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北風

 時々強い北風が通り抜け、付近に積もった落ち葉がガサガサと音を立てて舞い上がる。頭上の歪な月は、流れる雲のため先程から顔を出しては隠しを繰り返していた。友人から借りてきた古い安物のナイトビジョン(暗視鏡)はその都度輝度を調整してやらないと、真緑のコントラストで構成された視界は明瞭にならない。保安局から貸与された高性能ナイトビジョンは、見通しの良い背後の丘陵地から監視に当たっているシェリフ(地方保安官)達に貸している。

『……今夜、渉外・広報部のアルバート・シュルツ部長は会見の場で、慎重に処分内容を決定する為に十日間の審議期間を設けた、と説明し……一方、各方面からは抗議や批判の声が上がっており、自治議会の最大会派である……』

音を絞った携帯ラジオのスピーカーからニュースを読み上げる声だけが、紺色のセダンの車内にかぼそく流れていた。

 連合保安官の天津美吹は手にしていたナイトビジョンを助手席に置き、深く息を吐いた。真っ白な息が少しの間だけサイドウインドウを曇らせる。

 運転席に座ったまま少しでも血行を良くする為、ヒールの高いパンプスからタクティカルブーツに履き替えた足をその場で足踏みさせる。彼女はこうして、シトロエン・XMの運転席でもう三時間も、幹線道路わきの冬枯れた森の陰から道路の監視にあたっていた。

 日付が変わろうとしていた。敵が赤外線暗視装置を装備している可能性もあるので、大きな熱源を晒すわけにはいかない。その為、自動車のエンジンを掛けてエアコンを使う事は出来なかった。しんしんと冷え込む今夜、唯一暖をとる手段は胸元に抱えた使い捨てカイロのみだった。

 落ち葉を踏みしめる音が聞こえ、XMの右後部ドアが開いた。

「寒い、寒い、寒い、寒い…… 車の中も寒いですね」

背を丸めて後部座席に転がり込んできた男は、同じ組織犯罪対策部の後輩である松本泰介だった。愛嬌のあるニキビあとの残る丸顔で、やや天然パーマ気味の髪型の若い保安官補は、グレーのステンカラーコートをまるでマントのように頭から被って寒さに震えている。

「シェリフがコーヒーをくれました。天津さんも一杯どうですか?」

松本は肩にかけていた魔法瓶を天津の方へと差し出した。天津は笑みを浮かべて首を振る。

「ありがとう。でも、トイレがちかくなっちゃうから、後でいただくわ。良かったら松本君がお先に」

それではお先にと、松本は魔法瓶からカップへ湯気の立ち上るコーヒーを注ぐ。コーヒーを一口飲んだ 松本は鼻をすすりながら唸る。

「ああ、温かい……」

そんな松本の様子に天津は少し笑いながら、助手席に立てかけたレミントンM1100ショットガンを手にとり、ボルトを引いてきちんと弾薬が装填されているか確認する。

「ちゃんと準備できてる?」

「は、はい。大丈夫です。あつっあああ」

慌ててコーヒーを飲み込んだ松本は熱さのあまり咳き込みながらカップを置いて、ミニ14ライフルを手にとった。

「天津さん、それいるんですか?」

フーフーいいながら口を冷ました松本は、足踏みする天津の膝の上に置かれた日本刀拵えの短い軍刀を見ながら聞いた。

「使わずに済めばいいけれど」

天津はそう言ってコートの内側にある腰のベルトに軍刀の吊紐をつないだ。

 旧青森県地域との暫定境界線から南へ二キロ下った幹線道路で、天津達は北海軍閥支配地域からやってくる密輸入業者を検挙する為に張り込みを続けていた。一時は全面連絡禁止だった軍閥支配地域との交通も、人道的配慮から世連軍と軍閥側の双方の強い管理下においてのみ、一部許可されるという状態になっていた。それは多くの日本人にとっては一見平和的な相互妥協の恩恵であったが、軍閥側からの密輸や浸透工作員の侵入の増加という、東日本総督府にとって新しい問題の始まりだった。

 軍閥の組織的犯罪に打撃を与える為には、ひたすら暫定境界を越境してくる物資を押さえ、経済的損失を被らせる方法が保安局の組織犯罪対策部にできる唯一の道だった。

 その時、無線機のスピーカーが鳴った。

「監視所より各班。幹線道路の南西方面より熱源。八トンクラス以上の有蓋車が三台。こっちへやってくる」

丘陵地で見張っているシェリフの声が無線機から響いた。天津は幹線道路の方へ振り返った。北の軍閥支配地域から夜陰に乗じて不法に境界を越えてくる密輸犯を押さえるべく準備していた為、逆に世連領から青森へと向かう車が網に掛かった事に二人は困惑した。この道の先にある非武装停戦ラインとなっている暫定境界の監視所は、夜間は閉鎖されることになっている。青森方面へ向かう以外に、この幹線道路に入ってくる理由は無いはずだった。

「暗視鏡で確認。トラックは三台、全てヘッドライトを消して時速三十キロくらいで向かってくるぞ。保安官、どうする?」

天津はトランシーバーを持ったまま絶句する。今夜この場を指揮し、決定を下さなければならないのは自分だった。伊月や笠木ならこんな時どうするだろう? 真夜中にライトも点けずに境界線へと向かう車の容疑は決定的だ。だが、天津達の本命は北からやってくる敵を押さえる事だった。

――もしかして陽動?

天津の脳裏にはそんな疑念すら浮んだ。

「あ、天津さん」

一瞬の間の後、天津はトランシーバーのPTTスイッチを押した。

「当該トラックを押さえます。A班は目標がポイント通過後、退路をブロックしてください。先頭はこちらで押さえます。目標へ接近する際は十分に警戒してください」

天津はトランシーバーへ二度繰り返すと、シトロエンのエンジンを始動させる。

「松本君、準備できてる?」

ミニ14を抱えたまま、松本は硬直した顔でガクガクとうなずいた。

「で、できてまーす」

天津は窓を開けて、車の天井に青い回転灯を貼り付けると、アクセルペダルを踏み込んだ。



 東京のインターネットカフェ・ビジネスはここしばらく需要の安定し続けている商売の一つだった。不安定な経済状況と慢性的な社会不安を患っている街には、多くの吹き溜まりや閉ざされた受け皿が必要とされる。

 新橋の歓楽街に面するこのインターネットカフェも、そんな東京に数ある小さな吹き溜まりの一つだった。深夜ともなり一夜の宿を求める者や終電を逃し浮浪している若者等で混雑していた。前島が店内に入ると、やや効かせすぎた暖房の熱気と多くの人間から発せられる体臭がまとわり付いてきた。前島は小さく舌打ちすると、自動会計機で手早く支払いを済ませ、店の奥へと進んだ。パーティションに囲まれた迷路を抜けて、指定された狭い個室に入ると、ドリンクも取りに行かずにパソコンのマウスを掴んで目当ての大手総合ソーシャルネットサービスにアクセスし、事前に用意しておいたアカウントでログインした。専門職種別交流サイトの掲示板へと進むと、前島はブラインドタッチでキーボードを叩いた。


『ID 八紘一宇 さん  アキバでこの前マシンガン乱射した保安官の正体知りたい奴いる? 俺知ってるよ~』


前島はそう一言打ち込むと、リクライニングチェアに頬杖をついて、目を細めてディスプレイを見つめた。しばらくすると、掲示板にはその書き込みへの反応がはじまった。


『釣り乙!』

『脳内妄想厨でも汽車って、つとまるんでつか?』

『知ってんならこの場で晒してみろよ ゴルァ!』

『おせーて、おせーて  と釣られてみるテスト』


前島は表情を変えずに、モニタ上にあらわれる新しい書き込みを流していった。前島が書き込んでから三十分ほどした頃、ディスプレイを睨んでいた前島は前かがみに掲示板を覗き込んだ。


『ID グローバル・アイ さん  ネタでもいいから、詳しくきぼんぬ』


前島は再びキーボードを素早く叩き始める。


『ID 八紘一宇 さん  オーケー。オマイにだけ教えてやる』


前島はそう打ち込み、相手を一対一のチャットへと誘導した。相手との単独チャットが始まると、前島は開口一番相手に聞いた。


『氏名、階級、所属、住所、素行全て教えてやる。今度会えないか?』


しばらくして、相手から返信があった。前島は店に入ってから初めて笑みを浮かべてキーボードを叩き始めた。時刻は午前三時になろうとしていた。



 東の彼方に望む山稜の陰からオレンジ色の朝日が顔を出し、天津の影法師がひび割れたアスファルトの幹線道路を横断するように伸びてゆく。ウォールナット製のハンドガードと銃床を持つレミントンのセミオートマチック・ショットガンを肩に掛け、天津は松本に注いでもらったコーヒーを口に含んだ。もうぬるくなってしまったが、独特の芳香と心地良い苦味が乾いた口内に広がった。天津はコーヒーの風味を噛み締めながら、道路上に横たわる自分達の『成果』を眺めていた。

 荷台に大きなアルミ製の密閉式荷室つけた八トン・トラックが舗装道路の外へと飛び出して止まっている。両側を森に挟まれた片側一車線の幹線道路には、数台の自治警察のパトカーと消防車、救急車が、三台の大型トラックを囲むように止まっていた。天津の目の前で傾いている一台は先頭を走っていたトラックで、道路外に飛び出しシラカバの幹に正面から突っ込んで大破していた。タイヤはライフル弾を受けてペシャンコになっており、運転席の窓とドアは散弾に貫かれて穴だらけだ。

「たった三発で止めるたぁ、お嬢さん、女だてらにいい腕してるね」

 ミロク製の狩猟用上下二連の散弾銃を抱え、ハンティング帽にウールのフリースを着た無精ひげの老人がやってきた。フリースの襟には天津の物とはデザインの異なる金バッジが部造作に引っ掛けられている。国家破綻後の数十ヶ月間、彼はその散弾銃で付近の村と郷を無法者から守ったボランティアのリーダーであり、その経歴を買われ、なかなか行き届かない治安維持を補う為に地方保安官シェリフとして任命された一人だった。

「わたしなんかは、下手な方なんですよ」

天津は微笑んで言った。

「しっかし、いきなり撃ってくるとは思わんかった」

老人の言葉に天津はうなずいた。目の前では地元の警察官がトラックの運転席横に張り付いて、衝突で歪んだドアを、体重を掛けて引っ張っていた。耳障りな音をたてて、ようやく右ドアがひらくと、運転席から作業用ジャンパー姿の男が血まみれになって転がり落ちてきた。男の膝から落ちた拳銃が土の上に転がる。二台目と三台目のトラックは無傷で路肩に停車しており、ドライバー達は後ろ手に手錠を掛けら警察のパトカーに押し込められていた。

「天津さーん、ちょっとこれ見てください」

 警察官とトラックの後部で、厳重に施錠された荷室のドアと格闘していた松本が天津に向かって手を振った。天津はカップをシトロエンの天井に置き、トラックの後ろへと回った。バーナーで焼き切られたロックを外し、アルミ製のドアを観音開きに開く。暗い荷室の中には、大型冷蔵庫くらいの大きさのダンボールに包まれた直方体がギッシリと詰まっていた。コンパクトデジタルカメラを肩にかけた松本が荷室へと這い上がり、ダンボールに印刷された会社名とロゴを確認する。

「ミカミ・エレクトロ…… 天津さん、これミカミ電算の箱ですね」

「納品書が付いているわ」

天津も軽々と這い上がり箱の横に貼り付けられたポリ袋を破って、入っていた紙切れを引っ張り出す。納品書を広げて読んだ天津は、写真を撮り始めた松本へその紙切れを差し出す。

「松本君…… どうやらこれ全部、高性能プロセッサみたいね」

「ぷ、プロ…… なんなんだ、それは?」

シェリフが荷室を覗き込みながら聞いた。

「コンピューターの演算装置の事です。スーパーコンピューターの部品かもしれません。プロセッサは外為法で戦略物資認定されているので、北海道への輸出は禁止されています」

天津は荷台からひらりと飛び降りると、後方のトラックへと歩き出した。

「他の二台も確認してみましょう」



 体制や国境が変わっても、人と物の流動化にはもはや歯止めは利かない。東京には日々多くの人が訪れ、そして多くの人が旅立ってゆく。一階のバス到着ゲートから空の旅を終えた多くの旅行客が大きな鞄やスーツケースを抱えてフロアになだれ込んできた。サラリーマン、ヒッピーくずれ、家族連れ、出稼ぎ労働者…… 多くの人は地下鉄への連絡通路や外のタクシー乗り場もしくは両替カウンターへと散ってゆく。そして外からは、これから出発する人々が東京の至る所から集まってくる。東京シティエアターミナルの普段通りの午後だった。

 平穏を破ったのは耳障りなサイレンと車のサスペンションの軋む音だった。一階タクシー乗り場へ通じる出入り口へ歩いていたツアー客が一斉に左右へ身をひき、道をあけた。その真中を押し分けるように、コートを羽織った私服の連合保安官とUZIサブマシンガンを構え、抗弾ベストを着た制服の保安官補四人が一階のエントランスに駆け込んだ。

「各出入り口は二人で固めろ。逃がすな」

保安官の指示のもと制服二人が出入り口の両側へ立ち、緊張した面持ちで周囲へ警戒の視線を向ける。

 地下鉄の水天宮前駅に繋がる通路からもサブマシンガンとショットガンで武装した保安官補三人が小走りに駆け上がってきた。

「地下通路、固めました」

「よし、後続の班は階上の捜索を開始。用心しろよ」

 外では客待ちのタクシーを追い立てるように、保安局のランドクルーザー五台が青い回転灯を光らせながら急停車し、武装した保安官達が次々と車から慌てて降りてくる。その後に追いすがるように警察のパトカーも次々とターミナルの車寄せに集結する。三階のリムジンバス出発ゲートも後続のパトカーによって瞬く間に封鎖された。

 そして僅か十分の間にターミナルのすべてのゲートが封鎖され、都心と成田、羽田を結ぶターミナル機能は一時、完全に麻痺した。


「かれこれ、二年ぶりか……」

 本局の会議室で、スクリーンに映し出された監視カメラの静止画の男を睨みながら伊月が呟いた。

 箱崎の東京シティエアターミナル一階、到着ゲートロビーの天井に設置した監視カメラ一台がその男を捕らえたのは四時間前の午後二時過ぎだった。映像の撮られた〇・三秒後には、画像データがエレブレイン社開発のテロ・防犯対策用の顔貌認識AIの入ったコンピューターに転送、フィルタリングされ、一秒足らずの間に公安関係の手配リストの一覧と照合された。当たりを見つけたコンピューターは、三秒後にはその類似した容貌の人物が本人かどうか、骨相学的照合の最終判定を下し保安官達へ警報を発した。

 厳重指名手配リストの上位に登録されていたその人物と著しく容貌が似た人物の身柄を確保するため、保安局と警察が現場である東京シティエアターミナルの封鎖をはかった。しかし、警報からタイムラグ八分で現場に臨場した保安局と警察は、二時間に及ぶ捜索と混乱を経て当該人物の捕捉に失敗したのだった。

「正井武幸、四十二才。身長百七十六センチ。髪は黒、虹彩はブラウン。元日本国、陸上自衛隊二等陸佐。防衛大学卒業、第一空挺団所属、そこでレインジャーの資格を取得。その後、陸幕情報局に配属されて間もなく日本国解体。直後に札幌に渡り日本共和国軍に参加し、現在は日本共和国の国土統一局、対外部第三課別室に所属。反世連、反総督府活動に従事。津軽上陸作戦では事前に浸透工作員を潜入させて破壊・サボタージュ活動を指揮。現在、第一級特別手配で対軍閥班と世連の情報局が追跡中」

 事務官が候補と目されるカメラの人物の経歴を読み上げると、プロジェクターが一人の男のID用と思われる証明写真を映し出した。短めの髪を左右に分け、丸い目の男が顎を引いてレンズを見つめている。面長で決して剣呑な印象を相手に与える顔ではなかった。濃緑色の制服を着て、二等陸佐を示す金メッキの桜が二つ制服の胸に留まっていた。

「フィルタリングによれば、正顔狼の顎部オトガイ、頭蓋骨も頭頂部から額にかけての角度、眼窩から上顎までの長さ等、三十三の項目について九十九パーセント以上の適合、その他十八の項目においても八十パーセント以上の数値を示しています。ほぼ同一人物とみて間違いないと思われます」

手配リストにあった証明写真と、箱崎の監視カメラが僅かに五秒間捕らえた画像がスクリーン上で重ね合わせられた。箱崎で撮られた男はサングラスをかけ、顎から頬にかけて濃く口髭をはやしていたが、顎や頬、額の形状は素人目に見てもよく似ていた。

「奴が正井だとすると…… 『ウルトラユキチ事件』以来か」

伊月の隣に座った保安官が独り言を言った。

 会議室の後方のドアから、笠木は身を引くして静かに入ってきて、一番後ろの空席に腰を降ろした。斜め前の座っている伊月が、遅刻した笠木に対し非難の一瞥をくれた。笠木は苦笑いし小声で伊月に詫びながら聞いた。

「昨日の夜も忙しかったんだよ。で、結局、逃げられたんでしょ?」

その言葉を聞いた伊月の額に一瞬青筋が浮いた。笠木は余計な事を言ったと思い、スクリーンへと視線を移した。伊月に、正井のネタは禁物だったのだ……

「正井武幸の所在が最後に確認されたのは二年前の偽造紙幣流通事件の際……」

後席にふんぞりかえり、足を組んでリラックスした様子で話を聞いていた笠木は二年前の偽札流通事件を思い出した。

 総督府財務局の監査チームが偶然、消費者金融経由で大量の偽造一万円札が流通している事実を突き止めた。極めて高い模倣技術で印刷されたその一万円札はウルトラユキチと名付けられたが、総督府が事実を把握した時点で、およそ五億円相当のウルトラユキチが流通していることが判明した。総督府は即座に保安局と自治警察に偽札の発行ルートの解明とその摘発を命じた。捜査の結果、その高精度の偽札は複数の保守系の犯罪組織や暴力団から大量に市場に流通しており、背後で偽札を供給している大物エージェントとして浮び上がったのが日本共和国国土統一局の正井武幸だった。

 北海道の軍事政権が組織的に偽札を送り出し、外貨獲得と総督府の金融の混乱を謀ったという事実は、日本のみなららず世界中に衝撃をもたらした。事態を重く見た総督府の命令の元、保安局による掃討作戦が展開され、十以上の日系犯罪組織からのべ四百人以上を検挙し北海道からの供給ルートの寸断を図ったが、軍事政権側の主要エージェントであった正井武幸だけは逮捕目前で取り逃がしていた。

 その後、一時的に偽札の流入は止まったものの、数ヶ月前には刷新したばかりの一万円札を模倣した偽造紙幣の存在が確認され、その完成度の高さからウルトラユキチA1と名付けられ、保安局の経済犯対策部が現在も解明と摘発の為に奔走している。

 笠木は以前、伊月や今は東北の地にいる天津達と共に、正井を逮捕まであと一歩のところまで追い詰めたことがあった。成田空港でチャーター機のタラップを駆け上がろうとする正井の背後四百メートルから伊月がやむなく狙撃を行ったが、不幸にも弾はすべて逸れた。結局、正井は第三国に籍を置くリアジェットに駆け込み、瞬く間に離陸。それから二年、再び男は姿を現した。

 笠木は伊月の背中を見つめた。おそらく、心中穏やかではないだろう。伊月本人は、スコープ付きのライフルなら仕留めていたと後に語っていたが、笠木は単純に使った銃と距離と腕前の三要素がどれも不適格だったからだと確信している。そもそも、伊月が使うミニ14ライフルは弾のばらつきが大きく、遠距離射撃には不向きな銃だった。それに、伊月自身も狙撃技術を得意とする男ではない。

 笠木はそれを思い出し、体を伸ばしてあくびをしながらスクリーン上の正井を見つめた。

「寒い国から来たファシスト、か…… 今度は一体何をしに来た?」

笠木は正井の両目を睨みながらつぶやいた。



 前島は、とあるショットバーの一番奥のテーブルに腰を下ろし、ビールを一杯注文した。六本木の夜景を臨む窓際の席であったが、ろくに景色も眺めず、ピアノの生演奏にも耳を貸さず、額に皺を寄せて携帯電話の時計を睨んだ。約束の時間まで三十分あった。

 これから自分がやろうとしている事は明らかに法律に抵触する犯罪であった。だが、この仕事が上手くいけば、自分のキャリアには大きな箔がつくことは確実だった。また、自治警察の地位が底上げされれば、いずれ自分が昇進すれば得るであろう方々への影響力を大きくする弾みにもなるのだ。リスクはあってもやる価値はあった。

 デジタル時計の文字盤が約束の時間の十分前を指した頃、自分と同じ年くらいのやや化粧の濃い、紺のスーツを着た女が店内を見回しながら前島のテーブルに近寄ってきた。

「あの失礼ですが、もしかして報道掲示板の……」

女がそこまで言いかけたので、前島は遮るように答える。

「ええ、そうです。チャットで書き込みした『八紘一宇』です。日東新聞の水島さんですね? とにかくお掛けください」

前島がネットワーク上で使ったハンドルネームを名乗ると、女はうなずいた。女が正面に座ると、すぐにボーイがメニューを携えてやってきた。

「同じものを」

そう言ってボーイを追い返すと、女は単刀直入に話を切り出した。

「ネットでおっしゃった事、本当なんですか? 秋葉原事件を起こした保安官をご存知だそうですね?」

前島は無言で革のカバンからB4サイズの茶封筒を取り出し、相手へと差し出した。

「私が誰かということは詮索しないでもらいたい。あなたにとっても不利益となる。あと、当然だが情報はそちらで必ずウラをとってから公表するように」

女は茶封筒から、クリップ止めされた数枚のA4サイズの書類と二枚のプリントされた写真を取り出した。書類に書かれたプロフィールとやや太めの若い男の写真に目を通す。当該人物がまだ配属されて一年も経っていない、自分と同じ新人である事に少し同情したが、自分のスクープの為には情けは不要だ。女は丁寧に書類を封筒へ戻すと、自分のバッグへと仕舞った。

「素晴らしい情報です。確かに頂きました。それで、謝礼のほうは?」

女は感情を込めずに早口に言った。前島は、一見つっけんどんな態度で応対しているが、実際にはこの女がかなり驚きと興奮を押し殺していると見て取った。

「そんなものはいらない。それよりも、国民の知る権利に応えてくれさえすればいい。とかくセンセーショナルに報じてくれれば本望だ」

――世間をいらぬ馬鹿騒ぎに巻き込むことが、貴様らの本業だろう

前島は心中で毒づきながら女に言った。一方女は、「国民」という今時あまり使われなくなった言葉を使う前島を一瞬怪訝な顔で見つめたが、すぐに礼を言うと立ち上がった。

「現実を伝えることが私たちの使命です。事実関係を調べて価値に見合った報道をします」

女はそう言いって頭を下げると、足早に店を出て行った。

 女が店を出ると、前島が目配せするまでもなく公安部の刑事が一人、なんの不自然さも感じさせずにバーのカウンターから女の後を追って店を出た。

「使命です、か……」

 前島はため息をついて肩の力を抜くと、すっかり炭酸と泡の消えてしまったビールを喉に流し込む。

 報道関係者向けのSNS掲示板で餌に飛び付いてきたのが、今の若い新聞記者だった。あまり思慮も深くなく、十分な野心を隠そうともしない女であると、前島は分析した。詳しい身元はすぐに割れる。影響力を評価し、こちらの期待を満たすレベルであれば差し当たり前島の仕事は成功したことになる。

 危ない橋を渡っているという不快感は拭えなかったが、一仕事終え前島は緊張を解いて席にもたれかかった。そこへ、女が注文したグラスビールがようやく届けられた。

 どうせ金を払うのは自分なので、前島はすぐにグラスへ手を伸ばしビールを口にする。ぷはーっと一息つき、生ビールの喉越しを堪能した。

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