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第七章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


 筧屋敷の客間は式台から二間奥にある。そこに通された近藤五百之助は、塀際をうろうろしていたときとあまり変わらず、落ち着かない様子でいた。孝四郎が着替えている間に女中が出した茶を三杯もお代わりしたという。


 着替えながら、孝四郎は近藤を屋敷にいれたのは、早計だったかもしれないと気づいた。このことが目付方に知れれば、神尾の孝四郎への疑いを濃くするだろう。

 そもそも、近藤が何故自分を頼ってきたのかも疑問だった。

 しかし、尋ねたいことがありすぎる。この機会を逃すことはできない。

 筧の屋敷周りをうろうろしているのを見つけたのだから、疑惑云々でいえば、筧屋敷に近づいた時点で神尾の疑惑は再燃していることだろう。

 四日後の多野屋行きは、覚悟のうえだった。目付方に頼らず、自ら下手人を確定させようと心に決めたのだ。

 天方や安生は孝四郎の潔白をわかってくれているらしいことが頼みの綱である。


「実は今日は貴殿のお屋敷へ伺いました。貴殿とは一度話をしたいと思っておりましたので」

 孝四郎は、光之丞と同じく二百俵の禄を受け、代々大番組の番士を勤めてきた家に生まれた男の顔を睨みつけながら言った。孝四郎より三歳年上だが、目上扱いは要らないだろうと思っていた。

 近藤五百之助は俯いていたところから、ぎょっとした顔を孝四郎に向けた。

「や、屋敷はどんな様子でしたかな?」

「門番に貴殿が留守と聞いて言伝てを頼んだだけだから中の様子は存ぜぬが、いたって静かで、特に変わったところはなかったようにお見受けした」

 近藤五百之助はほっとした風を見せた。

「何を恐れておられる?供の一人も連れず、当家へ一晩匿ってくれとは、只事ではありますまい」

 孝四郎は言葉遣いだけは丁寧に、腕組みしながらの大きな態度で尋ねた。

「光之丞から何かお聞きではないですかな?」

 孝四郎の問いには答えず、反対に質問してきた近藤五百之助に孝四郎は苛立った。その苛立ちが睨み付ける目をさらに厳しいものにしただろう。

 近藤はびくりと肩をすくめて、またうつむいた。

「身共は光之丞から貴殿の名さえ聞いた覚えがありませぬ。貴殿が光之丞の口を封じていたのではありませぬか?なぜ光之丞は殺されたのです?貴殿はその訳をご存じでは?だからこそ恐れている……」

 近藤五百之助はうつむいたままだ。

「貴殿も光之丞のように殺されるのではないかと思っておられるのでは?」

 近藤はそこで驚いたように顔を上げて孝四郎を見た。

「いや、身共が恐れているのは……」

 孝四郎は近藤の次の言葉を待ったが、近藤はそれきりまた視線をそらして口をつぐんだ。

「御目付ですか?」

 孝四郎は畳みかけた。だが、近藤はすぐには答えなかった。間をおいて小声で何か呟いた。

「何と申された?」

「身共は騙されたのです……」

「騙された?誰に?」

 近藤は沈黙した。孝四郎は問いを繰り返した。

「誰に騙されたのです?」

 近藤は答えない。

「まさか騙された相手もわからないというのではないでしょうね?」

「いや、誠に面目ないが、その通りなのでござる。身共が頼まれた相手も、別の誰かに頼まれたと申し、そこから先がわからず、申し開きもできぬ」

「何をしたことへの申し開きです?公金を横領したことですか?」

 孝四郎は仕掛けてみた。近藤はまた顔を上げて孝四郎を見た。その目を見開いた。

「公金?御金蔵の貨幣のことですか?横領など、とんでもない!そんなことはしておりませぬ」

 孝四郎はまたしても面食らった。

「では貴殿は何の申し開きをしたいのです?」

「頼まれた荷を右から左へ動かしただけなのですよ。身共も光之丞も……」

「それで大金を手にした?」

「大金などでは……」

「いくら礼金として貰ったのです?五十両ですか?百両?」

 百両と言った時にわずかに近藤が身動ぎしたのを孝四郎は見逃さなかった。

「荷は何だったのです?まさか中身を知らずに引き受けたわけではないでしょう?動かすだけで百両もの礼金を貰えるということは、その荷物が百両以上、おそらく千両以上の値打ちがあるからでしょう。なのに、なんの疑いも持たずに引き受けたと申されるのか?」

 孝四郎は腹が立っていた。近藤にも光之丞にも、である。呑気な自分でも怪しいとわかることに乗ったのか、と。

 ――それでは申し開きなどできぬ!

「近藤殿、身共の問いに答えてくださるのが当家に一晩匿う条件です。答えていただけないならば、即刻この屋敷から出ていただく」

 孝四郎の強い口調に近藤は慌てたように顔を上げた。

「本当に中身は知らなかったのだ。詳細を詮索しないことも条件の一つだったし、言ってきた相手が相手だったから……」

「その相手とは?」

 近藤はまたうつむいた。

「申せませぬ。それもまた約定のひとつ……」

「この期に及んでも?」

「その相手の素性が偽りだったのですよ。ここで偽りを申しても仕方ないでしょう。身共も光之丞も騙された。それが真実です」

 孝四郎も光之丞が悪事と気づかず騙されたと思いたかった。しかし、百両もの礼金を中身を知らせず運ばせようとするのは、頼まれた方が疑念を抱かないわけがない。その後ろ暗さに気づかないわけがない。

 天方が否定しなかったことからも、光之丞が悪事に巻き込まれたのは大坂でのことだ。そして問題の荷とは、おそらく大坂から江戸の方角に陸路で運ばないといけないもの、あるいは船で運ぶよりも陸路の方がよかった物だ。孝四郎にはやはり旧貨幣の気がした。旧貨幣は以前も今も各地から江戸と大坂に集められているのだから。

 金銀を新貨幣よりも多く含む旧貨幣の取引はいずれ額面以上になることだろう。それくらいは世事に疎い孝四郎でもわかることだ。

「偽りもなんらかの手がかりになります。その頼んできた相手というのを教えていただきたい」

 近藤はとうに空になっている湯呑に手を伸ばした。空だったと思い出したらしく、伸ばしかけた手を膝に戻した。

「光之丞達を斬殺した男については?何かご存知では?」

 今度は石のようになった近藤だった。何者か知っていると孝四郎は思った。しかし口を割らせるのは簡単ではなさそうだ。隈屋と義父の登場に気を取られ、天方に例の男が何者か尋ね損なったことを孝四郎は悔いた。尋ねたところで、まだわかっていないと言われたかもしれないが。

「なみ殿を光之丞に目会わせたのは貴殿と聞いたが、誠ですか?」

 このままでは埒があかないと、孝四郎はさらに質問を変えてみた。

 近藤はいくぶん肩の力が抜けて見えた。

「光之丞が退屈していたので、遊郭に誘ってみたのでござる。あのような光之丞は初めて見ましたぞ」

 近藤五百之助はにやにやと笑いを浮かべた。

「身共からは羨ましい限りの美貌の奥方でありますが、どうも気が合わなかったようで……」

 孝四郎は違うと心の中で叫んでいた。

 ――光之丞はよね殿を好いていた。自慢の妻だった。気が合わないことを匂わせたこともない。俺の前でよね殿のことを話す光之丞に嘘はなかったはずだ。いくら呑気な俺でも嘘をついているか、ごまかしているかどうかくらいはわかる。あの日のいさやでもそうだったように……

 孝四郎の方は見ず、近藤五百之助は光之丞がなみに一目惚れした様を語った。

「光之丞から金策を相談されたのはそれから間もなくでござった。禄を使うにはよね殿と用人に話さないわけにいきませんからな」

「そこで貴殿の企みの片棒を担ぐことを光之丞に持ちかけたのですか?」

 孝四郎は声を落ち着けるのに苦労した。

「とんでもない!身共は短期間にそんな大金を得るには悪事に手を染めるしかない。諦めろと諭したのですよ。しかし光之丞はすっかりなみにのぼせ上がっていて、身共の忠告は耳に入らぬようでありました」

 この男は嘘をついている。全てが嘘ではないだろうが、肝心なところが嘘だ。孝四郎はそう思った。しかし、すべてが嘘ではないと感じたことに、孝四郎は動揺していた。

「身共は仲立ちしただけにござる」

「仲立ちしただけとは言えないでしょう。貴殿もその話に乗ったのだから。で、誰と誰との仲立ちをしたのですかな?」

 動揺を隠して孝四郎は問い続けた。

「それは……言えませぬ。約定ゆえに」

 今さらなんの約定だと孝四郎は思ったが、ここはこちらの手駒を出すしかないと心を定めた。

「隈屋との仲立ちですかな?」

「隈屋?最近幅を聞かせている両替商でございますな。身共とはなんの関わりもありませぬ。隈屋がどうしたというのです?」

 小心者は見せかけで実はとんでもない大悪党なのか、本当に知らないのか、近藤五百之助はきょとんとしていた。


 それからも何を聞いても近藤五百之助は詳しいことは知らない、騙されただけだ、で通し続け、結局、孝四郎は近藤五百之助の口を割らせることができなかった。

 翌朝、丼飯と味噌汁を二杯ずつ平らげ、近藤五百之助は前日と打って変わった溌剌とした雰囲気で筧の屋敷を潜り戸から出ていった。その直前、潜り戸を目の前に急に振り向くと、こう言った。

「奉公人の数が多そうですな……新しくお雇いになるときには気を付けた方が良いかもしれませぬぞ」

「何故に?」

 近藤は孝四郎の問いに答えなかった。

 潜り戸をかがんで出ていく後ろ姿を見送りながら、天方ならば口を割らせることができたかもしれないと、孝四郎は己の不甲斐なさを痛感した。


 近藤が潜り戸を出て間もなくのことだった。短い男の悲鳴が聞こえた。

 孝四郎は式台に上がりかけたところだった。門の方へ振り向くと、門番をしていた喜八が潜り戸を開けようとしていた。

 喜八が外へ出た。一瞬棒立ちになってから、潜り戸に見せた顔は驚愕の表情だった。

「お殿様!近藤様が倒れています!」

 喜八はそれだけ言って、駆け出した。孝四郎も草履を履き直し、門へと駆け出した。

 喜八の叫び声に門につながる長屋から重助と半兵衛が顔を見せた。

「重助はここにいろ。半兵衛、ついてこい!」

 早口で指示し、孝四郎は潜り戸を出た。喜八が駆けていった方を見る。

 十間ほど先の路上に人が倒れており、喜八がその人物にたどりついたところだった。向こう側からも侍が駆けてきた。道の先にある辻番所に詰めていた男だろう。

 孝四郎が倒れている人物のそばに駆け付けたときには、喜八がその耳の下に手を当てていた。孝四郎を沈痛な面持ちで見上げ、首を横に振った。もう脈がないということだ。

 倒れているのは間違いなく近藤五百之助だった。その左胸に匕首が刺さっている。見事に心の蔵を貫いていると見えた。

 ――しまった……やられた……

 孝四郎は()()()()()と思った。口封じと孝四郎を一味と思わせる一石二鳥を狙ったのではないかと思った。一人で屋敷を出すのではなかったと、己の迂闊さを悔いた。

 筧屋敷を出た直後に殺されたとあっては、神尾の孝四郎への疑惑が間違いなく再燃する。すべてを打ち明けなかった近藤を死なせたことも痛い。

 昨夜、殺されることを恐れているのかと尋ねた時に否定したし、今朝、近藤に何かを恐れている様子はなかったものだから、近藤が襲われるかもしれないとは考えてもみなかったのだ。


 孝四郎は四方を見回した。近くに他に人影はない。近藤が倒れているのは隣屋敷との境近くだ。そこにある路地から飛び出して刺し、そこへ逃げたかと思い、急いで路地を覗いてみたが、人影はなかった。

 路地に横路はなく、五十間くらい(約100m)の長さがある。しかも、人一人がやっと通れるくらいの狭い路地だ。途中で疲れて身体がぶれたら、壁にぶつかりかねない。かなり足の速い人物でないとこの短時間に路地を抜けきることは難しいように思った。

 しかし、世の中には孝四郎の予想外に足の早い奴がいても不思議はない。新し橋から逃げおおせたことからも、例の男の足は間違いなく速い方だ。

「御前様のお知り合いですか?」

 辻番の侍が恐る恐る孝四郎に声をかけてきた。侍姿をしているが、その物腰から町人ではないかと孝四郎は思った。昨今では珍しいことではない。昔は近隣の武家屋敷の奉公人が交代で詰めていた辻番所だが、奉公人の数を減らしている今は人宿が請け負って回している。後の世でいう「業務委託」である。

 孝四郎はうなずいて、辻番に尋ねた。

「そこもとは誰か見なかったか?下手人は番所の方から来たやもしれぬ」

 辻番の男はかぶりを振った。

「この四半刻(約30分)ほどの間にこの道に入っていった者はおりませんでした。その前にも顔見知りの通いの奉公人と振売りを何人か見たくらいで……」

「喜八、お前が潜り戸から外を見たとき、誰か見なかったのか?」

 喜八もかぶりを振った。

「いいえ、誰も見ませんでした。目に入ったのは、倒れているこのお方だけで……」

 おそらく潜り戸の隙間から様子を窺っていただろう、隣家の奉公人が徐々に顔を出してきたが、彼らの誰も襲った瞬間はもちろん、下手人らしい人物を見てはいなかった。

 孝四郎の頭に一月近く前の新し橋での出来事が蘇っていた。ひとつ大きく息を吐いた。それから辻番に向かって言った。

「すまぬが、番所から二人出してくれ。この者を屋敷に送って行かねばならぬ。その屋敷へは我が家から使いを走らせる」


 番所には二人しかいないと言われ、孝四郎は近藤の亡骸を大八車にのせることにした。大八車なら二人で操れる。

 半兵衛を近藤家に走らせ、自身は羽織袴に着替えてから前を庄五郎、後ろに喜八がついた大八車にのせた近藤の亡骸とともに近藤家を訪れた。

 当主の突然の死に太田家と同様、茫然自失かと思いきや、近藤五百之助の奥方も用人も当主の亡骸を見ても冷静だった。急いで第一報をもたらした半兵衛の話では、誰も彼も軽く驚いただけだったという。ここのところ徒目付が何度も屋敷を訪れ、五百之助も徒目付を避けるためか不在がちだったから、よからぬことが起きることを覚悟していたらしい。

「当家はお取り潰しでしょうか?」

 五百之助の奥方は、悲しんでいるというよりも腹を立てている風だった。

 お取り潰し、改易になるかどうかは、五百之助がどのように悪事に絡んでいたかがはっきりしてから、かつ老中の採決による。この時点で孝四郎に言えるのはそれだけだ。



 近藤家から筧屋敷に戻ると、意外な客が孝四郎を待っていた。

 望月光右衛門だ。何事もなければ昼頃に道場へ行くつもりだったから、孝四郎は驚いた。

「道場では話しにくいことなので」

 そう前置きして光右衛門が孝四郎に語り始めたのは、光之丞や弥助殺害の下手人かもしれない男の話だった。

「何の証しもないのだが、まさかと思いたいのだが、万が一のことがある。何か確かなことを掴んでからと思っていたのだが、やはり不確かでもお主の耳に入れておくべきだと思ってな……」

 望月が下手人かもしれないと口にした男は、北陸の小藩に生まれ育ったと思われる無外流の遣い手だった。

「その男、土子紋蔵(つちこもんぞう)と名乗っていた。紋蔵は家紋の紋に蔵だ。初めて会ったのは五年ほど前のことだ」

 初めて見た土子は、望月がぞっとしたほどの暗い目をしていた。そして、剣術もぞっとするほど強かった。当時すでに師範代だった望月が三本勝負で二本とられたという。

 その立ち会いは土子の執拗な申し出で受けざるを得なかった。常に何かに挑んでいないと気が済まないような男だと望月は思った。

「あの時、もう何人か人を斬っていたと思う。何があったかは知らぬが、ただならぬ凄みがあった」

 土子は金田道場へ父親が道場主の古い知り合いだと言って現れたという。道場主は確かに土子という無外流の遣い手を知っていたし、いくつか思い出話もできたので、土子の息子に間違いないと寄宿させたのだが、土子紋蔵が金田道場へ現れて三年後、望月と立ち会って間もなく、旅籠を営んでいる道場主の知り合いが土子紋蔵は三年以前に亡くなっていると息せききって知らせて来た。知り合いがその話を聞いたのは、江戸へ仕入れに出てきた、北陸の小藩の城下で貸本屋を営む商人からだった。

 それでは、金田道場にいる男は一体何者なのか。

 道場主が当人に質そうとした時には、既に土子紋蔵と名乗っていた男は姿を消していた。

 その貸本屋が「ひょっとしたら」と挙げたのは、父親の連座で小藩から所払いの刑罰を受け、元服まで遠戚である土子の家に「お預け」となっていた少年だった。

 少年の父親は上役に斬りかかった罪で切腹を命じられての家は改易、まだ元服していなかった当時十歳と八歳の息子二人は連座で元服後に所払い、それまでは親戚預けという裁決を受けた。この時代によくある親子連座の刑罰だ。

 男尊女卑であったこの時代、確かに男子は大事にされたが、その分大きな責任も負わされていた。男女が同じ罪を犯せば、不義密通以外は男の方が刑罰は重く、連座もまず父と息子である。

 兄弟は一人ずつ、別の親戚に預けられたのだが、兄は間もなく病死し、弟の方は十五で元服するまで土子の家で暮らした。

 養父の土子は士官せず、城下で無外流の道場を開いていた。少年は道場や土子家の雑事をこなしながら、土子から剣術の手解きを受けたらしい。

 その暮らしがどんなものであったか、それ以上のことをその貸本屋は知らなかった。名前もはっきりと覚えていなかった。

「勘助、いや勘一だったか……『か』がついていたと思うんですが……」

 そしてその少年が元服し、土子の家を出て一月か二月後、土子一家は亡くなった。土子夫婦に息子、二人の奉公人まで、屋敷にいた全員が斬り殺されていた。夜中に起こった出来事で、金目の物が無くなっていたから、町奉行は盗賊の仕業と判断したそうだ。

 土子紋蔵の名を騙って金田道場へ現れたのはその少年だった可能性が高い。

 ただ土子一家の死にその少年が関わっているとは町奉行同様、貸本屋も考えていなかったが、木刀で立ち会った望月の考えは違っていた。

「これまた何の証しもないが、あの荒んだ雰囲気からは、七年間世話になった土子一家全員を手にかけていたとしても驚かない。おそらく土子の家で相当辛い目にあったのだろうがな……」

「その男、隈屋とつながりはあるのでしょうか?」

「隈屋?両替商の隈屋か。さぁ、当時はなかったと思うが、その後どうなったかは……」

 望月の話に孝四郎は複雑な気持ちだった。わずか八歳の時に父の連座で科人になったとは、なんと惨い運命だろうか。八歳の子供に何ができたというのか。連座の主な目的は見せしめだが、そこまでやる必要があったのか。

 これまでにも父兄の連座で刑罰を受けた十歳前後の少年が時々いた。親切な親戚が引き取ってくれればよいが、大抵は更なる連座、縁座を恐れ、科人だと冷たくあしらったのではないだろうか。

 土子と名乗った男が世の中を強く恨んでいて不思議はない。その心持ちは理解できないことはない。しかし、もしも土子が下手人ならば、どんな過去を背負っていようと、どんな理由があろうとも、光之丞たち三人を斬殺したのは許せない。許してはならない。それが孝四郎の心の底から湧き上がってくる思いだった。

「土子のことを知らせたのは、お主の下手人は無外流の遣い手という話からだ。他には何の証しもない。土子が金田道場を去った後のことも何もつかんでおらぬ。実のところ、全く何も聞こえてこぬから、江戸を離れたと思っていた。もしもその後のことがわかったら、改めて知らせる。このような不確かなことを耳に入れるのは、もしも……もしもだが、例の下手人があの土子ならば、かなり用心しないといけない相手だからだ。生き証人であるお主を殺そうとするやもしれず……」

 望月は土子の体格や容貌を細かく孝四郎に教えた。背丈は孝四郎よりわずかに低いくらいで、四角い顔立ちの印象を受けるという。奥二重の目も鼻も口も大きめと、目鼻立ちははっきりしているらしい。

「金田道場にいた頃は、髭も月代もきれいに剃っていたが、今も浪人でいるならば、どちらもあまり手入れしておらぬだろうな。そうなると、かなり人相が違って見えるやもしれぬ」

 孝四郎は義父が隅にいた浪人風体が似たり寄ったりだったと言っていたのに納得した。浪人は固いものを食べることが多いからなのか、無精髭を生やしていることが多いからか、四角い顔立ちの印象が多いのだ。

 まだ確証は何もないが、望月の話からおそらく土子が新し橋の下手人で間違いないだろうと孝四郎は思った。それはあの鋭い突きをかろうじて逃れた剣士としての勘だ。

 孝四郎は望月の話に身が引き締まった。その心使いがありがたかった。



 自分の屋敷を出た直後に殺されたという負い目もあり、孝四郎は五百之助の葬儀に参列した。ごく内輪だけの簡素な葬儀だった。

 五百之助の子は娘三人で男子はいないという。もしも改易になった場合、男子がいないのは幸いするかもしれないと孝四郎は思った。娘が連座で刑を言い渡されることはないからだ。従って引き取り手を見つけやすい。


 近藤の葬儀の行きも帰りも、孝四郎主従は二人の侍に後をつけられていた。笠をかぶっていたが、二人とも孝四郎に見覚えのある体格と雰囲気だ。

 小人目付と見た孝四郎は、この日の供である半兵衛と重助にひそかに指示を出し、武家地から町地へと入った。とある路地へ入る。あとをつけてきた小人目付が路地を窺おうとしたところで、その首根っこを捕まえた。素早くその首に脇差を添わせる。

「そこもとに聞きたいことがある。近藤殿が殺された日、そこもとらの誰かが我が屋敷を見張っていたのではないか?その者が下手人を見ているのではないか?」

 孝四郎主従をつけていたもう一人は、半兵衛が捕まえて孝四郎の傍へ連れてきた。半兵衛は実に頼りになる。

 笠の下から見えた顔は二つとも多野屋への送り迎えに現れたことのある顔だった。確か孝四郎が捕まえているのが山井欣悟で半兵衛が捕まえている方は尾崎長次郎だ。

「正直に言え。俺にはお主たちがあの日だけ我が屋敷を見張っていなかったとは思えぬ。近藤五百之助が我が屋敷を訪ねるところも見ていたのではないか?」

 孝四郎が捕まえている山井のこめかみを汗が一筋流れた。

「い、いえ、近藤様が殺されたときに我々は筧様のお屋敷を見張ってはおりませんでした。常に筧様についているわけではございませぬ。今はお疑いも晴れておりますし」

「本当か?どうもお主たちのいうことは信じられぬ。近藤殿を野放しにしてはいなかったであろう?」

「近藤様はああ見えて、したたかな御方でした。あの日近藤様をつけていた仲間は巻かれたのです。筧様のお屋敷にいたと我々が知ったのは殺された後です」

「ほう、そんな間抜けな御小人目付もいるのか。どうも全部を信じる気にはならんな……。それで、また俺の疑いが濃くなって見張りを再開したのか?」

「いえ……見張っているのは、筧様をお守りするためです」

「誠か?天方から神尾様はなかなか俺への疑いを解かないと聞いたぞ」

「その天方殿が神尾様へ、筧様が連中の一味ならば、門を出てすぐのところで近藤様を殺しはしないと進言されたのです。あの場所での殺害は、筧様を下手人に仕立てる策だろうと……神尾様は納得されたようです」

 天方が上役(徒目付)の上役である御目付に反論のような進言をしたと聞いて孝四郎は心底驚いた。

「……では、近藤殿の死に、お主らは何の手がかりも得ていないのか?」

 そこで山井は黙り込んだ。

「俺には言えぬか?」

「もうしばらくお待ちください。我々も色々手分けして動いているのです。近藤様を死なせたのは我々の失態です。言い訳はできませぬ。それだけに、この一件を何としても明らかにし、加担した者たちを裁きの場に引きずりださないといけないのです。相手は一枚岩ではなく、そこが厄介なのです」

 最後は脂汗を浮かべていた山井だった。口にできるぎりぎりまで打ち明けたのだろう。

 孝四郎は脇差を鞘に戻した。それを見て半兵衛も尾崎から離れた。

 山井と尾崎は深く礼をして孝四郎主従の前から去った。あっという間に人込みに消えた。

 ――相手は一枚岩ではないとは、どういうことか。

 孝四郎は二人の小人目付が見えなくなった後もしばらく路地の入り口にたたずんでしまった。

 孝四郎は近藤の最後の姿を思い返した。前日からがらりと変わって元気そうだった姿だ。まさかあの後ろ姿が生前に見た最後になるとは……と思った時、近藤が潜り戸を抜ける直前に言った言葉を思い出した。

「新しくお雇いになるときには気を付けた方が良いかもしれませぬぞ」

 何故あんなことを言い残したのか。

 悲鳴が聞こえた直後に潜り戸を開けて真っ先に外へ出た喜八が頭に浮かんだ。一瞬棒立ちになった喜八。

 ――喜八はあの時本当に誰も見なかったのだろうか。

 初めて孝四郎の胸に湧いた疑念だった。

 俺は何を考えているのだと、孝四郎は疑念を振り払った。

 喜八は少し惚けたところがあるが、いたって真面目だ。人別帳にも問題はなく、孝四郎の二人の子供もあっという間に喜八が大好きになった。そのうえ村で浪人に剣術や柔術を少し習ったということで、身のこなしはしっかりしている。本人が望むならば剣術を習わせ、数年後には中小姓にしても良いと孝四郎は思っていた。

 ――そう、喜八ならば、二本差しても大丈夫ではないかと……前に二本差していたことがあるのだろうか?

 一度湧いた疑念は簡単に消えなかった。



「筧のご隠居様、お連れ様、お待ち申しておりました」

 隈屋の主、源右衛門はわざわざ多野屋の入口に出迎えに現れ、孝四郎達に深く頭を下げてきた。商人らしく物腰は柔らかい。

 ――この男が天方が言っていた、尻を触ろうとして蹴飛ばされた「ケチな旦那」?

 孝四郎の当初の想像とは大違いで、義父の言うとおり源右衛門は渋い男前であった。若い頃にはさぞかし女達にちやほやされたろうと孝四郎は思った。

 多野屋で若い衆に施しているのだから、到底ケチとは言えない。だが天方に「ケチ」と言わせたということは、自分の思い通りになるかどうかが金払いの分水嶺なのだろう。

 今度は付き添いとして多野屋に現れた孝四郎に、顔をすっかり覚えてしまっている女中は一瞬変な顔をしたが、孝四郎がここへ来たのは初めてというように卒なく対応した。

 源右衛門が自ら案内した十畳ほどの部屋には、前髪のある十代半ばくらいの少年から三十過ぎと見える男まで、二十人近い男達がいた。孝四郎を見て顔色を変えた人物はいなかった。空振りだったかもしれないと思いつつ、孝四郎が下座へ行こうとしたら、源右衛門がどうぞ上座の方にお座りくださいと引き留めてきた。

「いや、身共が前に座るのはよくない。身共など居ないものとして進めてもらいたいのだ」

 孝四郎がなおも固辞して座敷の奥へ行こうとした時、源右衛門の声が背中に響いた。

「あなた様とは前にお会いしたことがございませんでしたでしょうか」

 ギクリとした孝四郎だった。ゆっくり振り向いたのは、言うことを考えるためだ。

「はて?身共には覚えがないが、何処でござろう?」

 源右衛門の顔をまともに見るのに勇気が必要だった。

「あたくしの思い違いかもしれませんが、お腰の脇差に見覚えがあるような気がいたしまして」

 あんな暗がりで入口の反対側に差していた脇差が見えていたなどということがあるかと安心しかけた孝四郎だったが、灯火の当たりようでは、意外と見えたかもしれない、天方も顔を隠すことばかり考えて、腰の辺りは丸見えだったのではと思い直した。

 まずい。これはまずい。幾重にもまずい。

 孝四郎は脇や背中に一気に汗が出てくるのを感じた。

「そ、それほど珍しい拵えの脇差でもないと思うが」

 嘘をつくのが下手な孝四郎は滑らかに口がまわらない。

「あたくしも確信があるわけではございませんが、お腰にお差しの脇差は、鍔に鶏の細工がしてございますでしょう。その様子が前に見かけた御方の差していらした脇差と……少し離れたところから見たのですけども、似ている気がいたしまして……ああ、あたくしとしたことが!その御方は芸妓との合瀬を楽しんでおられたので、あなた様であるはずがございませんな。いや、これは大変不躾なことをお聞きしてしまいました。何卒ご容赦を」

 言い終えた源右衛門は丁寧に頭を下げた。

 孝四郎は源右衛門が話している間、心の動揺そのままに、顔色が青くなったり赤くなったりしていたのではないかと思った。心の臓がおかしくなっていた。何も悪いことはしていないのに、本当のことを言えないとは、なんと苦しいことか。

 孝四郎が差している脇差は、元服の時に父親が孝四郎のために作らせた特注品だ。酉年の生まれだから鍔に鶏を掘り出し、目貫の飾りも鶏になっている。手にした当初は五つ上の辰年生まれの兄が同じく元服の際に父から貰った、龍の拵えの二刀が羨ましかったものだ。

 鍔に鶏がある差し料は確かにあまり無いだろう。しかし世に二つとないとまではいかないはずだ。新谷清兵衛と同じ発想で酉年生まれだからと鶏を鍔に彫らせた武家は他にも何人かいることだろう。きっといるに違いない。孝四郎はそう思い込もうとした。

「み、身共が酉年生まれなので父上が特別に作らせた飾りだ。他にも酉年生まれの者が持っていて不思議はない」

 落ち着いて堂々と言うつもりが、声はうわずり気味だった。

「さようでございますか。ではあの御方も酉年のお生まれなのかもしれませんね。今後、引き続きおつきあいしていただけますと、大変光栄に存じますので、どうかお名前を明かしていただけませんか?」

「な、名乗るほどの者でもないのだ。この度は勘弁してもらいたい」

「ご隠居様のご息女のお婿様は、確か新谷清兵衛様の御四男でございましたな……新谷清兵衛様といえば……」

 またしても孝四郎の鼓動は早まった。

「し、し、新谷の大殿だな。その御方がどうしたのだ?」

 声は上ずり気味のままだ。

 ――ま、まさか若い頃にこの男を口説いたなどということは……

 新谷清兵衛はよく言えば昔気質の武士、はっきり言えば気の多い男で、正妻以外に手を出した相手は妾三人だけではない。子を産み、ある程度育ったのがその三人だっただけだ。屋敷内では容姿端麗な腰元のみならず、若い小姓にも手を出していたらしい。

 遊里に行くことはなかったというが、町中で好みの女や若衆を見つけると、供侍や中間に後をつけさせ、結局はものにしていたというから、かなりタチが悪い。孝四郎の母もその一人なのだ。

「いえ、殿様とご隠居様のつながりは新谷様所縁ではないかと思っただけでございます」

 源右衛門は微笑みを浮かべてそう言ったが、目はまったくもって笑っていなかった。

 孝四郎は背筋に寒気を感じた。すると、急に源右衛門が真顔になり、小声で囁いてきた。

「見目良い若女形をお探しでしたら、心当たりがありますので、ぜひお声がけを」

 予想外の源右衛門の言葉に、孝四郎は口がポカンと開きそうになった。

 父親が気が多いからといって、息子もそうだとは限らない。顔立ちも父親とはあまり似ていない孝四郎だ。

 ――いや、今のは源右衛門が落とそうと狙っている芸妓の格好をした芸者と自分が良い仲だと勘違いしているが故の挑発ではないか?

 いずれにしても、痛くも痒くもないはずのことで、どうしてこんなに困らされることになるのか。だんだん孝四郎は天方に腹が立ってきた。

 ――あやつが芸妓の格好などしておらねば、こんなことにはならなかったのだ!


 孝四郎が意思を押し通して座った下座から見た義父の講釈は、聞き手の幅広い年齢や身分を考慮した、実にわかりやすい説明だった。

 少年の頃に意味もわからず音読していただけの孝四郎は、色々と目から鱗だった。

 わずか中四日で三度めの講釈を頼んできた理由がわかった気がした。評判が良いに違いない。

 この日供として連れてきた重助と喜八をここへ連れてくるのだったと後悔した。

 孝四郎は侍ではない奉公人にも本人が望めば学問を修めさせる気持ちでいる。孝四郎自身が武術よりも作物を育てることが好きなように、人は本心から好きなことをやっている時が一番楽しく、好きなことに絡む苦労は厭わないものだからだ。尤も、重助は学問したいという風をみせたことは無い。

 義父の講釈が終わると、女中が膳を運んできた。

 膳の上に並んだ料理に孝四郎は顔がほころんだ。多野屋で存分に食べられる機会は無いかもしれないと思っていたのだから、こんな機会を持てたことに義父に感謝した。しかも、酒と安い肴中心の軽い膳だろうと思っていたのに、師を招いたからか、一の膳、二の膳、三の膳とある、立派な本膳料理だったのだ。

 孝四郎は幸せな気分で料理を頬張り、勧められるまま久しぶりに存分に酒を飲んだ。同時に、これだけ金を使える隈屋への疑念は大きくなる一方だった。

 もちろん例の声が聞こえないか、注意した。孝四郎ががっかりしたことに、似た声すら聞こえてこなかった。例の男はこの日の集まりに来なかったのだ。それが意味することに、美味い料理と酒に腹も心も満たされた孝四郎は頭が回らなかった。 




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