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第五章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されつつも、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


 また覚えのある声が聞こえた。

 ――間違いない。

 孝四郎は確信した。あの夜が甦り、手が震えた。たった一言だったが、あの男の声には特徴があった。その特徴が今隣にいる男にもある。思わず隣で同じように襖の耳になっている天方新十郎を強く見た。

 幇間姿の天方は、次にその男の声が聞こえた時にこの声ですかというように、扇子を少し上げてみせた。

 孝四郎は頷いた。

 男はくだけた調子で喋っていた。会話の相手は気心知れた人物らしい。

 孝四郎は会話の内容を知りたいと集中した。だがこの日も十人以上の人間が数人ずつ好きなことを喋っていて、どんどん聞き分けられなくなっていった。

 入り口側の隣で襖にもたれている天方はというと、扇子を口に当て、隣の声を聞いているというより考え込んでいる風に見えた。

 孝四郎は襖を開けたい衝動に駆られた。いきなり開けられないように、両端には棒を噛ませている。それに右手を伸ばそうとした。と、襖にあてている孝四郎の左手に軽く扇子が当てられた。

「開けてはいけませんよ。お気持ちはわかりますけれども」

 扇子はすぐに持ち主が引き戻した。襖にもたれたままだ。

「筧様、お酒をいただきましょう」

 ふいに襖から離れると、天方は小声で孝四郎を誘った。

 孝四郎は天方が女中に注文する間も隣の会話に聞き耳をたてていたが、(くだん)の男は孝四郎達が潜む部屋とは反対側に座ったようで、酒が入って皆の声が大きくなったら、どうにも聞き取れなくなった。

 女中が膳を持ってきたところで盗み聞きを諦め、孝四郎も襖から離れた。

 天方は女中の耳元でなにか囁いて笑わせ、入り口で膳を受けとると、自らの手でしずしずと孝四郎の元へ運んできた。この日は鯛の真薯(しんじょ)にかぶの酢漬け、貝のしぐれ煮を頼んだ天方だ。そうして猪口に酒を注ぎながら言った。

「あと数日ここへ来ていただけますか。他に似た声がいないか確かめるためです。筧様のご判断を信じないわけではありませんが、万が一にも間違いがあってはいけませんから、慎重のうえにも慎重に……」

「承知した。しっかり確かめねばな。いや、うまいなぁ、この真薯」

「貝のしぐれ煮もちょいと工夫がありますよ」

 孝四郎は天方が勧めるまま、貝のしぐれ煮を口に運んだ。まもなく下手人がどこの誰かわかりそうなことに気分が高揚していたから、酒にも軽く手が出る。

「生姜が多めかな。うむ、これまた良い味付けだ。あの男のこと、何か掴んでいるのか?」

「何者か確かめるのはこれからでございます。楽しみにお待ちください。そうそう、明後日は残念ながらわたくしではなく、安生七之助がここへ参ります」

 天方は後半を心底から残念そうに言ったのだが

「おお、安生七之助が」

 思わず孝四郎の声は弾んだ。

 幇間姿の天方が人形のような固い表情になった。

「そんなに七之助がお好きですか。わたくしよりも」

「安生は化粧をせぬからだ。お主も素顔で現れてくれたら、同じように声は弾む」

 普通の顔をしていても下がり眉で泣きだしそうな顔に化粧している天方が、さらに泣きそうな顔になった。

「一生懸命お仕えしているのに、あんまりでございます、筧様。七之助はお捻りなど出してこぬでしょう?身を切るお勤めでお捻りをいただき、筧様にお酒も差し上げましたのに……」

 袖の中から襦袢を引き出し、目元を拭う振りをした。

「もう騙されぬぞ。酒肴は確かにありがたいが……」

 ――何が身を切るお勤めだ!

 ここでやっと孝四郎は天方に尋ねたいことがあったのを思い出した。どうも相手の調子に乗せられ振り回されて、聞きたいことがあっても忘れてしまう。

「お主に聞きたいことがある。そのぉ……なみ殿はどこに住んでおるのだ?」

 天方はまた真薯の鉢を孝四郎の目の前へ差し出した。

「さぁさ、もっと召し上がれ」

「お主、私の問いをはぐらかそうとしておるな」

「そんなつもりはございませぬよ。聞いてどうなさるのですか?」

「一度会っておいた方がよいかもしれぬと思ってな」

 天方は少し間を置いてから答えた。

「豊島町でございます」

「えっ?」

 豊島町といえば、光之丞とよく行ったいさやがある。思えば、非番の日にいさやで飲もうと言い出したのはほとんどが光之丞だった。孝四郎から誘ったのは一、二回だ。最近では光之丞が言い出すまでもなく今度の非番にはいさやで飲もうと言ってくると予想がついていた。

 ――俺は(だし)にされていたのか?

 天方がじっと孝四郎を見つめていた。孝四郎がどう反応するか見極めるような、眉墨で描いた下がり眉や涙黒子を裏切る冷静な視線だった。

「なみ殿を豊島町に囲いだしたのは、大坂在番から戻ってからか?」

「はい」

 いさやで最後に飲んだ時の光之丞の様子が孝四郎の頭に浮かんだ。

「大坂で光之丞に何かあったのだな。お主達は何があったか見当をつけているのだろう?」

 天方は首を横に振った。

「まだ申し上げることができる程にはわかっておりませぬ」

 そう言いながら、徳利を持ち上げ孝四郎の猪口に注いできた。

 ――全くくえない男だ。津留によね殿かなみ殿の様子を見てきてくれと頼めなくなっているのもこやつのせいだ!

 今、迂闊になみのことを津留に持ち出せば、孝四郎が囲っているのではないかと誤解されかねない。

 孝四郎は津留の焼きもち焼きに閉口してはいるが、実のところあまり腹は立っていない。


 まだ新婚の頃には新妻のつまらない焼きもちを母親に愚痴った孝四郎だったが、その時の母の言葉が孝四郎の心持ちを変えた。

「津留殿が悋気(りんき)を起こすのは、そなたを深く好いておるからです。良いことです。わたくしが殿様が誰と何をしようと悋気を起こさないのは、そこまで惚れておらぬからです。ほっほっほ」

 母の後半の言葉に不気味なものを感じつつ、そうなのかと孝四郎は目から鱗だった。

 そう考えると、焼きもちをやくのも可愛く思えていたのだが、今回はやきもきしている相手が白粉を塗りまくった小人目付だけに、孝四郎としては割に合わなさ過ぎる。


 それ以上尋ねるのを阻むためか、そのあとの会話はまたしても天方の男振りと女振りに孝四郎が振り回されて終わった。

 安生七之助にならもう少し追及できそうだと、孝四郎は二日後の再会を待ちわびた。



「今日はお主だと聞いた時にはほっとしたぞ。あの天方新十郎という御小人目付は本当に優秀なのか?確かに化粧は見事だったが……」

 二日後の多野屋では、挨拶からすぐに安生七之助に愚痴込みで天方新十郎について問い質し始めた孝四郎だった。

 安生は笑みを浮かべた。

「ここへは女装して現れたのですね」

「正確には女装したのは初日の芸妓だけだが、二日目は女形役者で一昨日は幇間だった。毎日工夫を凝らした化粧をしておったから、お陰で毎日白粉の匂いがついて奥に変に誤解されてしまった」

 安生は吹き出した。

「あいや、これは失礼を。天方の女振りに奥方と険悪になった御方は筧様だけではありませぬ。それはともかく、天方はとても優秀ですよ。これまでにいくつも難しい探索をやり遂げ、事の真相を暴いてきました。役目柄、表沙汰にはなっておりませぬが、御目付様方の信頼は厚く、この度の一件も天方ならば解決するだろうと、掛かりに神尾様が天方を指名されたのです。剣の腕前も相当なものです。筧様と同じ小野派一刀流の剣士です」

 孝四郎は安生の最後の言葉に、師匠の槇田三郎右衛門が兄弟子の道場に恐るべき剣士がいると言っていたのを思い出した。小柄で敏捷。名前は言わなかった。自分の愛弟子達が奢ることのないようにと聞かせた話だった。あれは天方のことだったのかもしれない。

「それがしなど、武術も探索に必要な機転も、天方の足元にも及びませぬ」

「そんなに謙遜しなくとも……」

 安生はかぶりを振った。

「詳しいことはまだ申し上げることができませぬが、この度の一件も天方の読み通りになってきております。思ったより大きな捕物になりそうです。あ、一団が隣へ参りましたな」

 この日隣の座敷に現れた一団に少し似た声の男がいたが、孝四郎は別人だと結論した。

 孝四郎は暫く隣で交わされる会話に耳を傾けた。この日の話題の中心は心学のことだった。それまでにも時々『論語』の一節や仏教の教義を話題にしている連中がいた。飲めや歌えやだけの集まりでないとは感じていた。

 聞いても答えてくれない小人目付達だが、孝四郎は諦めずに尋ねた。

「隣は一体全体何の集まりなのだ?毎日同じというわけではなさそうだが、ここへ下手人が現れる確信があったということは、少なくとも表向きのお題目はわかっているはずだ」

 安生は少し考えた後で答えた。

「隣はある大店の主人が目をかけている若い衆の集まりです。若い衆といっても二十歳前から三十過ぎまでと年齢は幅広く、職人もいれば、お店者もおり、浪人、御家人の部屋住みもおります」

「その金主の大店とは?」

「両替商とだけ申し上げておきます。それがしにはお捻りを稼ぐ手だてがなく申し訳ございませぬ」

 安生が最後に謝ってきたのは、孝四郎が黙って握り飯の入った弁当箱を安生の前へ出したからだ。

「気にすることはない。浅漬けした青菜でくるんでいるだけの握り飯だ」


 この日の帰り道には、昼間に行った豊島町を孝四郎は思い返した。

 行った先はいさやではない。光之丞が妻女に内緒で囲っていた女、なみの住む店である。様子を見るために行ったのだ。自分の目で確かめずにはいられなかった。

 天方が詳細を教えてくれなかったので、店を見つけるのに少々手間取ったが、木戸番の教えに従い、豆腐の振売りを捕まえて尋ねたら、赤ん坊の年で住処が判明した。

 小柄な豆腐売りは孝四郎の問いかけに愛想よく答えたが、最後には孝四郎の顔を訝しそうに見ていた。

 教えてもらった裏店の様子を孝四郎は外からそっと窺った。

 中年の女が赤子を抱いて濡れ縁に座っていた。暫くそのまま待っていると、小柄な女が濡れ縁に出てきた。

 孝四郎はその大きな目をした丸顔の女を見て狸を連想した。そんな親しみやすさが顔だけでなく、仕種からも感じられる女だった。よね女と雰囲気は真逆と言って良いだろう。二人の気さくな様子からすると、中年の女はどうやらなみの母親らしい。

 何故この女性(にょしょう)に光之丞は惹かれたのか。妻女に隠して囲うまでに。

 単純に光之丞の好みだった、だけで片付けられないものがあるように孝四郎は感じた。母と暮らしていた町家に現れた父、清兵衛の姿を思い返した。後に新谷屋敷で見た父親とは別人のように朗らかだった父親だ。

 光之丞はここでどんな姿を見せていたのだろうか。それはよね女も孝四郎も見たことがない光之丞だったのかもしれない。

 孝四郎は自分ならば、どうだろうと考えてみた。

 津留以外の女性に何を求めるだろうか。何も浮かばなかった。

 どんな女性に囲いたいと思うほど心動かされるだろうか。やはり何も浮かばない。

 ――俺の好みは津留ということか。

 突然孝四郎の頭に芸妓姿の天方が浮かんだ。思わず「うげっ」と変な声が出た。

 厚化粧の顔を頭から追い払い、孝四郎は太田屋敷での光之丞とよねの姿を思い返した。

 孝四郎には似合いの夫婦に見えていた。同い年で二人とも茶を嗜み、物静かな気性だった。気もあっていると思っていた。

 ――そういえば、いつだったか、変なことを言っていたな。こうして年を取っていくのだな、定められた川筋を流されるままに……と。なみ女を囲ったのは生まれた時から定まっていた人生への抗い?

 目にした光景を一つ一つ思い返しながら、自分にもそうした心持ちがあるだろうかと、孝四郎は自身をも振り返ってみた。しかし生まれた時から嫡子であった正妻の子である光之丞と、妾腹の四男として生まれた孝四郎とでは、同じく旗本の子息といっても立場が全く違う。孝四郎には「定められた川筋」というものがなかったのだから。抗いといえば、惣右衛門に弟子入りして百姓になりたかったのになれず、屋敷内で畑を増やしたことぐらいだった。今は何も思い浮かばない。

 ――俺には光之丞が抱えていたものはわからないか……



 翌日、幇間姿を期待していた孝四郎の前に現れた天方新十郎は、またしても芸妓姿だった。孝四郎は振り出しに戻った気分だった。

 孝四郎が口を開く前に、裾にさり気無く波と千鳥の模様が入った黒地の着物に黒羽織を羽織った粋な成りの天方は、懐からお捻りを二つ出してきた。

「今日は二つございますよ。ひとつはこの前の旦那でこの度も一分。もうひとつは一朱とケチられてしまいましたが、尻を触りにきたのを蹴飛ばしてやりましたから、貰えただけでよしとしないといけないのでしょうな」

「し、尻を触りにきた?それを蹴飛ばした?」

「ケチな旦那ほど、要求が多いのは何故でしょうな。それがし、男として年を取ってもああはなりたくないものです」

 芸妓姿の天方は男振りでかぶりを振りながら言った。孝四郎は頭が混乱しかけた。

 ――お捻りをケチッた旦那は男と気づかず尻を触ろうとしたのだろうか?それともわかっていて触ろうとしたのか?いずれにしても蹴られたのは自業自得だが……

 この前の「身を切るお勤め」は全くの嘘ではなかったようだと、孝四郎は決めつけていたことを反省した。

「今日は何にいたしましょう。思いの外冷えているので、鍋にしてみましょうか。さっきこの時期には珍しく鴨が手に入ったと言ってましたから、鴨鍋はどうでしょう?」

 天方は一段と楽しげに見えた。

 そんな天方が女中に酒と小鍋を頼んで孝四郎の側に戻ってきた時だった。急に孝四郎を押し倒し、覆い被さってきた。

 油断していた孝四郎は、後ろへ勢いよく倒され、「わっ」と声が出た。その口を天方は素早く手で塞いだ。

 ほぼ同時に障子を開ける音がした。

「おや、しまった。間違えた」と、落ち着いた男の声がした。



 その声が聞こえたところで天方は孝四郎の上から身体を起こして姿勢を正した。白々しくもほつれ毛を直す振りをし、それから振り向いた。

「おや、隈屋の旦那様じゃございませんか」

 孝四郎からは開いた障子の間が見えない。

「あんたかい!驚いたねぇ。昨日は売るのは芸だけだと言ってなかったかい」

「売るのは芸だけでござんすよ。こちらの旦那からお金はいただいておりません」

 孝四郎の鳩尾の辺りには動くなというというように天方の右掌が押し付けられていた。

 ――くまや?

「あんたが貢ぐたぁ、どんな旦那だね?さぞ良い男なんだろうね」

「間違えたんでございましょ。入ってこないでくださいまし。隈屋の旦那様ともあろうお方が野暮なことなさらないでくださいな」

 孝四郎からは『くまや』の旦那も、見事な女振りで対峙している天方の顔も見えない。そのぶん想像は羽ばたく。

「約束通り三日後の座敷に来てくれるんだろうね」

「もちろん伺わせていただきます。大曲を披露できる機会はなかなかございませんから、わたくしにも待ち遠しいお座敷でございます」

「あんたが売る芸にそっちの方も入れてくれると嬉しいんだがねぇ」

 そう言った『くまや』の旦那の顔は、孝四郎の想像では脂ぎってニヤけている。

 天方はなんと返したのか、ブワッハッハッハッ……と『くまや』の旦那が大笑いした。

「邪魔したね。お二人ともごゆっくり」

 障子が閉まる音がした。

 動こうとした孝四郎を天方は止めた。「今暫く」と囁き、羽織で隠すように覆い被さってきた。

 その直後、また障子の開く音がした。

 今度は覆い被さったまま、天方は後ろを振り向いた。振り向き方からして怒ったと見せたようだ。

「また邪魔して悪いが、稼げる話だよ。七日後の柳橋での集まりも頼めるかね?」

「……柳橋のどちらの茶屋でございますか?」

 言いながら天方はゆっくり身体を起こした。実にうまく孝四郎から『くまや』の旦那が見えないように動いている。孝四郎から見えないということは、『くまや』の旦那からも孝四郎の顔は見えないはずだ。

「河内屋だよ。詳しいことは三日後に言うからね」

「喜んでお引き受けいたします。ご贔屓ありがとう存じます」

 天方は手をついて礼をしたが、さほど深くは頭を下げず、さりげなく肘を張り、やはり孝四郎の姿をなるべく隠すようにしていた。

 再び障子が閉まる音がした。

 天方は頭をあげただけで、そのまま障子を向いたまま動かなかった。

 隣座敷の障子の開く音がして、そこから『くまや』の旦那の声がした。

「隣は綺麗どころと楽しんでるぞ。ことが終わったところで綺麗どころをこちらに呼ぶのも良いかもしれんな。唄も三味線もうまい芸妓なのだよ」

 『くまや』の旦那の言葉に色々な声があがりすぎて、孝四郎にはざわめきにしか聞こえなかった。

 いつの間に隣にこんなに大勢人が入ったのかと孝四郎は驚いた。

「もう起きても良いか」

 念のため孝四郎は天方に小声で確認した。

「もう暫く……」

 そう言いながら天方はくるりと振り向くと、三度めは覆い被さるのではなく、孝四郎の胸元に顔を埋めるように倒れてきた。

 また何か起こるのかと、孝四郎は緊張してじっと動かずに辺りの気配を窺った。

 隣からは宴らしい人々の話し声が聞こえていた。廊下を女中が行ったり来たりしている。

 暫くそのままの体勢でいたが、何も起こらない。

 天方を見直すと、見えるのは孝四郎の胸板に置かれた手と島田髷の頭だけだったが、孝四郎を布団代わりにして寛いで見えた。

「おい、こら、天方。何も起きぬではないか。何をしておる」

 そう小声で叱咤したが、天方は動かない。ならばと、孝四郎は天方に首締めをかまそうとした。

 天方は孝四郎の手が首に回る直前に反転しながら起き上がると、次の瞬間には障子近くまで飛び退いていた。見事な身のこなしだった。やはりただ者ではない。

「おお、怖っ……なんて生真面目な……少しくらい楽しんでも良いではありませぬか」

 両手を胸に当てて、いかにも驚いた風である。

 この日までのやり取りで、この手の天方の言葉を真に受けてはこちらが馬鹿を見ると分かってきた孝四郎は、「からかうのもいい加減にしろ」と答えて、組み打ちの構えを取った。

「そんな……からかってなどおりませぬ。心からお慕いもうしておりますのに、あまりなお言葉……」

 天方は袖口で目頭を抑える振りをした。

「『くまやの旦那』とは何者だ?」

 組み打ちの構えを解き、正座した孝四郎の素面での質問に、天方は瞬時に女振りを止めて答えた。

「隣の座敷の集まりの金主です」

「芸妓姿のお主とはかなり親しいようだが、一分の御捻りの旦那か?」

「とんでもない。あれが尻を触りにきたケチな旦那ですよ」

 天方は膝行で孝四郎の側に戻ってきてから答えた。

「そ、そ、それはお主が女かどうか確かめようとしたのでは……」

「それなら尻より前でしょう。上でも下でも。ですが、そもそもあんな好色旦那が分からないわけありませぬ」

 あまりにはっきり言うので、孝四郎の方が顔が熱くなった。

「そ、そんなに好色なのか?」

「おお、嫌だ、嫌だ。あんな奴が仕切るお座敷なんざ……けれど、お役目上必要なことだから仕方ありませぬ。あと少し……」

 孝四郎の質しには答えず、天方はふうとため息をついた。

 前でも後ろでも身体を触りにきたら、先ほどのように交わすなり、蹴飛ばすなり張り倒すなりして、難を逃れることのできる武術に長けた天方だろうが、そもそもそんな相手と対峙しなければいけないこと自体、気分は良くないだろう。孝四郎は初めて天方が気の毒になった。

 後から振り返ると、このとき幇間姿だったら、それほど気の毒に思わなかったかもしれない。見事な化けっぷりに、頭では男だとわかっていても、孝四郎は芸妓姿の天方をいくらか女のように見てしまっていたようである。

「他のやり方では駄目なのか?」

「他のやり方と仰いますのは?」

「芸妓に化ける以外の方法だ。他の方法でも『くまや』に近づくことはできるだろう?」

「隈屋の色キチ旦那に近づこうとしてこの格好をしたわけではありませんよ。向こうが勝手に食いついてきただけです。でも面白い筋が見えてきましたから、意図的に絡まないといけなくなりました。酒と小鍋、遅いですな。もとい、その前に確認することがありましたな」

 それからは膳が運ばれてくるまで孝四郎と天方は襖の耳となった。

 この日はまたあの声が聞こえた。かなり下卑た会話をしていたものだから、孝四郎は聞いていて恥ずかしさと腹立たしさを覚えたのだが、芸妓姿の天方は無表情でいた。

 酒と小鍋が来て襖から離れたところで、やっと孝四郎は天方に尋ねた。

「『くまや』の旦那がすきものぶりを見せた直後に大笑いしていたが、お主、何をどう返したのだ?」

 天方はいきなり孝四郎に向かってあっかんべーをして見せた。

「な、なるほど……」

「それで少しは気分を害するかと思ったのですが、それがしが読み違っておりました。あの色キチ旦那は一筋縄ではいかないようです」

「昨日、安生が教えてくれたことからすると、『くまや』は両替商なのだな?」

「隈屋のこと、お聞きになったことはございませぬか?」

「いや。巷のことに疎くてな……」

「……名主の惣右衛門とは今も文のやりとりをしておられるのでしょう?」

「確かに年に数回やりとりしているが、それがどうしたのだ?」

「惣右衛門殿から隈屋のことを何も聞いておられぬのですか?」

「……覚えがない……関わりがあるのか?」

 天方は呆れた顔から赤子を宥めるような顔つきになった。

「隈屋の『くま』は隈取りの隈です。ここ数年で身代を数倍に大きくした新興の両替商ですよ。元公儀御用達、為替両組でもあった古河が売った両替商の株を買ったのがほんの三年ほど前」

「古河屋は確か店内で不祥事があって、店を閉じたのだったな。そんな新興の両替商が何故このような集りを?惣右衛門とどんなつながりがあるのだ?光之丞とはどう繋がるのだ?」

「筧様は鴨鍋はよくお食べになるのでございますか?それがしは久しぶりです。美味しそうですぞ。ふふふ」

 天方はいそいそと取り分け用の椀に小鍋から鴨肉と葱を移して、孝四郎の問いに答えなかった。

 ――答えないで済ますつもりだな。

 問いを無視されてむっとしている孝四郎へ、天方は愛想よく「どうぞ」と椀を差し出してきた。ムッとしながらも、食べることが大好きな孝四郎は食べ物を差し出されると、つい素直に受け取ってしまう。

 続いて天方は自分の分を椀に移している。孝四郎の問いに答える気はなさそうだ。自分の取り分を椀に移し終えると、天方は孝四郎と自分の猪口に酒を満たした。

「筧様のお力をお借りするのも本日が最後でございます。一仕事完了のしるしに……」

 天方は猪口を孝四郎の方に軽く捧げてから、くいっと煽った。

「今日でここへ潜むのは最後なのか。なぜそれを早く言わぬ。それなら私も少しくらい金を使える。もっと酒を頼もう。白和えも食べたいな」

「お気持ちは嬉しゅうございますが、ここにあまり長居はできませぬぞ」

 天方は、あっという間に椀の中身を平らげた孝四郎のために、また鍋から鴨肉と葱を取り分けながら返してきた。

「隈屋の主人がお主を連れに来るからか?」

 くすりと天方は笑った。

「あれはあの旦那らしい()()()()です。こちらに聞こえよがしでしたから」

 椀を差し出してきた天方の目に、孝四郎は不思議な静けさを感じた。

「この一件、判明したことをわたくしの口から申し上げることができないのです。筧様には神尾様がお話になります。今暫くお待ちくだい。……なので、筧様に奢っていただくのは別の機会に取っておきまする。反古になさらないでくださいな」

「承知した」

 孝四郎は左腰に差したままの脇差で金打を打った。

「では、こちらはこれで」

 天方は茶目っ気を感じる笑みで扇子を帯から抜いた。

 孝四郎の予想に反して、刃が仕込まれていたのは扇子だった。

 考えてみれば三味線に仕込んでは、使う度に弦切り、弦張りの手間がかかる。短刀にはなるが、仕込むなら扇子の方が無難だ。

 よく見たら、芸妓姿の天方が金打を打った扇子は、一昨日幇間姿で軽く広げたり閉じたりしていた扇子と違っている。道具も色々用意しているらしい。

「隣で調子に乗っている輩を問いつめるのが捕物になるのか召還かは知らぬが、裁きの場には私も呼んでもらえるよう神尾様に頼んでくれ。御目付様が動いている以上、己の手で仇を討とうとは思わぬが、この目で真相を見聞し、奴の最期を見届けたい」

「承知いたしました。神尾様もそのおつもりと存じますが、わたくしからも念を押しておきましょう」

 早く終わらないかと思っていたのに、いざこの日が多野屋に潜む最後だとわかると、孝四郎は急に淋しくなった。ムッとしたり焦ったり、散々振り回された天方と顔を会わすのも、これで最後かもしれないと思うと惜しい気がした。

「神尾様がご説明くださる時には羽織袴のお主が後ろに控えているのかな?」

 半分期待を込めて孝四郎は聞いた。

「いえ。わたくしは神尾様に同道はいたしませぬ」

「同道?すると、神尾様はまたわざわざ拙宅にお越しになるのか……」

 孝四郎は前触れ無しの御目付様御一行に慌てふためいた若い奉公人達を思った。しかし前触れをお願いするのは僭越で言えない。

「筧様とはまたお会いすることがございますよ。奢っていただかないといけませぬからな。忘れはいたしませぬ」

 天方は真顔で孝四郎に頷いた。それから艶然と形容したくなるような笑みを浮かべた。

 良い役者になるだろうになと孝四郎は思った。

 と、隣の座敷に新たに人がやって来たらしく、障子を開ける音に続いて挨拶の声がした。

「ご隠居様、お待ちしておりました!何かあったのかと心配しておりましたよ。ささ、こちらへ」

「出掛けようとした時に思わぬ客があってな。遅れてすまなんだ」


 隈屋の問いかけに答えた声が聞こえた時、孝四郎は驚きのあまり動けなくなった。少ししてから天方を見た。

 天方も驚いた表情で孝四郎を見ていた。両手を袖に隠して口元に添えていたが、孝四郎と目をあわせるとうふっと無邪気さを装う笑顔を見せた。

「三児の父親が何を真似ておる!」

 語気だけ強く、なんとか小声に押さえて孝四郎は天方に返したが、その直前はまさかの人物の登場に頭の中が一瞬、真っ白になっていた。



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