3、バンパイアメイド、堂々デビュー
朝の最初の一筋の陽がガラス窓を抜けて寝室に差し込み、イゼルは目を開けた。しかし、その瞳には寝起きの爽やかさは微塵もなく、代わりに疲労がにじんでいた。
そう、彼女は一睡もしていなかったのだ。
その理由は二つ。一つは、昨夜の出来事が過去の記憶を呼び覚まし、気分が沈んでいたから。
もう一つは、ヴィオレッタを監視する必要があったからだ。具体的な理由はわからないが、あの娘が半ば【夜帳】状態に入った時から、確かに彼女の霊性の流失速度は大幅に鈍化していた。つまり、彼女は嘘をついていなかったということだ。
バンパイア一族は元々【夜帳】から生まれた種族であり、個体は皆【夜帳】へ入る能力を持っている。ただ、その上限には差がある。ヴィオレッタの様子からすると、彼女はかなり上限の高い部類のようだ。
そのためイゼルはなおさら気を抜けず、一晩中精神を集中させて監視を続けていた。
幸いなことに、ヴィオレッタは逃げようとはしなかった。
「家に封印を追加しないと。毎日アイツの監視に気を遣ってたら、たまったもんじゃない」
イゼルはぶつぶつと呟きながらベッドから起き上がった。今日の最優先事項はヴィオレッタの素性調査だ。封印のことは帰ってから考えよう。
「はあ~おはよう、小蝙蝠ちゃん」寝室のドアを開け、大きなあくびをひとつすると、イゼルはヴィオレッタに声をかけた。
ヴィオレッタは微かに眉をひそめた。「私は小蝙蝠じゃありません」
「今はそういう名前だ」
イゼルは相手を無視し、勝手に洗面所に入って歯を磨き、顔を洗った。
冷たい水道水が顔にかかると、しつこい疲労感が一瞬で吹き飛んだ。頭が少し冴えたところで、鏡を見ながら、誰にヴィオレッタの情報を聞きに行くべきか考え始めた。
まず教会は論外だ。関連資料があるかどうかはさておき、突然バンパイアのことを尋ねるだけでも適切な口実がない——教会からの任務で墓地で捕まえたとはいえ、今は相手を引き渡したくない。容疑者調査を口実にするわけにもいかない。
次に闇の情報市場だが、これも信頼性に欠ける。バンパイアは普通の人間じゃない。ほとんどの超常事件が教会によって封鎖されているこの国で、民間の情報屋がそんなことを知っているはずがない。
あれこれ考えた結果、利用できるルートはあのバンパイアの“友人”しかいなかった。
歯ブラシと櫛を片づけると、彼女は上着の内ポケットから、額面5の黄銅色の硬貨を取り出した。硬貨の裏側には男性の横顔が刻まれている——エセロン連合帝国の建国の君、ジョージア一世だ。
額面5の「ジョージア一世」を指の間でくるくると転がした後、高く宙に放り投げた。
硬貨が空中で回転する隙に、イゼルは素早く親指で中指の第二関節を押した。すると硬貨の周囲の空間が異変を起こし、傍から見ると分厚い老眼鏡をかけたように、物事がぼやけて遠く感じられた——【夜帳】と現実が重なり合う現象だ。
硬貨は【夜帳】へと飲み込まれた。
一呼吸のうちに、硬貨は完全に消え去った。
これで用は済んだと、イゼルは気分良く指を鳴らすと、洗面所のドアを開けてリビングへ戻った。
「これから出かける」彼女はヴィオレッタに告げた。相手の目がきょろりと動いたのを見て、軽く笑いながら付け加えた。「逃げようなんて考えるなよ。お前も一緒に来るんだからな」
ヴィオレッタは目を見開き、しばらくしてから尋ねた。「どこへ?」
「人に会いに行くついでに、お前の情報を探る」
「……なぜ?私の身分はもう話したはずです」
「口約束だけじゃ信用できねえ」イゼルは当然のように答えた。
ヴィオレッタは唇を結び、首を傾げた。「私の情報を探るなら、なぜ私を連れて行くのですか?」
イゼルは質問には答えず、別のことを尋ね返した。「外に出ても、【夜帳】に隠れ続けるつもりか?」
今この瞬間も、ヴィオレッタは半【夜帳】状態を維持しており、周囲の空間は明らかに歪んでいた。
「……私はほとんど外出しません」ヴィオレッタも正面からは答えなかった。
「腹を満たせば、今の状態は解除できるのか?だって、お前をこんな状態で外に出すわけにはいかねえからな」
「だったら、連れて行かなければいいだけでは?」ヴィオレッタは相手の執着が理解できなかった。さっきからどうかしている。
「私をバカだと思うか?この家じゃお前を閉じ込められない」イゼルは一蹴すると、リビングの隅にあるキャビネットへ歩み寄り、中から注射器を一本取り出した。「とにかく、まずは飲みな。それから【夜帳】から出て、私と一緒に出かけるんだ」
イゼルは深く息を吸い、針を自分の腕に刺すと、たっぷり半分ほど血を吸い上げた。
「これで十分だろ?私の血の霊性は普通の人間よりずっと多い。これで普通の人間の四人分だ。まだ朝飯も食ってないんだ、これ以上抜いたら貧血で倒れちまう」
彼女は針を抜き、ガラスのコップを見つけると、血を全て搾り出した。続いて指を鳴らすと、虚空から燃え上がった青白い炎でコップをあぶった。血と彼女自身の間にあった見えない繋がりが、断たれたようだった。
「ほら、飲め」イゼルはコップをテーブルに置き、向こうへ押しやった。
ヴィオレッタは躊躇った表情を見せたが、結局コップを受け取ると一気に飲み干し、飲み終えると自身を覆っていた【夜帳】を解除した。
やっぱりな……
イゼルの金色の左目が微かに光る。彼女の視界では、ヴィオレッタは風船が割れたかのように霊性を急速に失っていた。しかし、先ほどの補給のおかげで、今の霊性の蓄積はしばらく持つには十分だった。
「腹が満ちたら出発だ」
イゼルの今日の服装は中性的な騎士服と、トレードマークの左目の眼帯。それに加え、防水性の高いコートと帽子を合わせていた。
雨の多いアルビオントンでは、外出の度に傘を持ち歩くのは面倒だ。そのため、小雨なら防げるコートや帽子がアルビオントン市民の定番装備となっていた。
だが、華やかなドレス姿の同行者がいることを考えると……
「持ってろ」彼女は傘を後ろに付いてくるヴィオレッタの胸に押し付け、使用人に指示するような口調だった。
ヴィオレッタも特にこだわらず、傘を受け取るとイゼルに続いて家を出た。
イゼルの家はアルビオントンのニューマーケット地区の端にあり、テラスハウス形式のアパートで、門前に芝生のないタイプだった。
二人は街頭で乗合馬車を呼び止め、前後に分かれて車体に乗り込んだ。
「聖リド墓地まで。途中、ヒストン通りのタランの花屋に寄ってくれ」イゼルは簡潔に指示すると、車体の小さな仕切り板を閉め、御者とはこれ以上話さなかった。
「聖リド墓地?私の情報を探りに行くんじゃなかったんですか?」ヴィオレッタが口を挟んだ。
「墓参りだ」イゼルはタバコの箱を取り出したが、すぐに馬車の中だと気づき、しまい込んだ。「お前、昨夜、元々墓参りに行くつもりだったって言ってただろ?」
ヴィオレッタは驚いてまばたきし、この言葉が目の前のウィッチャーの口から出たとは信じられなかった。
「おいおい、私を何だと思ってるんだ?」イゼルはヴィオレッタの考えを見抜き、ぶつぶつと言った。
ヴィオレッタは思わず軽く笑い、心から感謝を述べた。「ありがとう」
「ちっ……」イゼルは舌打ちすると、それ以上は口を開かなかった。
馬車はイゼルの指示通り、途中で花屋に寄った。ヴィオレッタは無一文だったため、花束の代金はイゼルが払った。白菊が二束だ。
「あなたも墓参りに?」ヴィオレッタが興味深そうに尋ねた。
イゼルはうなずいた。
「誰に?」
「……昔の仲間に」
「あなたたちもそこに葬られるんですか?」
「はあ?私たちだって人間だろ?聖リド墓地はアルビオントンで一番デカい墓地だ。そこに葬られずにどこに葬られるんだ?」
「そういう意味じゃない」
「言いたいことはわかるよ。でも私たちは軍人でも警察でもない。死んでも烈士扱いされて、何がしかの霊園に入れるわけじゃない。私たちはただの鼠さ、下水道で別の鼠どもと戦ってるだけだ。それだけだよ。死んで普通の市民として葬られることすら、最大の名誉なんだ」
イゼルの比喩にヴィオレッタは眉をひそめた。「それであなたいったいなぜ……」
ヴィオレッタは言葉を途中で止めた。今は公共の場で、ウィッチャーの話をする場所ではなかった。
「私が自ら望んだとでも思うか?」イゼルは面白そうに目の前のバンパイアを見た。「自発的な奴もいるかもしれないが、私は違う」
「よし、この話はここまでだ。乗れ」イゼルが自ら話題を打ち切り、花束を手に再び馬車に乗り込んだ。
聖リド墓地に到着すると、二人は昨夜の記憶を頼りに「エラ・ミシェル」と刻まれた墓標の前にたどり着いた。ヴィオレッタは手にした花を置き、短く何かを呟くと、イゼルに続いて別の墓へと向かった。
イゼルが訪れた墓には、何も書かれていなかった。名前もなければ、碑文もない。
「この方はお名前が……?」ヴィオレッタが尋ねると、イゼルは笑い出した。
「あるさ、もちろん。エドウィナ・コナリーだ」
「じゃあなぜ墓石に刻まないんですか?」
「彼女はね、空白にしておけば見た人が必ず質問するだろうって。そうすれば印象に残るだろうって言ってたんだ」
ヴィオレッタの口元がぴくっと動いた。「本当に……個性的な方ですね」
「ああ、そうだ」
イゼルは手にした花を置くと、墓標に独り言を言うつもりはないようで、ヴィオレッタの方に向き直った。
「墓参りは終わりだ。御者さんを待たせすぎられないからな」
イゼルは降車する際、御者に少し待っていてほしいと頼んでいた。その後、別の場所まで二人を乗せて行ってほしいと。最初は渋っていた御者も、金銭攻勢の前にこの要求を呑んでいた。
「私の情報を探りに行くんですか?」
「いや、洋服店だ」
「はあ???今度は何をするんですか?」
ヴィオレッタは、相手の思考のペースに全くついていけなかった。墓参りはまだ理解できるが、洋服店とは一体何のつもりだ?デートか?
イゼルは少々無礼にヴィオレッタのドレスの裾を引っ張ったが、すぐに払いのけられた。「私がお前をこの姿でアイツに会わせるのが適切だと思うか?私がアイツにお前のことを聞きに行くってことは、アイツはお前を知ってるってことだろ?」
言っていることは一理あるような、どこかおかしいような……とにかくヴィオレッタは反論できず、黙ってイゼルの後ろに付き、再び馬車に乗り込んだ。
◇
十数分後、イゼルがメイド服を一件手に取った時、ヴィオレッタは自分が弄ばれていることに気づいた。
「これはどうだ?スカートはもう少し短い方がいいかな?」イゼルは興奮気味に尋ねた。
「全、く、も、の、足、り、ま、せ、ん」
店員がすぐそばにいるため、ヴィオレッタは怒りを抑えねばならなかった。それでも歯軋りが聞こえそうだった。