スクランブル
翌朝、伊月は保安局本庁舎内の保坂の執務室へとやってきた。
「おう、伊月か。困った事に、琉球から広田を見つけたという連絡が来ない。今旅行代理店を当たっているが、フリープランで沖縄中を動き回っているみたいだ」
執務机の上で爪を切っていたが保坂は、伊月の顔を見るやそう言った。
「広田が職場に出した休暇申請は今日まで。逃亡したわけでないなら、今日までに戻ってくるはずですが……」
「そうだが、琉球側も対応がだいぶノンビリしているみたいでな。まだ広田は重要参考人でしかないから、向こうの警察が本腰入れないのも仕方ないが…… そうだ、今日は天津が東北へ戻る日だったな。会ったか?」
「この後、迎えに行って東京駅まで送るつもりです」
伊月の返答に、保坂は安心したようにうなずいた。
「それでいい。松本が現地の自治警と地方特任保安官に手を焼いていて、毎日泣き言のメールを送ってきやがる。天津には苦労をかけるが、俺としちゃあ、これで一安心だな」
「しかし、部長。やはり北方領境地帯の捜査にはより人員を割き、集中的に取締りを行うべきです。このままでは密輸トラックの往来は止め処なく、現状では正井のような工作員の侵入も防げません……」
伊月が若干のもどかしさを表に出しながら言ったので、保坂は苦笑いする。
「わかってる、わかってる。こちらの件が落ち着いたらすぐにでもな。その時にはいずれお前にも行ってもらう事になるだろう。とにかく天津によろしく伝えてくれ」
「はい」
伊月はうなずいた。
いつものように新宿オフィスの応接室で仮眠を取っていた笠木は、不愉快な声によって覚醒した。
「笠木さん、起きてください。笠木さん!」
重い瞼を押し上げると、霞んだ視界の先には上着とショットガンを持った有坂がいた。
「寝てるとこ悪いっスが、事件なんで待機お願いします」
笠木はのっそりと上体をソファーから起こしてコクリとうなずいた。
「オッケー……オッケー…… 何があったの?」
「大久保でケチな喧嘩と発砲事件っす。一応、臨場しなきゃいけないんで……」
笠木はあくびをしながら再度うなずく。
「そういえば、ハワードは?」
「楊さんは、自治議会の議員がなんかやった件でさっき出かけました。テレビでやってますよ」
笠木は機械的に何度も首をこくんこくと縦に振る。
「了解、じゃあ留守番してるよ…… 気をつけてね……」
うわ言のように笠木が返答すると、有坂はよろしくっスと言って足早に出て行った。
寝起きの笠木は急に寒さを感じ、身震いした。混濁した意識のまま、ヨロヨロと身支度を整え、顔を洗い、応接室を片付けてからティーポットに紅茶をいれる。起き抜けで体に血が巡っていないので寒くてしかたがない。
テレビをつけると、自治議会の議員が複数の企業から不法な献金を受けていた事が発覚し、保安局で取調べを受けているとの報道がニュース番組でやっている。恐らくハワードが出かけたのはこの事件のためだろう……
トーストとハム、サラダで簡単な朝食を終えた笠木はぼんやりと窓から、ビルの間に四角く見える秋の空を眺めていた。今日は雲一つ無い快晴だった。気温は低く乾燥しており、今日も寒そうだった。十七時まで何も起こらなければ家に帰れる予定だ。
朝食を終えてから、報告書や捜査計画書を書き終え、自分の拳銃とショットガンをバラして油をさし終えると、やることがなくなった。
笠木は日の当たる窓際の桟に乗っかり、両足を伸ばしてノンビリと時間を過ごした。もう二時間もすれば天津や伊月がやってくるだろう。時計を見るともう十時を過ぎていた。陽だまりの暖かさと、日頃の睡眠不足と疲労のせいで、つい笠木はそのままうたた寝をはじめてしまった。
その後、何分経ったのか……けたたましい電話の呼び出し音で笠木は覚醒した。ハッと我に返り、桟から飛び降りた笠木はサンダルを突っかけて外線の受話器を取った。
「はい、西新宿オフィスの笠木です」
『よかった笠木か。おれだ、保坂だ。たまたま、人員が足りないからお前に頼みがある。緊急の証人保護プログラムで一人の身柄を保護してもらいたい』
電話は本局の保坂部長からだった。声の様子からやや慌てていることが判った。
「あのー今ここには僕しかいないんですけど、空にしちゃって大丈夫なんですか? それに、証人保護なら他にバックアップ要員が必要でしょう?」
笠木は戸惑いと苛立ちを露にして言った。
『実はな、今しがた琉球から連絡があって、北総銀行の出納役・広田寛司がさっき那覇国際空港から羽田行きの便に乗ったことが確認された。琉球警察の連中、あと一歩で取り逃がしやがった。もっとも本人には逃走の意志があるのかどうか微妙だが、きっかり予定通りの旅程で東京に戻ってくる。これまでの経緯があるから、何者かに消される可能性もある』
その言葉に、笠木は気乗りしない様子で答えた。
「事情は判りましたけど、羽田空港だったらここより品川や横浜のオフィスの方が近いじゃないですか? それに急ぎなら自治警の東京空港署に任せる方が早いですよ」
『あいにく品川も横浜も、今待機しているのは新米の保安官補ばかりで心もとない。無論、今回は緊急だから警察にも要請する。この際、保護は警察に任せるが、こちらからも立ち会う者を送っておきたい。村岡君にはおれから説明しておくから、頼んだぞ』
「了解、じゃあすぐ準備します。詳細は端末のほうに送ってください。それでは」
笠木はそう言って受話器を放ると、急いで自分の端末に送られてきた情報に目を通す。
「広田寛司、四十二歳…… 南日本エアウェイズ〇二四便…… 第一ターミナル……十三時二十八分着って、あと一時間半もないじゃん!」
笠木は一人で悪態をつきながら、送られてきた広田の人相と情報をプリンターに出力し、勢いよく立ち上がった。
プリンターが唸り声を上げている間に、飲み残しの紅茶を急いで飲み干し、応接室で抗弾プレート付きのインナーをワイシャツの下に着込む。ロッカーからベネリのショットガンを取り出し、いつもどおり最初に一発だけスラッグ弾を装填し、残りの六発にはOOバックショット弾を装填した。万が一に備え、武器庫にある自動火器を持ってこようと勢いよく事務所から出ようとしたところ、廊下から現れた関口伸一と危うく正面衝突しそうになった。
「あ、こんにちは、あの日以来ですね。この度は大変お世話に……」
「ああ、査問の件は本当に良かった…… 明日から訓練頑張ってね」
笠木は早口にそう言いながら、足早に武器庫へと歩いてゆく。様子が変なので関口は後を追いながら聞いた。
「なんかトラブルですか?」
「トラブルもトラブル、まったく…… これから羽田までドライブだよ。ツイてないよなぁ……」
ブツブツ言いながら笠木は専用のキーでドアの鍵を開けると、薄暗い武器庫のガンロッカーからフルサイズのコルトAR‐15A2アサルトライフルを手にとり、チャージングハンドルを前後させて、きちんとオイルが塗られ作動に問題がないか確かめた。普段持ち歩くショットガンやミニ14ライフルと異なり、いかにも戦闘用といった直線的なフォルムの長い軍用ライフルだった。
「あの、手が空いているんなら悪いんだけど、マガジンに二十八発まで弾詰めて。急いでね」
訳が判らず関口は三十連発のAR‐15用のマガジンに五・五六ミリ・NATO弾を二十八発まで押し込んだ。関口がせっせと弾倉に弾を込めている間に、笠木はショルダーホルスターに納めているS&W・M745拳銃の予備弾倉をチェックし、腰にさげたマガジンポーチに納めた。
「関口、ところで今日は一体何しに来たの?」
笠木の問いに、関口は弾倉に弾薬を押し込みながら答える。
「明日から基礎訓練になるんで、一応挨拶しとこうと思っただけです。突入後は皆さんと会ってなかったんで」
それを聞いた笠木はしばらく考え込むように腕を組んだ。
「今日はバッジ持ってる?」
「ええ、もってますよ」
「よし、じゃあ、弾を詰めたら、一緒にちょっとドライブしよう」
「は?」
関口の素っ頓狂な声をよそに、笠木は部屋の隅に置いてあったサムソナイトの大きなスーツケースを転がしてきてた。そして、その中へAR‐15と弾込めの済んだ弾倉をいくつも放り込んだ。
「準備が終わったら、このスーツケースを下の駐車場まで持ってきて。それと、ジャンパーの下に抗弾ベストを見えないように着ておいたほうがいいな」
笠木はそう言って出て行こうとしたので、関口が慌てて呼び止めた。
「あの笠木さん…… その~、ベレッタを二丁持っていっていいですか?」
「勝手にどうぞ。その代わり、オート・ルパラも忘れないように」
関口はさっさと弾込めを済ますと大急ぎで抗弾ベストに袖を通す。次にロッカーから自分の銀色の拳銃を二丁取り出し、腰の左右に愛用のホルスターで固定した。最後に、京浜島で使ったソードオフ・ショットガンにありったけのOOバックショット弾を詰め込むと、スーツケースを引っ張りながら大急ぎで地下駐車場へと向かった。
笠木はオフィスでプリントの済んだ資料を引っつかむと、常駐の事務員に用事の頼み事をして、地下駐車場へと降りていった。そこまで降りてきて、笠木は思わず顔の血が引くような錯覚を感じた。
「く、車、無いじゃん……」
防弾仕様のクラウンも、フーガも、ランドクルーザーも、セドリックも…… 局で使う車が一台も無かったのだ。他の職員が皆乗って行ってしまったのだった。
「あれ? 車で行くんじゃないんですか?」
後からやってきた関口が尤もな疑問を口にした。笠木はようやく思い出した。
「そっか…… 有坂達が使ってたクラウンは壊れちゃったんだ……」
「ああ、そういえばそうですね。どうすんですか?」
関口の素朴な疑問に、笠木は最悪な回答をよこした。笠木の視線の先には、今関口が乗ってきた愛車のミツビシ・ギャランVR‐4が鎮座していた。
「ちょっ、ちょっと待った。駄目です、おれの車で行くなんて! 絶対駄目です」
にわかに動揺する関口へ、笠木は表情を険しくして言った。
「ガソリン代くらいちゃんと出るよ」
「いや、おれが心配しているのは、そうじゃなくてですね……」
関口の答えを聞く前に、笠木は車両整備用のロッカーから手動取り付けタイプの青い回転灯を持ち出し、ギャランへ向かって歩き出した。
「おい、急ぐんだ。時間が無い」
笠木が抑揚の無い声で言った。決して銃口を向けられているわけではないが、関口にはショットガンを担いだ笠木に抵抗することはできなかった。
伊月が椎名町のマンション前で天津をピックアップし、西新宿のオフィスへとやってきたのは、笠木と関口が慌てて走り去ってから十五分後のことだった。
「わざわざ、ありがとう。皆は残念ながら出払っているみたいね」
天津は地下駐車場に止まったセドリックの助手席で言った。
「忘れないうちに渡しておく。これを持っていけ。ちょっと重いが」
伊月はそう言って、後部座席に置いておいた茶色い紙包みを相棒に差し出した。
「そんな、気を使わないでよ。でも、ありがとう。何かしら?」
受け取った重い包みを開けると中には、スコットランド産シングルモルト・スコッチの瓶が顔を覗かせた。
「マッカラン…… それも十八年なんて」
「好きだろ。出所は聞くな」
それは、すっかり輸入量も減り、正規で求めれば法外な値段のする酒だった。伊月の仕事柄、その入手の方法はおおよそ想像できた。伊月は珍しく白い歯を見せて不器用に笑った。その顔を見て、さすがに天津も受け取らざるえをえなかった。
「ありがとう、野暮なことは聞かないことにする」
「寒い時にはそれが一番だ」
車を降りて事務室に上がると、二人はようやく事態を把握する事ができた。端末で急を知った伊月は慌てて保坂部長へ電話をかけて、笠木と関口が羽田まで向かっている事を知った。
「京浜島でずぶ濡れになって以来、調子がおかしいとは思っていたが……」
伊月は喉から搾り出すような声で、ここ数日、電話が来ても着信音を発しない携帯電話を呪った。
「状況が許す限り、誰かが二人を援護しないと」
端末のモニターを睨みながら天津がつぶやいた。一見すれば、危険は大きくなさそうな任務だった。だが、今日に限って天津は何故だかとても不安になった。
「伊月君、わたしの方はもう大丈夫だから、もう行って。大きな危険は無いかもしれないけど、出迎えのターミナルは広いから、二人ではとてもカバーしきれない。二人より三人の方が安全だと思う」
伊月は表情を険しくして言う。
「列車の時間は間に合うか?」
「わたしはタクシーを飛ばせば間に合うから。だから、早く」
伊月は深くため息をついた。
「判った。美吹、幸運を……」
「ええ、伊月君こそ幸運を……」
天津は少し微笑んでそう言った。伊月はうなずき、コートのポケットに予備の弾倉を詰め込むと、ライフルを手に小走りにオフィスを出て行った。
天津は三階のオフィスの窓から、黒いセドリックがサイレンと青い回転灯で一般車両を掻き分けながら、急加速で走り去るのを見送った。
「失礼します、天津保安官。先程、笠木保安官から頼まれまして…… これを渡して欲しいと」
スーパーの買い物袋を手にした事務員が天津に後ろから声をかけた。天津が買い物袋を受け取り、中を見ると、そこには大袋の特用パックに入った使い捨てカイロの束と大人買いしたカフェイン入りチューインガムの箱が入っていた。なんともナンセンスで、実用的な餞別を見た天津は思わず破顔した。
「貴方の激励、確かに受け取りましたよ」
天津はそう独り言を言いながら、窓から南の方を見て、今は亡き古いの仲間に祈った。どうか今そばにいる仲間達の身を守ってくれるように、と。
青い回転灯を戴いたパールホワイトのギャランVR‐4は、昼の首都高速を一路南に爆走中だった。関口所有の一般車両のためサイレンはついていなかったが、青い回転灯と猛烈なクラクションの連打で他の車を蹴散らし、瞬く間に首都高速4号線を抜け、谷町ジャンクションをやり過ごす。その姿はまるで獲物めがけて体をくねらせる鮫の様だった。
この無謀な運転に対し、早速警視庁交通機動隊のGT‐Rが追跡をはじめたが、助手席の笠木が怖い顔で金バッチとショットガンを掲げるとすぐに追跡を中止した。
車内で一応の説明を受けた関口は激しく愚痴をこぼした。
「仕事でおれの『相棒』が蜂の巣になるなんてご免ですよ。それじゃなくったってこの仕事は危険が多いんだから……」
「君の運転よりは遥かに安全だと思うよ……」
助手席で身を縮めながら笠木が言った。車は狭い首都高の道を車線に関係なく、自在に他の車を抜き去りながら、もう少しで一号羽田線へと入ろうとしていた。
「とはいえ、君は運転が上手いんだね……」
アクロバティックかつ華麗なハンドルとシフトレバー裁きを見ていた笠木が言った。
「入局時の車両運転訓練では、同期のなかでおれが最高点とりました」
「へぇ…… それはすごい。僕なんか未だに合格点を貰っていないよ」
感心して言う笠木の言葉に、関口は無遠慮に笑い出した。
「ええ、マジでぇ~。こんなの自転車に乗るより簡単ですよ! 普通、小学生にだってできますって」
天狗になって関口が言うので、笠木は局の防弾車を三回もぶつけて、壊していることは黙っていることにした。それも三回とも、カーチェイスや銃撃戦の間ではなく、通常時の巡回中であった事などとても言えない……
ギャランは加速と無意味なドリフトを繰り返しながら、浜崎橋ジャンクションの難所を、路側帯走行とクラクションを駆使して突破した。口では不満を言いつつも、関口は以前から抱いていた『自慢の愛車で首都高爆走』という、いかにも高校生じみた願望が意外な形でかなったので、次第にこのドライブを楽しみだしていた。
「前方、開けましたね。とばします!」
関口はギアを一段落として一気にアクセルを踏んだ。二百八十馬力のエンジンによってたたき出された急加速により、笠木はフルバケットのレカロシートにしたたか後頭部をぶつけた。