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血まみれの思い出

 大手町。日東新聞本社の記者室。政治部と社会部のデスク二人は待ちこまれたスクープのネタに言葉を失っていた。

「おい、この情報は確かなのか?」

社会部のデスクは書類のコピーを見ながら首を傾げる。

「ええ、出所は言えませんが、総督府や連合保安局に照会を試みましたが、拒否されました。出入りの記者数名や秋葉原で目撃者にあたってみたところ、どうもその人物で間違いないという感触を得たんです」

中年の上司二人を前に、水島麻美は自信があるように言った。

「見当違いだったな…… 秋葉原の巡回区分はてっきり御茶ノ水事務所の管轄だと思っていたよ。まさか新宿の保安官事務所だったとはなぁ……」

「たしか、秋葉原スラムは重点警備対象地区のひとつだったから、様々な部署が持ち回りなんですよ。それにしても、コイツまだ入局したての新人じゃないか…… ちょっと気の毒な気もするな」

唸って首を振る政治部デスクに社会部デスクが答えた。

「そういう、感情論はやめてください。私達にはメディアとしての責任があるはずです」

スクープを潰されてはかなわないと、水島は苛立ちを押さえずに言った。

「もちろんだ。ただ、誤報を出すことだけは避けなければならない。チームを編成し裏を取らせる。明日までには終わらせろ」

「とにかく、でかしたと言っとくぞ!」

上司二人の言葉に水島は自慢気にうなずいた。裏付けさえとる事ができれば、スクープとして自分で記事を書くことができる。それも大きなスクープだ。単独で記事を書くことは、まだ同期が誰一人としてやったことのない仕事だった。それに、査問の日の夜に自分達を出し抜いた連合保安局へ手痛い打撃を与えることにもなる。

 水島は自分の机へもどり、引出しから煙草を取り出して口の端に咥えた。気分は高揚している。そのせいか、火をつけてもろくに煙の味も判らなかった。



 東京タワーを眼前に望む芝公園緑地。その北側に位置する高台の広場に設けられた、錆びたベンチで香取淳二は相手を待っていた。日もとうに暮れた公園内には無数のホームレスや不法占拠者がうろついていたが、街灯が壊されていて真っ暗になっているその一角は人影もまばらだった。

 時刻は二十時をまわっていた。香取の隣には、アタッシュケースを抱えてしきりに周囲を落ち着き無く見回す人事部の遠藤が座っている。

 少し離れた暗がりには、ボディガード代わりに連れてきた警備職に就いている仲間の男が控えていた。その男には強盗事件の前科があったが、窃盗や侵入に長けていたので、人事部の遠藤によって前歴に目をつぶり採用した男の一人だった。出所直後の犯罪者を雇用する事は明らかな警備業法違反だったが、香取の指揮するグループにはそのような男達が数人いる。それら、いわゆる犯罪者OBを警備会社の社員として自身の下で雇用する事は、香取が行っている「副業」にとって大変役に立つ事だった。

 愛宕山の交差点に続く石段を登ってきたサラリーマン風のスーツ姿の男がフラフラと、香取達の座っているベンチの方へと歩いてきた。誰も掃除する者がいないので積もった枯葉を踏みしめる音が大きくなっってくる。男は香取達に視線を向けずに、どっかりと腰をおろした。

「約束のものは?」

「用意できてます」

遠藤がアタッシュケースを持って立ち上がり、男の隣へと腰をおろした。

「我々が入手した東洋光電の新型発電パネルの製造工程表です。特許を取得する準備も進んでいます」

遠藤がわきに置いたアタッシュケースを、男は自分の鞄であるかのように自然に手元に引き寄せると中を検めた。

「確かに……」

男はうなずくと、スーツの内ポケットから掌大の折りたたみ式携帯端末を取り出し、何かを忙しく入力しはじめた。最後に勢い良くリターンキーを叩くと、男は端末の蓋を閉じる。

「送金完了です。ご確認を」

遠藤は自分の多機能携帯電話を取り出し、セントクリストファー・ネイビスに設けた預金口座の金額を確認した。

「送金、確認しました」

遠藤は香取を見て言った。香取がうなずくと、男はアタッシュケースを手に無言で立ち上がり、来た時と同じ様にふらふらと歩いて公園の暗がりに姿を消した。

 香取が部下に命じて会社の顧客である企業から盗ませた新製品の情報は、日付の変わる前に中国かインドあたりライバル企業の手へと渡る事だろう。それは防犯警備と情報セキュリティ・コンサルティングの両面で様々な企業の内部に食い込んで活動している香取達にとって、容易に高いリターンをもたらすビジネスだった。実際、新中央警備の顧客には大手の製造業や研究開発機関も多くあり、香取のビジネスの客となる産業スパイはいくらでもいた。

 今夜も一仕事終えた香取は立ち上がり、部下達を伴って公園の外へ停めた車の方へと歩き出した。

「そういえば部長。先程あの件で山口って客から、例の物を受け取りたいと連絡がきましたが」

「あの男、東京に来ていたのか?」

遠藤の言葉を聞き、香取は表情を険しくした。目下抱えている、最も危険な仕事を依頼し、最も高い報酬を提示してきた客からの連絡だった。

「よし、スケージュールを調整しよう」

香取はそう部下に伝え、彼らは公園を後にした。



『使用された武器のうちの一丁、・三八口径のブローニング型真正拳銃と思われる物が、八月に起きた宝石店モリタ宝飾強盗事件の犯行に使用されていた事が、自治警察の科捜究により確認されました。宝石店で採取された銃弾の旋条痕が、今回の秋葉原事件で使用された銃弾のものと一致したからであります』

 西新宿のオフィスで笠木は、数日前に本庁舎の大会議室で行われた秋葉原事件の合同捜査会議の録画映像を眺めていた。

『……また、アケボノ電機館襲撃の際に使用された銃火器のうち、九ミリ口径イントラテック社製TEC9短機関銃、同じく九ミリ口径IMI社製UZI短機関銃に関しても、八月に起きた北総銀行八丁堀支店での強盗殺人事件、九月に起きた太平洋銀行飯田橋支店強盗殺人事件においてそれぞれ使用されていた事が銃弾の鑑定から明らかになりました。この件から一連の強盗事件は同一グループによる連続強盗事件である可能性が高く……』

――強盗さんが相手なら、お呼びじゃないね……

笠木は端末の液晶画面を見ながらあくびした。

『どの事件でも極めて似た手口で犯行に及んでおり、どの事件でも事前に店舗備え付けの警報装置を無力化したうえで、大型車両によって店舗へと突っ込むという、非常に大胆な手口で……』

「聞きたいのはそんな事じゃなくてね……」

笠木はアールグレイの入ったティーカップを傾けながらモニターに愚痴をこぼす。

『また、グループは、先程述べた短機関銃に加え、かなり強力軍事用火器を有しており……』

――お! きたきた

モニター上の係官の言葉に、笠木はティーカップを置いて身を乗り出した。

『河川敷に放置された車両からはNATO軍規格四十ミリグレネードの薬莢が回収され、鑑定した結果、二十年以上前に旧アメリカ合衆国で製造された……』

「あーあー、駄目だ。てっきり北海道かと期待したのに」

笠木は端末の録画映像を閉じて椅子にふんぞり返った。

――日米安保時代の流失品なんぞに興味は無いよ……

 かつて日本に駐留していた在日米軍から不法に流れた武器弾薬は、北海道から密輸されてくる物と全く流通ルートが異なるうえ、合衆国崩壊による軍事火器の散逸からもう十数年を経ていて、武器の出所の解明など不可能だった。

 笠木はデスクの上の端末を閉じて腕時計を見た。もう十七時をすぎている。仕事する気もなくなったので、笠木は給湯室へ行ってティーカップとポットを洗ってくると、デスクの上を整理し、帰り支度をはじめた。

「笠木さん、今日も早いんですね」

 自分のデスクでこれから行う捜査の予定をチェックしていた菱川が刺のある口調で言った。秋葉原事件後、保安局のほとんどのセクションが事件解明の為、上から下への大騒ぎになっていた。特に都市警備部門の保安官達は寝るまもなく捜査に明け暮れていた。

 だが関口の口頭審問が終わってからのここ数日、笠木は、工作員の正井を追跡する組織犯罪対策部の仲間とも距離を置き、日々山済みになった報告の処理だけを済ませて定時に自宅へと帰るようになっていた。

「ああ、ちょっとリフレッシュさせてもらわないとね…… やっぱり、毎日家に帰れるっていうのはありがたいよ」

笠木はトレンチコートを羽織り、帽子を頭にのせた。菱川はイラッときたので、無理矢理な笑みを浮かべて返す。

「そういえば、いつもより顔色も幾分良いみたいですねー」

あからさまな嫌味に、笠木は苦笑いしながらお先にと挨拶してオフィスを出た。

 エントランスで敬礼する警備の保安官補に返礼しながら夕闇の歩道へ出ると、歩道のガードレールにもたれかかった見慣れた男が軽く会釈した。三角巾で腕をつり、真新しいオーバーには右袖だけを通して羽織っている。額には褐色のかさぶたが痛々しい……

「関口…… 何やってんの?」

「いや、あの…… ちょっといいですか?」

寒空の下、凍えて笠木よりも青い顔をして立っていたのは他でもない関口だった。



「なぜか査問が終わってからというもの、夜寝ていると夢におれが撃った奴が出てくるんです。おれを殺したのはお前だって言って、河川敷の車の中で倒れている時の表情のままおれを責めるんです」

 関口はそこまで言って、ビールの中ジョッキを半分ほど一気に飲み干した。

 結局あれから、笠木は仕方なく関口を伴って新宿の三角ビルの最上階にある展望バーへと落ち着く事になった。届くなりゴクゴクとビールをあおり関口が話し出したのは、ここ数日、毎夜夢で自分を悩ます秋葉原で射殺した強盗犯の一人についての悩み事だった。

「あいつが悪いことは判っているんですよ…… ただ、気分悪くて…… あいつは俺のせいでもう二度と動かないと思うと、自分がとてつもなく悪い事をしたような気がして……」

下を向いてボソボソという関口の言葉を、笠木は自分の手元にある安いブランデーから立ち上るかすかな湯気を見つめながら、しばらく黙って聞いていた。そこまで聞いて、笠木はもう既に大層ウンザリしていた。この手の相談事には唾を吐きかけたくなる……

 笠木がまじまじと関口の顔を観察すると目の下には紫色のクマが浮かび、寝不足であることは一目瞭然だった。小ずるくて、図太く横柄な後輩だと思っていたが、関口もその他大勢と一緒と判り、笠木は少しがっかりした。それに、口頭審問が終わり自分の先行きに少し光明が差したと同時に罪悪感に襲われるとは、笑い出したくなってくる。

「笠木さんは初めて人を撃った時、どうしましたか?」

真剣に話を聞いている振りをしつつも、脳内は悪態で一杯になってた笠木に関口が聞いた。

 話を聞いていればよいと思っていたが急に質問を繰り出され、笠木は少し戸惑った。それに、自分の経験や正直な信条を関口に語ったところで、関口にそれが理解できるかどうかも判らなかった。ただ、すき腹に飲んだブランデーのアルコールが早くも脳に届き始めたので、少し笠木は少しだけ関口の話に乗ってやろうと思った。

「くだらない…… あるところに武器を手に悪事を働こうとした者がいて、そいつが自分や他人に危害を加える可能性をゼロにしようとしたら、結果的に奴は死んだ。ただそれだけの事」

笠木は、わざとぶっきらぼうにそう答えた。関口の顔には不満の色が浮かぶ。

「じゃあ、笠木さんは毎日、税金使って人殺しばかりしていても、何も感じないんですか?」

「自分や一般人が死ぬよりは、良心のかけらもないアウトローを蜂の巣にする方がずっといいさ。いいか一歩間違えば、君は電気街のバラックの陰で脳みそを歩道にぶちまけていたかもしれないんだぞ? 僕らが相手にしてる奴らは、少しばかりの金の為に無関係の通行人が何十人死のうと気にも留めないような連中だ」

笠木は一気にそこまでまくし立てたが、少し語調が強くなりすぎたと思い、バツが悪そうに関口から視線を逸らした。

「まぁ確かに…… 決して進歩的な考えではないし、洗練されていないことも認める。ただ、そもそも集団としての『人間』に対して進歩や洗練なんて言葉を当てはめる事自体、酷くナンセンスな事だと思ってる。僕はね」

そして笠木はあえてその場が深刻になりすぎないよう、わざといたずらっぽい口調言い添えた。

「えーと、初めて人殺しをした時の心境についてだっけ? 確かに忘れもしない。実は、初めて人を殺したのは、金バッジや拳銃携帯許可書を貰う、ずっと前のことだったな」

俯いて空のビールジョッキを見つめていた関口は、それを聞いて思わず、え?と声をだして笠木の顔を見つめた。

「ちょうど、十年ちょっと前か…… まだ高校生だった頃さ」



 ミニバンのスライドドアをゆっくりと押し開けて、黒装束の男達が住宅街の人気のない通りに這い出てきた。リーダー格の男が合図するまでもなく、一人がまるで軽業師のように住宅の塀の側に立てられたコンクリの電信柱をスルリスルリとよじ登る。頂上付近の電話線と電気ケーブルを掻き分けて、男は柱に括り付けられていた小さな樹脂製の箱にしがみついた。安全バンドで柱のてっぺんに自分の体を固定し、腰のポーチから取り出した電動ドライバーでその箱の四隅を留めた特殊ネジを手際よくこじ開ける。太ももにマジックテープで固定したハンディ・パソコンを開きパソコンとリンクした発振機を経由させたコードを、剥き出しになった基盤の電極に貼り付けて素早くパソコンのキーボードを叩く。しばらくパソコンを睨んでいた男は、電話回線の信号と発振機の電気信号が一致した事を確認すると、ごついくるみ割器のような形の工事用ワイヤーカッターでボックス内の配線三本を探り出して豪快に切断する。

 柱の上の男が合図すると同時に、地上で待っていた男達がその電柱の真向かいのにある一戸建ての住宅の垣根を乗り越えて勝手口へと進むと、大きなドリルでアルミ製のドアのシリンダーノブに数箇所穴をあけ、バールでノブごと引っこ抜いた。ドアの右上にはこの家が契約している警備会社のステッカーが貼られていたが、男達はまったく意に介さずにドアを開けると、サブマシンガンや拳銃を取り出し、勝手口からその家屋へと音もなく押し入った。

 数十秒後、大人の男が何か叫ぶ声と子供の悲鳴が室内から響き、同時にサブマシンガンの連射の銃声が夜の静かな住宅街に響き渡った。



「まったく…… 全てはあの日からおかしくなり始めたんだ」

 笠木は、揺らしたグラスの底で揺らめくブランデーに視線を下ろしながら語る。

「今から十年ちょっと前か…… 日本の行政システムが麻痺して、日本って国が実質的に機能しなくなってから、世連が信託統治とかこつけて介入するまでの一年半の間。あの時の恐怖といったら…… 今でも忘れられない。あの頃だったら君も少しは覚えているだろ?」

そう笠木に聞かれ、関口は首を捻った。当時、自分は何歳だったのだろう? 子供の頃からテレビのニュースで報道される社会の事柄に関して恐ろしく無関心なまま育ってきたので、さして強烈な記憶が残っているわけではない。ただ、首相がテレビに向かって土下座していた事がテレビで大きく騒がれていた事と、その日から日常生活の様子が徐々に変わっていった事だけはなんとなく覚えていた。

「たしか、まだ小学校の高学年だったと思います。そういえば、しばらくしてから登下校時には親が交代でバットやらゴルフクラブやらを握って通学路を見張ってたりしましたね。確か外遊びも禁止されましたし」

「そうか…… 僕はその時、高校生だった。公立だったから、結局政府が麻痺して二、三週間後にはもう通常の授業を継続する事ができなくなって、有志の先生がほぼボランティアで週三日だけ授業が開かれることになってたかな…… 今思えば酷い話だ。まぁそんな状態でも僕と母は割と呑気に生活してたよ。食料が配給制になって地元の大型スーパーがその配給センターに様変わりしたくらいで、しばらくの間は皆これまでの社会システムを少しでも維持しようと頑張ってたから、賃金や経費が未払いになっても、ライフラインや消防、警察、病院なんかはしばらく機能していた。だから、一見平穏な生活を送っていたよ。混乱が起こる前に誰かが崩壊を止めて、政府を今までどおりに戻してくれるって皆が思ってたのかもしれない。でも、半年も経つと、無理が利かなくなって至る所で破綻が顕在化してきた。石油は、食料や水の輸送や浄水の為に優先的に使われる事になって、交通機関が麻痺を起こし始めた。郵便や電話、ガス、水道も保守点検が不可能になり使用不能。幸い発電設備だけはギリギリのところで維持されていたから、重要施設への送電だけは維持されていたけどね…… そうじゃなかったら、今はもっと酷い状態になっていただろう」

 笠木の言葉を黙って聞いていた関口も、あの時の大人達の慌てふためいた様子を思い出した。関口の父親は電気系ライフラインの設備技師を生業としていたので、政府崩壊後しばらくしてからは、非常に重宝されて連日早朝から深夜まで各地の保守点検工事に回り、その対価として食料や生活雑貨を多く貰って帰ってきた。あまり意識してこなかったが、小学生だった自分も、そして家族も、今から比べると随分と非日常的な生活をしていた事を、今更ならがに実感した。

「そんなこんなで、だんだん世の中がおかしくなりだした。火事になっても消防車は来ない。引ったくりに遭って、警察署に行っても誰もいない。病気になっても誰も診察してくれないし、診てくれたって薬も無いからどうしようもない…… そんな状態がずっと続くんだ。だんだん人間の本能的醜さが至る所で噴出し始めた。強盗や盗みが頻発し、次第に殺人事件まで増え始めた。当然さ…… 悪さをしても誰も懲らしめないんだからね。まさしく、トマス・ホッブスのいう『万人の万人に対する闘争』という状態が目前に迫っていた」

誰もが、自分達の家族以外人間全てを危害を加えてくる可能性のある敵と識別し、絶えず防衛の為に闘争を続ける。『国家』という、秩序の為の『暴力』が存在しない世界は人の根源的な悪が表出し恐怖で覆われる。もっとも、関口は社会科が苦手であったのでホッブスが一体誰なのか判らなかったが、笠木は構わずに続けた。

「とはいえ、過酷な現実を目の当たりにすること無く、僕等はまだそれを実感しなくてすんだ日々がしばらく続いた。でもそんな日に終止符を打つ出来事が近所で起きた。ある日、二ブロック先に住むおばさんが公園の草むらで刺されて殺されているのが見つかったんだ。前日、食料配給所に食料を取りに行った帰りに襲われた。腹を滅多刺し…… かなり残酷なやり口だったらしい。当然、近隣に住む僕達は恐怖に襲われた。地区で結成していた自警団は見回りの強化しはじめたし、地元の警察にも協力を要請した。だけど、警察の連中は酷かった…… 事件のまともな捜査もしないで、ひたすら暴力をちらつかせて高額な『警備税』を地域住民に要求し始めた。今思えばその頃、僕の住んでた所の警察はまともな賃金も経費も支給されていない状況だったから、腐るのも仕方の無いことだったんだがね。不況とインフレでそれどころじゃないので僕らは支払いを拒み、結局自警団は自発的パトロールで地区を守ろうとしたんだけど、今度は警察がそれを邪魔してきた」

「なんでですか! 自分達が仕事を放り出したのに、おかしいじゃないですか?」

関口はあたりまえの疑問を口にした。笠木は鼻で笑った。

「考えてもみろ。正当性を失った暴力機構はヤクザになるしかない。そんな時に自分達の商売を邪魔する存在が生まれるのを、そんな奴らが黙ってみているわけ無いだろ。それからというもの、陰湿な嫌がらせや圧力に僕らは苦しめられた。そういえば、集会所にニューナンブの弾が撃ち込まれた事もあったよ。笑っちゃうよね?」

関口にはちっとも笑えなかった。

「それじゃあ、まるで警察まで敵みたいな状況ですね…… おれが住んでる所はそこまでじゃなかったです」

笠木は苦笑いして、グラスに残ったブランデーをゴクリと一気に飲み込んだ。

「そりゃ幸いだったね…… 数日後、今度は僕が殺人鬼に襲われたんだよ。丁度、今くらいの季節だったね。日が落ちるのが早くなって、あっという間に暗くなってしまった。元はホームセンターだった配給倉庫へ食料を貰いに行った帰りで、その時は発電所の出力制限の為に街灯も軒並み電気をカットしていたから、それこそ道は真っ暗で自転車のダイナモをビュンビュン唸らせながら大急ぎで家に戻る途中だった。ちょうど、大通りからシャッターばかりの商店街跡地へと入ったところで、背後からオートバイのやかましいエンジン音が響いた。いや、あのかん高い音は原付だったかな…… とにかく、背後から二輪車の音が響いたんで、僕は自転車を漕ぎながら背後を振り返ったんだ。そのとたん急に背中にドスンという衝撃を感じて、スピードを出した自転車に乗ったままバランスを崩して、閉店した商店のシャッターに思いっきり突っ込んだ。一瞬、何が起こったか判らなくて、思わずむせて咳き込んだ。どうやら、スクーターにぶつかられたという事だけは理解できたよ。僕はよろよろと立ち上がって文句を言おうとしたら、男はすでにスクーターから降りて僕に近づいてきた。まだ二十歳前くらいだったかな…… 若い男がニタニタ笑いながら近づいてくる。その時、僕はようやく、この男にわざとぶつかられたと悟った。男は大きなシースナイフをちらつかせて、僕に食い物よこせと言って近づいてきた。あの時の恐怖は今も忘れられない……」

笠木はそう言って、空になったブランデーグラスへと視線を落とした。

「それで…… どうなったんですか?」

関口は思わず唾を飲み込んで笠木を促す。

「当然食料をやったよ。当時の僕は今以上に貧弱だったし、食料さえ渡せばそれで済むと思ったからね。でも、大間違いだった…… 奴はそこらに散らばった食パンやハムの包みには見向きもせず僕に向かってきた。その時僕は、奴は食料の強奪ではなく人殺しがしたいんだって事に気がついた。目付きが完全におかしかった。そういう種類の人間が自分の目前に存在して、自分を殺そうとしているということ自体にある種のカルチャー・ショックを受けたよ。何がおかしいのか、そいつは笑いながらナイフを突き出して襲ってきた…… 僕はパニックになった。無我夢中で考えた」

笠木はそう言って両手を重ね合わせるように組んだ。笠木はいつもどおりの柔和な顔だったが、関口は笠木のその手が小刻みに震えている事に気がついた。

「あの時、僕はツイていた。食料の半分は乾パンやツナなんかの缶詰だった。苦し紛れに投げたイワシの缶詰が奴の目玉に当たったんだ。その後の事はうろ覚えだが、円形のツナ缶と大きなみかんの缶詰をいくつかスーパーのビニール袋に入れて。こうブンブンと……」

笠木は見えないヌンチャクを振り回すような身振りで言った。

「缶詰でいっぱいのビニール袋が一体どれだけの重さになると思う? そいつが即席のレザービリー(革と鉛でできた鈍器)となった。気がついた時には、奴は頭を側溝に突っ込んで動かなくなってた。僕は左掌と肘に大きな切り傷ができていて、シースナイフが転がっていたが、不思議なもので、そういう時って痛くないんだよね」

「そんな……」

予想外に血なまぐさい話に関口は言葉を呑んだ。だが、関口から見ると、笠木は話の重みに比しては、なんだか涼しそうな顔をして右手で空のブランデーグラスを弄んでいる。その手はもう震えてはいなかった。

「そして逃げるように家に帰って母の前でそのままひっくり返ったよ。目を覚ましたら病院でね。翌朝自警団のおじさんから、原付の男が頭を砕かれて溝で死んでたと聞かされた」

「つまり……」

「うん、僕が殺した。正直、それを聞いた時は心の底からホッとしたよ……」

――ホッとしただって? 

予想外の返答に関口は唖然として目をパチクリさせた。

「罪悪感とか、うしろめたさは感じなかったんですか?」

関口は驚きと戸惑いで、つい語調がきつくなってしまったと思いながらもそう問う。

「うん、微塵も感じなかったよ。奴がどんなにあがいても、もう僕や僕の家族に害をなす事は無くなったんだ。完全にね…… その事に単純に安堵し感謝した。それに、僕が一体彼に何をした? 僕は最初、抵抗すらしなかったのに……なのに殺されそうになった。もし、奴の死について僕が後悔するという事は、すなわち僕はあの時、殺されていた方がよかったという論理を肯定することになる……」

笠木は抑揚の無い声で一気に話し終えると、窓の外の夜景へと顔を向けてしまった。関口は釈然としないままビールのジョッキを空にした。こんな話を聞いても、夢に出てきた亡霊から解き放たれるとはとても思えなかった。

「おれは…… そんな簡単に笠木さんのようには考えられないと思います」

「うん。そんな必要ないよ。ただ、人間っていう野蛮な生き物が密集して生活しているこの世界は遊びじゃないよってこと。まだまだ僕らが撃たなきゃならない人間が大勢いるのに、そんな事を気に病んでいるなら、一層の事バッジを返してしまった方がいいよ。そもそも、君はなぜこの仕事をしようと思ったの?」

急に真面目な顔で問う笠木を前に、関口はたじろいだ。

「えっと、その……」

「東京という街が一個の人体だとしたら、今その体には幾つもの癌が巣食っている。その癌は、流氓(リウマン。中国語でヤクザ者の意味)や無法者、マフィアとして市民に危害を加えんと、この街の底で蠢いている。僕ら保安官はその東京という体からその癌を、ショットガンという名のメスで切り取る外科医のような存在だ。そして癌は容赦なく摘出する」

あまりに淡泊な概念に関口は反論したくなった。物事はそう単純に運ぶはずがない。

「それは結構ですが、こっちが体張って守ってるのに、市民からの評判はむしろ悪いじゃないですか」

関口が口を尖がらせると、笠木はケラケラ笑い出した。

「ハハハハ、そりゃそうだ。僕等が守るべき対象。つまり庶民、格好つけて言えば市民。まぁ俗に言う一般ピープルって連中はそんなもんさ。連中を守るのが僕らの義務だが、一般ピープルは決して僕らの味方ではないよ。場合によっては敵に組する事も多い」

笠木はさも当然だとでも言わんばかりに言ってのけるので、関口は呆れ果ててしまった。

「さっき、市民を守る為って言ったじゃないですか」

「そう難しい顔するなよ。守るけど、仲間でも敵でもないって事。そういうものだって事を念頭に置いてさえいればいいよ。すぐに判るさ……すぐにね……」

笠木はフォローするようにそう言って笑った。

 目下、自分の精神に影を落としている問題が解決したのか、それともしないのか判らぬまま、関口は椅子の背もたれに深く寄り掛かった。どうやら、今夜の脳細胞にはまだ若干のアルコールが必要なようだ。関口がウェイターにビールのお代わりを注文するため合図をしようとすると、笠木の携帯電話がマナーモードのままブーンと唸りだした。億劫そうな様子で電話に出た笠木だが、薄笑いを浮かべていた表情が一瞬で険しくなった。

「了解、すぐ行くよ……」

短く応答すると笠木はすぐに電話をポケットに放り込んで席を立った。

「事件だ…… もし暇ならば一緒に来るか?」

訳もわからず口をポカンと開けたまま、関口はうなずいた。

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