菩提樹の葉
関東平野の北、見渡す限り水田の休耕地以外何も見えない平野の真中に二百坪以上の敷地面積を持つ大型倉庫が建っていた。この時期にこの貸し倉庫の周囲に近寄るものは皆無だった。だが、倉庫内からは耳をつんざく破裂音が波型のトタン越しに荒れた水田跡に響き渡った。
全身ダークブランの戦闘服に身を包んだ十人の男達が、ベニヤ板で仕切った部屋とへ押し入り水際立った手際で、人型に印刷された紙の標的をアサルトライフルの正確な三連射で穴をあけていく。彼らはターゲットへ素早く銃弾を撃ちこむと、瞬く間に次の間仕切りへと突入した。
「そこまで!」
男達が一番奥の部屋に到達し、ドアを破壊して突入するや、メガフォン越しの号令が響いた。戦闘服姿の男達は一斉に緊張を解いて、倉庫天井近く設けられたキャットウォークへと向き直る。
キャットウォークに立っていた日本共和国、国土統一局の正井武幸は右手のストップウォッチを止めた。
「開始から八分二十五秒かかっている。目標は七分を切ることだ。もう一度はじめからやり直す! 準備開始!」
正井を見上げていた男達は一斉に敬礼すると、倉庫中に散らばって、今しがた自分達が壊したドアやベニヤの間仕切りを元通りに直し始めた。
正井は胸ポケットから折りたたんだ図面を取り出した。倉庫内の仕切りやドアの配置は、その図面を忠実に再現したものだった。正井の部下達は満足な数字を出していたが、ストップウォッチの数字をもう少し低くしなければ不測の事態に対応できないと、正井は判断した。
「中森二尉」
正井は傍らに立つ、若い戦闘服姿の男を呼んだ。
「あと一分半短くできないか。現場はここよりはるかに距離が長い」
「はっ! 本日中に達成させます。最終ゲートの開錠と目標探索による時間ロスが問題です。もし爆薬が使えれば二分の短縮も可能ですが」
二尉の言葉に正井は首を振る。
「今回の目標物は衝撃や振動を嫌う。残念だが突入用の爆薬は使えない。作戦決行は三日後。〇一三〇時までに移動を開始。状況開始は警察の巡回状況によって決める。可能だな?」
「はい、万事問題ありません。ただ、首都圏での警察と保安局の活動が活発化しているとの情報が入ってきております。やはり台湾人達はここまで大騒ぎする前に処分しておくべきだったかもしれません」
直立不動で正井にそう報告する中森二尉に対し、正井は少しだけ笑った。
「いや、見方を変えろ。保安局や警察が台湾人達の追跡にかまけている間は、彼らに我々を追う余裕はないだろう。その間に仕掛けるぞ」
「はっ!」
中森二尉は踵を打って敬礼した。
ナイロンの間に羽毛と綿を挟んだ新しいジャンパーは暖かかったが、前のあわせのジッパーを閉めていないと、汗をかいたシャツがひんやりとした外気に当たった途端、冷たく体に張り付いてしまう。
老人はレンガで囲った花壇に移植ゴテを突き刺し、作業の手を休めた。
雨は止んだが空はまだ薄曇りで気温は上がらなかった。早めに苗を鉢から花壇へと植え替えてやりたかったが、無理はしないほうがいいのかもしれない。老人は泥だらけの軍手を外すと、不器用な手つきでジャンパーのジッパーを引き上げようとしたが、裾を尻の下へひいてしまっているため酷く難儀した。腰から下は全くいう事をきかない状態だった。傍らの車椅子についている物入れには魔法瓶に入った温かいお茶があるはずだったが、自分では手が届かなかった。日も暮れてくる頃なのでそろそろ介護士を呼んで片してもらわねばと携帯式の呼び出しブザーに手にしたとき、施設の建物から介護士が客を連れてやってきた。
「やれやれ…… 珍しいな」
案内してきた介護士が建物に戻るのを見送りながら、老人は客の男に頼んだ。
「すまんが、右肩を上へやさしく引っ張り上げてくれ。そっとだぞ」
男は遠慮がちに老人の脇へ手を添え、ゆっくりと持ち上げた。一瞬腰が浮いた間に老人はジャンパーの裾を体の下から引っ張り出した。老人はようやくジャンパーのあわせを合わせてジッパーを首まで引き上げた。
「見てのとおり、こっちは変わらんよ。笠木保安官補。いや失礼、もう保安官だったか……」
客である笠木は顔をくしゃくしゃに歪めたまま、俯いた。
「言葉もないです」
「詫びの言葉ならもう聞きたくない。しかし、君のほうも相変わらずだな。疲れているようだが、ちゃんと食っているのかね?」
「ええ、まぁ……」
笠木は顔を俯けたまま、歯切れ悪く答えた。
「君の事はこの前、テレビで見たよ。マスコミ相手に一芝居打ってたな…… あの時の仕返しのつもりか?」
そう言って老人はケラケラと笑い出したが、笠木は黙ったままだった。
「まぁいい。ところで、今騒いでる秋葉原のあの若いのは結局どうなるんだ?」
「恐らく、懲戒免職になるかと……」
「そうか…… どうやら三年前とは事情が違うみたいだな。君から見て、彼は善い若者なのか?」
笠木は顔を上げて老人を見つめた。鼈甲フレームの眼鏡の厚いレンズの向こうで、ぎょろりとした大きな双眸が笠木の目の奥を覗き込んでいる。本来ならば、いたたまれなさと恐怖を感じるべき視線なのだが、笠木はそういった負の感情を老人のその視線の中に読み取る事ができなかった。
「決して、悪い若者ではないと思います」
「そうか…… 三年前の君は善い若者だったよ」
老人はそうつぶやき目を瞑った。笠木は老人から視線を逸らし、押し黙る。老人は、地面に力なく投げだされた自分の枯れ木のような細い両足を摩りはじめた。
「冷たい…… 三年前のあの日から、この足は今みたいな寒い時も真夏の炎天下でも冷えきったまま温くならない。医者が言うには、本当は感覚自体もう無いはずらしいのだがな。この足がある限り、僕は君の事を心の底から許す事はないだろう…… 僕も人間だからな……」
老人の言葉に、笠木は深くうなずいた。
「……だが、三年前、偶然僕の隣で立ち上がったあのならず者が道路の反対側で警備に立っていた君達を狙って、隠していた銃を取り出した時、君達の真後ろには小さな子供を連れた家族連れが歩いていた…… 僕はこれから何が起こるかのかを悟り、心臓が凍った」
老人はそう言って深く息を吐いた。息は冷気で白くなって風に流されてゆく。
「だが、僕が想像したようにはならなかった…… その意味を三年間、ずっと考えていた」
老人はコーデューロイのズボンの上から自分の両足を摩りつづけた。笠木は押し黙ったまま、老人の足を凝視した。
その時、笠木のトレンチコートのポケットで携帯電話が振動しはじめた。いつまでたっても笠木が電話にでる素振りを見せないので、老人は電話に出るよう促した。
「はい…… え、本当? よし了解。対組織班から六人ほどかき集めて欲しいんだけど? そうか…… とりあえずそっちへ行くよ」
笠木は通話を切って、電話をコートのポケットへ突っ込んだ。
「行きたまえ」
老人が即座に言った。
「仕事なんだろ? 何の為の金バッジだ? さぁ、僕の事はもういいから」
そう言って笑う老人へ笠木は深く一礼し、花壇のある庭を後にした。
「銃弾の鑑定の結果、秋葉原事件や一連の強盗事件と目白の中国人殺害事件の犯人が同一であることが正式に確認されました。お恥ずかしい話ですが、実は我々は三日前からその事実を知っていたんです……」
伊月が覆面パトカーの助手席のドアを閉めるなり、警視庁機動捜査隊の上溝は硬い表情で言った。伊月は驚くこと無くうなずいた。自治警察から一連の事件分析や調査の結果が保安局へ開示されたのは今朝になってのことだった。
新宿副都心の超高層ビル群の間から夕日が車内に射し込んできた。三十分前に伊月は警視庁の上溝に電話で呼び出され、都庁前のこの場所で落ち合った。
「それも想定内だ。犯人はいずれの場合も同一のTEC9サブマシンガンを使っていた…… 煙草はいいか?」
上溝がうなずいたので、助手席に座った伊月はシガリロを口に咥えて火をつけた。上溝もスーツの内ポケットからマイルドセブンの箱を取り出した。
「実は、保安局にはまだ隠している事があるんです。今回の強盗が警報装置をバラして押し入っている事はご存知でしょう? 今それで、契約していた警備会社が大騒ぎになっているそうなんです」
「たしか、目白の馮は新中央警備、アケボノ電機は村雲安全だった……」
伊月はそう言って、火が消えないようシガリロに息を吹き込んだ。
「はい…… 警備会社はそれぞれ自社で確立した得意のシステムを持っています。中小企業や一般の家庭向けホームセキュリティでは、それぞれ単一の通報システムのサービスを供給しているそうなんですが、最近では単一の方式では不安を感じる大企業や大手都市銀からの要望で、仕組みの異なる多重システムを構築する必要性が出てきました」
そこまで聞いて伊月は二、三ヶ月前にハワード・楊が読んでいた経済新聞のある記事を思い出した。
「数社が事業提携して多重警備システムを売り出した事があったな」
「ええ、それです。大手数社が自社の得意とする警備システムを束ねて一括のパック商品とした『アキリーズ・システム』を発表し、現在三十以上の企業や機関が契約しています。警報機は多重だし、何かあれば会社の垣根を取っ払って提携会社の最寄の警備員が駆けつけられるんで、対処も効率化したっていうのが売りみたいです」
「もしや、その『アキリーズ』を備えた所すら、連中にやられたか?」
伊月は車の天井を見ながら思いつきを口にしたが、上溝は慌てて首を振る。
「いいえ、その事実はまだありません。ただ問題が…… これは捜査一課の刑事から聞いた話で、絶対に外に漏らすなと言われた事なんですが…… 一連の事件の犯人達が襲った所は、全てアキリーズをに参加している警備会社の顧客ばかりでした。村雲安全の独自ケーブル方式、新中央の電話回線式、帝都警備の電波通信式。セキュアはネットワーク信号の暗号を提供しています。それが、これまでに、それぞれ別の場所で個々に全システムが潰されてます。同じ犯人にですよ?」
上溝の話を聞き、伊月は大きくうなずいた。なるほど、警備会社が慌てるのは無理も無いと伊月は思った。
「今の四社は東京の最大手で業界シェアが六割を超える。だから、偶然という可能性もあるが…… 少なくとも、この強盗団には『アキリーズ』を潰す潜在力があることになる」
上溝は唾を飲んで、うなずいた。
「伊月保安官…… これは自分の想像なんですが、連中が盗んでいるものって実は、金やテレビなんかはオマケで、本当は……」
上溝がそこまで言ったところで、伊月は手で制した。
「まだ推測の域を出ない。現時点での思い込みは禁物だ。だが……君の言いたい事はよく判った。もしかしたら、連中の本当の狙いは『アキリーズの踵』なのかもしれない」
伊月が高層ビルを見上げながらそうつぶやいた。咥えたシガリロの先から固まった灰がパサリと音を立てて伊月の膝に落ちた。
上溝と別れた伊月は、上溝の言葉を反芻しながら西新宿オフィスへ戻るために歩き出した。考え事をしながらオフィスの入るビルのセキュリティゲートを抜け、エントランスホールの真中を突っ切る。上溝との話に思考がとんでいたため、視界の隅に映った黒いロングコートを羽織った女の影にすら気付かなかった。
「また眉間にしわを寄せて、相変わらずね」
エレベーターホールで伊月は後ろから声を掛けられ振り返った。そして、普段切れ長の目が驚きで丸くなった。セミショートヘアの色白の女が壁に寄りかかっていた。
「み、美吹…… なぜ?」
呆気に取られてそうつぶやく伊月に、三等保安官天津美吹は笑いながら軽く敬礼してみせた。相棒の一ヵ月半ぶりの帰還であった。
二人はそのまま最上階の職員用カフェテリアへとやってきた。甲州街道を見下ろす窓際のテーブルにつくと、天津が言った。
「今回は部長への経過報告と新しい資料の整理で戻って来ただけ。一週間もいないと思うけど、次はいつ戻って来られるか判らないから」
伊月は無言でうなずき、眼下の渋滞を見つめた。
「やはり、現場の要員が少なすぎるな。東北の停戦ラインの監視をたった二人だけでやろうとする事自体が問題だ。そのうえ、松本はまだ半人前だ……」
伊月は低い声で言った。天津は困ったような笑顔で首を振る。
「そうは言わないで…… あれでいて松本君はよくやってくれているの。それに、現地の若手警察官達の士気は旺盛よ。それだけは、いい意味で予想を裏切られたわ。確かに、楽と言ったら嘘になってしまうけど、まだ泣き言を言う段階じゃないわ」
美吹はそう言って艶のある長い前髪をかきあげた。
「ねぇ、ところで笠木君はどうしてる?」
天津の口から笠木の名が出た途端、伊月の眉間には再び深いしわが寄った。
「相変わらずだ…… 今は有給休暇中だ。自分の仕事を放り出して、まだ秋葉原事件に拘っている」
吐き捨てるように言った伊月の言葉を聞き、天津は表情を曇らせた。天津は、電話で笠木に冗談半分で笠木に依頼した事を後悔した。
「彼には悪い事をしたわ。まだ関口君の名前が出る前の事だったけど、関口君のフォローを頼んだのは私だったの。実際、笠木君なら、経験者だから法務部や広報よりも細かい部分で関口の保護ができると思ったんだけど…… 今思うと、全く配慮が足りなかったわ」
笠木の過去を考えれば、軽はずみに依頼できる事柄ではなかったはずだと天津は思った。実際、自分の言葉が笠木の古傷に塩を塗りこむ事になった事は間違いない。自分では仲間と言っておきながら、所詮、三年前の誤射事件も今回の関口の事件も自分にとっては対岸の火事に過ぎなかったのではないのか?
天津は手元のコーヒーカップへと視線を落とした。伊月はそんな天津を前にして、黙ってため息をつくと窓の外を見つめた。
「……なるほどな。だが、あいつがこの事件に入れ込むのは、本当に美吹に頼まれたからだろうか? 私にはあの男がそんな感傷的な人間とは思えない」
伊月は低い声で天津へ問い掛ける。天津はコーヒーカップへ視線を落としたまま、ティースプーンで攪拌を続ける。
伊月は窓の外へと視線を移すと、ねずみ色の雲の中へオレンジ色の夕日が沈み込もうとしていた。




