発火 3
世界連合の治安部門での外郭執行機関として創設された連合保管局。その東京支局は丸の内にある古い保険会社から接収した本社ビルに設けられていた。古代ギリシャのドーリア式のエンタシスに囲まれ、柱の上にコリント式彫刻が施されたその歴史主義建築のビルを大層気に入った世界連合の行政官が、建物の維持に為とかこつけて庁舎にするよう強く要望したと言われている。
ただ最近では、ビル自体が大正期に建てられた旧いものであり、また平成時代に東側面に企業テナント用の高層オフィスビルが増築され、治安当局の拠点としては運用しづらいという声が上がりつつある。
国道六号線を下るクルマの助手席から、関口は視界に入ってきた本庁舎を見つめた。サイドガラスには、右額をすり剥き大きなバンソウコウを貼り付け、負傷した左腕を三角巾で吊る自分の無様な姿が反射している。
そんな関口を無視するかのように、菱川は先程から一言もしゃべらずに難しい顔でハンドルを握っている。関口が一言でも軽口を叩こうものなら、今にも怒鳴りだしそうな表情だった。
――結構さ…… おれだって今日は誰とも話したくないよ……
菱川の運転する車は日比谷公園の手前で左折し、本庁舎の地下駐車場へと続く出入り口へと滑り込んだ。幸い、報道陣の中継車が数台路肩に停まっていただけで、記者に写真を撮られたり、もみくちゃにされることなく建物内に入る事ができた。
菱川は乱暴なハンドリングで駐車場に車を頭から突っ込ませてエンジンを切った。
「早く降りて…… 私は今夜は非番なんだから!」
苛々した口調でそう言って車を降り、バンと大きな音を響かせてドアを閉めた。関口がヨロヨロと降りると、菱川は一人でさっさと行ってしまった。取り残された関口は大きく深呼吸して、負傷した左腕をかばいながら体を伸ばす。ひんやりと冷たい空気が肺に入り心地よかったが、思わず咳き込んでしまった。隣の車に寄りかかって息を整え、鼻水をすする。まったく情けないと思いながら、体を起こして立ち上がろうとしたとき、自分が寄りかかっていた車が見慣れない黒塗りのトヨタ・センチュリーである事に気が付いた。よくワックスが塗られているらしく、自分の右手をついたところにはべっとりと掌紋がついてしまった。連合保安局や総督府の公用車としてセンチュリーは採用されていない。ダッシュボードの置かれた旭日章のステッカーから、それが自治警察局の車両であることが判った。見ると隣から四台ものセンチュリーがどっしりと鎮座している。なかには警察局だけでなく自治議会の議員が好んで使う五七桐のステッカーをつけた車まであった。
「大物ばかり集まりやがった……」
関口は、嫌気と絶望感の入り混じった気持ちで呟き、とぼとぼとエレベーターへ向けて歩き出した。
廊下に顔を出すや、関口は待ち構えていた監察部の保安官達に捕まり、オレンジ色の白熱ランプの灯る、小さなアールデコ調の会議室へと連れて行かれた。革張りのソファーへ腰掛けると、温かいコーヒーが出された。
「すいませんが、ミルクと砂糖はないですか?」
保安官は一瞬眉を吊り上げたが、すぐに持ってきてくれた。
まず現れたのが監査部の三等保安官で、先程関口が現場で供述した内容の再確認と、その訂正だった。事前にプリントアウトした供述書を細かいところまで修正しながら三十分ほど問答を続けると監察部の保安官は出ていき、次に広報部の保安官が現れた。関口に対し、今後マスコミとの安易に接触することがいかに関口と保安局にとって危険な事であるか丁寧に説明し、しばらく移動や対人接触の制限等、止む終えない不自由を受け入れるよう言った。自分でどうにもできる自信もなかったので、関口はうなずくほかなった。どのみちもう選択の余地など無いのだと、関口は捨て鉢な気持ちになって黙って座っていた。
最後に法務部の保安官が現れ、連合保安官職務執行法をわかりやすく噛み砕いて記したプリントを手渡した。そして関口が、今後、状況によっては刑事、民事で訴追を受ける可能性があることや、どのような権利を有し、保安局は関口にどの範囲まで法的に保護をするのかを簡単に説明した。つまるところ、保安局は事実認定がされるまで関口の地位、名誉、身柄を全面的に保護するが、事件時に関口が保安局職員としてふさわしくないと思われる行動をとっていたことが公に確認された場合には、保安局はその保護を与えないというスタンスを小難しく説明しただけだ。
「はい、わかりました」
関口はこれにもうなずくほかなかった。あとはお偉方の前で吊るし上げられて、自分の短かった保安官補人生に幕を下ろすだけである。
関口が膨れ面で冷めたコーヒーをすすっていると、広報部の保安官が部屋から出るよう促した。関口はのっそりと立ち上がり、三角巾で吊った左腕を庇いながら廊下へ出ると、多くの保安局職員が忙しそうに右往左往していた。上層部への対応と共に、これから開かれる記者会見の準備に追われるスタッフ達だ。
――おれのせいでこうなったの……か?
関口は自問した。自分はまったく悪くないなどと言うつもりはないが、数時間前の咄嗟の行動が、そこまで非難されるべきことだとはとても思えない。果たしてあの時、自分はどうするべきだったのだろうか? その事を、これから誰かが教えてくれるとでも言うのだろうか?
「やはり、貴様だったか」
廊下に立ち尽くしていた関口の背中に声が掛けられる。振り返ると卵型のレンズの眼鏡をかけた小男がふんぞり返っていた。今一番見たくない顔の一つだった……
「ま、前島……」
関口の背後で前島賢一郎が目を細めて笑っていた。眼鏡のレンズ越しに陰湿な視線が関口の足元から頭までを見回す。前島は顎を突き上げながら額のバンソウコウへと目をやる。
「よかったな。どんなヘボでも「名誉の負傷」さへしてれば、切腹はなしだ。運がよければ依願退職扱いになるかもしれないぞ」
まともな社会人であれば、このような状況下で、他者にこんな言葉を投げかけるようなことはしない。初めて顔を合わせたときから気に食わないタイプであったが、災難の渦中に前島からこんな事を言われるほど恨みをかった覚えもない。
「おい、人のことじーっと見てないで、何とか言えよ」
言い返す気力も無く、ただ虚ろな視線を投げかける関口に、前島が言った。唾の飛沫が顔にかかり、関口の眼鏡のレンズにいくつか小さな斑点を作った。
「ちょっと、なにボケっと突っ立ってんの! グズグズしないでく……」
関口の背後から投げかけられた菱川の怒声が詰まる。関口の眼前で、前島の狐目が瞬時に弛緩し、粘りつくような下品な光を帯びて声の主を追った。後ろから、咄嗟にひぃっと息を飲む音が聞こえた。
「いやー菱川さん、こんばんは。なんだか今日はついてるなぁ。こんな所で、あなたに会えるとは」
前島はいやらしい笑みを浮かべながら、呆然としている菱川に近づいた。
「それにしても、あなたのアニメ声はいつ聞いても、澄んでいて良く通りますねぇ。その声を聞くと、自分はとても元気になるんですよ、ガハハハハハ」
そう大口を開けて馬鹿笑いをしながら、前島は菱川の肩に馴れ馴れしく手を置く。軽いセクハラ的行為に菱川の顔は青白く硬直していた。もし関口が同じ行動にでようものなら即座にブチキレ鉄拳制裁となるところだが、アプローチの仕方が余りにも気持ち悪く、嫌悪感を煽り過ぎるものだったので、菱川は凍り付いてしまった。口元が歪み、目元が潤む。今にも泣きだしそうだ。さっきまで菱川から散々罵倒されてきた関口としては、ざまぁ見やがれと思いたいところであったが、関口自身も、前島の非常識なアタックを見てなんだかいたたまれない気持ちになってきた。もっとも、当の前島には全く悪気がなく、男から女への正当なアプローチだと思い込んでいるからなお始末が悪い。
関口は腹を決めて、一歩踏み出した。
「この前、すごい萌えるメイドカフェを見つけたんで、今度、ぜひ自分と一緒に……」
「おい菱川、肩に変な虫がついてるぞ」
菱川の肩に置かれた前島の腕の裾を右手で掴み、後ろから前島の脚の間に自分右足を入れて菱川から引き離すように後方へ体重をかけた。
「おい! 何をする!」
前島が抗うが、体重七十五キロの関口が前島のようなチビに負ける道理はない。足を崩され、バランスを失った前島は背中から関口にもたれかかった。関口は三角巾で吊った左腕を庇いながら、咄嗟に背後を見回す。もし、不祥事を起こした保安官がその日に警察局の役人に暴行を加えたとあってはさらに面倒なことになる。そう思った関口の目に、万国共通の見慣れた看板が見えた。スカートをはいた赤い人型、秘密兵器女子トイレ。
関口は、力を入れすぎてつりそうになった右腕に無理をさせて、前島を女子トイレへ繋がる通路へと放り出した。バランスを崩して、倒れこむように女子トイレに突っ込む前島を尻目に、関口は菱川に目配せした。
「逃げるぞ」
不運にも前島は、丁度トイレから出てこようとした事務職員の女性を押し倒すように転倒し、複数の女性の悲鳴が廊下へと聞こえてきた。何事かと、廊下にいた大勢の関係者が一斉に注意を向ける。
予想外の事態の連続で呆気にとられている菱川の腕を関口が引っ張った。
「今のうちだ、早く逃げるぞ」
「う、うん……」
小走りに廊下を逃げながら関口は思った。
――ちょっと、やりすぎたか? 否、あれは自業自得だ。
西新宿の保安官オフィスには、カタカタとキーボードを叩く音のみが響いていた。中規模のフロアに、デスクが整然とセクションごとの塊で島を作って並んでいる。
伊月と笠木は、出入り口から右奥に位置する組織犯罪対策部の島にある自分のデスクで、黙々と自分のラップトップに向かっていた。先程、原宿で起こした銃撃戦の詳細な報告書を提出し、武器使用の合法性、犯人検挙の手続き・手段が正当なものであったことを証明しなければならないのだった。書面は形式上、法務部や管理部等へ回され審査を受ける事になっているが、今回のような典型的な武装強盗犯射殺に関しての審査は、毎度形式的なものに終始している。それだからといって報告書面をおろそかにすると、いざ問題が発生した場合に、保安官自身が極めて不利な扱いを受ける事もありえるため、手を抜くわけにはいかない作業だった。また、この報告書を元に、事件情報を共有する保安局内のデータベースに事件の詳細が反映される事にもなり、日によっては一日中デスクに張り付いて仕事をすることも多かった。
小気味い良いキーボードの音を立てて、ネットワークで報告書の提出を先に終えたのは伊月だった。
「相変わらず、早いねー」
笠木が羨ましそうにモニターから顔を上げる。
「貴様とは違うからな」
伊月は目を合わそうともせずに立ち上がると、自分のコーヒーカップを手にオフィスから廊下へと出て行った。
「ああ、確かにそうかもね」
笠木はそう独り言を吐きながらラップトップ端末のキーボードを睨む。そして下を向きながら、たどたどしくキーをさがして押してゆく。笠木はブラインドタッチができなかった。そのうえ、なぜか週に一度は無法者と撃ちあう破目に追いやられる為、おのずと書くべき報告書の案件は増えてゆく。あくびを噛み殺し、笠木はカフェイン入りのチューインガムをかじった。
伊月が給湯室に入ると心地良く香ばしい匂いが鼻腔を刺激した。見ると流し台の上にまだ湯気を立ているコーヒーポットが置かれていた。
「いい香りだ」
伊月の言葉に、笑顔で振り返ったのは、身長百八十センチを超える色白のヨーロッパ系の男だった。
「おおムネタカ、今日は当直か?」
男は、かなりクセの強いが正確な日本語で言った。この新宿オフィスに所属する経済犯罪対策部のハインツ・クレーゼだった。ワイシャツの胸元には正規保安官であることを示す金バッジが留められている。
「ああ。今日はもう非番だろう? 三日も家に帰ってないと聞いた。娘さん、寂しがるぞ」
クレーゼは青い双眸に笑みを湛えてうなずいた。
「誰か戻ってきたら、帰ろうかと思ってた。でも、コーヒーを入れたばかりで、どうしようかと…… よかったら君が飲まないか?妻の実家から送ってきたいい豆なんだ」
「じゃあ、貰うことにする」
伊月は数時間ぶりに笑みを浮かべた。上質なドイツコーヒーは今ではなかなか手に入らないものだった。
「それにしても、関口は大変なことになった…… さっき、加瀬さん達が初動捜査に向かった。こういう場合、シンイチはどうなってしまうんだろう?」
クレーゼは表情を曇らせ、心配そうに言う。伊月はマグカップにコーヒーを注ぎながら首を振った。
「なるようにしかならない。以前、民間人を誤射してもほとんど責任を問われなかった保安官補がいた。要するに関口の処遇もその時の状況次第でどうにでもなる。我々が気にしてどうにかなる問題ではない」
「そうか…… あ、済まない。そろそろ帰るよ」
クレーゼはそう言って腕時計覗き込んだ。
「お疲れ様。アンナとコリンナによろしく」
給湯室に一人になった伊月は、香り高いカップのドイツコーヒーをブラックのまま喉に流し込んだ。
関口と菱川が西新宿オフィスに戻ってきたのは、笠木が独り報告書と格闘している最中だった。
オフィスに入ってきた関口を見るなり笠木が呟いた。
「ちゃんと生きてるな…… けがの具合は?」
「左肘の関節を捻挫した上、榴弾の小さな破片が関節から二センチのところにめり込んで五針縫ったようです。ケガといえるケガはそれくらいで、あとはどうといういう事の無い打撲と擦り傷ばかり。ただ、左肘は三週間は動かせないそうです」
菱川の説明に笠木はうなずく。
「そうか、じゃあ元気だね……」
――どこがだよ!
関口は思わず怒鳴りたくなる気持ちを抑える。だが、額には青筋が浮いた。
「あの~、もうあがってもいいですよね? 今夜、本当は非番のはずだったんですけど、こんなことに駆出されちゃって……」
菱川は自席でいそいそと荷物をまとめながら上目遣いで聞いた。笠木は目をぱちくりさせて関口を見て、それから事務室内を見渡す。
「うん。いいんじゃない? 僕もいるし伊月保安官もいるから」
「え、伊月さんもいるんですか? なんだぁ~、それを早く言ってくださいよ~」
菱川が一オクターブ高い声で、嬉しそうに言う。関口は、菱川綾子が面食いであることは以前から知っていたが、彼女のこういう声を聞く度にどうしても不機嫌な顔になってしまう。
「特に何も無ければ、おれは失礼します」
関口は気だるい声で言った。
「ああ、今夜は自宅待機か。お疲れ様。明日から取調べ大変だから、よく休んでね」
笠木は、自分のラップトップに顔を向けながら言った。
「あ、そうそう、携帯電話はすぐ出られるようにしておい……」
「わかってます」
関口は右手だけでジャケットを着ようと難儀しながら、笠木が言い終える前に返事をかぶせる。ハーフコートもスーツも破けて血に染まり今日限りお役御免となる。
そう言って関口は形ばかりの会釈をすると、菱川とオフィスを出て行った。
笠木は、関口の背中をラップトップのモニター越しに見送ると、オフィースチェアの背もたれに深く寄りかかった。
「まぁ…… 確かに、今日は誰とも話したくないよなぁ……」
笠木は天井の蛍光灯を見つめながら、声にならない声でつぶやいた。
オフィスを出てエレベーターに乗るなり、菱川は関口へ右手を突き出した。
「さぁ、クルマの鍵かしなさい。腕がそんなじゃ、運転できないでしょ?」
いつものように高圧的ながらも少し笑顔を浮かべ菱川は言う。戸惑いの表情を浮かべる関口に、菱川は続けて言った。
「さっき、本局では助けてもらったでしょ? お礼に送ってくよ」
なるほど前島のお誘いがよほど嫌だったに違いないと、関口は思った。確かに自分が菱川と同じ立場だったら間違いなく、肩に手を置かれた時点でぶん殴っていただろう。
「あの馬鹿がしつこすぎたんだよ……」
関口は照れ隠しにそう言うと、菱川の手にキーをのせた。
「もしかしたら、送られ狼になるかもよ?」
「腕だけじゃなくて、首もへし折られたければどーぞ」
菱川も、そう切り返し、ようやく二人は屈託のない笑顔を見せて笑った。
地下駐車場の一番奥で、関口が通勤で使っているミツビシ・ギャランVR‐4・タイプVが主人の帰りを待っていた。
「ねぇ、送ってく代わりと言っちゃ、なんだけど…… 今日こんな遅くなっちゃったから、今夜だけ借りて帰っていい?」
菱川の言葉に、関口は少し考えてからうなずいた。
「いいよ。ただし絶対ぶつけないでくれよ。これはおれの無二の相棒なんだ……」
関口のキザな台詞を聞き流し、菱川は運転席の座席を調節してイグニッションキーをひねる。最大出力二百八十馬力、二・五リッター六気筒ターボエンジンが低く唸り、大洋を回遊するサメのような外観の白いスポーツセダンが覚醒する。助手席についた関口がダッシュボード脇の電源ボタンを押すと、リトラクタブル式の有機光学ディスプレイがダッシュボード中央のパネルから引き出され、LEDランプの明滅と共に統合情報端末が起動する。グリーンを基調とする有機ELディスプレイには地図が表示された。
「帰り道はこいつが教えてくれるから」
関口の言葉に、呆れた表情で菱川はうなずく。保安局の防弾セダンにも、さすがにここまでの室内装備はなかった。速度リミッターの解除を示す260キロ・スピードメーターや、まるでスポンジのように軟らかい高価なGTタイヤからも、関口がかなりの額をこのクルマにつぎ込んでいる事が窺えた。
――なんか、面倒な物借りちゃったかな……
いろんな意味で気合の入りすぎた車のハンドルを握りながら、菱川は少し後悔した。そんな菱川の様子にも気づかず、自分の愛車の説明をする関口は、世の女性の多くはオタク嫌いという事に一向に気づいていなかった。
関口達と入れ違うように、オフィスにコーヒーカップを持った伊月が戻ってきた。窓際に立ち、街路を見下ろすと、関口のギャランが地下駐車場から車道へ出て走り去るのが見えた。室内には、笠木が無言で叩くキーボードの音、空調、そして街路の交通の音だけが響いていた。
明日からは、秋葉原の事件により保安局全体に非日常が訪れる。伊月はコーヒーカップを傾けながら思った。保安局職員による『乱射』は近年稀に見る不祥事だった。伊月は今日の一日を思い返し、ふと心中に発作的な苛立ちと悪意が沸き起こるのを感じた。
伊月は、黙々とキーボードを叩く笠木を冷え切った視線で見据えた。
「関口は帰ったようだな…… どんな様子だ?」
笠木は顔を上げずに返す。
「うん、元気そうだったよ」
「あれから三年は経つ…… あの時、お前はツイていた」
伊月のその言葉に笠木は反応を見せず、相変わらず能面のような顔でキーボードを叩きつづけていた。伊月は、一瞬後悔の念を感じたが、同時に邪な満足を覚えた。
笠木が完全に無視を決め込んだので、伊月はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、三時に起こせと言い残し仮眠をとるためオフィスから出て行った。
伊月が立ち去ったオフィスに一人残された笠木は、しばらくキーを叩き続けていたが、急に顔を上げ、伊月の出て行ったドアを睨みつけた。煮えたぎる怒り視線ではなく、笠木が犯罪者へ銃の引き金を引く時と同じ、冷たい殺意の混じった目だった。笠木は肩を回してため息をつく。伊月の言う事は正しいと、笠木は思った。
――はたして関口は今夜、寝られるだろうか?
笠木はそう想像をしたが、すぐに唇を噛んで、心中でそれを否定した。三年と六ヶ月十一日前の夜、自分はとても寝られるような心境ではなかった……
笠木は深呼吸して気分を落ち着かせると、報告書の打ち込みを再開した。たどたどしいタイピングの音と共に憂鬱な夜は更けてゆく……