第八章
食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。
多野屋が持たせた提灯を左手に、孝四郎が義父と肩を並べて若干危ない足取りで多野屋を出たのは五つ過ぎ(午後十時頃)だった。
提灯を一つ喜八に持たせていたが、月がまだ出ていないからと、多野屋が気を利かせてもうひとつ持たせてくれたため、義父と孝四郎の後ろには重助が筧屋敷から持参した提灯を、喜八は源右衛門が持たせた土産の折りを抱えて歩いていた。
義父は良い加減のほろ酔いらしく、歩きながら鼻歌が出ていた。
柳原の土手を右手に見ながら一行はのんびりと西へ歩いていた。
そんなに酒を飲んだのは、思えば光之丞達が殺害された夜以来だった。その事に気がついた途端、孝四郎の酔いは覚めた。光之丞や弥助に申し訳ない気がした。
酔いが覚めた目で見たら、義父の足元があまりに危なっかしい。
肩を貸そうと義父の肩に手を伸ばした時だった。左から刄唸りが聞こえた。
咄嗟に孝四郎は義父を突き飛ばし、自身は提灯を放り投げて横転した。土手にぶつかる。
後ろでも「うわっ!」という声とガツンと何かがぶつかる音がし、ばらばらと何かが散らばる音がした。襲われたのは孝四郎だけではないのだ。
「重助、喜八、番屋へ行け!」
二人が無事であることを祈りつつ、横転から立ち上がりながら孝四郎は叫んだ。
「ひゃーっ」という声と遠ざかる足音が聞こえた。重助の声だった。喜八はどうなったのか。
孝四郎が持っていた提灯は落ちてすぐに灯も消えた。灯が消えるまでの僅な間に相手の姿を認めることはできなかった。
一撃が失敗したとみるや、敵は素早く退いていた。しかしこの場から去ったわけではなく、異様な気配が孝四郎の周りにあった。
真っ暗な中で叫んだり音を出しては相手に位置を教えることになるが、孝四郎は相手の一番の目的は自分の命だと考え、草を掻き分ける音をたてながら土手を這い登った。
月はまだ顔を見せないが、星々が夜空に煌めいていた。目が暗さに慣れてきたら、全くの闇ではなくなった。
しかし前と同様、黒装束であろう敵を目視できないと考え、孝四郎は相手の気配を探した。気になるのは義父と喜八だ。
義父は土手下に倒れているはずだが、相手の気配を窺っているのか、僅かな物音もしない。
どうやら相手は一人ではない。
――二人はいる……三人かもしれない……
孝四郎は自信がなかった。
ひょっとして、一人は重助を追いかけたかもしれない。遠ざかる足音は一人分だけだったし、悲鳴も聞こえていないが、これまた孝四郎に自信はなかった。重助の無事を心から祈った。
互いに気配を窺って暗闇に息を潜める心の臓に悪い状態がどれくらい続いたか。
その潜んでいる間にそろりと刀を抜こうとも思ったが、この暗さでは刀はまさに諸刃の剣になると、孝四郎は思い止まった。
相手が一人ならば抜く方が良い。だが複数だ。孝四郎が刃唸りで相手の動きをつかんでいるように、刀を振るうのは、己の位置や動きを相手に教えることにもなるのだ。相手が二人以上では、却って隙をつかれかねない。そのうえ、孝四郎はできれば捕まえて話を聞きたいと思っていた。
突然、土手の中程に潜む孝四郎の左上方で男が二人取っ組み合う声と音がした。
「うわっ!噛みつきやがった」
直後にゴンという痛そうな音がした。
「何に手こずってるんだ!」
苛立った声がやはり左上方から聞こえた。あの新し橋で聞いた声だ。今度は何かを払うような音がして「あー!」という声が下へ転がり落ちていった。喜八の声だ。
斬られた悲鳴ではなかったことに孝四郎は心から安堵した。
――あいつ、いつの間に土手を上まで登っていたのだ?
白刃に襲われても逃げ出さないどころか、土手に登って相手に向かっていったらしい喜八の心意気と動きに感心しつつ、相手が喜八に気を取られている間にと、孝四郎は声がした方に忍び寄った。
喜八には悪いが、声を出して落ちてくれたおかげで、この辺りにいるのは敵方だけだと確認できた。土手にいる気配は二つ。相手も孝四郎を探している。
――小人目付はどうしたのだ?
孝四郎は今日も多野屋へ行く道中に見張られていると感じていた。山井は見守っているのだと言っていたし、それが嘘であって、引き続き疑われているとしても、もしも孝四郎達が襲われたなら助けてくれるだろうと思っていたのに、今のところ何の動きもない。
――見張っていたのは小人目付ではなく、敵方だったのか?それとも小人目付はあくまでも成り行きを見守るのか?
それにしても、名前も明かさずに出た講釈の帰りに襲ってくるとは、隈屋が悪事に絡んでいると明かしているようなものである。
全く警戒しなかったわけではないが、まさかこんなに早くこんなにわかりやすいことをやってくるとは思っていなかった孝四郎だ。
すぐ左に気配があると気づいた直後に刄唸りがした。またしても慌てて転がる。
後手に回ってばかりだ。しかしこの状態から相手に先んじる手が浮かばない。
夜明けはまだまだ遠い。
孝四郎は頭から足先まで身体中が汗ばむのを感じた。
しかしこの暗さである。相手はおおよその見当で刀を振り回しているだけではないかと思った。そして暗いが故に、味方同士で傷つけあうことがないよう、二人がかりで仕掛けてくることはないと孝四郎は踏んだ。
その時、漸く近づいてくる駆け足の音が聞こえ、仄かな灯りが視界の隅に見えてきた。重助が番屋から戻ってきたのだろう。
孝四郎がホッとしかけたその刹那、またも刄唸りがした。上から降ってくる。孝四郎は一か八か、しゃがんだ姿勢から刃唸りがした方にうさぎ跳びの要領で上体を伸ばして肩からぶつかっていった。素早く足を引き寄せる。
刀が足を掠めたが、孝四郎の勘があたり、頭が相手の大腿に激突した。
相手はうっという短い声を上げ、地面の傾きに沿って斜め後ろへ倒れていった。すかさず孝四郎は相手に組み付いた。胴体に組み付けば、刀を振るうのは難しい。
相手もさるもので、孝四郎を抱えて転がった。土手の斜面はかなりの急勾配だから、少し勢いをつければ下へごろりと転がる。相手は孝四郎が下になったところで、組みしいて刀を振り上げようとした。
孝四郎はその上腕を掴んで動きを止めながら、右足を蹴りあげた。
中途半端な蹴りだったが、相手の内腿に当たり、相手の体勢は崩れた。
孝四郎はすかさず相手の刀を持つ腕を抑えながら乗り掛かった。が、次の瞬間、身体が宙を飛んだ。太股の付け根を強い力で蹴りあげられ、あっさりと孝四郎はひっくり返った。
相手は柔術の名手でもあったらしい。
孝四郎は背中から落ちるとすぐに立ち上がった。刃唸りが聞こえ、思わず大きく後ろへ跳んだ。
ところが地面があると思って足を置いた所に地面がなかった。
「え?」と思う間に孝四郎は落下していた。どしんと尻餅をついた。
「痛て……」
見上げると、星々が円の中に見えた。
なんということか。川の次は穴に落ちたのだ。
「そこで何をしている!」
遠くから声が聞こえた。
「なんとも恐ろしく悪運の強い奴だ」
吐き捨てるような口調の声に続いて、走り去る足音が聞こえた。
孝四郎が腰をさすりながら立ち上がると、穴は鳩尾あたりまでの深さだった。周りを見回した。
襲撃してきた連中の姿は暗闇に紛れて見えず、足音は遠くなっていく。
土手下の道には提灯の明りと番所の役人らしい男達が見え、重助の姿もあった。
一体誰がこんなところに大きな穴を掘ったのか。孝四郎は情けなさと腹立たしさに身悶えしそうになった。
ともかくも、早くここから出なければと、孝四郎は穴の縁に手を置いて体を引き上げた。
「お殿様、ご無事で!」
斜め前方の斜面を喜八が登ってくる。
一緒に登ってくる番所の役人が持つ提灯に照らされている喜八は全身泥だらけだった。着物はところどころ破れている。
「喜八、ケガはないか?」
「へい、大丈夫でやす。お殿様は?」
「大丈夫だ」
しかし泥だらけで着物が所々破れているのは喜八だけではなかった。提灯に照らされた孝四郎を見て、その場にいた一同が笑いをこらえていた。重助も、重助に支えられた義父も笑いをこらえるのに必死の体だ。
同じような格好になっている喜八だけはほっとした顔をしていた。
その様子に孝四郎は一瞬でも喜八を疑ったことを後悔した。
孝四郎は番所の役人と駆け付けた町方の同心に一部始終を端的に語り、憮然として帰路についた。
翌朝、隈屋の使いが筧屋敷にやって来た。ちょうど畑にいた孝四郎はそのまま畑に隠れてやり過ごした。
応対した義父によると、帰りに何者かに襲われたと聞いて、お見舞いだと干菓子の折りを持ってきたという。お詫びを兼ねて宴席に招待するとまで言ってきた。改めて日取りをお知らせすると言い残し、使いは帰っていったという。
今度こそ自分を仕留める気かと、孝四郎は考えた。今更あとへは引けない。受けて立つ。そんな気分だった。
昨夜襲撃してきた例の男が土子かどうか確かめようと、孝四郎は昼過ぎに道場へ稽古に出向くとすぐに望月を捕まえ、いくつか確認した。予想通り、土子紋蔵は柔術もかなりの腕前ということだった。そして、金子道場にいた頃に仲がよかった人物はおらず、今、組んでいるらしい二人とは金子道場を去ってから知り合ったのだろうと言うことだった。
「金子道場に仲のよかった人物がいたら、もっと色々わかっていただろうにな」
光右衛門は残念そうな顔つきだった。
昨夜の襲撃を打ち明けると、望月は道場から人を出そうと言ってきた。孝四郎の用心棒に、である。
「一人では防ぎきれぬぞ。ご家族に何かあったら、どうするのだ」
「まさか忍びのようなことはしないでしょう」
望月の懸念に孝四郎は笑った。しかし望月は笑わなかった。
「孝四郎、ここは用心に用心を重ねることが肝要だ。起こってからでは遅いのだから」
孝四郎は少し考えさせてほしいと返した。
その三日後、隈屋から正式な招待があった。意外なことに、宴席を設ける場所は隈屋だった。隈屋の奥にある座敷で芸妓を呼んでもてなすという。日時は二日後の暮れ六つ。
芸妓と聞いて、孝四郎は暗い気分になった。隈屋の主がどういうわけか芸妓姿の天方に御執心なのだから、この前の多野屋でのやりとりのように、きっと呼びつけるに違いない。
天方には神尾の再燃しかけた疑念を払拭してくれたことに一言礼を言いたい気持ちがあるにはあるが、どのみち源右衛門の前では言えないことである。
孝四郎に招待を辞退したい気持ちが沸いた。
源右衛門と天方が揃っては到底無難な宴になるとは思えない。
この前の源右衛門とのやりとりから孝四郎が思っていることがあった。
――天方と源右衛門、似た者同士ではないか?
義父はというと、芸妓と聞いて行く気満々だった。
「きっと、源右衛門殿が御執心の芸妓を呼ぶでしょうからな。楽しみですな。一体どんな芸妓なのか」
義父はその芸妓が御小人目付の女装であることを知らないのだから、楽しみにするのも無理はない。孝四郎は打ち明けたい衝動にかられたが、そんなことをしたら、もっと厄介なことになる気がした。
望月の心配はもっともだが、隈屋での宴席が予定されている以上、それまでに土子らが孝四郎の命を狙うとは思えなかった。奴らにしたら、隈屋の宴が行き帰りも含めて絶好の機会のはずである。問題はどんな手を使ってくるかだ。
隈屋での宴の前日、孝四郎は意を決し、津留を連れて太田家を訪れた。よねの様子を見るためだ。
万が一にも、隈屋での宴の日に襲撃を受けて暫く動けない身体になった場合を考え、気になることは全部片付けておこうという気持ちがあった。
というのも、新谷家から一昨々日、御袋様が太田家を訪れたという知らせがあったのだ。
多野屋へ義父と出掛けた昼間、孝四郎は御袋様を久しぶりに尋ねた。
孝四郎の頼みに御袋様はよね女を見舞いましょうと快く言ってくれた。自分が同道すると申し出ると、御袋様は笑って女同士の方が良いと孝四郎の申し出を断り、出掛けたら知らせると約束してくれたのだ。
御袋様が何か良い助言をしてくれたことを期待し、できればよねにその内容を尋ねたかった。
孝四郎が驚いたことに、よねは孝四郎と津留を明るい笑顔で迎えた。やつれ具合も前に会った時からひどくなってはおらず、顔色は明らかに良くなっていた。
よねのそんな笑顔を見たのはいつ以来だろうと孝四郎は感慨深かった。御袋様の見舞いは予想以上の効果があったようだ。孝四郎は嬉しかった。やっと役に立てたのだ。
いつものように、よねは濡れ縁に腰かける孝四郎と津留を茶でもてなした。この日も正之助が左門に剣術の手解きを受けている声が聞こえた。
孝四郎は庭を眺めながら、津留とよねの番士の妻女らしい会話を黙って聞いた。
と、そこへすえが「おかあさまぁ」と現れた。昼寝から目覚めたのだ。孝四郎は前によねが号泣した日を思い出した。その時と同様に、すえのあとからやはり子守りが顔を出した。
その顔を見た孝四郎は、「あっ!」と声を上げて立ち上がってしまった。
なんと、あの豊島町の裏店で見た、目が大きく丸顔の女、なみだったのだ。腕には赤子を抱いている。
驚きのあまり突っ立っている孝四郎に、よねの穏やかな声が聞こえた。
「筧様はなみ殿をご存知でしたか」
「い、いや、ちらと見たことがあるだけなのだが……」
孝四郎はやっとなみからよねに目を移した。
「これからは節約しないといけませぬ。なみ殿にはみつとこの屋に住まいし、すえの子守りもしてもらうのが一石二鳥だと思ったのです」
「みつ?」
「殿の次女、末娘の名前です。そこまではご存知なかったのですね」
よねは微笑んだ。
「実のところ、光之丞は、身共になみ殿のことは何も申されなかったのだ」
そう言いながら、孝四郎は、大きな秘密を打ち明けられてはいなかったことに、果たしてここに友人として現れ続けてよいものかと迷いが出ていた。
「筧様は真面目な御方だから、打ち明けられなかったのでしょうね。津留殿は本当に良い旦那様を得られました。大事になさらないと」
よねの言葉に津留は頬を赤らめてうつむいた。
孝四郎もよねの「良い旦那様」に照れてしまった。
「そ、それにしても、よくぞ、そのご決断をなさったな……」
「筧様のお母上様とおこう様のおかげでございます。どちらも筧様のおかげですね。改めてお礼を申します」
よねは孝四郎に向かって深く頭を下げた。孝四郎は慌てた。
「いや、身共はただ伝えただけで……」
「お義母上様やおこう様がどのようによね様をお助けに?」
津留が好奇心丸出しの顔で尋ねた。よねは津留より三つ年上なので「様」付けだ。
「無理をしないこと、自分の気持ちに嘘をつかないこと。筧様のお母上様のそのお言葉が気づかせてくれました」
「よね様はご自分のお気持ちに嘘をついていたのでございますか?」
「そんなつもりは毛頭ありませんでした。ですが、御家のことを考えてなさねば成らぬことをやっているつもりが、いつの間にかわたくしは自分のことしか見えなくなっていたのです」
「……よくわからないのですけれど……お家のため、ご家族のためと思っておやりになったことならば、ご自分のことしか見えなくなっていても、何も困ったことにならないのでは……」
よねはかぶりを振った。
「自分のことしか見えなくなっていると、本当に御家のため、家族のためになることかできなくなってしまうのです。殿や子供達、家臣達が何を考え、何をどう感じ、どうしたいと思っているのかが見えなくなってしまうのです。そんな時に相手のためと思い込んで口にすることは、相手の心に届かない……たまたま同じになることがあるかもしれませぬけども、遅かれ早かれ、どんどん逸れてゆく……何もかもすれ違っていく……」
よねは遠い目をした。この数年間に光之丞との間にあった様々な出来事を振り返っているのだと孝四郎は思った。
よねが津留に顔を向けた。
「してほしくないことをされても嬉しくないでしょう?してほしくもないこと、不要なことをされて津留殿は感謝する気持ちになりますか?」
津留は少し考えてから、控えめにかぶりを振った。
「むしろ腹を立ててしまうかもしれません。わたくしは気の短いところがありますから」
津留の答えによねは優しい笑みを浮かべた。
「わたくしは自分で自分を縛り、殿をも縛っていたのです。そのことにもっと早く気が付いていたら、このようなことにはならなかったかもしれませぬ。おこう様は本当に御家のためになさねば成らぬこととはどういうことかを教えてくださいました。やはり無理をしてはいけないと申されました。わたくしにはまだその辺りの案配がわかっておりませぬけども、気付くことが初めの一歩だと、わたくしはもうより良い道へ踏み出していると、励ましてくださいました……」
よねは涙ぐんでいた。
御袋様と話している時にも号泣したのではないかと孝四郎は思った。そんなよねを御袋様は優しく、本当に必要な言葉をかけて立ち直らせたのだろう。孝四郎にも津留にもできないことだ。
「わたくしにはよね様はいつもご立派です。見習わなければと思うことばかりでございます」
「ふふ。津留殿はご自身に正直ではありませぬか。わたくしの轍は踏みますまい」
よねの言葉に津留は心底驚いていたが、孝四郎には理解できた言葉だった。
――そう、津留は正直だ。自分の気持ちに嘘をつかない。無理もしていない。しかし、それは婿を取り、実家に居続けているからかもしれない。
母や御袋様の助言を心しておかないといけないのは、津留よりも自分ではないだろうか。そう孝四郎は思った。
ともかくも、太田家内の問題はひとまず解決した。残るは、そして最大の問題は、光之丞が殺された理由だ。太田家がお取り潰しになるようなことが無いようにしないといけない。正之助が連座されることがないようにしないといけない。そんなことはなにがなんでも防がねば。孝四郎はその思いを新たにした。
隈屋での宴席に孝四郎は半兵衛と喜八を供にして出掛けた。義父は隈屋が手配した駕籠に乗り、孝四郎は駕籠を断って義父の駕籠に付き添うように歩いて行った。
今回はきっちり送り迎えするというのが、隈屋の多野屋からの帰りに危ない目に遇わせた対策らしい。
だが、駕籠に乗っている方が襲撃があった時に防ぎにくいと、孝四郎は思う。
それに、大柄な孝四郎はそもそも駕籠が苦手だ。歩くのも早いから、わざわざ窮屈な思いをして駕籠に乗る必要がない。襲撃に備える点でも歩くのが一番である。
隈屋は神田の佐久間町にあった。表側は三間しかなかったが、三間の幅が途中から十間になり、奥行きは十五間以上もある大きな町屋だった。鉤型に建てられた家屋に沿って奥の方まであるという細長い庭は、濡れ縁からの眺めが良いように設計され、きれいに手入れされていた。
源右衛門夫婦に息子、筆頭番頭が入り口にずらりと並んで孝四郎達を出迎え、彼らが孝四郎達を挟む格好で案内された座敷は店の二間奥だった。広さは十二畳あった。日頃は六畳の二間として使っている部屋だろう。
座敷に座ったところで、隈屋の面々の簡単な紹介があった。
源右衛門の内儀のさとは源右衛門と同年齢で、四十をとうに過ぎていると思われたが、なかなかの美形だった。息子の源太はどちらにも似なかったようで、思いのほか平凡な顔立ちをしていた。筆頭番頭は「かねぞう」と紹介され、孝四郎の頭には「金蔵」の漢字が浮かんだが、兼ねる蔵の兼蔵だった。この兼蔵が惣右衛門の末の弟であった。
兼蔵も商人らしい、愛想の良い挨拶をしてきた。惣右衛門の口からほとんど何も聞いていないから、孝四郎は無理することなく、無難なやりとりで挨拶を済ませることができた。惣右衛門があまり話したがらなかったということは、何か問題のある人物に違いない。
料理は多野屋よりも隈屋に近い平右衛門町にある河内屋の仕出しだという。河内屋は数年前に開店したばかりの、なかなか評判の良い料理茶屋だ。隈屋が多野屋と並んで気に入っている店らしい。
孝四郎と義父が上座に座り、隈屋夫妻が孝四郎の斜め前、息子と番頭が義父の斜め前と、コの字の宴席だった。
気楽な宴ということで、最初から酒が大いに振る舞われ、一の膳を食べたところで、芸妓が到着した。
孝四郎が恐れていたとおり、三人現れた芸妓の一人が天方だった。これまた予想どおり孝四郎を見ても天方は知らんぷりだった。
芸妓は男の名前を持つ。まさか新十郎と名乗るまいと思っていたら、天方の芸者名は『新弥』だった。他の二人は『為吉』と『百太』と名乗った。
天方は裾に黒と金銀と見間違う色で花鳥を描いた紫根色(明治以降に「紫紺色」)の着物に黒地の帯をしめての黒羽織と、この日も粋で渋かった。為吉は紺地に草花と川の模様、三人の中で一番若いと見える百太は藤色の地に花模様の着物で、三人並んだ姿は浮世絵に残したいと思うような美しさと調和を見せていた。孝四郎も少しばかり見惚れた。
本物の芸妓と並ぶと、当然線の太さが目につくが、この日も天方は見事な化けっぷりだった。
今日の化粧は御新造だなと孝四郎は思った。
源右衛門が芸妓に今夜の客を紹介するとき、孝四郎の番で、これまた案の定、ひょっとして顔馴染みではと『新弥』に振った。
「いいえ。こちらのお殿様とはお初でございます。どうぞ今後ご贔屓に」
シラの切りようはさすがだった。深く一礼して顔をあげると、天方は軽い笑みを浮かべた。
「これは、これは見目麗しい!源右衛門殿が御執心なのはこの新弥じゃな」
義父の楽しげな声に思わず孝四郎はその顔を見た。目尻が下がっている。
――義父上は男だと気が付いていないのか?こういうのが好みなのか?
孝四郎が義父に気を取られている間に源右衛門と天方のやりとりが進んでいた。
「あんたがぞっこんの旦那は一体誰なんだね?あちらの御前様と似ておられると思ったがねぇ」
「背格好は確かに似てますわね。あの人も大柄だから。でも顏が違いすぎます。あの人はもっとキリッとしてますの。あんなとぼけた締まらない顔じゃありません。わたくしが惚れこむくらいなんですから。ふっふっふ」
「御前様を前になんということを言うのだね」
自分のためとわかってはいても、自覚はあっても、はっきり言われると人はそれなりに傷つく。
義父も源右衛門と天方の会話に加わり、二人が『新弥』の惚れこんでいる相手を追及し、自身が天方によって貶められている間、孝四郎は手酌で黙々と酒を飲んだ。三味線と唄が始まり、芸妓が踊り始めたところで、漸く目の前の膳から顔を上げた。
一曲目は百太だけが踊り、天方が三味線で為吉が唄、二曲目は為吉と百太が踊り、三味線も唄も天方だった。確かに天方は三味線も唄もうまかった。それまで音曲に聞き入ったことのほとんどなかった孝四郎がつい聞き入った。
ふと周りを見回すと、源右衛門も義父も、源右衛門の内儀も息子も兼蔵も、皆、踊り手より天方の方を見ていた。
源右衛門の目付きは確かに怪しい。下心見え見えの気がした。しかし内儀の目があるのだから、ここでは何もできまい。そう思いながら、その内儀を見たら、内儀の目も旦那に劣らず怪しかった。明らかに新弥を男と見て、熱心な視線を送っている。
孝四郎は複雑な夫婦のいさかいが起こりそうな予感にほろ酔い気分が飛んで、背筋が寒くなった。
とばっちりだけはうけたくない。そう思う一方で天方が源右衛門夫婦をどうあしらうのかが気になった。他人事なのに変に緊張し始めた。
――我ながら、何を気にしておるのだ。俺には関わりのないことだ。
三曲目は天方が踊るのかと、何故かさらに緊張した孝四郎だったが、唄と踊りは二曲で終わりだった。
座敷にいた全員が拍手し、天方は女振りで丁寧な礼をした。
その後、為吉と百太は客の間を動いたが、源右衛門夫妻は『新弥』を間に挟んでどちらも譲ろうとせず、やたらと酒を勧めている。
その様子に、孝四郎は酒に何か入れているのではないかと疑った。思わず自分が飲んでいる酒を見た。別に色も味も匂いも変わったところはない。
孝四郎の膳に新しい徳利が置かれた。
毒か変な薬は入っていないか確かめようとその徳利に手を伸ばした時、どんと誰かが後ろから孝四郎にぶつかってきた。あっと思うまもなく徳利は膳から落ちて床に転がった。
孝四郎はぶつかってきた輩を背負う形になり、そいつが耳元で囁いた。
「お酒に毒は入ってませんよ。ご安心を」
天方の声だった。
だらーんと黒羽織の腕が孝四郎の両肩からぶら下がった。
「お殿様、申し訳ございません。酔ってしまって……外へ連れていってくださいませぬか。お殿様ならば、軽々とわたくしを連れていってくれましょう?」
いつのまに源右衛門と内儀の間からここまで移動してきたのか。
騒ぎが動いてくる気配はなかった。突然の背中への張り付きだ。
孝四郎は呆気に取られた。
「御前様にそのようなことをお願いしてはいけませんよ。あたくしが連れていってあげましょう。さ」
源右衛門の声がした直後、孝四郎の肩からぶら下がっていた腕が瞬時に組まれ、その腕で孝四郎は首を締められた。源右衛門が孝四郎の背中から天方をはがそうとしたのを天方は孝四郎の首締めで……もとい、首を頼んで逆らったからだ。
「ぐえっ……」
孝四郎は慌てて首から天方の腕を離そうとその腕に手を掛けたが、そこは天方も本性を少しばかり見せてがっしりと腕を組んで抵抗し、源右衛門も本気ではがそうとしていたから、それ以上首にくいこまないようにするだけで精一杯だった。
「ぐ、ぐるじ……」
――俺を巻き込まないでくれ!お主なら、源右衛門の一人や二人、軽くあしらえるだろう!
心の叫びが届くわけもない。いや、そんなことは百も承知でこの所業か。
さすがに隈屋の内儀と義父が止めに入った。
「あなた、御前様の首を締めてますわよ!」
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて」
やっと孝四郎の首を絞めていた腕が弛んだ。
「では、酔いざましは儂が連れていってしんぜよう」
何故か義父が名乗り出た。いや、この面々では自分が一番無害だと踏んでの名乗りだったろうが、孝四郎にはどうにも話がややこしい方に進んでいる気がした。
天方はまだ孝四郎の背中に張り付いている。
「おい、離れろ。離れてくれ」
小声で言った孝四郎に、
「いやですぅ~」
天方は酔ったふりで答えてきた。
――こいつ、本当に一発殴らないと気が済まなくなってきた……
と思っていると、耳元でまた囁いてきた。
「筧様にお手伝いしていただきたいことがございます。このままわたくしとこの座敷を出てくださいな」
囁きながら、でろーんとまた両腕を垂らし、顎を肩に置いてきた。
「し、仕方がない。ともかくも一度濡れ縁へ出よう」
孝四郎は横に置いていた刀を手に取ると、それを杖代わりによっこらせと立ち上がり、天方を引きずって座敷を出た。冷たく鋭い視線を複数感じた。
「いい加減、自分の足で歩け!」
濡れ縁へ出たところで孝四郎は天方の頭を小突いた。
「ダメですよ~。もっと向こうまで行かないとぉ~」
相変わらず酔ったふりで返してきた。
かなりの細身だが、きっちり鍛えているから、見た目よりは重い。孝四郎は腹が立ちながらずるずると天方を引きずって暫く濡れ縁を奥向きへ歩いた。
空には高く満月が輝いていた。その明かりに照らされた庭の緑も濡れ縁も、青白く光って見える。
障子が開いている部屋の前へ来た時だった。天方はすっくと立ち上がると同時に孝四郎の腕をつかんでその部屋へ連れ込んだ。素早く障子を閉める。
満月のおかげで障子を閉めても部屋の様子が見てとれた。客間だろうか。右奥に屏風があるだけで、他には何も無い部屋だった。
「急がないと……」と言いながら、天方はさらに部屋の隅に孝四郎を引っ張っていった。そこで羽織を脱ぎ、さっさと帯を解き始めた。
「な、何をしようというのだ?」
「書付を探すんです。太田家をお取り潰しにしたくなかったら、手伝ってください」
「書付を探すって、俺が?」
「もちろん、わたくしが、です。筧様にはこの着物と帯を預かっていだだきます」
「え?」
「必ず取りに伺いますから、途中で放りださないでくださいね。高かったんですから、この着物と帯」
と言っている間に天方は着物を脱ぎ終えていた。着物を脱いでどうするのかと思っていたら、半襦袢と黒の股引き姿になっていた。
頭と顔は「見目麗しい」芸妓だから異様な格好である。
「いつも下に股引きを履いておるのか?」という素朴な孝四郎の問いかけに「そんなわけないでしょう!」と苛立った小声で返した時も、天方の手は動き続けていた。素早くまた羽織を着込むと丸くげの帯締めで羽織の上から腰の辺りをくくった。次に懐から襷を取り出して羽織の袖を絞り、さらに黒っぽい風呂敷を取り出し、その布で頬かむりをした。
「筧様、天井裏へ上がりますので、ちょっと背中をお貸しください」
「え?」
「早く!背中にわたくしが乗れるように!」
太田家のためと言われたことと天方の勢いに押され、孝四郎は言われるまま、膝に手をついて腰を曲げた。
どんっと天方が背に乗った。
顔を横に向けて何をしているか見ると、天方は天井板の一つを外していた。外した縁に手を掛けると、さっとそこへ身体を引き上げた。あっという間に天井裏に上り、そこからまた顔を覗かせた。
「もうすぐ騒ぎが起こるはずです。その騒ぎに乗じてここを出てください。その着物と帯、お願いしましたよ。あ、それから御屋敷に戻られたら、近藤様がいた辺りを中心によ~くお調べになることです。たぶん、妙なものが見つかると思いますから。では」
そう言い残して天方の姿は天井裏に消えた。穴にはまた板が置かれた。