発火 1
日が陰り、あたりが暗くなりはじめてきた。街灯に灯がともりだしたが、今夜は無数のパトカーの赤い回転灯も加わり、街路を回り灯篭のように照らしていた。原宿のキャットストリートの事件現場では、警察の鑑識班が現場処理にあたっていた。阻止線を張った内側では鑑識が、撮影を終えた遺体から死体袋に納め、担架でワゴン車へと運び込んでゆく。
パトカーの隣では、笠木が数人の刑事に囲まれ口論になっている。伊月も居合わせた保安官の一人なので、報告書を提出する義務はあったが、自治警察に対する説明は全て笠木に任せることにした。
煙草のニコチンが切れてきたので、伊月は無意識にスーツのポケットへと手を伸ばしたが、証拠採集中のこの場では不適切だと思い、手を戻す。
視線を他方へ巡らすと、少し離れたところに、先程笠木にいいようにはめられた若い刑事が一人、歩道の段差にしゃがみこんでいる。
「大丈夫か?」
伊月は少しだけ表情を柔らかくしてその若い刑事に尋ねた。自分より三、四歳若いだろうか。その刑事はその場に俯いたまま軽くうなずいた。
「ええ、お蔭様で、少し落ち着きました」
「さっきは、危険な目にあわせて申し訳ない。あれは、犯人の注意を分散させる為だったようだ」
刑事は再びうなずいたが、じっと自分の右手の平を見つめている。さっき、拳銃を握ったままガクガク震えていた手が、未だ小刻みに震えている。伊月の視線に気づき、刑事は無理にごまかし笑いを浮かべた。
「す、すみません。人が死ぬところ見たのが初めてだったんで…… それに、さっきまで元気だった先輩がたった一瞬で……」
そう言って、刑事は思わず顔を両手で覆った。先のベテランの刑事は既に救急車で病院に搬送されていたが、頭部に複数の貫通弾を受け即死であったことは、素人目に見ても明らかだった。
「お仲間は、非常に残念な事でした。だが、あれは避けられなかった……」
「はい、わかってます……」
伊月は嘘をついた。さっき警察官達は明らかに敵に姿を晒しすぎていた。それは直前に笠木が予言したとおり危険なことであり、明らかな過失だった。恐らく、笠木だったら躊躇無くそう言って、非難の言葉を口に出すだろう。だが、今それをこの場で言ってみても無益だと伊月は思った。
伊月は、パトカーの下から拾いあげた拳銃のマガジンを差し出した。さっき笠木がこの若い刑事の拳銃から抜き取ったものだ。
「これは返しておこう。無くすと厄介でしょう」
「どうも……」
刑事はマガジンを受け取ると、ワイシャツの上に背負った革のショルダーホルスターから拳銃を抜き、そのグリップの底にマガジンを差しこもうとするが、手が震えてマガジンを足音に落としてしまった。カチリッとアスファルトの路面が鳴った。
「クソっ……」
刑事はマガジンを拾うと、ゆっくりとした手つきで、ようやく拳銃に押し込んだ。
「情けないですね…… 犯人に向けて撃つどころか、銃の基本的な扱いすら、いざ現場に出ればこの有様です。ウチでは保安局さんについては悪いことばかり聞かされていますが…… 実際、実力が違う……」
その刑事は立ち上がると、なにやら捜査一課と揉めはじめた笠木へと目をやった。
「そっちのけが人を助けてあげたのはこっちでしょ? その恩人にその言い草は無いいでしょう!」
笠木の抗議の声が聞こえてきた。幸い民間人の被害はコーヒーショップの店員一人が犯人に殴られて軽傷を負ったのみだったが、犯行グループが全員死亡という結果に、警察が敵意を剥き出しに笠木を問い詰めたのだろう。笠木の表情がみるみる険しくなってゆく。
「逃走を許していたら今ごろ、人質がどうなっていたと思う?」
警察相手にそう問い返す笠木の声が聞こえてきた。そのやりとりを見ていた若い刑事は小さな声で呟いた。
「さっき、所轄の刑事が言ってたんですが…… その、治安機関の間では有名な人らしいですね。腕がよく、すぐに殺すから『血まみれ』って呼ばれているって……」
向こうでは、薄笑いを浮かべた笠木が警察側の責任者と思われる相手の鼻先に自分の金バッチを突きつけていた。どうやら警察側の傲慢な態度に腹を立てた笠木が、職権をちらつかせて反撃をはじめたのだろう。権威に弱い警察関係者にはよく効く手だった。
「意味はその通りだが、局内では英語でブラディーと呼ばれている。ブラディー・アキ」
「ブラディー・アキ……」
「我々は日夜、ならず者と銃で渉りあっているので、言えた義理ではないが、まるで拳銃を抱えて生まれてきたような男だ」
伊月は蔑むように言った。
「あんな穏やかそうな人が……」
「だから始末が悪い。犯罪者達は笠木を見て舐めてかかる。そして、奴はそれを容赦無く撃つ」
伊月はそう言って、風で乱れた頭髪を手で整える。寒風に晒され頭が冷え切っていた。今日は帽子を被ってくるべきだったが、オフィスに忘れてきてしまった。
笠木が捜査員達との言い合いを終えて、こちらへと歩いてくる。
「では、我々はこれで…… ところで巡査長、名前を聞いても?」
「上溝です。本庁の機動捜査隊所属です」
伊月はうなずき、自分の身分証を見せた。
「西新宿オフィスにいる伊月です。ではまた、上溝巡査長」
伊月はそう言うと自分の車へと戻った。鑑識班の作業終了まで足止めを食うかもしれない。
伊月はため息をついて、ダッシュボードに埋め込まれた情報端末を引き出し、最新の治安状況を確認した。
「秋葉原、アケボノ電機……」
新しい事件を知らせるメールが届いていた。今日、厄介事を抱え込んでいるのは、どうやら自分達だけではないようだ。
ようやく十一台目の救急車がサイレンの余韻を残して走り去った。もう日は完全に落ち、街は看板やネオンでギラギラし始めた。ただ今夜は回転灯の赤い光だけが妙に目立つ。赤く輝く回転灯を天井に戴いた緊急車両が大小十数台も街路に集まっていた。
関口はそんな外の様子を一台だけ残った救急車の窓から眺めていた。ボロボロになったハーフコートとスーツを脱ぎ捨て、左腕の肘を止血用のガーゼで強く圧迫する。思わず激痛が骨の芯を雷のように走り、関口は叫びそうになった。唇を噛んでなんとか堪えたが、白いガーゼに赤い染みがみるみると広がってゆく。
「クソ! 何だっておれが……」
関口は痛みのあまりうめいた。
「思ったより元気そうね」
不意に声を掛けられ関口が思わず顔を上げると、救急車の開け放った後部ドアの外に小柄な若い女が不機嫌そうに口を歪めて立っていた。黒いスーツの上に羽織った黒いジャケットの襟元には関口と同じ銀バッチが留めてある。関口は痛みに堪えて無理やり笑った。
「やや、菱川さんが来てくれるとは思わなかったなぁ。もしやおれの事が心配になった?」
関口の同僚である二等保安官補、菱川綾子は表情一つ変えずにその言葉を無視して続けた。
「あんたどうすんの? 勤務時間中に単独無断で市中を徘徊した上に強盗と遭遇して銃撃戦。大勢市民を巻き込んだ末に犯人を一人も捕らえられずに逃走を許すなんて、どう見ても、あんたはもうおしまいね」
今一番聞きたくなかった事をずけずけと言われ、関口は顔をしかめる。いつもの事とはいえ、顔に似合わずまったく優しさというものがない女だ、と呆れてしまう。
「あのさぁ…… おれはちゃんと手続きにのっとってやったんだよ。そもそも巻き添え食った連中は怖いもの見たさで来た野次馬どもだ、おれのせいじゃないよ」
すかさず自己正当化に努める関口に対し、菱川は眉を吊り上げて睨みつけた。
「盗人猛々しいとはこの事ね…… 自覚ってものがあるの?」
菱川が声を荒げて言い出したので、関口もとうとう苛立ちを抑えきれなくなった。こうまでボロクソに言われてはもう我慢できない。
「いい加減にしてくれ! そもそも、こんなに被害が大きくなったのはみんな自治警のウスノロがいつまで経っても来なかったからだ! 通報から十分近くも経ってやっと来たんだぞ! そんな奴等に、おれは手当てを受けぬまま四度も事件の状況を喋らされたんだ!」
二人の言い争いに、思わず周囲の救急隊員や捜査員が一斉に目を向ける。さすがに菱川も恥ずかしくなり、声のトーンを落とした。
「どう反論したって、巻き込まれて重傷を負った人が七人も居るのは事実よ。もしも犠牲者が出たら、クビどころか損害賠償、もしくは刑事告訴もありえるわ…… 警察は自分達の責任なんか認める訳ないから、あんたは終わりね」
たとえ小さな声であっても、話す内容が聞く者の心へ突き刺さるようなものであれば、大して効果は違わない。顔にこそ出さないが、関口はこの同僚の言葉に大層傷つけられた。自治警といい菱川といい、何故みんなおればかりを責めたてるんだ?
「怒鳴り合いができるくらいなら、どうやら患者は元気そうだな。ケガの具合はどうだ?」
ベージュのレインコートをつっかけた村岡が救急車を覗き込んだ。
「む、村岡さん……」
関口達は、上司の不意の出現に、揃って驚きの声をあげる。直属の上司である村岡が新宿から駆けつけねばならないほど重い事態となってしまった事を、関口は改めて痛感した。
「連絡では撃たれたと聞いたが?」
「いいえ、撃たれたんじゃなくて、グレネードの破片がひじに突き刺さっただけで。ほら、腕はなんとも…… う、うう……」
押さえていた左腕を無理に曲げ伸ばしして見せた関口だが、三度目にはあまりの激痛のため、思わず座席に突っ伏した。村岡は無表情でうなずいた。
「あーあー、ケガの程度はよく判った…… すぐに病院へ行け。あと、菱川は付き添い」
村岡の言葉に、菱川は露骨に嫌なそうな顔をした。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私がこんな男をわざわざ病院に連れて行くだなんて、納得できません!」
「これから非番なのは判ってるが、気の毒だが人手が足らん。頼んだぞ」
語調は強くないものの、村岡は有無も言わせず命令した。村岡にしては珍しい態度だ。菱川は不承不承うなずいた。
「慰めになるかどうか判らんが、警察局の役人も臨場してきている。行くなら今だぞ。終わったら連絡をくれ」
そう言って、村岡は足早に救急車から現場の方へと歩いていった。村岡の言葉を聞いた途端に菱川の顔色が一変した様を、関口は見落とさなかった。村岡の魔法のような一言は、菱川の退路を見事に断っていたのだ。
「嫌だなぁ、また前島に馬鹿にされなきゃいけないのかぁ」
関口は、自治警察局の渉外担当である旧知の男の名を、敢えて口にした。菱川が憎悪に満ちた視線を関口に向ける。最近、顔を合わせるたび何かと気持ちの悪いちょっかいを出してくるその男の名は、菱川にとっては聞くだけでも嫌なものだった。
「菱川さ~ん、付き添いだけだから、そんなに嫌がるなって…… なんてたっておれは、あいつと違って『紳士』だからね」
ここぞとばかりに関口が軽口をたたいた瞬間、菱川の投げたクリップボードが絶妙な回転をかけて関口の包帯を巻いた左肘に直撃した。関口は激痛のあまり、うめき声も上げずに救護用ストレッチャーのマットに沈んだ……
関口と菱川を乗せた救急車が、サイレンを鳴らしながらゆっくりと走り去った。村岡が首を巡らすと、道路の反対方向から黒塗りのトヨタ・センチュリーが阻止線のロープをくぐって入ってきた。
「おいでなすった……」
車はゆっくりと路肩に停まり、運転手がドアを開けようとする前に制服姿の自治警察局の幹部達が降りてきた。そのなかには、まだ村岡が警視庁にいた頃から知っている顔があった。
「やれやれ、今日は厄日か?」
そう言い終らないうちに、丸の内の本局に勤める事務方の保安官が自分を呼びに来た。その保安官に連れられ、村岡はアケボノ電気の真向かいにある捜査員ように貸切った喫茶店へと入った。
遅れてセンチュリーに乗ってきた警察局の役人達が三人、ぞろぞろと入ってきて村岡の真向かいのソファーへ乱暴に腰をおろした。
「どうも、ご無沙汰しております。参事官におなりになられたとか……」
村岡は、ソファーにふんぞり返った太った男に丁寧に挨拶した。
「誰かと思えば…… 直属の上司というのはお前だったのか?」
警察局の局長官房の参事官はそう言って旧知である村岡を睨みつけた。両脇に座った参事官付きの役人二人は、村岡等が知り合いだった事に意外そうな顔をした。
「参事官は私が警視庁にいた頃の先輩で……」
「余計な事は言うな!」
説明しようとする村岡の言葉を遮るように参事官は大声で怒鳴った。
怒鳴りさえすれば相手を威嚇した事になると思い込んでいるところは、警視庁時代から変わっていない、と村岡は思った。
「やぁ、遅れて失礼を…… お話を始めましょうか?」
村岡より頭一つ大きい長身で痩せた初老の白人男性がテーブルへとやってきた。ピンストライプのスーツの胸元には金バッジが留められている。連合保安局の広報・渉外部の部長、アルバート・シュルツだった。
半ば接収に近いかたちで店を占有してしまったので、村岡は申し訳程のつもりで人数分のコーヒーを注文した。シュルツが村岡の隣に腰をおろすと、参事官は出だしから攻勢を強めた。
「今回の越権行為に対し、我々は総督府に直々に抗議するつもりだ。一般の強盗事件という保安局の捜査管轄権を超えた事態に首を突っ込み、白昼、通行人を巻き込んでの銃撃戦を起こした上、犯人一味を取り逃がし、誤射により市民に死傷者を出す結果を招くとは断じて許されない行為だ」
参事官は感情的になってまくしたてた。
「参事官、恐縮ですが、まだ当該保安官補による誤射があったかどうかは確認が取れておりません」
村岡がそう釈明しようとする前に、参事官の横に座った若い小男がやんわりとフォローした。村岡はその男も以前から知っていた。自治警察と保安局の連絡役を勤めているので、新宿の事務所にもたまに顔を出し、その度に歳の近い関口と何度か揉め事を起こしたこともあるので、村岡も覚えていた。
短い頭髪、足に比して胴が長く、非常に小柄だがずんぐりとした体型の男だ。ワイヤーフレームの丸眼鏡の奥の目は細く狐のように釣りあがっている。昨年度採用で上級職として警察局に入り、現在は官房付きの警部補である前島賢一郎だった。
「そんな事は判っている! 貴様は口を閉じていろ!」
不毛な頭部とでっぷりと太った肉体をきちきちの紺の制服に押し込んで、興奮しながら大声で怒鳴る参事官はまるで茹蛸のようだ。
「我々は今回の件に関し、問題を起こした保安官補をどう処罰するつもりか聞いているのだ!」
参事官の言葉に村岡は目を丸くした。事件が発生してからまだ三時間半しか経っていない。そもそも村岡は、秋葉原で関口の身の上に何が起こったのかさえ、まだ正式な報告を受けていなかった。
そこへ女性店員が注文したコーヒーを持ってきたので、参事官も口を閉じ、しばし沈黙が訪れた。
「とりあえず……」
カップから立ち上る湯気を見ていたシュルツがよどみない声で言った。
「現時点で、事件の概要を断定的に論じるのは、双方にとって懸命なことではない…… そうは思われませんか? 参事官」
シュルツの言葉に応えるように前島は無言でうなずいた。少なくとも茹蛸は自分よりも賢い部下を持っているようだ、と村岡は思った。
事件の具体的経過が判らない時点では、あくまで抗議に留めておくべきだ。おそらくは、この参事官も上からそう命令されているはずである。しかし、村岡は、この参事官が警察局内でも強行に連合保安局排斥を唱えるグループの男である事を知っていた。日頃の私的な鬱憤を、この状況に付け込んで晴らす絶好の機会とばかりに保安局を叩くという、浅はかな自我を抑えきれなかったのだろう、と村岡は考えた。それを裏付けるように、腰巾着の若い男も、参事官の発言に少し戸惑っているようだが、口を挟むことは出来ないようだ。実際には自治警察にも、保安局から突かれたくはない弱点がいくらでもあるのだ。
「ただ、一つだけ、今回、当該保安官補の対応については懸念を表明させていただきます。そもそも、事件当時、なぜ彼は単独で犯人と対峙したのか。その際、周囲の民間人保護の為の対策を行ったのか? その点は同じ東京の治安維持に携わる組織としては看過できません」
前島がシュルツを見ながらそう言った。
「確かに、結果責任は免れない。細かくあらゆる要素を、あらゆる角度から精査する必要があるでしょう」
シュルツがうなずきながら言った。
村岡は神妙な顔でうなずきながらも、腕時計を覗きたい誘惑に駆られていた。本音を言うならば、今は上層部のこんな下らない政治ごっこに付き合う暇など一秒だって無いくらい、時間が惜しい状況だった。初動捜査に打って出る時期は今しかない。警視庁の機動捜査隊の能力について不足は感じないが、まさに今その指揮を担っている者が隊を有効に運用できているか、という点に関しては非常に不安が残る。情報などの、物証ではない手がかりは事件発生直後から刻一刻と失われてゆくもので、事件発生直後にどれだけ早く情報を収集し分析できるかが初動捜査の鍵だった。
「さて、現場の様子もおわかりになったでしょう。そろそろ、本局へ戻って具体的な検証を始めましょう」
シュルツは青い双眸で参事官を見つめながら早口で言った。そこらの若者以上に日本語が堪能なシュルツがわざと英語で切り出したので、それを慌てて前島が通訳する。英語を解さない参事官への嫌味であることは村岡にも判る。渋面の参事官はシュルツを見ながら、のっそりと重い腰を上げた。
警察局の役人とシュルツが喫茶店から出てゆくのを見送り、村岡はほとんど手をつけていないコーヒーカップを手に取った。飲むのに丁度良いくらいまで冷めていた。村岡はごくごくとコーヒーを胃に流し込む。どうせ、今日も家には帰れそうもない。村岡は腕時計へと目をやる。もうじき、本局へ出頭しなければならなくなる。今のうちに腹ごしらえをしておこうと思い店のメニューを物色していると、前島が一人店内へと戻ってきた。
「忘れ物?」
村岡が尋ねると前島は、いえ、と首を振りまだ湯気を立てている自分のコーヒーカップを手に取った。小ぶりのカップにシュガースティックとミルクを一つ分なみなみと放り込み、狐色になったコーヒーをズルズルと音を立てながら一気に飲み干してしまった。その様を目を丸くしてい見ている村岡の前で、前島はプハーと息を吐いて空になったカップをテーブルに置いた。律儀というべきなのか、それとも意地汚いのか村岡には判断しかねた。
「いやー先程はなんというか…… 我々の組織も上下関係が厳しいところなので、その」
前島のその言葉に、村岡はニヤニヤと笑い出す。
「大変そうなのは、想像つくよ」
「話変わりますが、今回の問題の保安官補が関口だと聞いたんですが、本当ですか?」
「うん、うちの関口君。しでかしちゃったね」
村岡がおどけてそう言って見せると、前島はつられて大声で笑い出した。
「はははっ、あいつも入局早々かわいそうな奴だ。これからどうなるか楽しみですね。あ、どうもコーヒーご馳走になりました。では」
そう言って前島は再び喫茶店から出て行った。
「少しは情けってものが無いかねー」
残された村岡は真顔になってため息をついた。前島の顔を見たら食欲も失せてしまったので、村岡は勘定を済ませると店を出た。
外では相変わらず、大勢の捜査員達が証拠採集に走り回っていた。
センチュリーの横では先程の参事官と前島が、現場責任者と思われる所轄の刑事の話を聞いているところだった。
「トモ、とんだ厄介事を持ち込んでくれた……」
やってきたシュルツが声を掛けた。村岡は、顔を見られないよう頭を下げる。外国人上司の使うファーストネームでの呼び方はどうにも馴染めない。村岡は苦笑いをこらえ、思わず口の端をゆがめた。
「ご迷惑をおかけします。しかし、私直属の大切な部下です。何卒よろしくお願いします」
「うん。ただ問題がある。聞けば彼は元々、模範的な職員ではなかったようだね。今回の事件も、巡回の途中でなぜ仲間から離れ単独で行動し、事件に巻き込まれることになったのか? 査問では、その男の一挙手一頭足が問われる」
『いちきょしゅいっとうそく』という日本人でも舌を噛みそうな言葉を滑らかに言ってのけたシュルツは、寒そうに手をスーツのポケットに手を突っ込んだ。
「今回のアクシデントに対し、上がどう判断するかは判らない。だが、総督府は我々がポリスよりもはやく犯人を捕らえる事を要求するかもしれない」
その言葉には、村岡も表情を硬くしてうなずく。つまり、事と次第によっては警察を出し抜いて力を見せつけなければならない、という事だった。正直、この手の政治的な駆け引きにはうんざりしていた。残念ながら保安局内部にも、警視庁と同様の縄張り意識を強く持った上級職員が確固として存在している。
「判りました。すぐ対応できるよう準備しておきます」
シュルツはうなずいた。
「できるだけ、今夜中に情報の収集を。君のボスにはもう話が通っているはずだ。夜中までに関口保安官補と共に君にも本局へ出頭要請が来るはずだが、それまで最善をつくしてもらいたい」
村岡がうなずくとシュルツはセンチュリーの後ろに駐車してあるジャガーXJの方へと歩いていった。
村岡はポケットから携帯電話をとりだし、新宿局で待機している加瀬に連絡した。
「一応、非番の者を中心に二十名余り動かせます。他部署から人を借りられれば、もう少し増えそうです」
開口一番に加瀬が言った。昔からの相棒は何も言わずとも自分の言わんとしているところを先回りして準備していてくれた。
「すまんな。では全員呼んでくれ。事件の詳細は調書がまとまり次第、そっちへ送られるはずだ。おれもすぐ戻る」
村岡は電話を切った。とにかく新宿へ戻らなければならない。その前に村岡はまず弁当を買うために、封鎖線の外にあるコンビニへと歩き出した。