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ザ・ウォー・オン・ザ・クライム

 今年の冬は例年よりも早く関東平野に到来した。まだ十一月中旬であるにも関わらず、街路を強い北風が吹き抜け、多くの人が冬用の厚手の上着を着て身を縮めて歩いている。

 原宿、キャットストリートに近い路地で、人々は遠まわしに道路に面する大手チェーンのコーヒーショップを見つめていた。道路に面した窓ガラスは大きく割れて破られていて、その前には乱暴に路肩に乗り上げた白いオンボロのセダンが止まっていた。

「ケチな押し込み強盗だ。僕らの出る幕じゃないだろ」

 コーヒー店から一ブロックはなれた路地から頭を覗かせた黒いニッサン・Y31セドリックの助手席で三等保安官である笠木昭雅が言った。中背だが非常に痩身で、レンズの小さな四角い眼鏡を掛けた顔は不健康といってよいほど青白い。ライトグレーのスナップブリムの中折れ帽を斜に被り、羽織ったネイビーブルーのトレンチコートの胸には、世界連合保安局の正規保安官である事を示す金バッジが止められていた。このバッチが無ければ、どう見ても銀行マンかビジネスマンにしか見えないタイプの男だった。一見、非常に温厚そうな顔をしているが、蛇やワニを連想させる冷たい光を持った目だけは街路を用心深く見回していた。

 運転席に座っているもう一人の男は、昔から笠木のその目つきが嫌いだった。黒のチェスターフィールドコートに金バッジを留めた運転席の男、伊月宗孝・三等保安官は同僚の声を無視して、ダッシュパネルにある情報端末を開いた。笠木とは対照的に、長身で血色の良い端整な顔立ちで、肩幅も広く、局内広報誌で無理矢理モデルを勤めさせられた事もある。ただ、人前ではニンヤリと笑顔を浮かべていることの多い笠木と比べ、いつも表情が硬く近寄りがたい雰囲気を発している男だった。

「あ~あ、危ないなぁ…… あいつら体出すぎだよ」

笠木はのん気な声で言った。笠木の視線の先には狭い路地を塞ぐように止まっている二台のパトカーがあった。一台は、日本がまだ国家だった頃から変わらない白黒の二色に塗装され、赤い回転灯を戴いた警邏用セダンのパトカーであり、もう一台は市販車と同じ紺の塗装に簡単な赤色灯をのせた覆面パトカーだった。制服と私服の警官がそれぞれ二人づつ、パトカーを盾にしながらコーヒーショップへ向け拳銃を構えている。

 強盗グループが押し入ったところに、たまたま巡回中のパトカーがかけつけ篭城事件となったのだろう。確かによくある事件のようだった。

『……繰り返す。警戒中の全車へ、原宿・キャットストリートの南、カフェ・ムーンバックスで強盗事件発生。至急、現場に急行されたし。犯人は現在、店舗内に人質をとって篭城中で、銃器で武装している可能性あり。注意されたし。繰り返す警戒中の……』

「ほら、自治警の応援がすぐに来るよ」

笠木は面倒で仕方がないと言いたそうにあくびした。

 確かに笠木の言うとおり、世界連合保安局と自治警察との協定で、世界連合が信託統治する連合領東日本では、このような一見ありふれた強盗や殺人、その他の諸事件の捜査は、主として日本国時代からの治安の番人であった警察庁改め自治警察局が行う事になっていた。一方、広域法執行機関として活動する伊月ら世界連合保安局の、東京での活動は総督府内の司法局の補助、総督府関係機関の警備、経済犯罪や組織犯罪の取締り、統治領内で重大事件と認定された事件の捜査等を主な管轄としていた。

「状況だけは把握しておく必要がある」

 伊月は笠木に抑揚のない声で言った。笠木が思わず顔をしかめる。

「ん? 僕に行けと? 僕が『二本足で歩く犬』が大嫌いだってこと、知ってるでしょ」

笠木はそう口を尖らせ、まったく動こうとしなかった。伊月は深くため息をついて、あきらめたように後部座席から自分のショットガンであるイサカM37を引っ張り出し、車外へと出た。コーヒー店の様子に変化が無い事を確認して、伊月は中腰のまま、覆面パトカーの陰まで一気に駆けた。

 黒いジャンパー姿の機動捜査隊の刑事達は、突然ショットガンを抱えた男が走ってきた事に驚いた表情を見せたが、伊月の胸元にある金バッジを見た途端に表情を変えた。

「一体何しに来た! 邪魔はしないでもらおうか」

開口一番に、五十歳くらいの、小柄で短髪、まるでゴリラのような顔をした年配の巡査部長がけんか腰に言った。

「これは警察のヤマだ! 保安局がしゃしゃり出てくる所じゃない」

想定していた反応だった。

 おそらく、まだ日本が存在していた時からこの街の治安を守ってきたのだろう。笠木とは異なり、この手の叩き上げの刑事達に対し、伊月自身はある種の尊敬の念を持っていた。ただ、連合保安局は世界連合の下部組織であり、信託統治下では自治警察局より遥かに強い権限を持っていた。一方、それまでの警察機構は自治的独自運営を行う事が認められた替わりに、これまでの治安維持活動においての独占的に持っていたその地位を奪われる事になった。その為、多くの警察関係者、特に古参の警察官は保安局に対して強い嫌悪を隠さない事が多かった。

「ええ、その辺は理解しています。そちらで対応していただければ、我々は介入しません。ただ、状況だけは教えてもらえますか?」

伊月は敢えて慇懃に言うが、相手の返答はいつもと同じだった。

「お宅らの関心のあるものなんか無いよ。とっとと帰れ」

さすがにとりつく島がないので、伊月は不本意ながらも職権をちらつかせて事を進めるしかなかった。

「お言葉ですが、東日本治安維持協定はご存知ですね。協定に定められた権限により、情報収集権を行使することになります」

「……野郎」

憤怒の表情で巡査部長は声を搾り出すように言うと、部下の若い刑事に手振りで促し、伊月に背中を向けた。若い刑事は、伊月とさほど歳が変わらないくらいの巡査長だった。巡査長は、伊月と上司とのやりとりを前に、どうしてよいか戸惑いの表情を浮かべていたが、ほっとしたように説明しはじめた。

「えっと、十分ほど前に強盗があのカフェに押し入り、現在篭城中です。犯人グループは少なくとも三人。銃器で武装。人質も若干名。今、応援が向かっています。店の前の白い車は犯人達のものかと……」

「判りました。ご協力に感謝します」

伊月はそう言って、親切に説明してくれた若い刑事とその上司に頭を下げると、身を低くして自分の車の所まで戻ってきた。

「だから言ったろ。ワンちゃん達にやらせておけばいい仕事だ」

 ドアを開けるなり、笠木が笑う。

「お前の話を聞いていても仕方がない」

伊月はそう吐き捨てると、ショットガンを後部座席に放り込んだ。

「はいはい、判ってるよ…… まぁ今日は忙しい訳でもなし。自治警のお手並み拝見と…… おっと!」

笠木は話し途中で腰を浮かせた。

「動くな! 銃を捨てろ!」

先の巡査部長の怒声が響くと同時に警察官達の銃を構える腕がピンと伸びた。コーヒーショップの入口に、口元をバンダナで覆った体格のいい男が、紺のエプロンを着た若い女の頭に拳銃を突き付けながら姿を見せた。盾にされている女はコーヒーチェーンのユニフォームを着ているので、店の従業員だろう。その刹那、何かを爆発させたような音が何発も、けたたましく響いた。瞬く間にパトカーの白い塗装に黒い小さな穴があき、屋根に載った回転灯がバリバリと砕け散った。パトカー越しに拳銃を構えていた一人の制服警察官が力が抜けるように自分の喉を押さえながら真後ろに倒れ、その隣にいた同僚も左肩を押さえながらパトカーの裏に転がった。爆音と共に、まるでミシンで穴を穿つように銃弾がパトカーを貫き、次の瞬間には隣の覆面パトカーにも次々に銃弾が撃ち込まれた。

「撃つぞ!」

怒鳴り声と共にジャンパー姿の巡査部長が拳銃の引き金を引いたが、一瞬後、ガクリッと頭を後ろに仰け反らせて、アスファルトの地面に大の字に転がった。伊月達には、店の奥から現れた顔を隠したもう一人の男が飛び出し、黒い小さなサブマシンガンを乱射している姿が見えた。

「なんてザマだ!」

笠木は慌てて自分のショットガンを掴むとセドリックのドアを蹴り開けた。

「奴ら、人質を取った。止めるぞ!」

笠木はそう叫ぶと車外へと飛び出した。警察の応援はまだ来ない。犯行グループの逃走を止められる者は自分達だけになってしまった。伊月は表情を険しくしてショルダーホルスターから自分の愛銃であるステンレスシルバーのスタームルガー・レッドホークを引き抜き、銃弾を収めるシリンダーを振り出した。・44スペシャル・ホローポイント弾のボトムが六個顔を出した。伊月は再度シリンダーを銃に戻すとセドリックのイグニッションキーをひねった。

 フルオート射撃で発せられる銃声は、圧力のような波動を伴ってビルのコンクリートの外壁に反射し、笠木の鼓膜を打つ。あまりの音量に笠木は顔をしかめた。音だけでは誰がどこから撃っているのか判断がつかなくなる。笠木はコーヒーショップ前の歩道で仁王立ちになっている男達を見据えた。

 中腰でダッシュしながら、手にしたベネリM3スーパー90ショットガンのフォアグリップを何度もスライドさせ、マガジンチューブに装填済みだった赤いショットシェルを廃莢口から弾き出し、薬室に最後の一発を送り込んだ。笠木はいつも、自分の使うショットガンの最後の一発には単発で発射される大口径のライフルスラッグ弾を詰める習慣があった。人質を側に置いた、距離の離れたところにいるターゲットに対して、飛翔しながら弾が広く散らばってゆく散弾では人質にも被害が及ぶ可能性があったからだ。

 弾を撃ち尽くしたのか、サブマシンガンの男の射撃が途切れた隙をみて、笠木は一挙動で体を起こし、銃を構えた。立ち止まった瞬間に引き金を絞る。十二番径の銃口から飛び出した大きな一発の鉛弾は、旋回しながら高速で男のみぞおちに飛び込み、胸骨を粉砕して心臓を押しつぶした。弾は男の背中を突き破った後、コーヒー店の壁にめり込んだ。どす黒い血飛沫を散らしながら、デク人形のように無言で倒れた仲間を見て、もう一人の男は恐怖に襲われ撃ちまくる。だが、笠木は既に穴だらけのパトカーの陰に身を隠していた。男は闇雲に数発乱射すると、人質を車に押し込むようにして白いセダンの後部座席に飛び乗った。店内から拳銃と大きなナップザックを手にした男が後に続く。

 笠木は、アスファルトの上で鮮血の噴出する喉元を押さえてのた打ち回る制服警官の襟首を掴み、しゃがんだままズルズルと道路脇にある古着屋の看板の陰まで引きずり始めた。太っている上に、重い抗弾ベストを着ている男を引きずってくるのは難儀だったが、なんとか看板とコンクリ製の電柱の陰に引っ張り込む事ができた。せっかく高価な官給品の抗弾ベストを着込んでいても、大きく開いた丸首の上、それも比較的致命傷になりやすい部分を撃たれるとは、なんとも間の悪い話だと思い、笠木は呆れたように首を振った。実際、まだ意識こそあるものの、出血が多く危険な状態だった。笠木はもう一人の警官に、こっちへ来るよう手招きした。その制服警官は、負傷した左肩を押さえながもなんとか自力で笠木のいる所までやってきた。

「いいか、喉のところを押さえて。すぐに救急車を呼んで」

笠木はそう指示するとポケットからショットシェルを数発取り出し、自分のショットガンの給弾口に押し込んだ。

 その時、車のドアの閉まる音と共に、エンジンの唸り声がカフェの方から響いた。急発進しながら大きくUターンしたセダンは、スピードを上げたまま車道の半分を封鎖していたパトカーを跳ね飛ばし、一気に笠木達の隠れている看板の前を通り過ぎた。笠木は、運転席に犯人一名、後部座席に人質と犯人を一名ずつ確認した。車はキックターンで一気に加速して逃走をはかった。

 アイドリング中のエンジンの振動が伝わる運転席で、伊月は路地から車の頭だけを覗かせて様子を窺っていた。逃走を許す事は人質の生死に関わるので、失敗は許されない。パトカーを跳ね飛ばしたセダンが向かってきたので、伊月はその進路を塞ぐように路地から飛び出した。突然、進路を黒い弁当箱のようなセダンに塞がれたので、犯人達の白いセダンは大きくハンドルを切りセドリックの鼻先をかすめて、街路の反対側にある落書きだらけの電柱に激突した。空き缶が潰れるような耳障りな衝突音と共に車が止まる。側面から激突される事を覚悟していた伊月はすこし安堵し、左脇のホルスターからリボルバーを引き抜いた。すると、後方からショットガンの大きな発砲音が響き、白いセダンのタイヤがバーストした。またも笠木が、後方の電柱の陰からショットガンをラピッドファイヤで発砲し、犯人の車が激しく左側に傾いた。左側のタイヤが前後とも使用不能になったので、伊月はリボルバーを手にゆっくりと運転席から降り、腰を低くして構えの姿勢を取った。

「そこまでだ! 車外に出て銃を捨てろ」

ボンネットの潰れた車から小太りの男がのっそりと這い出てきた。バンダナが口元からずり落ち、すぐに白人の男だと判った。伊月は英語で再度怒鳴りつけたが、男は急な動作で、短いショットガンを車内から引っ張り出し構えようとした。伊月は躊躇無く引き金を引く。乾いた銃声と共に右胸に一発、男は車にもたれかかった。すかさず二発目、三発目を撃つ。パーカーに血の吹き出る斑点が広がり、男はようやくショットガンを落とし、力なく車の横に転がった。次に伊月は後部座席に銃を向ける。最後に一人残った若い男は、人質の女性を抱きかかえるようにして車から出てきた。人質のこめかみには、ポリマーフレームのオートマチック拳銃が突きつけられていた。銃の上半分、ステンレスのスライドが、ギラギラとオレンジ色の夕日を反射させた。男の手は震えていた。

「銃を捨てやがれ! こ、この女が死ぬぞ!」

スラングでかろうじて聞き取れる程度の、汚い濁った音の英語だった。おそらく北米系のストリートギャングの一人なのだろう。伊月は小さくため息をついた。月並みだが良くない展開だった……

 残った一人が人質を盾に取った時点で、笠木は一気に思考を活性化させて、周囲を見回した。跳ね飛ばされてトランクとドアが歪んだパトカー、その向こう側に紺色の穴だらけの覆面パトカーが見えた。路上には、大の字になってひっくり返っている年配の刑事が見える。頭の上半分が引き裂かれて、銃創から赤紫色の脳の破片が飛び出してしまっている。もう助けようがなかった……

「大出世だな……」

覆面パトカーの陰には、どうしていいか判らない様子の若い刑事が拳銃を握ったまましゃがみ込んでいる。

 元々、笠木は『無辜の民間人の保護』という行動基準に、かなり厳格に固執する保安官だった。笠木は脳裏で、法執行官と人質の命の重さを瞬時に天秤にかける。そのはじき出された演算は、ある種の非情さすら帯びている事も珍しくなかった。

 笠木は身を低くしたまま、呆然としている若い刑事のもとまで走った。笠木は、覆面パトカーの陰に身を隠すと、隣にしゃがんでいる刑事に優しく声をかけた。

「けがは無いですか? 気分は大丈夫ですか? しっかりしてください」

若い刑事は身を硬くしたまま、カクカクとうなずいた。怯えきった視線の先には先輩刑事の骸が横たわっている。

「せ、先輩が……」

笠木は芝居がかった大げさなしぐさで目を背けた。

「あの刑事さんは…… 大変残念です。だが、我々には今やらなければならない事があります。手伝ってください」

心にも無い言葉がしゃあしゃあと出た。笠木は刑事を励ましながら、刑事の手からシグ・ザウエルP230オートマチック拳銃を受け取る。その拳銃からマガジンを引き抜いてパトカーの陰に放り捨て、銃のスライドを引き絞って、薬室に装填済みだった弾丸をはじき出した。拳銃のスライドを戻すと、笠木は弾が空になったその拳銃を優しく刑事の手に握らせた。

「怖がらなくても大丈夫。僕の言うとおりにしてください」

笠木は自分の懐から大型のオートマチック拳銃を引き抜きながら、笑みを浮かべて言った。その大型拳銃はステンレス・フレームにマットブラックに塗装されたスライドをのせ、黒いラバーのグリップパネルをねじ止めしたS&W社製M745だった。若い刑事は緊張でカチカチになりながらも少し勇気付けられたようにうなずいた。その手の震えが一端収まった。

「銃を捨てろ! 女をぶっ殺すぞ!」

 白人の男は小刻みに体をゆすりながら怒鳴る。手にした拳銃の銃口は人質の頭にグリグリ押し付けられていた。

「早くしやがれぇ!」

男が裏声で叫ぶ。コーヒー店の店員である人質女性の顔がくしゃくしゃに歪む。いつパニックに陥るかわからない。人質だけじゃない、犯人も、目の前で仲間二人があっという間に殺され恐怖に震えている。良くない状況だった。

「判った…… 銃を捨てる。乱暴はなしだ……」

伊月は両手を大きく上げながらゆっくりとリボルバーを足元の地面に置いて立ち上がった。本来なら考えられない対応だが、状況が危険な上に、今回は一応バックアップの相棒もいるので伊月は犯人の要求に従った。

「言うとおりにした。その女性を放してくれないか?」

ゆっくりとした英語で伊月はなだめるように言った。だが、男は興奮気味に叫ぶ。

「まだだ! もう一つ銃を持っているだろ! そ、それも早く出しやがれ!」

伊月は思わず舌打ちした。よくテレビや映画に出てくる、踝や袖に隠しているバックアップ用の銃のことを言っているのだろうが、元々、特別な捜査活動でもないのに、そんなところに予備の銃など隠し持つ習慣はない。

「銃はこれで全部だ。予備は無い」

「野郎、嘘ついてんじゃねぇぞ!」

「動くなぁぁ! 撃つぞ!」

声は背中から聞こえた。伊月が両手を上げて立っている横を、警視庁の若い刑事が拳銃を手にゆっくりと間合いを詰めていった。

 伊月はいよいよ焦った。なんで今頃勇気を振り絞って出てきたのか? それも最悪のタイミングで…… 同時に、背後にいるはずの笠木が何のアクションも起こさない事に強い苛立ちを感じた。一方、隣にいる若い刑事の顔からは冷や汗が噴き出し、拳銃を握った腕は恐怖と興奮のため、上下にガタガタ震えている。それ以上に、伊月は若い刑事の構えている拳銃のグリップにマガジンがささっていない事に気がついた。刑事は弾の無い拳銃を構えているのだ。驚きのあまり、伊月は思わず刑事の顔をのぞきこんだ。こいつ一体何がしたい?

 犯人の男は、その一瞬の隙を見逃さなかった。パニックの極みのなかで、おそらく直感的に若い刑事より伊月のほうが危険であると判断したのだろう。男は絶叫しながら、銃口を人質から丸腰の伊月へと向けた。覚悟を決めた伊月は丸い黒々した銃口を睨みつけた。

 銃声が鼓膜に届いてからも伊月は銃口をずっと見据えていた。その奥で、男の顔面が物理的に大きく歪み、血が噴出する様がぼんやりと見えた。・四五口径のホローポイント弾は人質の頭から十五センチ右上を通過し、男のブルーの眼球を押しつぶした。眼窩を突き破り脳に到達した弾丸は、放射状にホローポイントの花を開花させ、金属のスクリューとなって脳をズタズタに引き裂きながら上下前後左右に蛇行し、最後は頭蓋骨左の内側にぶつかって停止した。拳銃の引き金に添えられた人差し指に出された、ドーパミンによる指令は脳内で立ち消えとなった。男は力なく数歩後ろに後ずさり、背中から倒れた。伊月は反射的に人質を抱きかかえるようにして保護すると、痙攣している遺体が握っている拳銃を手から蹴り飛ばした。人質だった店員はショックのため、堰を切ったように泣き叫ぶ。

「もう大丈夫です。怪我は無いですか? 大丈夫、もう終わりました」

伊月は背中をさすりながら、怒りと殺気に満ちた目で走ってくる同僚を睨みつけた。もともと笠木がなんらかの行動に出るであろう事は想像していたが、若い刑事と自分を盾にして、犯人の注意を人質から逸らすという、笠木の非常識な思惑に、伊月はようやく気づいたのだった。

「人質は無事か!」

シルバーとブラックのツートンカラーのオートマチックを両手で構えた笠木が走ってきた。犯人の銃の射線が人質から逸れたタイミングを狙い、後方の笠木が拳銃による狙撃によって犯人を射殺したのだった。その横では、緊張の糸が切れたのか、若い機動捜査隊の刑事がへなへなと座り込んだ。笠木が刑事の持つ銃から弾を抜いたのは、下手に発砲されるリスクを無くす為だった。自分が若い刑事と共にまんまと囮に使われ、そのうえ一歩間違えれば人質の人命にすら関わる危険な状況を招いた事に伊月は腹の底から怒りが沸き立ってきた。

「貴様…… やってくれたな」

泣きじゃくる人質を抱えながら、伊月は腹の底から搾り出すように呟いた。だが笠木は悪びれた様子も無く、自分の頭にのせた帽子の傾きをなおした。遠くから、応援のパトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。

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