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第四章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


「どういうことだ?明日は、つまり今日は男の格好で来てくれと申したであろう!」

「ですから、今日は男の格好で参りました。ほら、昨日は島田でしたが、今日は野郎髷でございますよ」

 髪型がよく見えるように、天方新十郎は横を向いた。

 孝四郎は思わずしゃがんで頭を抱えた。

 ――女形役者は確かに男だな……

 頭を抱えたまま胡座をかいて座りこんだ。

 ――また津留に嫌みを言われるではないか!もう信じてもらえぬかもしれぬ……婿入りしてからは一度も遊郭に行ったことがないのに……本物の芸妓を間近に見たのも組の親睦会だけなのに……そんな会がこれまでに十回はあったが、そりゃ酌をしてくれたときに少しくらいは鼻の下が伸びたかもしれぬが、その程度で、いたって身持ち固く生きてきたのに!なんということだ……

「筧様、どうなさいました?」

 女形役者姿の天方がすぐ目の前に膝をついて孝四郎に声をかけてきた。

 ――どうなさいましただと?おのれ、よくもそんなことが言えるな!

 と思ったが、相手に面と向かって言うには孝四郎は育ちが良すぎた。

「昨日は女遊びしていたのではないかと奥に疑われたのだ。白粉の匂いがすると……」

 ここで孝四郎は顔をあげて天方を見据えた。

「今日は男の格好をしてくるはずだから、白粉の匂いはしないと請け合ってきたのだぞ。これでは今日もまた白粉の匂いがする。二日続けてとなっては、言うことを信じてもらえぬではないか」

 まともに面と向かって見たこの日の天方は、確かに昨日よりいくぶん男っぽさを感じる白塗りに紅を差した化粧顔だった。化粧の技が細かい。昨日と違って自身で化粧をしたのだろうか。


「女遊びといえば、なみという女子(おなご)のことは御存知ですか?」

 思わぬ天方の問いだった。

「なみ?……いや、覚えがない……惣右衛門になつという娘御はいたが……誰だ?」

「太田光之丞様のお妾でございます」

「えっ?」

 孝四郎には初耳だった。

 唖然呆然として言葉が出ない孝四郎に、天方は気の毒そうな顔になった。

「本当に御存知ではなかったのですな……なみ殿には生まれてまだ一年経たない女の子がおります。もちろん太田様との御子です」

「……よ、よね殿はそのことを知っておられるのか?」

「薄々気づいておられたようです」

「い、い、いや、まぁ……妾のいる旗本は珍しくないと思うが……考えてみたら、光之丞とその手の話をしたことがない……」

 孝四郎は妾を囲っていないから、話しにくかったのだろう。しかし、それにしても正妻であるよね女に隠していたのは良くない。後の世からすれば納得できない話だが、妾は奉公人の一種と考えられ、男尊女卑のうえに乳幼児の死亡率が高かったこの時代に家の存続を第一に考える武家では、隠す必要はない。むしろ正妻に黙って囲う方が厄介なことになる。孝四郎は光之丞がそんな不義理なことをしていたと知って大きく動揺した。

「そのなみ殿がどうかしたのか?光之丞が亡くなり、乳飲み子を抱えて暮らしに困窮しているのか?」

 ――光之丞が俺にあとを頼むと言ったのは、「よねと子供たち」だったが、その「子供たち」にはなみ殿の娘御も入っていたのだろうか?なみ殿は娘御についてくる?

 生真面目な孝四郎は光之丞に頼まれたことをしっかりやらねばと思っていたから、思わぬ人数増に困惑した。筧家に金銭的な余裕はあまりない。

「太田様はそれなりにまとまった金をなみ殿に渡していたようで、当分は困らないようです。問題はその金の出所です」

 『当分暮らしに困らない』に、孝四郎は心底安堵した。

「まとまった金とはいくらだ?」

「少なくとも五十両」

「五十両!」

 孝四郎には今の番士としての禄高と物入りでは考えられない金額だった。番士は役儀からも供連れをあまり削減できないうえに、朋輩や組頭との付き合いに金がいる。上方在番の年には追加の禄、「合力(ごうりき)」として米と大豆を計二百石分貰えるが、騎馬による行き来の旅費に奉公人の増員、一年間二つの所帯を持つのだから、菜作りの副収入があってもほとんど禄は余らない。同じ大御番組の番士でも禄高にはかなり差があり、三百石よりもっと高禄の御家には余裕がある家もあるらしいが、太田家は筧家より少ない二百俵である。

「な、なにかを担保にして借りたのであろう。今時、旗本の借金は全く珍しくない」

「どこかから借りたという痕跡はありませぬ。なみ殿は遊女あがりですので、請け出すにもそれなりの金子が必要だったはずです。筧様が金子をお貸しになったことは?」

 孝四郎はぶるぶると頭を横に振った。

 後から思えば、この時に少し融通したと言えばよかったのかもしれない。しかし、孝四郎は咄嗟に嘘がつけない気性だ。

「筧様は近藤五百之助(こんどういおのすけ)というお方を御存知ですか?」

「近藤五百之助……確か光之丞と同じ三組のお方だ。私自身は挨拶しかしたことがない……と思う……その御仁がどうしたのだ?」

「太田様がお名前を口にされたことは?」

「どうだろう……全く無かったとは言い切れぬが、覚えておらぬ……」

 天方の目尻に紅をさした目が孝四郎を冷静に、じっと見つめていた。

「お主たちは下手人よりも光之丞のことを探っているのか?」

「下手人探しは殺された者のことを調べずには進みませぬ。太田様が筧様の前で金のことを口にしたことはございませぬか?金策の話、損をした話、他人のことでも……」

「下手人は隣へ現れるのだろう?そやつに聞けば良いことだ」

 天方はゆっくりとかぶりを振った。

「手を下した男が隣に現れると考えております。しかし、残念ながら、ことの絡繰(からくり)はもう少し込み入っているようなのです。今のままでは手を下した男にシラを切られては、絡繰の解きようがありませぬ」


 孝四郎は光之丞とは金の話もあまりした覚えがなかった。話題にしたのはもっぱら役目のこと、妻子や家のことと世間話だった。互いに家内や務めの愚痴をこぼしあっていたが、光之丞は自分と同じように妻と子を大切にしていると思っていた。

 いや、大切にしていたのは間違いない。だからこそ、あの日、孝四郎に「何かあったら、よねと子供たちを頼む」と言ってきたのだ。

 だが孝四郎の生い立ちからは、なみとその娘の方にも気持ちが向かう。


 孝四郎の父、新谷清兵衛には三人の側妻がいたのだが、孝四郎の母は唯一の町人で三人の中では一番身分が低く、小さい頃に住んでいたのは町地の裏店の一軒家だった。老夫婦の奉公人がいて、母と三人の子はのんびりと暮らしていた。

 あとから聞いた話では、第一の側妻が孝四郎達の母を屋敷に迎えるのを拒んだのだという。その側妻が亡くなった後で母と孝四郎は新谷屋敷へと移り住んだ。孝四郎が満五才のときだ。

 正妻が生んだ長男が夭折したため、五つ上の同腹の次男は嫡子となるべく一足先に正妻の子として屋敷に引き取られていた。

 孝四郎と姉と母は、嫡男の生母と同腹の妹弟ということで温かく新谷の屋敷に迎え入れられ、肩身の狭い思いをすることはなかったのだが、父親の新たな面を見せられたのが、幼い孝四郎には驚きだった。

 時々裏店にやってきた清兵衛は、屋敷で見るよりずっと寛いでいたのだ。孝四郎の母は町中で見初めただけあって、清兵衛が一番好きな女だったのかもしれないが、なにより屋敷を出た解放感が心地よかったのではないかと、筧家の当主となった今の孝四郎は思う。


 光之丞もそうだったのかもしれない。だがそんな隠れ家を持つために五十両以上の金を工面できたことに、孝四郎の頭の中で孝四郎の知らない光之丞の影が広がっていくのを感じた。一年半ほどの付き合いなのだから、光之丞のことをよく知っていると思っていたわけではない。だがそれまで理不尽さを感じていたあの最期が、起こるべくして起こった最期だったかもしれないという考えが少しずつ湧いてきていた。


「お主たちはもうかなり掴んでいるのだろう?もう少し手の内を見せてくれ」

 しっと天方が人差し指を口に当てた。

「隣の部屋に人が参りましたぞ」


 この日も孝四郎に覚えのある声は聞こえてこなかった。隣が宴たけなわのうちに孝四郎は帰ることにした。別れ際には天方にまた念押しした。

「袴でも着流しでもよいから、明日は化粧をしない男の格好で来てくれ。頼む!これ以上奥の猜疑心を煽るようなことはしないでくれ」

 女形役者姿の天方は座ったまま、不服そうに上目遣いで「善処いたします」と小声で答えた。


 小人目付二人が無言でつき従う帰り道、孝四郎は改めて太田光之丞という男のことを考えた。送り迎えに現れる小人目付は御目付の指図があってか、話しかけてものって来ないから、考え事をするのにちょうど良い。


 存命ならば、光之丞はそろそろ京へ向かう準備を始める頃だった。大御番の二条城の交代は初夏、大坂城の交代は初秋とずらしてある。

 既に光之丞の代わりが三組に入っている。それもまた孝四郎の心に悲しみと寂しさを募らせる。


 孝四郎が光之丞と話すようになったきっかけは、二人が所属している組の慰労会が、偶然同じ料理茶屋で同日に開かれたことだった。

 孝四郎が小用を理由に宴席を離れて茶屋の庭でぼんやりしていると、光之丞もそこへやって来た。その様子に孝四郎はなんとなく気が合いそうな気がして、声をかけたのだった。

 その時は自己紹介と当たり障りのない番士としてのやり取りをしただけだったが、その当たり障りのない会話から、互いの屋敷が思いのほか近所だということがわかり、その後時々会って一献交わすようになった。さらには屋敷が近所なものだから、すぐに家族ぐるみで付きあうようにまでなったのだが、組の中で浮いた者同士が親近感を持った格好だった。二千石のお家の出で頭の中は菜園のことだらけの孝四郎はなにかと朋輩の中で浮いていたが、光之丞もどこかしら組の中で浮いていたらしい。

  しかし、孝四郎と同じようなのんびりした地味な男だと朋輩に思われていた光之丞は、実は孝四郎と違ってこっそり遊女を請け出して妾にする程度には「ちゃっかり」していたのだ。


 ――近藤五百之助……そういえば、三年前の大坂在番では御金奉行の出役だったな。まさか……

 大坂の御金奉行出役とは、大坂城にある御金蔵(おきんぞう)の出納を司る御金奉行の仮役である。御金奉行の定員は四名なのだが、享保以降、そのうち二名は毎年、大坂在番を担う大御番の二組から一人ずつが仮役で就いているのだ。

 孝四郎の頭に「公金横領」の文字が浮かんだ。慌てて否定した。もしも当主がそんな悪事に加担していれば、家は断絶である。「よねと子供達を頼む」の一言で済まされることではない。


 確かにこの数年間、大坂の御金蔵には貨幣がそれまでよりも多く保管され、出し入れも多かっただろう。年号が改まった七年前から公儀は次々と貨幣改鋳を行い、大名や豪商、大店の蔵などに仕舞いこまれている旧貨の回収に力を入れているからだ。

 貨幣の改鋳は活発化する経済に合わせた利便のよい少額の計数金銀貨を普及させることも目的の一つではあったが、旧貨より品位を下げた新しい貨幣を作ることで得られる改鋳差益、出目を得ることが大きな目的だった。故に旧金銀貨幣の回収が肝要だ。

 三年前には江戸で作られた新貨幣が大坂へ送られると、いったん大坂城の御金蔵に保管され、そこから引き換え役の三井組や為替両組に分配されていた。

 しかし過去に御金蔵から金が盗まれたことが二度もあり、不正も起こりやすいだけに、その出し入れには複数の人間が立ち会い、厳重な監視が引かれていると聞いていた。

 そして、なかなか旧貨の回収が進まないため、先月には大坂の豪商で新たな組織を作り、大坂城の金蔵を経由しない手順にしたらしいから、今後、御金蔵の出し入れ回数は減るはずである。


 ――近藤殿のことは知らぬが、少なくとも光之丞は公金に手をつけて平気でいられる気性とは思えない。そもそも、城の外に屋敷を与えられた御金奉行出役の近藤殿と違って、光之丞は城外へは数える程しか出られなかったはずだ。近藤殿と親しい様子も見たことがない。

 だが天方がわざわざ光之丞が近藤五百之助の名前を口にしなかったかと聞いてきたということは、同じ組というだけで片付けられない繋がりを見つけたのだろう。

 ひとつ知らなかったことを知ると、そこから疑問がいくつも出てくる。


 帰宅後の津留はこの日も冷たかった。何も言わなかったが、冷たい理由が白粉の匂いなのは明らかだった。

 しかし昨日より白粉の匂いは薄いはずだし、酒は飲んでいない。

 何も言わなくてもよかったのかもしれないが、孝四郎は言わずにいられなかった。

「御小人目付が今度は紫帽子をつけた女形の格好で来たのだ」

 だから、なんですかという津留の目だった。

「俺の言い方が悪かったのかもしれない。女形役者は男だからな。ははは。明日は化粧無しの男の格好で来てくれと頼んだ。今度こそ白粉の匂い無しだろう」


 親が持ってきた縁談で、津留の顔を知ったのは婚礼の当日だったが、孝四郎は今では津留に惚れていた。怒らせたくない。

 せっかくこっそり顔合わせを……と筧の屋敷へ呼ばれて行ったのに、嫁となる娘の顔は見ず、敷地だけで婿入りを決めて両親や兄達に呆れられた孝四郎だったが、初めて津留を見たとき、その愛らしさに暫く見惚れ、心はときめいた。「俺はついている」と思ったものだ。

 大抵は家格や親、親戚の都合で決められる武家の婚姻である。婚礼をあげた後にどうにも気が合わないと妾に走ったり、数年のうちに離縁した孝四郎の知り合いは少なくない。もっとも、好いて一緒になったはずが似たような結果になった者もいるから、人の関わりは難しい。

 ちなみに津留の方は屋敷に現れた孝四郎をこっそりしっかり確認していた。


 光之丞とその奥方、よねも、孝四郎夫妻同様、親が決めた婚姻だが、孝四郎の前ではいつも仲が良さそうだった。しかも、よねは孝四郎からすると大変美しい。津留の親しみやすい可愛らしさとは異なる、近寄りがたいような美貌の持ち主である。孝四郎が今まで見た中でも片手に入る美人だ。

 それだけに光之丞がなみという妾を囲っていたのが驚きだった。今もどこか信じられていない。

 ――聞きづらいが、今後のこともあるし、一度よね殿になみ殿のことを聞いた方がよいだろうな……津留に代わりに聞いてくれと頼むのは、この流れでは無理だな……

 孝四郎の苦手なことだから、考えただけで気が重かった。



 翌日、孝四郎は重たい気持ちを抱えながら、嫌なことほど早く済ませるに越したことはないと、自身を叱咤激励し、太田家へ足を向けた。

 一町しか離れていないこともあり、光之丞が殺された後には様子見と、非番のうちに一度は必ず顔を出すようにしてきたが、この日はよねになみとその子供のことを聞かないわけにいかないという気持ちから、自身を叱咤激励してもどうにも足が重かった。


 状況が状況なので、正式な御披露目はまだだが、今や太田家の当主である正之助は、この日も「真桑瓜のおじ様!」と嬉しそうに孝四郎を出迎えてくれた。この半月足らずの間にずいぶんしっかりしてきた正之助である。その成長具合に会うたび孝四郎は驚かされている。自分がこの家を背負うという意識が芽生えてきたのだと、孝四郎は感じていた。

 もうひとつの大きな懸念である、光之丞がなみの請け出しと暮らしのために使った大金の出所については、きっと何か問題のない方法で捻出したのだと孝四郎は思っていた。正確には、そうであることを願っていた。無邪気な正之助とすえの姿を目にすれば、果たしてこの家が断絶になるような、そんなことを光之丞がしでかすだろうかと思わずにいられない。



 この日、庭に面した濡れ縁によねは正座し、孝四郎は腰掛けて、子供たちが遊ぶのを眺めながら、少しの間世間話をする時間がもてた。

 訊きたいことを訊く絶好の機会なのに、孝四郎はなかなか言い出せなかった。逃げたくなる気持ちを押さえつけてやっと取りかかったものの、

「実はそのぉ……昨夜は御小人目付から意外なことを聞きましてな。そのぉ……一度よね殿に確かめた方が良いように思ってですな……」

 なんとも歯切れが悪い。

 よねは孝四郎の歯切れの悪い言葉を途中からは湯飲みを膝の上でゆっくり揺らしながら聞いていた。その手が止まったとき、ふっと微笑んだ。

「筧様がお聞きになりたいのは、なみ殿のことでございましょう?」

 微笑んだままよねは孝四郎に向いて言った。孝四郎の方が狼狽した。

「会ったことはございませんが、気づいてはおりました」

 そう言うと、湯飲みをそっと盆にもどした。

「気づいたのは昨年の夏でした。なみ殿にお子が生まれた頃です。殿が何やら嬉しそうで、非番の日には朝からお出掛けになり……大坂へ向かわれる前からのようですが、その頃には岡場所へ通っていることにも全く気がついておりませんでした。わたくしが至らぬ故……でございますね」

「よね殿に至らぬ所があるものか!どう知り合ったかは知らぬが、光之丞は優しい男だから、なみ殿に同情したのだろう」 

 よねは孝四郎の言葉に寂しげな微笑みを浮かべた。

 同情しただけで請け出して囲えるほどの金を使えるかと、孝四郎も自身で口にしたことの説得力の無さに恥ずかしさを覚えた。

「その……ど、どう……どうなされるおつもりだ?」

「どうするも、殿はわたくしに一言も申されなかったのです。どうすれば良いのでしょう?」

 よねの問い返しに孝四郎は何も言えなかった。

 よねはまた寂しげな微かな笑みを浮かべた後で、話を光之丞の法事や親戚に向けた。

 孝四郎は話をなみとその娘に戻す勇気が出なかった。困ったことがあれば、相談に乗ると言いたかったが、本当に役に立てる自信がなくなっていた。

 結局、孝四郎は忸怩たる心持ちで太田家を後にした。



 この日多野屋の四畳半に現れた天方新十郎は、確かに一目で男とわかった。幇間(ほうかん)、太鼓持ちだ。ただし、滑稽且つ泣き出しそうな顔に見えるよう、化粧をした総髪の幇間だった。この日も三味線を持っていた。おそらくこの三味線の柄には刃が仕込まれているのだ。

 この三日連続の化粧姿に、さすがに孝四郎も気づいた。

 ――素顔を見せたくないのか?

 小人目付の職務には将軍御成り時の啓行から御家人の監査、徒目付の補佐など色々あるが、中には隠密として大名から御家人までを対象に探索している者が少なからずいるという。

 天方はそうした隠密探索のために多野屋では素顔を見せたくないのかもしれない。

 そういうことにしておこう、ともかくも白粉の匂いは薄くなったし、一目で男とわかるし、この線で行ってもらわねばと、「それが良い。これからはその格好で頼む」と孝四郎が嬉しげに言ったところが、幇間姿の天方は初めて見る不快そうな顔つきになった。

「この姿では、一緒にいてつまらなくありませぬか?」

「いや、全く。太鼓持ちは面白いからな」

「嘘ばっかり仰って」

 ぷいと横を向いた。なんの戦略か、幇間姿で女振りときた。

「嘘なものか」

「初日の芸妓のときが一番嬉しそうだったではございませぬか」

「え?そうだったか?いや、そんな覚えは……」

 孝四郎は動揺した。

 ――知らず顔がにやけていたとか?

 幇間姿の天方が横目でちらとこちらを見た。目が笑っている。

 ――こ、こやつ……

 孝四郎の怒りを察した天方は、さっと懐から何かを取り出すと孝四郎の前に突きつけた。

「ほら、筧様、お捻りでございます。昨日は帰りに思わぬ形で稼ぐことができました。今日もお酒をいただこうではありませぬか」

 昨日の姿で思わぬ稼ぎと聞いて、孝四郎の頭に中年の大店のお内儀と手を取り合う女形役者姿の天方が浮かんだ。この前目にしたかわら版のもじりだ。

「何を思い浮かべておられるのか知りませぬが、筧様がお帰りになった後に、二つ隣のお座敷に飛び入りで唄と踊りを披露したのですよ」

 思いのほか冷ややかな声だった。

「踊りもできるのか」

 その流れで太鼓持ちがよく披露するという、足躍りもできるのかと孝四郎は聞きそうになったが、

「さぁ、一行が来ましたぞ」

 天方が扇子を口元に添えて言った。孝四郎がぎょっとしたことに、孝四郎に向けた目は鋭かった。


「それがどうしたというのだ」

 隣の部屋から聞こえてきたその声に、孝四郎は心の臓が踊った。襖にぴったりと耳をつけ、息を殺した。少しして、同じ声が「気にするな」と言って笑った。

 ――この声だ!






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