものが喜ばれた。
今、紙袋に入っているのは金沢の落雁で、見た目は華やかではないが味がいい。しっとりとして黒蜜の味がして、まるで葛餅でも食べている気分になる。
随分前に金沢に旅行に行った際見つけたものだ。
金沢でしか購入できないと思っていたのだが、東京のデパートで見つけた。
思わぬところで見つけて嬉しくなって買ってしまった。
けれど、他人に持っていくお土産としては間が抜けているかもしれない。
何せ金沢に行ってきたわけではないのだから。
つんのめるような力がかかった。
電車が止まる。
実況は止まない。
窓越しにホームを見やると、赤いタチアオイが鮮やかに咲いていた。
降りないんですね。
不意にはっきりと聞こえたその声は、私を嘲るようだった。
実況は、私の実況だった。
ボタンを押して扉を開きホームに降り立つ。
生温い熱気が私を包んだ。
影が濃い。
階段を登り、改札を出る。
レンガ造りの立派な駅舎は、色褪せた周りからは浮いて見えた。
アスファルトの舗装だけがやけに新しい道を行く。
逃げ水を追いかける。
被っている帽子を脱ぎたかったが、頭が焦げて体調を崩すのがわかっているので我慢する。
日傘なら風が通ったなと思いついて、行方のわからなくなったそれを思い出す。
レースの柄にツバメの刺繍が施された可愛い日傘だった。
交番に紛失届を出したが、今もって連絡はない。
傘なんて早く買えばいいのにね。
お金ないのかな。
帽子があるからいいんじゃない?
昭和に建てられたであろうコンクリートの建物が並び、その軒先に鉢植えが置かれていた。
鉢植えの植物は瑞々しく葉を伸ばしている。
けれど、薄い葉っぱだ。午後になれば萎れてしまうだろう。
悲観的。
目の前には早くも萎れた葉が浮かんでいる。
そんなこと、わからないではないかと言い聞かせながら、ついさっき水をもらったばかりであろう花の、水滴が光るのを蹴り上げた。
薄い花びらが千切れた。
罪悪感が湧き上がった。
あーあ。やっちゃった。
ひどいですよね。
目に力が入ってきた。
大通りの交差点が見えてきた。
ここには自転車用の横断歩道しかない。
すぐ近くに歩道橋があるが、階段を上り下りするのが面倒で、交差点を渡った。
ルール無視。
規則に細かいくせに。
こういうところが、ね。
頭の中の声は、だんだん非難が多くなってきている。
交差点を渡れば、もうすぐ祖母の家だ。
渡った先にまたすぐある十字路を左に曲がる。
紫陽花が群れている。
その横は湿っぽい匂いがした。
もっさりと首を垂れる紫陽花は濃い影を落としていて、その緑陰に白猫が見えた気がしたが、いつの間にかビニール袋に変わってしまっていた。
しばらく日向の道が続く。
右手に市役所を望みながら歩く。
芝生の庭に松と棕櫚が交互に植っていて、その間をクチナシが埋めていた。
クチナシは花が咲いていたが、茶色くまだらになっていて汚らしい。
漂う甘い香りは、まだ傷んでいない花からだろうか。
まだ夏至にもならない季節、日差しは爽やかでいいような気がするが、刺すような痛みしかない。
顔を上げて見れば、正面に小さく寺の門が見えた。
あの門の板塀に沿っていけば祖母の家だ。
電車の中から聞こえていた実況は、人数が増えて噂話になっていた。
私を嘲笑する人の群れがどこにいるのか見当たらないが、遠くでも近くでもない。
調子、悪そうじゃない?
表情なくない?
体がこわばってきている。
声ははっきりと聞こえた。
耳と頭が埋め尽くされている。
無視できない。
右手を上げましたよ。
日差しは私の腕を刺すようだ。
今度は左ですね。
いつに間にか歩みが止まっていた。
気がついたが一歩が踏み出せない。
そのうちに人が前からやってきた。
白い日傘を差している。
その人は近づいてきた。
随分年上の女性だった。
「あなた、大丈夫?」
「え」
目を開けたら天井だった。
白檀の匂いがする。
視界の端に白いタオルの影がある。
あの後、私はめまいに襲われて道にうずくまってしまい、声をかけてくれた女性に支えられて、寺に連れてこられ、休ませてもらうことになったのだ。
顔を横に向ける。
タオルが落ちた。
どっしりとした腰が見える。
この量の感じは祖母に違いない。
不明瞭な私の言葉から、私の祖母に行き着いた住職が呼びに行ってくれたようだ。
「おばあちゃん」
「起きたんか、良かった」
祖母は、まだ寝てな、とそこまで言って湯呑みに手を伸ばした。
頭に中に響く声は遠雷のようになっていた。
去り際なのか、また来るのかは分からない。
「お茶飲むかい」
「うん」
祖母が空いた湯呑みにお茶を注いでくれる。
起き上がって湯呑みを受け取る。
白檀の匂いとお茶の匂いが混じった。
お茶は冷たかった。
「無理して来なくていいんだよ」
「うん」
会話もなく、ぼんやりしていた。
しばらくすると閉まっていた障子が開いて、住職が顔を覗かせた。
「どうも助かりました」
住職が何かいう前に祖母が言った。
「はいはい。もう大丈夫なん?」
「ええ、おかげさまで」
祖母が答える。
私は頷いた。
「すみません。ありがとうございました」
なんとかそれだけ言って頭を下げた。
「いやいや。大したことないよ」
住職は朗らかに言いながら微笑んだ。
「そろそろ行きますので」
祖母が言いながら手荷物をまとめ始めたのでそれに倣う。
「もう少しいても大丈夫ですよ。適当に帰ってもらったんでいいですから」
「いいえ、近くですから」
祖母の声が明るい。私も微笑んだ。
「あとこれ、よかったらあがってください」
言いながら立ち上がった祖母が差し出したのは、私が持ってきた落雁だった。
祖母と一緒に食べようと思っていたのだが、住職に渡ればそれはできない。
しかし、助けてもらった手前、何も言えない。
「あれ、なに」
住職は一瞬考えた様子で頭に手をやったが、何か思いついた顔つきで
「それじゃあ」
と受け取った。
祖母は満足そうに頷き、私を振り返った。
「じゃあ、行くよ」
手を引かれて寺を出る。
住職は玄関まで見送ってくれた。
礼を言いながら再び頭を下げる私に、また朗らかに
「お大事にね」
と微笑んだ。
祖母も礼を言っていた。
祖母の家に向かう道々、祖母が寺に来るまでのことを話してくれた。
「びっくりしたよ」
聞いていると、私に声をかけてくれた女性は祖母の知り合いだったそうだ。
ようやく祖母の家に着いた。
時計の針は十三時を少し回っていた。
「すぐできないけどさ、お昼、食べるだろ」
言われてみれば、お腹が減っていた。
「うん。お腹減った」
素直にそう口にすると、
「何か口に入れていな」
と、祖母は言い
「何かあったかなぁ」
と独り言を言いながら茶箪笥を探す。
すぐに松露が出てきた。
白い豆皿に出してくれた。
私は口に放り込む。
それは、クチナシの香りほどに甘かった。




