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心がすこーし軽くなるお話

My memory

僕がアルバイトをしているカフェには常連客がいる。その女性はまるで太陽のような存在だ。

毎回お店に入ってくる時は「こんにちは!」と長い髪を揺らしながら明るい声で挨拶をして、ニコッと店員たちに微笑む。それから大きな窓の近くの端っこの席に座って書き物をする。注文するのは毎回チーズケーキと紅茶のセット。チーズケーキを食べるときの彼女の表情と言ったらもうたまらない。ほっぺに手を当てて口をへの字にして「うーんおいしい!」と言わんばかりの顔をしてくれるのだ。

しかも彼女はときどき差し入れまでくれた。いつもおいしいお菓子を持ってきてくれて、店員は全員大喜びだった。彼女は差し入れを渡すときに決まってこんなことを言ってくる。

「全然大したものじゃないんだけどね。私はただ甘いもの食べてゆったりしてほしいだけなのよ。みんないつも忙しそうにしてるからお茶飲んで一息ついてほしくて。お節介だけど、私がやりたくてやってるだけだから。」

しかし、彼女の様子がいつもと違う日があった。その日は1日中雨が降り続いていたからお客さんは誰一人いなくて店員も僕1人だった。その時、チャイムの音とともに扉が開いてびしょびしょに濡れた彼女が入ってきた。

「いらっしゃいませ。すごい雨ですね。タオルお貸ししますよ?」

僕が慌てて彼女に声をかけると、彼女の大きな目が私をじっと見つめた。その瞳は微かに震えていて顔色も少し青白かったのだ。私は彼女の表情にぞっとした。

「だ、大丈夫ですか?あの…体調悪いですか?もしよかったら…。」

「違うの!」

彼女が叫んだので僕は驚いて息をのんだ。彼女も自分の声に驚いたような顔をしている。いつの間にか彼女の目には涙が溜まっていた。

「ご…ごめんなさい。私、もう帰ります。ごめんなさい、本当にごめんなさい…。」

「そんな、ちょっと待ってください!」

僕が慌てて引き止めると、彼女は涙と雨でぐちゃぐちゃになった顔を細くて小さな手で拭い始めた。こんなに苦しそうで悲しそうで辛そうな彼女の顔を初めて見た。か弱い彼女を無性に抱きしめたくなる自分がいた。僕は彼女の嗚咽を聞きながら急いでタオルを持ってきて彼女の髪の毛を包み込んだ。ようやく彼女は泣き止んで話せるようになった。

「ありがとう…なんか私、思い出しちゃって。」

「何を…ですか?」

僕が恐る恐る聞くと、彼女は充血した目でじっと僕を見つめて口を開いた。

「自分がこの世から消えようとした日。」

「…え?」

「私ね、今は生き返っただけなの。私は一回だけ死んだことがあるんだ。」

僕がきょとんとしていると、彼女は目を伏せてタオルで身体を拭いてから椅子に座った。

「あの頃はとにかく余裕がなくて。毎日必死に過ごしてた。自分のことなんて見向きもしてなかった。だからもう生きるってどういうことか分からなくなって、今までどう生きてきたか忘れちゃってね。もう自分の心の糸がプツンって切れちゃった。すべてを捨てたくなって、すべてから逃げたくなって、消えようとしたの。」

僕の頬には無意識に涙が伝っていた。彼女の綺麗な横顔がどこまでも儚くて手が届かなくなりそうな気がした。

「でも今はさ、あの頃の経験も、あの頃の死んでた自分も、心から愛してる。あそこを通らなかったら今の自分はいないもの。あれは間違いなく必要な時間だったんだよね、私にとって。」

彼女が微笑みかけてきたので、僕は何度も首を縦に振った。それから慌てて涙を拭った。彼女はいたずらっぽく笑って僕から窓の外に目線を変えた。

「でもおかしいのよ。そんなこととっくの昔に分かってるはずだし、今だって分かってるはずなのに。それなのに…それなのにこうやって怖くなったり切なくなったりする時がある。私って結局分かっているようで分かっていない変な人なんだなってね。」

「変なんかじゃない!」

僕が大きな声を出すと彼女はハッとしたように僕を見た。

「こうやって、思い出す時があったってきっと良いんですよ。楽しい記憶も悲しい記憶も、いつだって自分の心の引き出しに閉まってある大切なものなんです。だからその引き出しがいつ開いたって、何にもおかしくない。ただその時に一人きりじゃなければ良いんですよ。」

僕はいつの間にか彼女の細くて小さな手を両手で包んでいた。彼女の目には涙の膜が張っていた。

「記憶が蘇ってしんどい時は頼ってください。僕はここにいますから。僕はここであなたを待ってますから。」

彼女は僕の手にもう片方の手をそっと重ねた。窓からはキラキラ輝く太陽の光が届いてきた。いつの間にか激しく降っていた雨はピタリと止んでいた。彼女の美しい顔が太陽の光に当たってはっきりと見える。

「ありがとう。私は一人じゃないのね。」

彼女の無邪気な笑顔に僕は微笑みかけて、それからしばらく僕たち2人は太陽の光に包まれながら空を眺めていた。どこまでも澄み切った青々しくて清らかな空を。


辛くてしんどかった過去の記憶がふとした時に蘇ってくる。「過去は過去、今は今」と頭の中では分かってるはずなのに、また苦しくなってしまうときもあったりしますよね。でも、私はそれは自然なことで蘇ってくることは決して変なことじゃないと思っています。むしろ思い出したときに1人で抱え込まないで周りの人に助けてもらいながら(家族でも友達でもお医者さんでも)過ごすことが大切だと思っています。嬉しいことも悲しいこともすべて、過去がなければ今はないんです。どの記憶もまるで自分の子どものように大切なものなんですよね。皆さまにも今まで経験したことすべてが今に繋がっていると信じてほしいと私は心から願っています。

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