貴方に決定権はありませんが?
ハドリー・ホールデンはとある侯爵家の嫡男です。
そして私――イースデイル伯爵家が長女、エイヴリルの婚約者です。
しかしながら互いの仲は壊滅的でした。
政略的な理由だけで結婚相手が決まるというの貴族社会ではよくある話。
物心ついた頃から貴族令嬢としての在り方を学んできた私は将来の婚姻についてある程度割り切っていました。
けれどハドリーは違った。
ホールデン侯爵夫妻は初めて生まれた息子を甚く可愛がったのでしょう。
お陰で生まれたのは傲慢で頭の悪い……あら失礼、身の丈以上に驕り高ぶった浅慮で愚かしい男でした。
さて。私達が婚約したのは十歳の頃。
それから今は六年が経過し、その間に成人した私達は王都にある王立魔法学園へと在籍しております。
そんな中、私はある噂を耳にしました。
***
「ハドリー様が浮気しているって」
学園の図書館。
その片隅で読書に耽っていた私へそう声を掛けたのは学友で変人のウィル。
ウィルは愛称で、名はウィリアムといいます。
彼は同じ学園に通う同級生ですが、この王立魔法学園は非常に生徒数が多く、専攻が異なるだけで接点が皆無となる事も珍しくはありません。
そんな中で互いに専攻が異なる私とウィルが親しくなったのは、私達が良く図書館で時間を過ごすという共通点があったからでしょう。
後は、ウィルのお喋りで初対面にも物怖じしない性格によって半ば無理矢理会話相手として巻き込まれた……という経緯もありますが、詳しくは機会があればお話ししましょう。
さて、このウィルという男。
さらさらとした茶髪に瓶底のような分厚い眼鏡、そして聞き心地の良い柔らかく穏やかそうな話し方が特徴的な彼ですが、実は相当優秀な生徒であったりします。
魔法の効果を秘めた道具――魔導具の製造を主なカリキュラムとする、魔法工学専攻の生徒であり、試験では常に首位を維持する程の実力者。
彼が掛けている眼鏡も実は魔導具で、レンズの色を変えたり、レンズ上に様々な絵を浮かび上がらせることが出来るとか……眼鏡の機能としてはあまりに汎用性がありませんし才能の無駄遣いと評価せざるを得ませんが、学生にして一人で道具を発明してしまうその腕前は確かなものといえるでしょう。
まあそのお陰で、私は彼の素顔をきちんと見た事がないのですが。
彼のレンズは常に白く塗りつぶされており、通常時はぐるぐると渦巻きが描かれていますし、彼の気分で渦巻きがにっこりマークやじとりという目つきの絵に変わる事もありますが、その時だって常にレンズの背景は真っ白な訳です。
それでいて、何故かウィル側の視界には一切影響がないというのですから、やはりこのような不可思議な現象を可能にする彼は非常に聡明なのでしょう。
……のほほんとした空気と、いつでも頭にお花が咲いていそうなマイペースさは、時としてその事実を忘れさせそうですが。
「知っているわ」
さて、お話を戻しましょう。
ウィルの言葉に私は短く返し、本へと視線を戻します。
ハドリーの浮気。これは当事者である私の耳にも届く程、学園中で広まっている話でした。
お相手はライラ・オクスリー男爵令嬢。
商家から成り上がった貴族の家のご令嬢です。
侯爵家の嫡男であるハドリーとの身分の差は大きいものですが……彼女は同性すら認める美貌の持ち主でした。
「あ、そうなのか。それにしては随分落ち着いているね……。いいの? 放っておいて」
「私と彼の折り合いが悪いのは、今に始まった事ではないのよ」
「折り合いが悪いとか、そういう問題ではないんじゃあ……。君を蔑ろにしてるって事だろ?」
「ただ私が正論を突き付けただけでは、彼は動かないわ。寧ろ私が妬み僻みで彼の交友関係を壊そうとしていると、そう言い始めるでしょうね」
「なるほど、話が通じないんだ……おっと」
ウィルはハッとすると、慌てて自分の口を押えて辺りを見回します。
「周囲に人はいないから大丈夫よ」
彼が平民である事を私は彼自身から聞かされていました。
王立魔法学園には様々な身分の学生が通っていますし、表向きは生徒平等を謳っていますが、とはいえ位の高い出自の者を悪く言う事は良しとされていません。
それ故に己の失言に焦りを見せるウィルを安心させる為の言葉を私は伝えます。
私達がいるのは図書館の中でも随分端の方。
殆どの生徒は中央に備えられた大テーブルを使うので、そもそも人気が少なくありますし、比較的近くを行き来している生徒達も自分達の用事や目的で頭がいっぱいのようで、一生徒の発言など気にしている様子はありません。
その事実に遅れて気付いたらしいウィルはほっと胸を撫で下ろしました。
こういう詰めの甘さを見ていると、本当に学科一の天才なのか疑わしくなりますが、そういった事を言うと分かりやすく落ち込むのがウィルという男なので、この考えを口に出すのはやめておきます。
「それに貴方は知らないと思うけれど、貴族社会は未だ男尊女卑の考えが根強いのよ」
「そうなんだ。もう何十年も前に国が平等を謳い始めたって話なのに……」
「半分以上の家が考えを改めつつあるけれど、それでも女性の立場の弱さはまだ消えていないわ。正攻法で彼の非を訴えるのでは、女性側の私は勝てないのよ」
「じゃあ……僕の口添えがあったら?」
「……貴方って本当に学科の首席なの? 平民の男児は当然、貴族の令嬢以上に話を聞いてもらえないわ」
「ああ、そうか。残念」
ウィルの世間知らずな発言は、時折こうして私を驚かせます。
彼は根っからの研究者であり、世間には興味がない質なのかもしれません。
彼の眼鏡が『しょんぼり』と名付けられた目の形を映し出しました。
「王族の一夫多妻制が廃止されていないように、男性の貞操が女性の純潔程重要視されない風潮は残念ながら残っているわ。だからこそ、私が彼を『浮気如き』で責めた所で、彼を裁くような事にはならない……彼の家の方が、我が家よりも上でもあるし」
「そういうものなんだね」
「ええ。周りは同情してくれるでしょうけれど、それまででしょうね。だから浮気をしている事のみを訴えるのは望ましくないわ」
私はそう応えて笑みを深めます。
恐らくは、私の今の機嫌がその笑みに乗ってしまっていたのでしょう。
ウィルの眼鏡に映る目が『瞬き』を繰り返しました。
「法や常識がそもそも平等でないのなら、何も馬鹿正直に正攻法に則る必要はない……そうは思わない?」
「法律を破るって話?」
「いいえ。……見方を変えるのよ」
ウィルが首を傾げます。
詳細を語る事を促すようなその動きに乗じて、私は話を続けました。
「ハドリーが、自らの浮気を正当化しようとしているのは知っている?」
「ああ、君がライラ様を虐めているとか、悪女だとか……そういう話? ハドリー様とライラ様がそう言いふらしてるって、浮気の話と一緒に回って来たよ」
「そう。そしてその噂通りだと、私はどうやらライラを階段から突き落とそうとした、殺人未遂罪を抱えた令嬢みたいね」
「そんな馬鹿な」
荒唐無稽な話にウィルがけたけたと笑いました。
ついでに彼の眼鏡の絵柄も、持ち主の反応にあわせて変わっています。
彼の反応につられて私も笑みを深めてから、机の上で手を組みながら自分の考えを整理していきます。
「ただの浮気なら、騒ぎ立てても大した問題にはならなかったでしょう。けれど殺人は当然、重い罰を強いられる罪。それを身分が上の人間が擦り付けようとするのならば……過剰な程に自衛に徹したとて足りないくらいだわ」
我がシトリラ王国の法は、身分が高い者が有利に働くものとなっている。
故に、高貴な立場の者の罪は揉み消されやすく、彼らが擦り付けた罪は成立しやすいのです。
たとえハドリーが軽い気持ちや浅はかな考えから悪意ある噂を流していたとしても、それはただの嫌がらせには留まらない。
下手をすれば私や家全体の生活すら奪われかねない行いです。
まあ要するに――私はこれらを理由に過剰防衛に徹する正当性を得た、という訳です。
相手が優位に働く場面で守りに徹するのは至極当然の選択。誰も責めはしないでしょう。
立場が弱いものには、弱いなりの戦い方がある。これこそが現在の法の真理です。
「一見すると軽く見える罪も、見方を変えれば大小を容易にひっくり返し得るものよ」
「それは……今回の浮気の件を、罰するに値する罪に出来るということ?」
「少なくとも二人の立場は悪くなるでしょうね」
さて、と私は手を軽く打ちます。
「そろそろ、読書に戻らせてもらえる?」
「ああ、すまない。今日はついつい長話をしてしまったね。今日は……魔力量による特異体質について読んでいるんだね」
「ええ」
私達が魔法を使うには、魔力という体内エネルギーを消費する必要があります。
体内で生成、貯蓄できる魔力量には個人差があり、一定以上の規格外の魔力を保有できる者は他者とは違う特徴が容姿に現れるのですが……現在、その特徴を持つのは王家の血を引く者だけとなっています。
王族だけが燃え盛る炎のように煌々とした、そして宝石のように澄んだ赤い瞳を持っており、これが『魔力量による特異体質』というものである……そのような事が小難しく書かれた本が、今日の私の読書のお供でした。
「君の専攻は、魔法医学じゃなくて総合魔法学だろうに」
「幅広く知識を持っておくのは良い事よ。思わぬところで使えるものだから」
「ふぅん、そういうものか」
発明特化の貴方には分からないでしょうね、と私は笑って返すのでした。
***
数日後。イースデイル伯爵家のタウンハウスにて。
「全く、お前の言う通りだとは」
そう頭を抱えるのは私の父でした。
父の大まかな仕事は伯爵領の統治と鍛冶ギルドの統括。
我が伯爵領は資源が豊富であり、昔から武具の職人が集まりやすい為、国の軍事の一端を担っているのです。
「オクスリー商会を中心に、戦に備える動きが広まっているらしい。武具の売買や非常食の調達など……調べてみれば、間もなく戦になるだろうと言いだしたのはオクスリー男爵だとか」
「まあ、困りましたわね」
私は白々しくとぼけてみせます。
その視線の先で、父は長々と溜息を吐きました。
「お前の進言通り、私はホールデン侯爵には一旦『隣国の侵攻に備える必要があるかもしれない』と告げただけだ」
最近、我が領の財政は非常に安定しており、武具の製造量も増加しました。
これを受け、父は国に、今最も守りが薄い東方の国境沿いの防衛力を高める進言をし、その許可が下りたのです。
そしてその東方の国境沿いの領地を治めているのが、ホールデン侯爵――ハドリーのお父君。
東端の国境を管理するホールデン侯爵家は多くの兵力を備えてはいますが、その分武具が定期的に必要となります。
その際に大半の武具を供給しているのが、ホールデン侯爵領から比較的近くに領地を持っている我がイースデイル伯爵家なのです。
両家は所謂ビジネスパートナーであり、その協力関係を強固なものとするべく私達の婚約は結ばれた……のですが、それも今まさに破綻が決まりそうです。
「戦や軍が絡む情報は当然機密事項だ。国からも今回の軍備拡張の予算が定まるまでは関係者……今回でいえば我が家とホールデン侯爵家までで話を留めておくようにと指示を受けている」
「困りましたわね。我が家とオクスリー男爵は何の繋がりもないのに加え、ホールデン侯爵家は……残念ながら社交界でも広がりつつある、ハドリーとライラ様の醜聞がございます。両家で内密に交換されていた情報を聞きかじったものの、正しく理解出来ないままに浮気相手に話してしまった何者かの仕業としか考えられませんわね」
いけしゃあしゃあと、用意された筋書きを読み上げるように私は父へそう話します。
父はすっかり頭を抱えておりました。
「まさかホールデンの嫡子がここまでの大馬鹿者であったとは」
我が国では成人は十四から。
既に大人として扱われる私やハドリーが両家が絡む機密について聞かされるのも、知っているのも問題ではありません。
問題だったのは……それを聞いた者が状況や情報を正しく見極める力を持っていなかった事、そしてあろう事か自分の自己顕示欲と色恋の為に機密事項を浮気相手へ流してしまった事。
ハドリーは『隣国の侵攻に備える必要があるかもしれない』という我が家からの報せを知り、『隣国と戦になる』と誤認した。
そしてそれをライラの気を引く為に彼女へ流し、ライラはそれを商人である父、オクスリー男爵へ流した。
そしてオクスリー男爵はこれを商機と捉え、即座に自らの商会の商品を偽りの情報と共に売り出した……これが事の顛末です。
私はホールデン侯爵領の軍備増強の話を聞いた際、事前にお父様に助言をしておりました。
最初に軍備増強の話を伝えるのではなく、一度それを仄めかす程度の言葉を送ってみて欲しいと。
父が先ほど言った『隣国の侵攻に備える必要があるかもしれない』という、何とも曖昧な言葉は私の根回しによるものでした。
当然の事ながら、国の機密が漏れれば一大事です。
それを未然に防げるのであれば、それに越した事はありません。
そして私は長年の付き合いから、ハドリーという男の浅はかさと教養のなさを知っていました。
だからこそ、このような曖昧な言葉だけを受け取った彼がどのような捉え方をするのかも理解しておりました。
ですから父に告げたのです。
『ハドリーは国の機密を流しているかもしれない。それを試すいい方法がある』……と。
結果は、見ての通りです。
「良かったですわね、お父様。可愛い娘を浮気性の男の元へ出さないで済む言い訳が出来ましたよ」
「ううん……ああ、それはそうなんだが」
ハドリーの醜聞には父も頭を悩ませていました。
これまでは両家の身分差や女性の立場が冷遇されやすい情勢のせいで、泣き寝入りするしかないのかと苦しんでいた父。
そんな父に、笑顔でそう告げれば、彼は困り果てたように頭を抱えました。
「……これでは婚約解消どころか、ホールデン侯爵家が消えてしまうぞ…………」
やり過ぎではないかと父はハラハラしていますが、機密情報を言いふらす息子を教育しなかったのも、彼を世継ぎとして選んだのもホールデン侯爵夫妻の落ち度。
私に対する殺人未遂の話が無くとも、私が敢えてハドリーの無能さを炙り出そうとしなくとも、遅かれ早かれ、迎える運命は同じだった事でしょう。
***
「――エイヴリル・イースデイル! お前との婚約を破棄する!」
さて、その数日後の事。
突然学園の裏庭へ呼び出された私は、ライラを連れたハドリーから声高らかにそのような事を言われます。
「お前はライラを虐め、挙句の果てに彼女を殺そうとした! お前のような罪人とは即刻婚約を破棄し、すぐに国へ訴えてやる!」
何故彼らがまだ捕まっていないのか。その理由は明白です。
国の調査やら処理やらがまだ終わっていないのでしょう。
重大な事ほど手続きや確認に時間が掛かるものですし、仕方ありません。
ホールデン侯爵家やオクスリー男爵家は何も気付かず日常を送っているので、猶更焦る必要がないのです。
とはいえ、そろそろ国から騎士団が派遣されて一家丸ごと取り押さえられるであろう頃合いかとは思いますが……。
……と、考え事をしている場合ではありませんでした。
今は目の前で勝ち誇ったように笑っているこの男の対応をしなければ。
とはいえ難しい事は何もありません。
「婚約破棄、ですか」
私は首を傾げます。
全てを知っているので当然笑う余裕もあるのですが、ハドリーは侯爵家の者からいわれない罪を着せられて笑っていられる伯爵令嬢の様子が不思議で仕方ないのでしょう。
「な、何がおかしい!」
「失礼、おかしくない場所がありませんでしたから」
カッと頭に血を上らせるハドリーを見て、私は笑みを深めます。
「貴方に決定権はありませんが?」
「……は?」
「婚約解消を突き付けるのは、こちらだと、そう申しております」
「な、何をふざけた事を――」
「ただの浮気なら、まだよかったものを」
私は淡々と話を続けます。
余裕ある私の姿を怪訝に思ったのか、ハドリーは思わずといった様子で口を噤み、私の話に耳を傾けました。
「間もなく戦になる、と……そちらの女性に話しましたね?」
「そ、それを何故……!」
「オクスリー男爵は商売で貴族となったお方ですよ。そんな人物が大々的に武具を売り出せば、噂も大きく広がるものです。問題なのは、その情報の大本が国の機密事項であり、おまけに――誤った情報であったという事です」
機密事項を流した。この件について白を切ろうと口を開いていたハドリーは次いで私が言い放った言葉に唖然とします。
「戦が起こるなどという根拠はありませんよ」
「だ、だが確かに……!」
「『隣国の侵攻に備える必要があるかもしれない』……こんな曖昧な言葉でよくも、そのような勘違いを――それも自信を持って流せたものですね?」
その言葉を聞いた瞬間、彼は漸く事の真相を理解したのでしょう。
しかし当然、今更彼にできる事などある訳もございません。
――たかだか浮気をしただけ。
彼にとってはその程度のつもりだったのでしょう。
けれどその浮気の為にした事が引き金となった。
たかだか浮気。
しかしそれすら、別の要因が重なれば大罪となりかねない。
浮気の為に私へ擦り付け、社会的な死を目論んだことに加え、国家の機密漏洩。
浮気という事象単体ではなく、そこに絡んだ様々な要素を俯瞰して見るだけで、罪の大小は容易にひっくり返る。
そして重要なのは、罪を犯した者はそれまで有していた権利を奪われるという事。
罪を犯した者に決定権はない。
罪を犯した者の命運を決めるのは、いつだって他人なのだから。
「もう一度言って差し上げましょう」
故に、今目の前に立つ罪人には――
「――貴方に決定権はない」
しんと、辺りが静まり返ります。
しかしそれも数秒の事。
やがて絶望からか、ライラはその場に崩れ落ち、大きな声で泣き出しました。
そんな彼女を尻目に、私は顔を真っ青にしたまま立ち尽くすハドリーへカーテシーを披露する。
「では、ご機嫌よう。――元婚約者様?」
「え、エイヴリルゥゥゥゥゥウウウッ――」
彼に背を向け、その場を去ろうとした時でした。
私は背後から途轍もない敵意と、突風を感じます。
何やら嫌な予感がして、まさか彼がこの場で私を害する為に魔法を使おうとしているのでは……等という考えが過りました。
その時の事です。
「あれ、エイヴリル?」
建物の陰から裏庭へ、顔を覗かせる人物が一人。
ウィルです。
渦巻きが描かれた眼鏡越しに、私を見やった彼は、この殺伐とした空気など微塵も読めていないといった様子で、いつも通り私へと近づきます。
「やあ! 丁度よかった、ちょっと新しく開発した魔導具の感想を聞かせて欲しいんだ」
「え、ちょっと、ウィル」
そう言った彼は私の腕を力一杯引っ張ります。
咄嗟の出来事だったので、私の体は当然傾きました。
転んでしまう――そう思ったのですが、地面へと傾いた私の体はウィルによって受け止められます。
「おおっと、ごめんよ。急に引っ張ってしまったから……」
(……あれ)
マイペースでのんびりとした彼の声を聞きながら呆れていた時。
私はふと、背後から感じていた危機感が掻き消えたのを感じました。
念の為後ろを確認するも、顔を青ざめた二人がこちらを見ているだけです。
ハドリーは何かをしようと手を伸ばしていましたが、特に魔法などがこちらへ放たれる様子もありません。
その事に少々安堵してから、私は未だ自分を抱き寄せたままのウィルの腕を軽く叩きました。
「……いつまでそうしているの」
「ああ、ごめんごめん」
謝罪と共に私から離れたウィルは、眼鏡を掛け直していました。
恐らくは、私を受け止める時にずれてしまったのを直していたのでしょう。
どうやら私は、彼の素顔を見る好機を逃したようで、何だか少し惜しいような気がしました。
「じゃあ、行こうか。彼女、借りていきますねぇ」
ウィルは笑顔でハドリーとライラにそう告げましたが、言葉は返されませんでした。
そうこうしている内にウィルに手を引かれ、私はあっという間に裏庭から離れる事となります。
その直後、学園に潜入していた王宮の騎士によって二人の身柄が拘束されたらしいと知ったのは、数日後の話です。
***
ハドリーは怒りに任せ、エイヴリルに魔法を放った。
皮膚や肉を切り裂く、氷の刃は確かに彼女へ迫っていた。
しかし。
「おおっと、ごめんよ。急に引っ張ってしまったから……」
突如現れた男子生徒がエイヴリルの腕を引く。
直後。瞬きの内にハドリーとライラの視界は爆ぜる赤色に染まる。
何の前触れもなく現れた赤い炎の壁はあっという間にハドリーの魔法を呑み込み、掻き消した。
前髪の先を焦がし、また目と鼻の先まで熱を発したその壁はまたもや一瞬にして姿を消す。
消えた炎の先。恐怖から呆然と立ち尽くす二人は、エイヴリルを抱き留めたまま視線を投げかけるウィリアムから目が離せない。
彼は口角をつりあげて、妖艶な笑みを浮かべながら眼鏡を取る。
ふざけたような機能を搭載したレンズの下に隠れていたのは――鮮やかな赤い瞳だ。
息を呑むほど美しい顔立ちをした彼は、長い睫毛を携えた瞳で二人を真っ直ぐ映す。
かと思えば、真っ赤な双眸が僅かに細められた。
それは『次はない』という明確な警告。
あまりの圧を、その視線を受けた二人はまるで金縛りにでもあったかのように、動くことが出来なくなってしまったのだ。
やがて眼鏡を掛け直したウィリアムと、彼に連れられたエイヴリルがその場を離れる。
その直後の事だった。
二人の退場を待ち構えていたかのように、武装をした騎士達が物陰から飛び出した。
主な罪状は、国家機密漏洩。
シトリラ王国では重罪にあたる。
これによって二人は捕縛され、移送用の馬車に連れられる事となる。
その最中の事だ。
「いやぁ、しかし……何故ウィルフレッド殿下はあんな平民の真似をしているんだ?」
「おい、無駄口を叩くな」
そんな騎士達の声をハドリーは聞く。
(ウィ、ウィルフレッド……!?)
その名に彼は覚えがあった。
――ウィルフレッド・エセルバート・シトリラ。
シトリラ王国の第二王子。
魔法の才に恵まれると同時に、政治にはあまり関心がなく、表舞台には殆ど顔を出さない奇人と噂される人物。
その才能を理由に政治から遠ざかる事を国王から許可されているという話はハドリーも聞いた事があった。
「そ、そんな馬鹿なぁ…………」
絞り出された悲鳴のような声は、王族を巻き込んで魔法を行使しかけた己の罪への恐怖か、見下していた元婚約者が王族から寵愛を受けているという現実を受け止められなかった心の痛みか。
はたまたその両方であったのかもしれない。
***
後日聞いた話では、ホールデン侯爵一家は爵位を剥奪されて国外へ追放される事となったそうです。
代わりに、その領地はホールデン侯爵の遠い親戚である伯爵が治める事となったとか。
新しい侯爵は社交界でも評判の良い方なので、我が家とも友好な関係が築けそうです。
またオクスリー男爵家についてはホールデン侯爵家よりも身分が低かった事もあり、身包みを剥がされた挙句、奴隷として売り飛ばされてしまったとか。
……まあ、もう私には関係のない話ですが。
はてさて。そんなこんなで、婚約者がいなくなった事以外、一切変わらない日常の一幕。
「見てくれよ、エイヴリル。この眼鏡、目玉が飛び出ているように見える仕様にしてみたんだ」
昼休憩に図書館を訪れた私へ声を掛けるや否や、ウィルは眼鏡の新しい機能を見せびらかせてきます。
落書きのような眼玉がレンズの外へ飛び出しているように見える……といったものなのですが、使い道は定かではありません。
そんな機能を嬉々として見せびらかす彼に私は呆れるのですが、それよも、拙い目玉の絵が飛び出しているという、あまりにも滑稽な顔が何だか面白くなって来てしまいます。
「もう、何それ」
私はたまらず、吹き出して笑ってしまい、それを見たウィルは何故か得意げに胸を張るのでした。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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それでは、ご縁がありましたらまたどこかで!




