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第六章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


 孝四郎は聞こえてくる声に心の臓がなかなか落ち着かなかった。

 ――嘘だろう……いや、これはたまたまだ。義父上が隈屋の名を口にしたことはなかったではないか!

 隣の座敷に遅れて現れた「ご隠居」は誰あろう、孝四郎の義父、筧仁斉だったのだ。

 隣に孝四郎と小人目付が潜んでいることを知らない義父は、集まった一同に朗々と朱子学の一節の講釈を始めた。

 孝四郎はくらくらする頭で天方に尋ねた。

「まさか……まさか、義父上は光之丞殺害に絡んではいないであろう?たまたま、今日初めて招かれたのであろう?」

「なんと、先ほどお出でになったのはお義父上様なのでございますか?」

「……お主、知らぬふりをしているのではないか?義父上が現れるのを知っていて今日が最後だと、いや、今日まで来るように申していたのではないのか?」

「買い被らないでくださいまし」

 そう言いながら天方は猪口を孝四郎に差し出した。孝四郎が思わず猪口を受けとると、しとやかなしぐさで徳利を傾けてきた。

 孝四郎は徳利に残っている酒を一息に煽りたい気分だったが、天方から徳利を奪い取るのは簡単ではない。おとなしく注がれた酒を一口で飲み干し、もっと注げと言うように猪口を天方の顔前へつきだした。

 天方はまた品をつくって酌をした。わざとらしさが孝四郎の目についた。

「招かれている人物のいることがわかっていただけでございます。隈屋は宴会をするためだけに隣を抑えているわけではないのです。時々、そうですね……十日に一度くらい、師と呼ばれるお方を招いているようです」

 孝四郎は天方が嘘をついているのではないかとじっとその目を見つめた。だが役者になれそうな人物の真意を見抜くのは難しい。

 天方はというと、急に徳利を置いて両の手を頬に当てた。

「嫌だ。そんなに見つめないでくださいまし。赤くなってしまいまするぅ」

「その厚化粧では顔色が青くなろうと赤くなろうとわからぬ!」

 そう返しながら、孝四郎は天方が置いた徳利を素早く手に取り猪口に傾けた。空だった。

 孝四郎がどんよりした心持ちで徳利を置いたところで、天方が耳元に囁いてきた。

「大丈夫でございますよ。筧様のお義父上が悪事に加担するわけがないではありませんか。こんな日にお酒を普段よりお召し上がりになりますと悪酔いなさいます。さ、今日はこの辺りで……」

 どんな顔つきでそんなことを言っているのかと、孝四郎は天方の顔を見ようとした。もう少しで簪が目に刺さるところだった。簪も立派な武器だなと変な感心をしながら、食い下がった。

「明日もここへ参ったほうがよいのではないか?」

「多野屋で筧様のお力をお借りする必要はもうございませぬ。明日の夜からはどうぞ奥方様やお子様とごゆるりとお過ごしくださいませ」

「しかしだな……」

「また筧様のお力をお借りしないといけないときには、改めてお頼みいたします」

「では、せめて惣右衛門と隈屋の繋がりを教えろ。それくらいはお主が口にして構わぬであろう」

 孝四郎は天方をぐっと睨みつけた。それだけはなんとしてもこの場で聞いておく必要があった。惣右衛門に尋ねるには、何日もかかるのだ。

 天方は駄々っ子を宥めるような顔つきで言った。

「隈屋の番頭は、惣右衛門殿の末の弟です」


 その言葉にやっと孝四郎は、昔、惣右衛門が弟の一人が江戸へ出て商家に奉公していると言ったことがあったのを思い出した。その弟のことはあまり話したくない素振りだった。 まさかその奉公先が隈屋とは、なんという偶然か。

 そう思ったところで、孝四郎はようやく己の立場に気が付いた。

 ――そんな……そんな……

 神尾が孝四郎を疑っていると感じてはいたが、その疑いは簡単に晴れるようなものではなかったのだ。目付方にしてみれば、孝四郎は単に襲撃を逃れただけではなかったのだから。敬愛する惣右衛門の弟が疑惑のある隈屋の番頭で、義父も隈屋と交遊しているうえに、一人生き残っていたのである。

 孝四郎は光之丞たちを殺害した一味ではないかと強く疑われているのだ。

 だから、小人目付が孝四郎の行動を見張り、ここへ家臣を連れて来させないようにした。

 この部屋での籠りは、下手人の確定だけでなく、孝四郎への疑惑の是非を確認する意図もあったに違いない。そう考えると、色々なことが腑に落ちる。

 ――なんという間抜けだ。俺は……

 孝四郎は項垂れ、がっくりと畳に手をついた。

「神尾様は今も私を疑っておられるのか?」

「疑り深い御方ですから、全く……とは申せませぬが、今はお疑いがかなり薄れていることと存じます」

 孝四郎は顔をあげて天方の顔を見た。

「お主のここでの言動は、私を、私の真意を確かめるためだったのか?」

「それがしは筧様を疑ったことございませぬよ」

 そう言って、天方は笑みを浮かべた。目は笑っていなかった。しかし、神尾のような冷たい眼差しではなかった。



 帰宅して孝四郎がすぐに確かめたのは義父のことだった。

 日が暮れてから喜八を供にして出掛けたと津留は淡々と答えた。態度といい、声音といい、孝四郎についた白粉の匂いにむっとしていると思われた。

 今日は一段と強く匂うかもしれない。だがこの日は津留の焼きもちを気にしてはいられなかった。

「義父上が戻られたら教えてくれ。伺いたいことがあるのだ」

「急ぐことなのですか?」

「うむ、急ぐ。聞かないうちは落ち着かぬ」

 義父に確かめるまで、孝四郎は義父が弥助の仇と顔見知りかもしれないことは津留にも義母にも言わないつもりだった。

 津留は不満げだったが、承知いたしましたと答えて孝四郎の部屋から出ていった。


 義父が屋敷に帰ってきたのは日付が変わった頃だった。歩き方からしてほろ酔いだったらしい義父は、式台に現れた孝四郎を見た途端、酔いが覚めたようだった。

「これは婿殿。年寄りの夜遊びに苦言を呈しに待っておられたか?」

「夜遊びではありますまい。多野屋で若い衆に朱子学を講じておられたのですから」

 義父の口がポカンと開いた。

「む、婿殿、何故存じておられるのだ?」

「津留は義父上に店の名を申していなかったのですな……私が神尾様のご命令で弥助達の下手人探索のため、非番の夜に御小人目付と共に潜んでいたのは多野屋の一室なのですよ」

 弱い月明かりにも義父の顔色が変わったのが孝四郎にわかった。

「なんと…… まさか、あの隈屋の集まりに下手人はいなかったでありましょう?」

 孝四郎は大きく首肯した。

「おりました。私が聞いた下手人の声と同じ声が隣から聞こえておりました。」

 義父はペタリと式台に座りこんだ。

 孝四郎は慌てて義父に手を貸し、立ち上がらせながら言った。

「座敷の端の方に浪人風体はおりませんでしたか?」

「……十人近くおりましたよ。いや、隅の方には五、六人だな……」

 義父は信じられないというようにかぶりを振った。

「あの中に太田殿や弥助を斬った下手人がいたとは……」

「どのような連中だったのでしょう?その五、六人、まず間違いなく、日頃からつるんでいる仲間と思われます」

「そう言われても、浪人としか……いずれもなかなか体格が良かったと思うが、似たり寄ったりの格好で、特徴と言われると……」

 義父は頭を抱えた。

 孝四郎は話が長くなると、義父を支えて式台奥の居間へと移動した。


 皆眠りについていると思っていたのに、孝四郎が義父を座らせ、その半間向かいに自身も座った途端、小声がして障子が開き、津留が姿を見せた。脇に置かれた盆には湯飲みが二つと急須がのっている。

「津留、起きていなくて良いと申したのに……」

 孝四郎は軽く動揺していた。何も動揺することは無いのに、何故か心の臓の拍動が上がった。

 津留の方は平然と父親と夫の前に黙って湯飲みを置くと、二人の顔を見比べながら言った。

「わたくしが聞いてはいけないことなのでしょうか」

 面と向かっていけないと言えるほどの理由はない。

「いけないこともないが、今の時点で知ることも無い……かな……」

「茶を持ってきてくれたのはありがたいが、お前が知ってどうなることでもない。下がりなさい」

 孝四郎の煮え切らない返事に義父が津留に厳しい口調で言いつけた。

 そんな父親を津留は睨み返したから、孝四郎の方が慌てた。

「津留が気になるのも無理はありませぬ。津留、私が義父上にお尋ねしたかったのは隈屋という両替商のことだ。お前もよく知るように、私は世事に疎いのでな……」

「その隈屋が弥助や太田様の件と関り合いがあるのでございますか?」

「今のところ直接の関わりでは無い。隈屋が弥助達を斬った連中に繋がりがあるかもしれないというだけだ」

 そこで孝四郎は義父に向き直った。

「義父上、隈屋の主というのは、いったいどんな男なのですか?そもそもどのようにしてお知り合いに?」

「野上のご隠居の紹介でしてな。野上のご隠居は隈屋と古くから付き合いがあり、今の主は金の亡者が多い商人の中では、一本筋のとおった人物と、高く評価しておられたのですよ。儲けた金を恵まれない若い衆に学びの場を与えるために使っているというから、儂も興味が沸いて、会う段取りをつけてもらったのが二月(ふたつき)……いや、もう三月前になるか。河内屋で一献交わしながら、色々と話をしたのじゃが、その時の言動もいたって謙虚で、なかなかの博識で……欠点といえば」

 そこまで言って義父は娘の顔を見た。

「梅干しを持ってきてくれぬか」

 嫌とも言えず、津留は不本意そうに部屋を出ていった。

 津留が障子を閉め、その人影が台所へ消えるのを確認してから、義父は孝四郎に顔を寄せて小声で続きを言った。

「欠点といえば、好色なくらいだと思いましたよ」

 孝四郎の頭には、その昔、好色で悪名高かった実父、清兵衛の顔が浮かんだ。

「隈屋の主の源右衛門というのは四十を過ぎた今も苦みばしった男前で、若い頃は道を歩けば後ろから町家の娘がぞろぞろと……と評判になったくらいの美男子だったそうですよ。元は長屋住まいの錺職人の次男坊だったのが隈屋に奉公し、一人娘が一目惚れして婿養子となったとか。その生い立ちからすると、今の博識ぶりはどこでどう学んだのか。いずれにしても、相当努力したということですな」

 孝四郎の頭の中では実父がムッとしていた。

「常に妾も四、五人は囲っているとか、何年か前には評判の蔭間が身銭きって隈屋を歓待したとか、そんな艶話がいくつもあるらしく……うらやましい限りですなぁ……」

「そうですな、全く……」

 孝四郎はつい相槌を打ってしまった直後に津留がまだ戻ってきていないことを慌てて横目で確かめた。

「今ご執心なのは、三味線の上手い芸妓らしいのでござるが、その理由がなんと、自分に靡かないから、簡単に落ちないから……だそうですよ。確かにあの隈屋に靡かない芸妓にも驚きますが、落ちるまでなんとしてもと、あの手この手で迫るというのは、人の欲というものを考えさせまするなぁ」

 その簡単に落ちない芸妓というのが実は御小人目付である天方新十郎だとしか思えないから、孝四郎は強い目眩を感じた。

 天方が化粧や女装を楽しんでいるのは間違いないが、夫婦仲は円満らしいことからして、決して男が好きなわけではない。……と、思われる。従ってそう簡単に落ちるわけがない。……と、思われる。果たして隈屋はどんな手を使うのか。

 ……と、そんなことを気にしている場合ではないと、孝四郎は話を本筋に戻した。

「父上が隈屋主催の集まりで講釈したのは、隈屋からの依頼ですか?」

「そうでござる。いや、隈屋もまさか人殺しがあの中にいるとは思っておらぬであろう。集まる者達の素性をいちいち調べてはおらぬようだから……」

 孝四郎には安生や天方の口振りから隈屋が光之丞達の殺害に無関係とは思えなかった。今夜耳にした言動からも、清廉潔白からはほど遠い印象である。慈善を行う心持ちと色事は両立することもあるだろうが、義父は騙されているのではないか、その可能性が一番高いと孝四郎には思えた。

「今宵が初めてだったのですか?」

「いや、二度めです」

「では、また隈屋が若い衆のために開く集まりで講釈なさるのですか?」

「実は……帰りがけに約束しました。しかし断っても問題はありませぬ。夜が明けたら断りの手紙を書いて届けさせましょう」

「いや、辞退することはありませぬ。次は何日でございますか?」

「五日後です。今夜と同じく多野屋のあの座敷で」

 五日後なら孝四郎が非番の夜である。

「では、次は知り合いをつれて参ると隈屋へ伝えていただけますか。私の名や関わりは出さず、義父上の知り合いが講釈する様子と、隈屋の善行を見学したいから参ると」

「下手人をその目で確かめようというのですな。しかし危険ではありませぬか?」

「相手はおそらく私の顔を知っているから、ですね?それが狙いですよ。私の顔を見て顔色を変えた奴がいたら、下手人かあの日組んでいた仲間です」


 翌朝はいつものように畑仕事に精を出した孝四郎だったが、五日後の義父との多野屋行きが頭にあるからか、光之丞と隈屋のことが頭から消えなかった。近藤五百野之助のことも気になっていた。

 なんとも落ち着かない心持ちだった。しかし疑われている身とあっては、迂闊に動けない。それまでも疑われているのではないかと感じたりはしていたが、疑われるそれなりの根拠と共に「確定」したのだから、慎重にならざるをえない。


 だが結局、孝四郎は落ち着かない気持ちに耐えられず、昼過ぎに太田家を訪れて近藤五百之助のことを尋ねた。

 己にかかっている下手人の仲間疑惑だけでなく、なみとその娘のことを尋ねておきながら役にたちそうなことを何も言えなかった負い目もあって、暫く太田家へ行くのを控えようと思っていたのだが、知りたい気持ちを抑えることができなかった。


 光之丞の葬儀に参列していたことだけはすぐに答えたが、そこから先はよねも用人も口が重かった。

 しかし二人が描写した近藤五百之助の顔には大きな特徴がなく、孝四郎は一生懸命に思いだそうとしたが思い出せず、二人に更に尋ねざるを得なかった。

 用人が用があると席を立った後に、よねがようやく言いづらかった理由を孝四郎に打ち明けた。

「このようなことを申してはいけないことは重々承知しておりますが、わたくしはあのお方がどうにも好きになれませぬ。殿にあまりお付き合いなされぬようにと、お願いしたこともございます。殿を怒らせてしまいましたが……」

 最近は見るたびにやつれているよねである。この日はまた一段と頬骨が目につき、目も落ち込んで見えた。

 ある日突然当主が殺され、息子はまだ幼い。後見人がいるとはいえ、実際のところは正之助が大きくなるまで、よねが太田家を切り盛りしないといけないのだ。その上、夫が隠して囲っていた妾とその娘に、悪事を働いていた可能性まで聞かされては、心身ともに疲労困憊になって不思議はない。孝四郎はこのままでは近々病で倒れてしまうと心配になった。

「光之丞とはかなり親しかったのか?」

「幼馴染みということでございました。幼い頃に住んでいたお屋敷がお隣だったそうでございます」

 今の太田屋敷に住みはじめたのは十年ほど前のことで、その前はもっと西の方の敷地を拝領していたと、孝四郎は光之丞自身から聞いていた。何度か幼い頃の話になったことがあるが、光之丞は幼馴染みについては全く触れなかった。

「先ほどの話では目立つ御仁ではないようだが、よね殿が好きになれぬとは、どのような難があるのだ?」

「一見では落ち着いた御方に見えますが、暫く言葉を交わせば、油断のならない御方なのがわかります」

 よねはそこで身震いした。その様子に近藤という人物は、幼馴染みの妻であるよねに不義密通を迫ったことがあるのではないかと孝四郎は青ざめた。

「殿になみ殿を目会わせたのもあのお方でございます」

「誠か?そのこと、誰に聞いたのだ?」

「なみ殿でございます」

「え?なみ殿と会ったのか!いつ?」

 孝四郎の声は上ずり、大きくなった。

「今後のことがありますから、一度会ってお話をしないといけないと思い、一昨日に……」

 よねはそこで声を詰まらせた。心の内に膨れ上がる何かを押さえつけていたのがとうとう押さえきれなくなったようだった。

「娘御を放っておくわけには……殿の御子なのですから……正之助とすえの妹なのですから……わ、わたくしは……わ、わたくしは、この屋敷を……」

 よねはそこまでなんとか言葉を吐き出したが、とうとう顔を手で覆った。

 孝四郎はどうしてよいか全くわからなかった。いつも冷静なよねが突如感情を顕にしたことに驚き、戸惑っていた。

 ――津留を連れてくるのだった……光之丞の大馬鹿野郎!こんな風によね殿を泣かせるとは!

「筧様、わたくしは悔しゅうございます!あのようなおなごに殿が惹かれるとは、一体……一体、わたくしのこれまではなんだったのでございましょう!」

 手で覆った中から振り絞るような声が漏れた。

 孝四郎が初めて目にしたよねの怒りと嘆きだった。光之丞が殺された夜にもここまでの感情の乱れはなかった。

「何事もお家のため、殿のためと、心を砕いてきたのは、なんだったのでございましょう?武士の妻として、常に自分のことよりも殿や子供達のことを考えて……なのに、あのような無知の、赤子のようなおなごに殿の身も心も奪われるなんて……この家に嫁いできてからのわたくしの、この十年が虚しゅうございます!」

 よねは袖で顔を覆うと、声をあげて泣きはじめた。

 よねが吐露した心情は孝四郎の心を揺さぶった。一瞬躊躇ったが、孝四郎はよねの背中にそっと手を置いた。

「光之丞はよね殿に感謝していましたとも!最後に身共に頼んできたのも、よね殿と子供達のことですぞ。『よねと子供達のことを頼む』そう申された。よね殿が家内を守っているから、自分は上方在番も家のことを何も心配せずに勤めることができると申されたこともある。光之丞が一番大事に思っていたのはよね殿、そなたですよ。それは間違いない。大事だけれども、身近にいすぎて、いるのが当たり前過ぎて……」

 本当にそうだと言い切れるのか。孝四郎の心に迷いが出た時、偶然か、必然か、よねが落ち着いてきた。

「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」

「気になされることはありませぬぞ。光之丞が亡くなってから、よね殿はずっと気を張っておられたのだ。色々と大変であったろうに。ここらで一息つかれたほうが良い。身共の母がよく申すのだ。何事もやり過ぎは自身のためにも、周りのためにもよくないとな。誰のためにもならないことはやめようではないか」

 よねがふっと孝四郎の顔を見た。涙で化粧が落ちていたが、顕になった素顔の中の泣き腫らした目が、孝四郎には切ないほど愛らしく見えた。

 正之助が左門相手に剣術の稽古をしている声が遠くに聞こえている。必死ながらも楽しそうだ。左門がうまく手解きをしているのだろう。

 孝四郎は正之助の気合いの声と母の言葉に力を得て、ひとつ頷き、さらに続けた。

「母は金のために父の妾になったとあっけらかんとして言っていた。父を好いていたのではないと。そう言いながら、自分の一番大事なものは手離していないし、無理もしていないと言う。身共には母の言うことがよくわからなかった。そんなことがあり得るのかと疑問だった」

 よねがじっと孝四郎を見つめていた。自分の中の母を見つめているのだと孝四郎は思った。

「母の言うことが少しばかりわかったのは、菜作りを止められた時だ。剣術も好きだったが、菜作りはもっと楽しかった。失敗も次への、やり直す力になるのが菜作りだった。剣術と菜作りとどちらが自分にとって大事なのか。自分にとって何が一番大事なのか。それを考えようとした時、母の言葉を思い出した」

 孝四郎はだんだん自分が何を言おうとしているのか怪しくなってきていたが、口が勝手に動いていく。

「曲解しているかもしれないが、つまるところ、母の信条は自分に嘘をつかないことなのだな。なんのことはない。それだけといえば、それだけだ。あるものが好きなら好きだと口にする。嫌なことは嫌だと口にする。嫌なこともやらないわけにいかない時には、嫌だと思う自分を認める。ひとつひとつのことに己の正直な気持ちを認める。その積み重ねで……そこはまだ身共には少々あやふやなのだが……たぶん、少々のことでは揺るがない何かを己の中に作ることができるのだと……」

「自分に嘘をつかないこと……」

 よねは孝四郎から視線を庭に移した。

「わたくしは自分に嘘をついたことは……」

 よねはそこで言葉を切り、庭の一点を見つめたまま、黙りこんでしまった。

 孝四郎は気まずさを感じた。

 何か言わなければいけない気がするのだが、言葉が浮かばない。急に用を思い出したと帰るのも、わざとらしい。

 そんな居心地の悪さを救ったのは、昼寝から起きてきたすえだった。

「おかあさまぁ」

 目を擦りながら子守と共に濡縁に現れたすえをよねは慌てて笑顔を作って見返った。

 子守の方はよねの赤い目に心配そうな顔になっている。

「昔を思い出したのです。ここへ嫁いできた頃のことを……最近はすっかり涙もろくなりました」

 よねがすえの子守に向けた声音も横顔も、もういつものよねだった。

 孝四郎はほっと息をついた。

 その時、やっと孝四郎は今のよねに良い助言ができそうな人物に思い当たった。

 新谷清兵衛の正妻、実子でも養子でもない孝四郎やすぐ上の兄は「御袋様」と呼んでいる()()だ。今も新谷屋敷の奥向きに大奥様として君臨している。御袋様は年始や誕生日には側妾の産んだ子達に贈り物をくれた。自身が産んだ三人の子はいずれも乳幼児で亡くなっていたから、かなり辛い思いをしたはずだが、孝四郎の前ではいつも毅然としていた。

 新谷の屋敷に移った直後に挨拶に出向いた孝四郎の母に、こんな言い方には納得できないだろうけれどと前置きしたうえで、よく丈夫な子を産んでくれました、そなたのおかげで当家は安泰です、ありがとうと深く頭を下げて礼を言ったそうで、母は仰天したという。「困ったことがあれば、遠慮なくわたくしに申し出るのですよ」とも言ってくれたそうだ。

「家臣を大勢抱える旗本の正妻は、おこう様のような方でなくては勤まらないのでしょうね」と、母がしみじみと言っていた。

 孝四郎は久しぶりに御袋様に会いに行こうと決めた。


 孝四郎はさらに太田家からの帰り道には近藤五百之助を訪ねようと思い立った。なみ同様、自分の目と耳でどんな男か確かめておきたいと思ったのだ。

 だが意を決して訪ねてみたら、当主は留守だと門番に告げられた。組は違えど同じ番士である訪問客を門前払いしないように言いつけられているのか、門番は孝四郎主従に中へ入るよう促してきたが、孝四郎はまた来ると当主への伝言を頼み、すぐに帰路についた。


「あの御方はどなたでございましょう?ご存知の御方ですか?」

 この日の孝四郎の供、重助が孝四郎に囁いてきた。

 孝四郎は首を横に振った。

「いや、覚えがないな……一体あそこで何をしておるのやら」

 屋敷近くまで戻って来たとき、主従はほぼ同時に筧屋敷の塀際をうろうろしている怪しい人影に気がついた。なにやら逡巡しているらしいが、ともかく落ち着きが無さすぎる。

 怪しい人影はビクッと孝四郎達の方を振り向いた。その真正面から見えた顔つきにようやく孝四郎は思い当たった。

 ――近藤五百之助殿ではないか?きっとそうだ。光之丞の葬儀で見た覚えがある……

 灯台元暗し。わざわざこちらから向こうへ訪ねる必要はなかった。

「近藤殿ですな?」

 孝四郎は歩を進めながら、呼び掛けた。

「か、筧殿……」

 次の瞬間、あわあわと近藤五百之助が孝四郎達に向かって走りよってきた。

「み、身共を匿ってくだされ」

 驚いたことに、近藤五百之助は孝四郎にすがりついて、そう懇願した。

「貴殿を匿う?一体何のために、何から匿うのですか?」

 近藤五百之助は答える前に辺りをキョロキョロと見回した。孝四郎の感覚がボケていない限り、この時近くに人はいなかった。

「詳しいことはお聞きにならず、なにとぞ、どうか一晩身共をお屋敷に匿ってくだされ。この通りでござる」

 近藤五百之助は勢いよく土下座した。額を地面にぶつけたのではないかと孝四郎が思ったくらいの激しさだった。

 路上で土下座する相手を無下にはできない。喧嘩、仇討ち絡みでないとはいえ、このように無防備に助けを求めてきた者を門前払いするのは武士道に反する。……と、孝四郎は思った。なにより目付方が教えてくれない光之丞達殺害の由縁を知る良い機会である。

「宜しい。一晩我が屋敷に匿いましょう。ただし貴殿に尋ねたいことがあるので、それに答えてくださるならば、だ。それが条件ですぞ」

 孝四郎は近藤五百之助を、当人としては冷ややかに見つめて言った。

「な、何をお知りになりたいので?」

 実のところ、孝四郎は面食らっていた。御金奉行出役を勤め、その立場を利用して悪事に手を染めたらしいのだから、もっとふてぶてしい人物を想像していたのに、目の前の近藤五百之助はあまりに器の小さな人物である。

 ――いくら幼馴染みでも、こんな小物に光之丞は唆されたというのか?

「ともかくもまずは屋敷内に入りましょう。重助、先触れを頼む」

 門まで十間あるなしだったが、孝四郎は重助を走らせた。


 




「白南風」を一通り読んでくださった方は前書きでお分かりになっただろうと思いますが、この話が生まれるきっかけのひとつは、清吉でした。

清吉は、実際にこんな人物が身近にいたら嫌だと思いつつも、書いてる分には楽しくて、清吉系(あくまでも「系」)の正義の味方版を作り出してみようと思ったのでした。前々から頭にあった菜作りが大好きなお殿様と組み合わせたら、面白そうだなと。

(当時、私はかなりストレスためてたんですね~。今もだけど)



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