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第九章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


 暫く呆然と孝四郎は天井を見ていた。呆然としたまま今度は足元を見た。女物の着物と帯が脱ぎ散らかされている。

 その状態がよろしくないことに気付くのにまた少し時がかかった。この有り様が人に見つかったら、なんと思われることか。

 ――何が「高かった」だ!このまま放っておいてやる!

 そう思って部屋の外へ出ようと障子に手を掛けたとき、話し声が聞こえた。女中の声だ。こちらへ近づいてくる。次々に障子を開ける音がするから、ひとつひとつ部屋の中を確かめていると思われた。

 孝四郎は慌てて天方が脱ぎ散らかした着物と帯を抱え、立ててあった屏風の裏に飛び込んだ。できるだけ小さく丸まり、息を潜めてやり過ごせるように、見つからないようにと祈った。

「変ねぇ。どこへ行かれたのかしら」

 次はこの部屋だ。孝四郎は屏風に己の気配を溶け込ませるべく、頭の中を空っぽにした。

 障子を開ける音がした。

「ここにもいらっしゃらないわよ」

「旦那様も御内儀(おかみ)さんも物好きよね」

「あら、あんなに綺麗なんですもの。無理ないわよ。あたしもドキドキしたわぁ」

 その声に重なって障子が閉まる音がした。


 孝四郎は女中が一通り部屋を確認し、引き返してくるのを待った。

 そうして待つ間に一体どうやってこの着物と帯をここから持ち出したものかと考えた。

 不幸にして、二千石の若様である孝四郎は羽織ぐらいしか自分で着物類をたたんだことがない。しかも女帯は男帯に比べて幅広且つ長い。そうして孝四郎は小物を包める袱紗しか持っていない。頼みの綱は喜八が懐に入れているはずの風呂敷だ。

 喜八がいる表の入り口までどうやって持って行くか。

 暫く考えて孝四郎が思い付いた方法は、帯を適当にぐるぐると己に巻き付け、着物は被衣(かつぎ)のように頭の上から被るというものだった。それならば、少なくともパッと見では孝四郎とわからない。幸い着物も帯も黒っぽい色が地の色だ。その格好でなんとか夜陰に紛れて入り口の土間まで庭を駆け抜けるのだ。

 ――くっそ~!なんで俺がこんな苦労をしなきゃならんのだ!小人目付の仲間はどうした!頼み事するなら、前もって言え!

 考えれば考えるほど納得がいかない。

 しかし、今さらどうしようもない。

 この難局を乗り切ったら天方を追求する、追求せずにはいられない、あのお調子者のふざけた野郎め、絶対に言い逃れさせないぞと、孝四郎は心の中で天方を罵りながら、帯をぐるぐると己の上半身に巻き付けていった。

 なんとか巻き終えると、着物を頭から被った。外の気配を窺いながら、障子の框に手をかけ、そろりと開ける。

 見回せた範囲には誰もいなかった。

 音をたてないように庭に飛び降り、腰を屈めて庭の中を小走りで駆けた。

 と、二人の男の声が聞こえた。

 孝四郎は二人が茂みの前に背を向けて立っているのを確認し、茂みの後ろをそっと通り過ぎようとした。抜き足差し足である。

 ところが、ふいと手前にいる男が後ろを向いた。

 ちょうど孝四郎はその男のすぐ斜め後ろまでたどりついていた。びたりと動きを止めた孝四郎である。

「ん?なんかいるぞ?良い匂いがする……」

「なんかって、何だよ?」

 男が手を伸ばしてきた。孝四郎はしゃがんで、被衣にしている着物の衿をわずかに開けた隙間から二人の男の様子を窺っていた。

「これは……女物の着物?」

 着物に手が触れたらしい。

 男はさらに腰を曲げて顔を着物へ近づけてきた。

 ――先手必勝!

 次の瞬間、孝四郎は飛び上がるように立ち上がり、その勢いで手前にいた男の顎を右膝で蹴った。間髪いれず、降りた直後にもう一人の男の首へ手刀を決めた。猛然と駆け出す。

 どこかで悲鳴がし、誰かが叫んだ。

「火事だー!」

 それが天方が言っていた「騒ぎ」だろうと孝四郎は思った。

 喜八が控えている入り口に通じている土間はもうそこだ。しかし、そこに最後の難関が待ち受けていた。人々が集まっていたのだ。火事という声に皆、入り口から逃げようとしている。

 ――天方、騒ぎ起こすなら入り口から人がいなくなるように起こしてくれ……

 万事休すかと思ったとき、喜八が孝四郎の目の前に土間とは反対方向から現れた。庭にある厠へ行っていたらしい。

 孝四郎はこの幸運な巡り合わせを狂喜乱舞の心持ちであらゆる神仏に感謝した。

「え?火事?」と驚き、急いで土間へ戻ろうとする喜八を孝四郎は呼び止めた。

「喜八、こっちへ来てくれ!俺だ、孝四郎だ。おまえの主だ!」

 振り向いた喜八の口も目も大きく開いた。

「き、き、着物がしゃべった……」

 腰を抜かしそうな喜八に、孝四郎はやっと着物の隙間から目の辺りしか見せていないことを思い出した。

 慌てて孝四郎は頭を出した。

「驚かせてすまん」と孝四郎が言う間に喜八の目がさらに見開かれ、「ひえ~っ」と声を上げて尻餅をついてしまった。余計に驚かせたらしい。

「お、お、お殿様、な、なんでそんなお姿……」

「話はあとだ。風呂敷を出せ。この着物とこの帯を包むんだ」

 言いながら、孝四郎は着物を喜八に放り投げ、近くにあった灌木の陰でぐるぐる巻きにした帯を解き始めた。

「な、中身の(かた)は?」

 喜八の物言いに孝四郎は何を言っているのか理解するのに少し時がかかってしまった。

「そいつの中身は忍びのような格好で、今頃は天井裏を動き回っていることだろう」

 喜八は着物を顔につけた。

 匂いを嗅いでいるのだと、孝四郎はこれまたすぐにはわからなかった。さっき顎に膝蹴りを見舞った男も良い匂いがすると言っていたのを思い出した。

 そう言えば、今日の天方はなんとも言えない良い匂いがしていたと、今頃気づいた孝四郎だった。

「くのいちですか?」

 匂いにうっとりしたような表情で喜八が訊ねてきた。

「それの中身は男だ」

「えっ?」

 喜八が戸惑ったような、なんとも言えない目で孝四郎を見つめてきた。

「お前が今考えたことは間違っている」

「え、いや、あっしは何も……」

「間違っているぞ。いいな、余計なことは考えず、早く着物と帯を風呂敷で包むんだ」

「へ、へい」

 喜八は懐から風呂敷を出して地面に広げ、手際よく着物を折り畳み始めた。

 半兵衛は侍だから、入り口近くの部屋で控えているはずである。半兵衛はどこだと喜八に聞こうとしてはたと思い出した。

「そうだ、義父上……」

 義父のことはすっかり頭から飛んでいた。

「あ、殿があちらにおられます」

 半兵衛の声がした。声の方へ振り向くと、半兵衛が義父と並んで土間まで続く濡れ縁を歩いてくる。

 義父は孝四郎を見るなり言った。

「婿殿、新弥はどうしたのだ?無事か?」

 義父まで天方のことを心配している。考えてみれば当然なのだが、このときの孝四郎は天方の所業に心底腹を立てていたので、冷たく言い放ってしまった。

「とっくに逃げましたよ」



 隈屋の火事騒ぎは何者かの悪戯で、謎のまま終わったらしい。

 二日後のかわら版に大きく取り上げられたのは、火事騒ぎよりも、庭に現れた化物だった。

 かわら版の見出しは「満月の夜の怪異」。

 化物に遭遇した隈屋の手代いわく、身の丈八尺あまり(2m50cm近く)の女の化物だったという。良い匂いがしているのに気がついて振り向くと、被衣を纏う女の五尺ほどの身の丈が一気に八尺までに大きくなったのだそうだ。直後になにやら光り、手代は強烈な痛みを感じ、気を失った。

 火事騒ぎもその化物が起こしたことになっていた。

 そしてその正体は、隈屋源右衛門に弄ばれた女の亡霊ではないかと、かわら版は結んでいた。


 ――こんなものだな。ひとの口もかわら版も。

 真実を知る孝四郎は冷めた気分で重助が義父の命で前日に買ってきていたかわら版を畳の上に放り出した。あくびが出た。

 泊まり番の勤め明けで寝ていた孝四郎が八つ半(午後3時頃)に目覚めたと聞くや、義父は楽しそうにかわら版を持ってきた。

 後で話を聞くと言い残し、義父は隠居仲間の集まりに出掛けたが、本当のことはとうてい言えない。あまりに多くの説明が必要だ。

 化物は見なかった。孝四郎に言えるのはそれだけだ。本当のことだから、声がうわずることも言いよどむこともないはずである。


 あの夜、火事騒ぎのおかげで孝四郎達は早めに帰宅した。前回の多野屋の帰りと異なり、何も起こらなかったが、それが元々襲撃を計画していなかったからなのか、早めに帰宅したためなのかはわからない。


 天方はまだ例の着物と帯を引き取りに来ていない。引き取りに来たら、言いたいことが孝四郎には山ほどある。もう突き止めているはずの下手人の名前を聞きたいと思っていたのに、それすらも果たせず、あんな心の臓に悪い羽目に陥ったのだ。

 ただ、天方の言った通り、昨日の昼間に近藤がいた客間の周辺を孝四郎と奉公人総出で天井裏から床下まで見て回ったところ、客間の床下から謎の紙切れが数枚見つかった。

 紙切れを組み合わせると、どうやら何かの礼に百両支払うという請書(うけしょ)の一部で、孝四郎自身はもちろん、屋敷内の誰も覚えのない内容と紙切れだった。

 孝四郎は暫く「百両」と「礼」という文字を眺めているうちに近藤とのやりとりを思い出した。

 まさかという思いだったが、今頃孝四郎を頼ってきた理由として説得力があった。

 今となっては死人に口無しで確かめようがないが、近藤五百之助が筧の屋敷に一晩囲ってくれと言ってきたのは、この紙切れを床下に潜ませる細工のためだったに違いない。公儀の疑いが孝四郎に向いていると知り、自らの罪をなすり付けるつもりだったのだ。

 もしもこの紙切れが神尾の眼前で見つかったなら、孝四郎は呆然と知らぬ存ぜぬしか言い様がなく、すぐには近藤のことも思い浮かばなかったことだろう。

 なんて奴だと、孝四郎は思った。亡骸は罪人を葬る小塚原へ持っていくのだったと思った。香典も返してもらいたいと思った。

 しかし、香典は実際には故人よりも、残された家族のためだ。

 孝四郎は三人の幼い娘を抱え、不機嫌そうだった近藤の妻女に免じて香典はそのままにしておくことにした。

 この件に関しては、天方の助言は確かに大変ありがたいものだった。

 よく近藤の意図がわかったものだと感心した直後に、天方は自分よりも多くのことを知っているのだと孝四郎は思った。

 そうは言っても、御目付に余計なことは言わないように指示されているらしく、わかったことを言ってくれるとは限らないのだから、教えてくれたことにはきっちりと礼を言ってから、しっかり文句を言うのだと孝四郎は心に刻んだ。


 天方の着物はというと、若干のすったもんだの末に半兵衛の店に置いてあった。

 最初、喜八に長屋門の自分の店に隠しておくよう孝四郎は命じたのだが、喜八は隠さないといけないのなら五兵衛が抜き打ちで店を覗きにくるから無理だと返してきた。

「五兵衛はそんなことをしておるのか」

 孝四郎は初耳だった。

「あっしが新入りだからかもしれやせんけど、賭場を開いたり、いかがわしいことをしていないだろうなと、時々突然お見えになるんです。いない間に抜き打ちで店を調べるとも言われてやす」

 これまでのところ、本当に留守の間に店に入り込んで調べられことはなさそうだという喜八の話だったが、いつ実行されるかわからないと怯えた。そして「お殿様のお部屋なら、御用人様も覗いたりしませんよ」と明るい顔で言ってきた。

「五兵衛よりも見つかってはならない人物に見つかるだろうが!」

 その結果、孝四郎と喜八のやりとりに首を傾げていた半兵衛が中身も訳も知らされないまま、風呂敷包みを預かることになったのだ。


 かわら版を放り出したあとも濡れ縁に胡坐をかいて座り、孝四郎はなんとか天方をやりこめる手はないものかと考えた。

 これまでのところ、天方を焦らせたのは、源右衛門くらいである。しかし源右衛門のような振る舞いは孝四郎にできない。

 源右衛門を思い出したところで、はて、隈屋はどうなったのかと疑問が沸いた。昨日のかわら版を見る限りではまだ普通に商売しているようである。探し物の書付は見つからなかったのだろうか。

 ――あれだけの騒ぎを起こし、ひとを巻き込んでおいて、「失敗した」は許さん!

 孝四郎がさらに色々思いめぐらして怒りを新たにしていると、喜八が駆けてきた。

「お殿様!安生七之助様が例のお着物を取りにお見えになりました!」

 孝四郎はまたもしてやられたと思った。

 ――天方め、俺が腹を立て文句を言おうと待ち構えていると予想し、安生を差し向けてきたな。どこまでも要領のいい奴だ!

 着物は長屋門の半兵衛の店にあるからと、孝四郎は喜八と共に門へ向かった。


 門を入ったところに立っていた安生は、孝四郎を見るなり深く頭を下げた。

「筧様には本当にご迷惑をおかけしました」

「お主が謝ることはない。謝ってほしいのは天方だ。あいつ、お主を身代わりにしたんだな」

 顔を上げた安生はつらそうな表情だった。

「いいえ、違うのです。それがしや山井が書付を見つけることができていれば、天方が宴を途中で抜け出す必要はなかったのです。せっかくあのように探しやすいよう段取りをつけてもらったのに、我々は見つけ出せず、筧様にもご迷惑をおかけし、全く申し訳が立ちませぬ」

 安生の顔が途中からは悔しそうな表情に変わっていた。

「……はじめから話してくれぬか。ここで立ち話するのもなんだから、着物と帯を預けてある半兵衛の店へ行こう」

 この時、半兵衛は片手に例の風呂敷包みを下げて自分の店から出てきたところだった。一瞬「え?」と驚いた顔を見せ、慌てて店へ戻ってなにやらごそごそしていた。

 孝四郎と安生が半兵衛の店の上がり框に腰掛け、店の住人である半兵衛は入り口に突っ立った態勢で安生の説明が始まった。喜八は茶を取りに台所へ走っている。

「隈屋が企みの証しとなる約定を記した書付を隠し持っているのは間違いなく、我々はなんとかそれを見つけだそうとあの屋に何度か潜り込んだのです。ところが、主夫婦の部屋かその近くには大抵誰かがおり、誰もいない時には鳴子(なるこ)が仕掛けられていて、なかなか入って探し回れずで。他の場所にはなかったので、やはり主夫婦の部屋にあるに違いないと……」

 そこで隈屋の奥が手薄になるよう、隈屋が孝四郎と義父への詫びの宴に天方を芸妓として招こうとした時に、隈屋で開くならば引き受けると天方が言ったらしい。

 宴には隈屋の主だった面々が集まるし、宴席に同席しない奉公人も何かと忙しくなる上に、宴が気になって警戒が緩むと踏んでの提案だった。さらには内儀の前なら、自分にあからさまに迫ってくることはないだろうという読みもあったらしい。

 源右衛門も天方の提案は己の言い寄りに内儀を盾に使うつもりだと解釈したようで、あっさりとその提案を受けた。

 当日、天方の予想通り、隈屋の奉公人は宴の間近くに集まり、主夫婦の二部屋にはどちらも人気がなくなった。

 そして、安生と山井が鳴子の仕掛けを外し、あちこち探し回った。しかし、見つからない。踊りが終わるまでに片をつけないといけなかったのに、とうとう二人は見つけることができなかった。

 忍び込んで証拠となる書類を見つけだすなど、後の世では完全な違法捜査だが、この時代には公儀の手の者が上の命により行う分にはまかり通ってしまっていた。さすがに公にはしないが、問題の人物に証拠の品として突きつけるのだ。

 天方は万が一見つからなかった時の対応も考えて安生らに指示していたから、安生は急いで天方へこっそり不成功の合図を送った。

 その合図に天方が自ら書付を探すために動き始めたのが、孝四郎の背中への張り付きに両腕の肩からでろーん……だったのだ。

「……で、問題の書付は見つかったのか?」

「はい。天方が見つけました。建て付けの棚に二重のからくりがありまして……」

 せっかくお膳立てしたやったのに、何やってんだ、あいつら!

 急いで着物を脱いでいた時の天方は頭の中でそんなことをぼやいていたのだろう。

 天方は確かに優秀な小人目付らしい。

 孝四郎はそれまで心の中で積み上げていた天方に言うつもりの文句を幾分か減らした。そして、隈屋は助平心で身を滅ぼしたなと、にんまり顔がほころびそうになるのをなんとか我慢した。

「その書付が太田家が改易にならないために必要だと天方は言っていたのだが、本当なのか?」

 安生は戸惑いを見せた。

「そうですね……改易を免れるかもしれませぬ。御老中がお決めになることですが……」

「証しとなる書付が見つかったのだから、詰めは近いな?」

「はい。本日も天方は町方へ出向いて隈屋とその手の者を捕縛する手筈について話し合っております」

「隈屋の手の者……それは土子紋蔵という浪人のことか?」

 安生は微笑んだ。

「さすがでございます。突き止めておいででしたか」

「自分で突き止めたわけではない。剣術の世間の狭さ故だ。この前襲撃してきたときに、そいつで間違いないと思ったよ。あれほど腕の立つ輩がそうそういる訳がないからな。お主らはもう本当の名前も突き止めているのではないか?」

「はい。潮田伴次郎(しおたばんじろう)といいます」

 孝四郎は思わずのけぞりそうになった。

 どこにも「か」がない。人の記憶とはそんなものなのだ。

「しばらく江戸を離れていたようです。戻ってきたのは一年ほど前ですね」

「今も土子紋蔵と名乗っているのか?」

「徒党を組んでいる仲間は、皆、土子と呼んでいますから、そうだと思います。その多野屋からの帰りにあった襲撃ですが、どうも隈屋の指図ではなかったようです」

「え?どういうことだ?」

「土子が勝手に動いたようなのです。翌朝隈屋が慌てて詫びの使いを出してきたのは、本気だったと思われます」

 山井の一枚岩ではないというのは隈屋と土子のことだったらしい。

「それにしてもお主たちは冷たいな。あの時助けてくれると思っていたのだがな。俺はともかくも、義父上や重助を助けてほしかった」

 安生の顔が一瞬泣きそうな顔に歪んだが、すぐに無表情になった。

「それもまた我らの失態です。お助けすることができず、誠に申し訳ありませんでした」

 安生は無表情のまま深く礼をしてきた。

「どういうことだ?」

「……筧様をお屋敷まで見守るはずの者が土子により手傷を負ったのです」

「なんだと?そんな騒ぎは聞こえてきておらぬぞ。いつも二人いるな。二人は無事か?」

「我々の探索は決して表に出てはなりませぬ。怪我を負った二人は自力で隠れ家へ移動しました。朝までに別の者が血痕を片付けました。一人はしばらく動けませぬが、生きております。一人は……」

 そこで安生は口を閉ざした。必死に感情を抑えている。

「亡くなったのか?誰が?俺の多野屋の行き帰りに供をしていた一人であろう?教えてくれ!誰が土子に襲われて亡くなったのだ?」

「……尾崎です」

 孝四郎は尾崎長次郎の顔を思い浮かべた。頬にそばかすの目立つ、童顔の男だった。

「すまぬ……大事な仲間を俺のために……」

 孝四郎は謝らずにいられなかったが、安生は驚いた顔でかぶりを振った。

「筧様が謝ることはございませぬ。土子を甘く見ていた我々が悪かったのです」

 出された茶も飲まずに帰ろうとする安生を孝四郎は引き止め、半兵衛を母屋へ走らせた。急ぎ香典と見舞金を五兵衛に用意させるためだ。せめてもの気持ちだった。



 御目付、神尾清左衛門が再び筧家を訪れたのは、安生が着物を引き取って二日後の昼過ぎ、八つ頃(午後2時頃)だった。

 その前日に孝四郎の耳に隈屋が町方に捕えられたと聞こえてきたから、御目付の訪問は近いと予想していた。

 前回は御目付御一行がいつ来るか全く予想がつかず、いきなりの訪問に畑仕事を中断し、汚れた長着のまま話を聞く羽目になった孝四郎は、二度と同じ轍は踏むまいと「明日から畑仕事は朝のうちに終わらせ、泊まり番明けでも昼までに起きて羽織袴姿で待ち構えよう」と決めていた。

 そう決めた翌日、さっそく筧家にやって来た御目付御一行は、前回と同じ顔ぶれだった。そのため徒目付は二人いたが、小人目付は四人だった。

 前回安生の隣にいた尾崎の姿のないのが、孝四郎はつらかった。

 前回隣に座っていたことや、二日前に安生が一瞬見せた表情からして、安生は尾崎と仲が良かったのだと孝四郎は思った。安生もまた土子によって友を失ったのだ。

 前回と同じ座敷に通され、同じく上座に座った神尾は、孝四郎の予想に反して全く嬉しそうではなかった。

 神尾の一間程前に羽織袴で着座した孝四郎は、嫌な予感に気持ちを引き締めた。

 ――何を聞かされても驚くまい。



 

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