第三章
食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。
「来ましたぞ」
安生七之助が小声で孝四郎に教えた。
隣の部屋の障子を開ける音が微かにして、複数の人間が畳を踏む、これまた微かな音がした。
この日、隣の部屋にやって来た連中はこれまでと違って静かだった。
安生と孝四郎は息をひそめて襖に耳をつけた。二人は隣の部屋の会話を聞くために三日前から夕の五つ(午後七時頃)になるとこの部屋に潜んでいる。
――全ては亡き友、太田光之丞のため。巻き込まれた我が家の弥助と太田家の勘次郎のため。光之丞が殺された訳を知り、三人の仇を討つため。
孝四郎はその強い思いから、非番の日の宵を潰すこの役目を引き受けたはずだったが、三日目にして早くも気持ちは揺らぎ始めていた。
料理茶屋という、楽しそうな笑い声や三味線の音が聞こえてくる中、小人目付と二人、行灯一つの四畳半に籠って隣の部屋に聞き耳をたてているのは、ふと我に返るとなんとも侘しい。明日は勤めでここへ来て壁の耳ならぬ、襖の耳にならなくて良いのが嬉しくなっていた。
襖に耳をつけた孝四郎の視界の隅には急須一つと湯呑み茶碗二つが見えている。これがまた侘しさを更に募らせる。
この部屋に女中が黙っていても持ってきてくれるのは茶だけだ。
人気の料理茶屋、多野屋の御公儀探索への協力は、四畳半の部屋を必要なだけ貸しきらせることとお茶の提供だけなので、茶以外を頼めばすべて自分で代金を支払わなければならない。
録高三百石の旗本、筧孝四郎にはこの諸色高のご時世に毎晩料理茶屋で飲食できる余裕はない。いわんや、十五俵一人扶持の小人目付は……である。
安生が目配せでどうですかと聞いてきた。
孝四郎は襖から耳を離すとかぶりを振った。それから掃除の行き届いた畳の上に置かれた湯呑み茶碗に手を伸ばし、残っていた茶をくいと飲み干した。
今晩もあの時に聞いた声の主は現れなかった。
安生はまだ襖に耳をつけている。
孝四郎の隣の部屋から聞こえる会話への興味も三日目にして薄れていた。
昨日、一昨日と長く聞き耳を立てたところが、終始他愛のない会話だったのだ。光之丞達を殺害した下手人が現れるかもしれないというから、怪しい会話が繰り広げられる緊迫した会合が開かれるのかと思ったら、ただの飲めや歌えの親睦会だった。聞いていて赤面するようなやりとりも多い。
何の集まりかと尋ねても、安生はまだ確かなことは掴んでいないとはぐらかした。
孝四郎の勘では、御目付の神尾同様、「はぐらかした」である。安生は自分より遥かに状況を把握していると孝四郎は感じていた。
――俺を信用していないのか?
突然の襲撃でただ一人生き残った孝四郎は、当初は疑われても仕方ないと思っていたが、その疑いが今も晴れていないとしたら、これほど悔しいこともない。
「筧様、明後日はそれがしではなく、天方新十郎と申す小人目付がここへ参ります」
しばらくして襖から離れた安生が孝四郎に小声で告げた。ここでの会話は常に小声である。
「天方新十郎……初めて聞く名だな」
「この前お屋敷に神尾様と伺った時に同道してはおりませんでしたが、この件の掛かりの一人で、百人近くいる小人目付でも片手に入る大変優秀な男です。少々変わり者ですが」
「ほう。私も変わり者と言われるが、天方殿は何故そのように?」
安生は困ったような、苦笑いに近い笑みを浮かべて言った。
「お会いになればおわかりになりましょう。面白い男です。退屈しませんよ」
下手人探しのお篭りに面白さなど求めないと思いつつも、大変優秀で自分と同じく「変わり者」と呼ばれる男に孝四郎は興味が沸いた。
孝四郎は安生より一足先に四つ半頃(午後十時頃)多野屋を出た。
この日の孝四郎の送り迎え役の小人目付が後ろを無言で付いてくる。二人とも二十歳前後と孝四郎より十近くも若く、見るからに腕のたちそうな、孝四郎とあまり変わらない背丈がある体格の良い若侍だ。
ふと夜空を見上げたが、月はまだ昇っていなかった。下弦の月が昇るのは九つ頃だ。
あの夜は上弦の月が見えていたなと、孝四郎は思い返した。
襲撃事件が起こってから、半月がたっていた。振り返るとあっという間に過ぎた半月だ。
落ち着いて考えてみれば、どういう経緯であの黒装束の下手人が多野屋のあの部屋で行われる集まりに顔を出すと突き止めたのかが、大きな謎だった。公儀は意外なところに隠密を配置しているというから、そんな一人が逃げる黒装束をたまたま見かけ、怪しい奴と追いかけたのだろうか。
どうして目付方は何も教えてくれないのか。
考えているうちに、孝四郎は単純に自分が疑われているだけではない気がしてきた。
一日置いてまた孝四郎の料理茶屋通いが再開した。
今夜下手人が現れてくれれば、今日で終わりになるだろうが、ひょっとしたらこの通いはこれからまだ十日以上続くかもしれない。先が読めないものだから迂闊に金は使えず、孝四郎は茶しか出ないとわかってからは、多野屋に握り飯を持ち込んでいた。
この日も、弁当を持って料理茶屋に通ってきているのは自分くらいだろうと思いながら、孝四郎は例の小部屋で一人握り飯を頬張っていた。浅漬けした自家製の青菜でくるんだ握り飯だ。
天方新十郎という小人目付はまだ現れない。
安生はいつも孝四郎が到着するまでに来ていたから、不真面目な奴だな、ひょっとしたら現れないかも……そう思い始めた時だった。
障子の外に二人の声がした。
「こちらでござんすね。お手数おかけしました」
「いえいえ。どうぞごゆっくり」
何度か聞いたことのある女中の声と初めて聞く落ち着いた女の声だった。
「お殿様、お待たせしました。前のお座敷で思いのほか引き留められてしまいまして……」
その声がしている間に、孝四郎の潜む部屋の障子がするすると開けられた。
開いた障子の外には黒羽織を着た島田髷の女がいた。両手をついて頭を下げた。脇には三味線が置かれている。芸妓としか思えない。
孝四郎は唖然とした。握り飯を食べかけて口を開けたのが、そのまま固まった。
いかん、早く部屋を間違っていると言わないと……と思ったら、顔を上げた女がさっと口に人差し指を当て、お静かにと口を動かした。それから三味線片手に腰低く部屋に入り、静かに障子を閉めた。そこでまた一礼して顔を上げた女はにっこりと笑い、小股の摺り足で孝四郎に近づいてきて、目の前に座った。
かなりの美人だがずいぶん厚化粧だなと孝四郎が気づいた時だった。
「驚かせて申し訳ありませぬ。それがし、天方新十郎でございます」
笑顔を浮かべたまま、そう言った声は男の声だった。
孝四郎は驚きのあまり閉じかけた口がまたあんぐりと開いてしまった。動機がしていた。
「あ」と短い声を上げ、芸妓の格好をした天方新十郎と名乗る人物がさっと孝四郎の方へ右手を伸ばした。
口をあんぐり開けたまま孝四郎がその手を見たら、食べかけの握り飯が乗っていた。握り飯を落としたことにも気づかなかった。
天方新十郎と名乗る人物は、握り飯を孝四郎の顔の高さまで上げ、またにっこりと笑った。
「どうぞ。驚かせて申し訳ございませぬ」
握り飯を受け取ったあとで、孝四郎はやっと口が動いた。
「ど、ど、どういうことだ?お、御小人目付が何故そんな格好を?」
動悸はまだおさまっていない。
パッと見では女にしか見えなかったが、役者しかしないくらいの厚化粧に、よく見れば女としては線が太い。喉仏は目立たないが、首も太めだ。これは男である。男としては小柄なのが、ちょうど見映えのいい芸妓になっていた。
「せっかく料理茶屋にいるのに、隣が羽織袴ばかりでは面白くございませんでしょう。ですが、ちゃんと黒羽織ですぞ。小人目付らしく」
途中からは女振りをやめて、天方新十郎と名乗る芸妓姿の男はシャキッと羽織の袖を広げてみせた。
将軍の御成では黒羽織を着て啓行するので、小人目付の俗称は「羽織」である。
孝四郎はめまいを感じた。
――「変り者」というのが、まさかこのような変り者とは……
孝四郎の動揺をよそに、芸妓姿の天方新十郎はキョロキョロと周りを見回した。
「お茶しかございませぬのか?せっかく多野屋におりますのに……」
そう言うと、がっかりした女顔を孝四郎に向けた。
「お、お主が払う分には何を頼んでも良いぞ。我が家にそんな余裕はない」
孝四郎は芸妓姿の男は見ないようにして落としかけた握り飯を頬張り、茶で流し込んだ。続いて二つ目に取りかかろうとした。
「握り飯、おひとつ分けていただけませぬか」
顔を上げると、芸妓姿の天方新十郎と名乗る人物が、じっと孝四郎の脇に置かれた弁当箱の中の二つの握り飯を見つめていた。困ったことに色っぽく見えた。繰り返すが、見つめている先は握り飯である。
孝四郎は頭がおかしくなってきたのではないかと自身を疑った。
それにしても、安生は握り飯をすすめても食べなかったのだ。一人だけ食べるのは気が引けるし、握り飯程度なら大したことはないので、弁当を持ち込み始めた二日目にひとつどうだとあげようとしたのに、である。この大きな違いは何なのか。
「その代わりと申してはなんですが、酒肴をわたくしの稼ぎで頼みますから」
握り飯から孝四郎の顔に目を移したと思ったら、天方新十郎という人物は懐からお捻りを出した。
「ほら、揚げ代とは別に一分もいただいたんでございますよ。気前の良い旦那で」
お捻りを開いて孝四郎に中身をみせた。数年前に改鋳されたばかりの、まだ新しい一分金が入っていた。
揚げ代は全てが芸妓や芸者(男)の懐に入るわけではないが、お捻りはこっそり貰えば全額入る。
芸妓姿の天方新十郎の芸者としての線香一本分の揚げ代がいくらなのかに孝四郎は好奇心が沸いたが、ズバッと聞くのは気が引けた。
「何をして一分稼いだのだ?」
あとから思えば愚問だった。
「もちろん唄と三味線でございます。この格好は振りだけではございませぬよ。ふっふっふっ」
お主の本当の勤めはなんなのだ、そのままその気前の良い旦那のところにいた方が良かったのではないかと言いたくなったが、ここはおとなしく握り飯と酒肴を交換するのが得策だと、食べることが大好きな孝四郎は考え直した。
多野屋の料理を食べる絶好の機会である。このままでは食べる機会がないかもしれないと思っていた。
「もちろん構わぬぞ」
孝四郎は握り飯の入っている弁当箱を天方新十郎の前へ置いた。
「忝のうございます。いただきます」
天方新十郎は男振りの礼をし、片手で握り飯を掴み上げた。
女っぽい仕草でくるかと思ったら、これである。孝四郎は訳がわからなくなってきていた。
「一分あれば、この茶屋でもそれなりの酒と肴を頼めますぞ。筧様は何が宜しいですか」
女振りは止めたらしい。
「そうだな。酒が飲めるのなら、焼き魚が欲しいな。高いかな」
食べる気満々の孝四郎である。そもそも花より団子、色気より食い気のところがある。
「焼魚となると一尾からでしょうなぁ。鯵なら安いでしょうが、多野屋へきて鯵というのも芸がありませぬし……あ、鯵と言えば、ここのつみれは美味しゅうございますよ。つみれはお嫌いですか?」
「いや、嫌いではない」
「それでは一つはつみれ汁と。あとお好きなのは?」
「嫌いな物は無い。何でも食べられる。お主の方が詳しそうだし、金主なのだから、任せる」
「では、つみれ汁に芋かけ豆腐、春牛蒡の金平あたりでいかがでしょう。迂闊に頼むとあっという間に一両近くいきますから、肴はこの三つで」
天方新十郎は握り飯を食べ終えると、すたすたと障子の側までいき、そこでまた女振りになってそっと障子を開けた。顔を外へ出すと、手招きした。女中はすぐそこにいたらしい。小声で女っぽく頼んでいた。感心するくらい見事な変わり様だった。身体つきまで変わって見えた。
孝四郎が己の考えが足りなかったことに気が付いたのは、女中が膳を持ってきたときである。
女中は二人とも孝四郎が芸妓と会瀬を楽しんでいると思っている目つきで、素早く孝四郎と天方新十郎の間に膳と小盆を置くと、孝四郎に言い訳する間も与えず、「どうぞごゆっくり」とニタニタしながら障子を閉めた。
そうして、皿に盛られた料理は二人分らしいのに、持ってきた膳はひとつだ。小盆には二合徳利と猪口二つ。
思わず頭を抱えた孝四郎だった。
――男だとばれてないのか?いや、ばれていても『お武家様にはそちらもお好きな方が結構いるのよねぇ』で終わりだな……
孝四郎は頭を抱えた状態のまま唸った。
「筧様」
顔を上げると目の前に猪口があった。多野屋で飲む初めての酒だ。
孝四郎は自棄気味に酒を煽った。これが口当たりよく大変うまかった。久しぶりに飲んだ上等な酒である。
「良い飲みっぷりですな。さ、もう一杯」
芸妓姿の天方新十郎が男振りで徳利を傾けてきた。
「徳利で飲むと違うなぁ。こんな品のある酒は久しぶりだ」
安いいさやではいまだに銚釐で燗酒を出してくるが、高級な料理茶屋では徳利中心になってきている。孝四郎は金物の銚釐で飲むより徳利の方が酒をまろやかな味に感じる。
日頃は手酌だが、孝四郎は素直に芸妓姿の天方新十郎の酌をうけた。
「……と仰いますと、前にこのようなお酒をお召し上がりになったのは、ひょっとしてご実家におられた時ですか?」
「うむ。父上が酒がお好きでな。金にいとめつけず、色々取り寄せては飲んでおられた。元服してからは、私も時々ご相伴に預かった」
天方は黙って孝四郎に金平牛蒡の盛られた鉢に箸をのせて差し出した。
孝四郎は躊躇いなくそこから箸を取り上げ、牛蒡を口にした。そこはやはり元二千石の旗本の若様である。世話を焼かれることに慣れている。
「うむ、良い味付けだ。昔を懐かしいとはつい思うが、今の暮らしに不満があるわけではないぞ。上等の酒が久しぶりなのも、わざわざ金を出してまで飲みたいとは思わぬからだ」
孝四郎は喋りながら、また金平に箸を伸ばしてきた。天方は膳に置きかけた金平を素早く上げ直して孝四郎に取らせた。
「お主がそんな格好で現れたのは、小遣い稼ぎのためではあるまい。何故だ?」
天方は、今度はつみれ汁の椀をはい、どうぞというように小盆にのせて差し出しながら答えた。
「熱いですから、お気をつけて。そもそもは三味線が好きだから、でございます。小人目付というお役目は色々できるに越したことはございませんから、親も反対しませんでした」
「女の格好もか?」
軽く首をかしげた天方がぷっと吹き出した。
「女の格好もお役目に大変便利でございます。初めて女に化けたのは十八の時でございました。今から振り返ると恐ろしく下手でしたが、なんとかごまかせ、お役目も全うできました」
趣味で始めたのではないと知って孝四郎はいくぶん安堵した。全く理解不能な奴ではないかもしれないと思ったのだ。
「ほう、確かにうまいつみれだ。汁がまた良いな。つみれの味を引き立ててるんだな……しかし、見事な化けっぷりだ。ここへ入ってきたときには全く男だと気づかなかった」
「今日は妻が化粧してくれたので、出来が良いのですよ。それがしがやるともうひとつなのですが」
「え?御新造が化粧を?」
孝四郎は耳を疑ったが、天方は笑顔で軽く頷いた。
妻を娶っていることにも驚いたが、考えてみれば女形役者にも妻帯者はいる。独り身も多いと聞くが……と、孝四郎は思い出した。
――いかん。先入観はいかん。しかし……
「御新造はお主がそのような格好するのを嫌がってはおらぬのか?」
「妻はそれがしが女装するのが好きなようでして。何故かはよくわかりませぬが、女は男が女の格好をするのが結構好きですぞ。デキの良いのに限りまするが」
孝四郎はふと思った。男女関係なく、デキの良い女装姿ならば好きな者が少なくないのではないか。
「子はおるのか?」
妻がいるとなると、この時代には大事なことだから、つい尋ねてしまう。
「半年前に三人目が生まれました。男、女、男です。末の子はぷくぷくとかわいい盛りでございます。それがし、務めが色々あって、あまり家には居られぬのですが……」
最後は少し寂しげな表情をみせた。
芸妓姿で留守がちの父親の心境を聞かされて孝四郎は複雑怪奇な気分だったが、女装への協力といい、夫婦の間柄は円満らしい。
「筧様は、お子様が男の子お二人と伺っておりますが、お幾つですか?」
「上の孝之助は六才で、下の鉄之助は三才だ。どちらもいたずら小僧で困っておる」
社交辞令が続くだけの気もしたが、天方の問いに、孝四郎は芋かけ豆腐に箸を伸ばしながら素直に答えた。芋かけ豆腐とは、うどんのように切った豆腐を葛湯で煮、上におろした山芋入りの出汁をかけた料理である。
「ほう、六才と三才でございますか。某の娘が三才でして、お二人のどちらともいい感じですなぁ」
「何がどう、いい感じなのだ?」
「親が申すのもなんですが、娘はそれがしに似て美形でございます。お嫁様をお探しの際には一度お声掛けくださるとありがたく存じます」
にっこりと芸妓の顔で天方新十郎は娘を売り込んできた。
いったい何年後の話やらと、孝四郎は気が遠くなった。
筧は御大名や高禄の旗本の家ではないので、元服もしないうちに息子の嫁取りのことなど、孝四郎は考えるつもりがない。
御小人目付の娘が大御番衆の家に嫁ぐのは大きな出世だが、天方もどこまで本気か怪しい。器量に自信があるならば、いざとなったらもっと高禄のお家に売り込む気がする。
「この芋かけ豆腐もうまいなぁ……上にかけてる餡は飯にかけてもうまいだろうな……さすが流行っている料理茶屋だ」
二人前をあっという間に平らげそうな勢いで孝四郎は食べている。
「筧様は小さい頃から菜作りがお好きとか。二千石の御旗本の若様が何故でございますか」
いつの間にか天方は孝四郎のすぐ横に並んで座り、酌をしたり料理の盛られた鉢を差し出していた。
「そもそもは食べることが好きだからだが、八歳の時にすぐ上の兄と見聞を広めよという父上の命により武州の知行地で十日間過ごしたのがきっかけだ。そこで口にした菜が屋敷で口にするより遥かに上手くてな。名主の惣右衛門に出会ったのも大きかった。私の菜作りの師匠だ。惣右衛門は私が今まで会った中で一番尊敬できる人物だ。武士が百姓を尊敬するとはどういうことだと思うかもしれぬが、私には惣右衛門こそが父上の仰る武士のあるべき姿に思える。身体は頑健。時に厳しく時に優しく。気配りもでき、決断力もある。自身で鋤鍬も握る。子供心にあんな大人になりたいと思ったものだ」
孝四郎が話し出したら止まらなくなる唯一の話題が菜作りと惣右衛門のことだ。
芸妓姿の天方は適度に頷きなから、興味深そうな顔で黙って聞いていた。
「私は妾腹の四男で、養子先もそうそう見つからないだろうと思っていたから、惣右衛門の家にいる間に真剣に百姓として生きることを考えてな、惣右衛門にここに置いてくれと頼んだ……」
それを聞いた惣右衛門が困惑した表情を浮かべたのを孝四郎はよく覚えている。困惑が消えて穏やかな笑顔だけになってから言った。
「我ら百姓が営んでいることを好いてくださるのは誠にありがたく存じますが、若様にはもっとおやりにならないといけないことがございましょう。お父上がやらないといけないとおっしゃったことにまず一生懸命取り組みなされませ」
惣右衛門の言葉にひとまずは諦めたものの、孝四郎は密かに百姓として暮らすことを画策した。しかしこれがなかなかうまくいかない。
時代を遡れば多くの武士が土を耕していたし、太平の世になって二百年ほど経った孝四郎が生れた頃にも下級武士の多くは半士半農の暮らしをしていたのだが、二千石の旗本となると敷地内に畑はあっても、手入れするのは奉公人であって、殿様が自ら農作業をすることはない。子供を百姓にしようとする者もまずいない。
また孝四郎の憧れの惣右衛門は三男二女と五人の子がいた。養子は要らない。
皮肉にも孝四郎の生まれが夢の妨げだった。
仕方なく孝四郎は新谷の屋敷内で奉公人達が育てている畑に手を出した。
惣右衛門と何度も文を遣り取りして畑の土作りから収穫まで学び、少しずつ作る菜を増やし、しれっと畑を拡張していった。
孝四郎の計画に父、清兵衛が気づいたときには畑は元の倍近くに広がっていた。
それが早く孝四郎を養子に出さなければと思った理由ではなかったろうが、まもなく清兵衛はすぐ上の兄と孝四郎に婿養子の口を持ってきた。孝四郎は八百石と三百石の家のどちらかを選べと言われたのだが、三百石の筧家への婿入りを選んだ決め手も畑だった。孝四郎の勘では庭の土の質がよかったのだ。
「筧様、誠に興味深いお話でもっとお聞きしたいのですが、隣の部屋に人が入りましたぞ」
天方新十郎が白粉と紅で彩った顔を孝四郎の顔に近づけて言った。
暫く二人並んで襖に耳をつけて隣の会話を盗み聞いたが、この日も孝四郎に聞き覚えのある声は聞こえてこなかった。いつもより遅くにやって来たと思ったら、全く探索に関係がない集団だったらしい。
別れ際に孝四郎は思いきって言った。
「明日もお主が来るのか?」
「はい。今日から三日はわたくしが付き添います」
「では、そのぉ……明日は男の格好で来てくれぬか」
芸妓姿の天方は目を見開き、それから悲しそうな顔になった。先ほどまでの恐らく素の男振りから一転、女の声に女振りになった。
「この姿はお気に入りませぬか?自信作ですのに……」
――自信作?
「いや、気に入る、気に入らないではなく、誤解を避けたいからだ」
「この姿だと誰が何を誤解するのですか?」
気がついていないわけがなかったが、天方はしらばっくれてそう聞き返してきた。
「女中が変な勘繰りしていたではないか!」
「しーっ。声が大きゅうございます」
天方は見事な女振りで人差し指を口に当てた。
「喜んでいただけると思いましたのに、残念でございます……」
引き続き女振りで俯き袖を弄った。
気の良い孝四郎は少し気の毒な気分になり、「その姿が嫌いなわけではないが、ここへは探索のために来ておるのだから……」と、つい言ってしまった。
天方はさっと顔を上げると、「お嫌いではござらぬのですな」と、何故か男振りで返してきた。
「その、男振りと女振りを交互にやるのはどうにかならぬか?見ているこちらは振り回されている心持ちだ……」
天方はふふふとまた口許を隠すという女振りで笑ってのけた。
――こやつ、人をからかって楽しんでおる!
孝四郎はムッとしたが、これ以上何を言っても更にからかわれるだけだと「明日は男の格好だぞ」と念押しだけして部屋を出た。
帰宅した孝四郎は、我が子二人の寝顔と着替えを手伝う津留の姿に、天方新十郎に振り回されてモヤモヤした気分も抜け、心底寛いだ気分になったのだが、脱がせた羽織を見つめながら、津留が冷ややかに言った。
「今日は白粉の匂いがいたしますね」
孝四郎は硬直した。
「お酒の匂いもいたしますが」
顔からざーっと血の気が引く音を聞いた気がした。
津留に誤解されては大火になりかねない。波及の度合いが女中に誤解された比ではない。
「小人目付のせいだ!」
思わず声が大きくなった。
「白粉の匂いが御小人目付のせいとはどういうことでございますか?」
こちらを向いた津留の目が冷たい。
「何故かはわからぬが、今日現れた小人目付は芸妓の格好をしていたのだ」
「御小人目付に女の方がいるのですか?」
津留の目が更に冷たく光った。
「違う、違う!男だ。男なのだが、どういうわけか女装してきたのだ。俺にも訳がわからん」
「こんなに白粉の匂いがつくほど近くにいらしたのですね……」
「そんなに近づいてはおらぬぞ。この前までの安生と同様に……」
いや、安生の時より接近していた。飲み食いしていたときは。
「そうだ。明日は弁当の握り飯を二つ増やしてくれ。今日はその芸妓姿で現れた御小人目付に分けてやったのだ。そのお返しとして酒肴を少々奢ってくれてな……」
津留の目が疑問だらけだと言っている。
「俄には信じられぬかもしれぬが、事実だ。こんな信じてもらえそうにないことを作り話でできるものか」
「お綺麗な方でしたか?」
そう言うと、津留はくるりとこちらに背を向け、羽織をたたみ始めた。
「え?……うむ……まぁ男としては綺麗に化けていたな」
正直過ぎる孝四郎である。
答えた直後にまたくるりと津留がこちらを向いた。
「それはよろしゅうございましたね。探索も捗りましょう」
「おい津留、今度はさっきとは違う誤解をしておるのでは……」
「お弁当の量を増やすこと、承知いたしました」
孝四郎の方は見ずに、津留は着物をたたんで広蓋に置いて出ていこうとした。その背に向かって孝四郎は言った。
「明日は男の格好で来るように頼んだから、白粉の匂いはしないだろう」
横顔を見せただけの一礼で津留は出ていった。
この流れで誤解を解こうと足掻けば墓穴を深く掘るだけだと、津留の性格とこれまでの経験から孝四郎はわかっていた。ぐっと堪えた。
津留にしてみれば、弥助の仇探しであると思えばこそ、非番の夜の外出もそのための弁当作りも我慢できているのだろう。もしも仇探しを隠れ蓑に女遊びなぞしたら、怒り心頭。許せなくて当然である。下手したら離縁だ。
――明日は大丈夫だ。こんなことにはならぬ。
そう思っていた孝四郎だが、翌日多野屋の四畳半にいたのは、紫帽子をつけた女形役者姿の天方新十郎だった。前日同様、脇には三味線、顔には白粉が厚く塗られていた。