流氓
黒社会。中国では犯罪組織一般をそう呼び、日本では中華系犯罪組織を総称して呼ぶことが多い。彼らの個々の組織は「幇」(バン)と呼ばれる閉鎖的、排他的な秘密結社を結成し犯罪活動に手を染めている。そして、東京では中華系の反社会勢力構成員は「流氓」(リウマン)と呼ばれていた。
そんな東京の黒社会の一端を構成する興龍幇のボスが外出したのは九日ぶりのことだった。
「情報どおり、現れたな……」
高田馬場駅から西へ数百メートルほどのところに建つ真新しい白壁の商業ビルの前には、BMW7シリーズ二台に前後を挟まれるように黒塗りのベントレー・アルナージが停まっていた。夜の街明かりを鈍く反射させる三台の高級外車の周囲には、明るすぎる色彩のスーツや力を誇示するかのように派手な金糸で刺繍を施したジャンパーをつっかけた目つきの悪い男達が、周囲の通行人を威圧ようにたむろしている。通行人の多くが、その剣呑な集団から距離置こうと、その一角だけは早足によけて通りすぎていた。
「やはり温の奴、今日は『蓬莱山』に来ている」
そのビルから一ブロック西の車道脇に停めてあるフーガの助手席で、笠木は嬉しそうにショットガンのグリップを叩いた。
「ねぇ、マジでやるの?」
「もちろん!」
心配そうに聞くハワード・楊に対し笠木は即答した。だが、笠木の目はなぜかベントレーではなく、その二ブロック先の反対車線に止められたシルバーのセダンへと注がれていた。
「その前に、目障りな犬を追い払わないと……」
笠木はそう言ってポケットから、内装工事で使うようなステープルガンに似た金属製の銃を取り出し、グリップ底の空洞部分に炭酸ガスのボンベのカートリッジを押し込んだ。シュッとガスの漏れる音がしてボンベが銃に固定されると、笠木は射出カートリッジが装填されている事を確認した。後部座席を振り返ると、先程から一言も言葉を発さない体格の良い男が二人、レザービリーとウインドウパンチャーを握って座っている。笠木がうなずくと、二人はドアを開けて車から出て行った。二人とも笠木が借りてきた防諜課の保安官だった。
笠木は足元のバッグからスキューバダイビング用ライトによく似た、照明器具のような道具を取り出した。
「これは世連の外務調査局から借りてきたんだ」
バッテリーが納まる筒状の持ち手部分は細いが、透明レンズのついた発光部の口径は十五センチ以上もあるバランスの悪いライトで、レンズの奥にはキセノン管が何本も丸めて走っていた。
「ねぇ、本当にやるの?」
楊の再度の問いに笠木はニヤリと笑う。笠木が手にしたライトの主電源を入れると、チュイーンと充電の開始を告げる音がかすかに鳴った。
「もちろん」
笠木はそう言って助手席のドアを開けた。
駐車しているベントレーの二ブロック先では、温山栄の動向を監視している警視庁組織犯罪対策課と捜査一課の刑事ら三人がシルバーのスカイラインの中から三台の高級外車を見張っていた。
「本庁三〇七、馬場にて遠張り継続、どうぞ」
助手席で刑事の一人が無線で定時連絡を終えた時だった。車の歩道側の窓を何者かがコツコツと叩いた。車内の刑事全員がそちらへ振り向いた瞬間……
「はい、チーズ」
歩道に立った男の手にした懐中電灯のような道具から、一千万カンデラを超える集束閃光が〇・二秒間浴びせられた。暗がりにいた三人の刑事の瞳孔は急な光の洗礼により開いたまま収縮せず、網膜では丸い光源の形が赤紫色の原色でちらつき、いきすぎた光の信号は視神経を伝って後頭部に激痛をもたらした。
小さい範囲に集められた光による一瞬の出来事だったので、付近の通行人には写真撮影のストロボ光程度にしか認識されなかった。
「今だ!」
笠木の合図と共に防諜課の保安官二人がウインドウパンチャーでスカイラインの窓を小突くと、窓ガラスはまるで砂糖菓子のように砕けた。窓が割れるや笠木達は、視界を奪れて悶絶している刑事達の後頭部めがけレザービリーや特殊警棒を振り下ろした。刑事達は鈍い打撃音と共に座席で昏倒する。すぐに保安官の一人が首筋を押さえ三人の脈を診た。
「大丈夫、失神しただけです」
笠木は笑顔でうなずいた。保安官達は刑事三人に猿轡と目隠しをさせ、手足を電気コードで縛り上げるとスカイラインのトランクに放り込んだ。
「上手くいきましたね」
「ええ、ご協力にどうも。大変助かりました。失敗したらこれを使う破目になったでしょう……」
笠木は腰にのベルトに繋いだナイロンのホルスターを叩いた。そこには先程のライトと同じく、外務調査局から借りてきたサウンドサプレッサー付きの拳銃が収められていた。防諜課の保安官二人は、笠木が冗談で言っているのかどうか判りかねて顔を見合わせた。
スカイラインの処分を二人に任せ、笠木は楊の待つ車へと戻ってきた。
「器物損壊、公務執行妨害……」
楊が呆れた様子で笠木に通告する。
「あと傷害と逮捕監禁だな。さて、準備できた?」
笠木はショットガンを手にして言った。楊は自分の拳銃に装填された銃弾を確認して腰のホルスターへ押し込んだ。
「……やっぱり、ちょっと怖いかな」
そうつぶやく楊の肩を叩き、笠木は笑った。
「僕らはただ話をしに行くだけだよ。『面子を潰さない限り心配ない』って言ったのは君だろ?」
二人はフーガから降りて、後続の車で待機する仲間に合図を送った。後方の車で待機していた保安官補が銃を手に歩道の一方を固めた。温山栄の部下達がたむろする道路の反対側でも、武装した保安官補の一隊が配置についた。
笠木と楊は銃を肩に担ぎ、ゆっくりとした歩調でベントレーに近づいていった。呉方言(主に上海で話されている中国語)で談笑していた男達も、二人が近づいてきた事に気づき、表情を一変させた。
「大人に話がある。案内しろ」
笠木が日本語でそう呼びかけ、同じ言葉を楊が不慣れな呉方言で叫ぶと、男達はビルの出入り口を塞ぐようにあとざする。
「何の事だ? ととっとうせろ」
リーダー格と思しきスーツ姿の男が一歩前に乗り出し、訛りのある日本語で答えた。
「なら、案内はいい。悪いようにはしないから邪魔はしないでくれ」
笠木がそういって一歩進もうとしたので、若いジャンパー姿の男が内ポケットに手を入れた。すかさず、笠木の十二番径のショットガンが男の腹へ向けられた。楊も一挙動で膝立ちにミニ14ライフルを構える。
「止めておけ。今夜は話をしに来た」
街路の両脇の保安官補も一斉に上海人達へサブマシンガンを向けた。
「そこを、どいてもらおうか?」
笠木と楊はビルのエレベーターではなく、外階段の非常口から最上階の七階を目指した。
高級上海料理店『蓬莱山』は興龍幇のボス温山栄の贔屓にしている店だった。笠木や楊の給料ではランチくらいしか頼めないクラスの高級店である。馮祥煕の葬儀以後、部下を大勢護衛につけて自宅にこもりっきりだった温の久しぶりの外出先は、楊と笠木の予想したとおりの場所だった。
「やっぱり、いつも以上に警戒してるね…… あんまり、無茶やってほしくないなぁ……」
楊は気弱な声を出した。笠木は苦笑いしながらうなずく。
「大丈夫だって、温に話を聞くだけだからさ」
二人は七階の非常扉の前へと立った。ドアの向うにはレストランの入り口とエレベーターホールがある。楊がそうっとドアを細く開けると、エレベーターホールで見張りについている流氓の男が三人見えた。一階からエレベーターが上がってくるので、三人はドアの前に仁王立ちで警戒している。楊と笠木からは、三人が背中を向けてエレベーターのドアを囲んでいる様子が見えた。エレベーター七階に到着し、チンッと音を立ててドアが開く。だが、エレベーターには誰も乗っていない。
「連合保安局だ! 動くな!」
非常ドアから飛び込むや楊が呉方言で怒鳴った。背後から隙を突かれた三人の流氓は、突然の保安官の闖入に唖然とした顔で振り向いた。楊は、懐から武器を取り出そうした手近な一人をライフルの銃床で殴り倒す。笠木には男の口から血飛沫と歯が吹っ飛んでゆくのが見えた。一番左に立っていた男は口をポカンとあけたまま、遅ればせながら腰の後ろへ手を伸ばした。笠木はすかさず右手に持った、先程炭酸ガスを充填したステープルガンのような銃の引き金を引いた。空気の抜けるような音と共に、高圧の炭酸ガスによって加速された、マイクロ高圧コンデンサーを内蔵した太い針が風切り音を響かせて男の喉に突き刺さった。それと同時にコンデンサーに閉じ込められていた電流が高圧で発散され、男はまるでてんかんの発作でも起こしたように硬直してその場に倒れた。
「動くな! 動くと殺すぞ!」
呆然としたまま動けずにいる三人目の流氓へライフルを向け、楊が怒鳴った。相手は慌てて膝立ちになって両手を頭の上で組んだ。
「あんまり無茶はやってほしくないなぁ……」
電気ショック非殺傷兵器であるテーザーピストルを男へ向けたまま、笠木は楊のアクセントを真似てつぶやいた。
二胡の高い澄んだサウンドが流れ、高価な唐三彩の大皿が飾られた瀟洒な個室に乱暴な物音が響き、後ろ手を縛られた護衛が倒れこんだ。だが温山栄は同席していた部下達のように取り乱すことなく、乱入者を見据えた。
「誰かと思えばハワードじゃないか? いったい何の騒ぎだ」
老酒の杯を手にしたまま、興龍幇の主は落ち着き払ったマンダリン(標準中国語)で尋ねた。
「温大人、あの、これは…… その」
あたふたとする楊の後ろから笠木が割って入った。
「これはこれは、温大人。なにやら、物騒ですね。お食事中に失礼します」
白いマオスーツに身を包み、薄くなった頭髪をポマードでオールバックにした初老の男の顔つきが笑顔に変わった。
「ミスター・カサギ、君も来ていたのかね。さぁこっちへ座って、もう少しで特製の小龍包が来るので、君達もどうかな?」
温山栄は慣れた日本語で笠木にそう言って手招きした。
「それはありがとうございます。是非頂きましょう」
笠木はショットガンを手にしたまま、温の隣へ椅子を引っ張ってきて無遠慮に座り込んだ。
卓を囲んでいた配下の幹部達と護衛はどうしていいのか判らず、互いに顔を見合わせた。
「こんな形で失礼を…… 実は今夜は是非ともお話を伺いたくて参りました。それにしても……」
笠木も目を細めて笑顔を作りながら、一拍、間を置いて切り出した。
「馮さんはお気の毒でした。それに小さなお子さんまで……」
柔和な表情を崩さなくとも、温の目の奥の色が変わったことに笠木は気づいた。
「ああ、実に嘆かわしい…… むごい事件だ」
「ええ、むごすぎます…… こんな事は許されない」
「ああ、断じて許されるべきではない。それで、犯人は逮捕できそうなのかね?」
顔こそ笑っているが、笠木は蛇のような目つきで温の目を覗き込んだ。
「まぁ頑張ってはいますが、なかなか…… 大人、もしもお心当たりがあるなら、是非ご協力を。悪い事は言いません。奴らは我々が始末します」
笠木の言葉に、温山栄は深くため息をついた。
「ミスター・カサギ、君の言いたい事は良く判る。今の君の立場なら当然だ。だが、この世には『棲み分け』というものがある。君達には君達の領域、そして我々には我々の…… もし彼らを君達に引き渡してしまったら、我々は自らの共同体に対し示しがつかない」
笠木はようやく、笑顔の仮面を脱いで口の端を残念そうに歪めた。
「それは、こちらも同様です。保安局に協力して始末をつけたと、発表すればいいではないですか?」
温は笠木を見据えて言った。
「では聞くが、我々は名誉を失い、一体何を得るというのかね?」
「協力していただければ、むこう二ヶ月間、管理売春、コピー商品、マネーロンダリングに限っては大目に見るとうちの部長も言ってます。その間にそちらが稼ぐ額を考えれば、損はない」
それを聞き、温はゆっくりと首を振った。
「我々を支えているものは秩序に他ならない。無論、君らのものとは若干異なるが」
笠木は露骨に顔を曇らせた。
「残念です。ただ、ここは総督府の統治領域内である法治都市・東京である事をお忘れなく。僕らには僕らの面子がある。情報提供はいつでも歓迎します」
笠木はそう言うと椅子から立ち上がり、温に恭しく頭を下げた。
笠木と楊が個室を後にすると、温は右手に持った老酒を一気に飲み干した。一同が気まずい雰囲気の中で押し黙っていると、温がゆっくりと口を開いた。
「謝、それで奴らは今どうしてるのだ?」
円卓の右斜め前に座っていた右頬に切り傷のあるスーツ姿の若い男は、ハッとして慌てて説明しはじめた。
「は、はい、先程、喬拓明一派から連絡があり、今回の事件に関し詫び入れてきました。馮さんの金庫から奪った額に加え三十パーセントの色をつけて返すと…… 今になって事の重大さに気づき、怖気づいたようです」
「それで、居場所はわかっているのか?」
「はい、いつもは変則的に居場所を変えているようですが、アジトは、四川人の商人を脅して使っている京浜島の倉庫のようです」
温は首をひねって、更に尋ねた。
「謝、その情報は一体どうやって手に入れた?」
「はい、北京人で闇医者やってる男から、品川の地下病院に腹を撃たれた男が定期的に現れるているという話があり、その男を待ち伏せして捕らえました。こちらで締め上げて口を割らせたところ台北から来たと」
「腹を撃たれた男……」
温は再び杯を老酒で満たすと、その水面を見つめた。
「その男によれば、今テレビで騒いでいる秋葉原事件も喬拓明が起こした事件で、その男はその事件の時に保安官に撃たれてけがをしたそうです」
「あの秋葉原のか。保安局も意地になるわけだな……」
最近の報道を思い、温は腕を組んだ。左隣に座っていた相談役の男が、訝しげに聞いた。
「大兄、どうなさるおつもりですか?」
温は箸を置いて、立ち上がった。顔こそ感情を顕にしていないが、拳は血管が浮くほど硬く握られていた。
「まず今回の強奪犯達には『誠意を見せれば許しを与える』と伝えるように」
卓を囲んでいた一同は目を丸くした。相談役は驚いて問い質す。
「大兄、まさか本当に許すおつもりですか?」
温は首を振った。
「いや、奴らは断じて許さぬ…… 謝、手練の者をかき集めて京浜島へ。リーダー格の喬とやらを含め、一人残らず始末しろ。保安局もおそらく必死で追っている。とにかく、急ぐのだ!」
「はっ!」
謝と呼ばれた若い男は慌てて立ち上がり、一礼すると急いで退出していった。
『蓬莱山』を後にした笠木と楊は自分達のフーガに乗り込んで一息ついていた。
「あー、怖かった。こんな形で温山栄に会うのは、金輪際ノーサンキューだね」
楊はそう言って大きく体を伸ばした。
「でも…… 苦労した割に収穫は無かったね」
楊が心底残念そうに言うので、笠木は慌てて手を振る。
「いやいや、お手伝いありがとう。収穫はまだ判らないね。流氓どもも百パーセントとはいかないけど、あの様子だったら五割くらいは協力してくれるかもしれないよ」
「えー? なんで?」
そう驚く楊に笑いながら、笠木はショットガンを後ろの席へ放ると、トランシーバーを口元へあててスイッチを押した。