第1話「ニア・カッツェ」
かつてこの国――ブラックレイ国では、呪術と魔術は双璧を成す存在だった。
呪術師と魔術師は互いに協力し、国の発展に努めてきた。
しかしあるときから呪術は廃れ、いつしかその存在は人々に忘れ去られていった。
◇◆◇◆
「ニア・カッツェ! 本当に役立たずだな、お前は!」
大柄な男性の蹴りが、華奢な少女のわき腹にめり込む。
黒い髪をした少女――ニアは声にならない悲鳴を上げながら、小汚い絨毯の上に倒れこんだ。
「……!」
「よりによって俺が大切にしていた外套を汚しやがって。お前がいくら働いても買えない高級品なんだぞ、これは!」
そう言う男の右手には、大きな染みがついた外套が握られていた。
「ですが旦那様、それは……」
「言い訳をするんじゃねえ! 本当にクズだな、お前はッ!」
男はもう一度ニアの腹を蹴った。
ニアは胃から酸っぱい何かがこみあげてくるのを感じたが、それを吐き出してしまえばさらに男を怒らせると知っていたから、無理やり口を閉じて抑え込んだ。
思えば、ニアがこの家に引き取られてからはこのように暴行を受け続ける毎日だった。
唯一の肉親であった父と死別し、ニアは遠縁だと名乗るこの男に引き取られた。
男には妻と一人娘がおり、ニアは家に連れられるや否や持ち物を全て取り上げられ、粗末な服に着替えさせられると、家の雑事を全てこなすよう命令された。
その命令に少しでも不服そうな態度を見せれば、男の拳がニアの頬を打った。
食事は一日に一度、男の家族が残した残飯の寄せ集めだけ。寝床として用意されたのは庭の片隅にある物置小屋だった。
絨毯に倒れこんだまま、ニアは男の怒鳴り声が止むのを待った。
「魔術のひとつも使えねえ無能なガキが! 住まわせてやっているだけでありがたく思え!」
「パパ、ニアを怒らないであげてよぉ」
意地の悪い笑みを浮かべた少女が柱の陰から出て来て、言う。
男の一人娘だ。
男は表情を一変させ、相好を崩した。
「ロザリー、お前は本当にいい子だなぁ。このクソガキとは大違いだ。お前は魔術も覚えているし、このクズを庇ってやるような気遣いもできる」
「ねえー、ニアが可哀そうよぉ」
「おおそうかそうか。なんて優しい子なんだ。だがな、こんなガキは家畜と一緒で徹底的に痛めつけてやらなきゃ分からねえんだ……よっ!」
再び男がニアの腹部を蹴る。
内臓がつぶれるような衝撃で、ニアは一瞬意識を失いかけた。
ニアは知っていた。男の外套を汚したのは、本当はあの娘――ロザリーなのだと。
あの娘がティーポットを倒し、その中身が外套にかかったせいで外套に染みが出来たのだと。
魔術を使えばその染みを消すことだってできたはずなのに、あろうことかロザリーは男に、それをニアの仕業だと告げ口したのだ。
すべては、ニアが苦しむ姿を見たいという彼女の歪んだ欲求がさせたことだった。
そのせいでこんなことに――とニアは痛む腹部を押さえながら、娘の方を見た。
顔中にニキビのある娘は蔑むようにニアを見下していたまま、意地悪な笑みを浮かべ続けていた。
気が付けば男の怒鳴り声は止んでいた。
ニアは恐る恐る男を見上げた。
「……というわけだ。おい、さっさと荷物をまとめろ」
「は、え、ええと……?」
話の流れが分からなかった。
男は不機嫌そうに屈みこみ、ニアの髪を引っ張って無理やり顔を挙げさせた。
「言っただろうが。お前は明日から宮廷で働くんだ」
男からは強い酒の臭いがした。
「宮廷、ですか……?」
「ちょうどお前くらいのガキを欲しがってるって話でな。なんでも宮廷じゃ王妃たちが次々死んでるんだとよ。それを怖がった下女が次々辞めて人手不足らしいんで、ちょうどよかったのさ。お前はとんでもねえグズだったが、最後にようやく俺の役に立ったな」
ぐははは、と男は下品に笑う。
明日から宮廷勤めだと言われても、ニアには全く現実感が無かった。
だが、娘に向かって、欲しいものはないか、何でも買ってやれるぞ、などと甘ったるい声で尋ねる男の姿を見て、どうやら自分が売られたのは本当らしいと認識した。
◇◆◇◆
ニアには荷物という荷物もなく、ほとんど着の身着のまま宮廷へやってきた。
そして宮廷の下女の衣装に着替えさせられ、再び労働の日々が始まった。
労働と言っても、これまでさんざん理不尽な暴力を振るわれてきたニアにとってはたいしたものではなかった。
食事も一日3食あるし、与えられた部屋は大人数が詰め込まれているという点に目を瞑れば、隙間風や虫が入ってくることもないし、ベッドさえ用意してあったし、今までの環境に比べれば天国のようだった。
そうして宮廷の下女として働きはじめ、数週間が経った頃だった。
「ねえニア、知ってる? 第三王妃の噂」
ニアが炊事場で大量の食器を洗っていたとき、隣で野菜の皮を剝いていた下女がひそひそと話しかけてきた。
彼女の名はファレ。ニアと同室で暮らす下女だ。ニアと歳の近い彼女は、ニアの教育係でもあった。
「第三王妃の? あの、お世継ぎがいらっしゃる?」
「ええ。でもすぐに発熱されて、夜な夜な悪夢にうなされていらっしゃるんですって」
「悪夢……」
「そうよ。それで、せっかく生まれたお世継ぎも高熱が続いているんですって」
「ご病気なの?」
「ええ。王家おかかえのお医者様がいらしているそうだけれど、どんなお薬も効かないそうなのよ」
「大変ね」
「ニアがここへ来る前にも似たようなことがあったのよ。第二王妃と第四王妃が次々に発熱して、そのまま亡くなられてしまったの。生まれたばかりのお世継ぎもね。そのときも原因が分からなくて、みんな呪いじゃないかって」
「……呪い?」
言われてみれば、自分が下女として雇われたのはその呪い騒ぎで人手が足りなくなったからだったとニアは思い出す。
「ええ、そうよ。それで、あのスメラギ侯爵様が原因究明の任務を受けられているの」
「スメラギ侯爵?」
「……知らないの?」
「ええ」
はあ、とファレはため息をついた。
「ニアって何にも知らないのね」
「何にも知らないわけじゃないわ。知ってることだけ知ってるのよ」
「……スメラギ侯爵様は、『イケメン貴族ランキング(ファレ調べ)』堂々の1位を飾る今最も人気のある侯爵様なのよ!」
「へー、そうなの」
「ちなみに『娘を嫁にやりたい貴族ランキング(ファレ調べ)』では、残念ながら2位になっているわ」
「あらら……」
ニアにとって、イケメン貴族など特に興味はなかった。
侯爵など、一生関わることのないだろう地位の人間で、自分には関係のない話に思えたからだ。
「……あっ、見てみて。魔術師様たちよ」
炊事場の窓からは、城の脇を通っていく馬車の列が見えた。
客車には威厳なる老人たちが厳めしい表情で座っていた。
「どうして魔術師様たちが?」
「王女の発熱の原因を調べるためよ。さすがスメラギ侯爵だわ。お医者様に分からないことでも、魔術師様ならきっとお分かりになるわよ!」
「……ええ、きっとそうね」
この炊事場の水道設備もかまどや焜炉も、照明さえもすべて魔術によって成り立っている。
ブラックレイ国の国民の暮らしは魔術で支えられていると言っても過言ではない。
そうした魔術の権威たちが集まっているのだから、解決できない問題などないはず――ファレがそう思うのも当然だった。
しかしニアは奇妙な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
王女たちの死は病気が原因ではない。でも、魔術でどうにかなるようなものでもない、そんな気がしていた。
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連載、始めました。
完結までぶんぶん突っ走りたいと思いますので、ブックマーク等応援よろしくおねがいします!!