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第二章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


 ――一人生き残ってしまった状況からは疑われても仕方ないが、後ろ暗い所は全く無い。御目付様からいつ何をしろと命じられても、すぐに応えることができるようにしておくだけだ。

 そう決意した孝四郎だったが、翌日も翌々日も、次の非番の日にも、御目付からは何の音沙汰もなかった。


 孝四郎には目付の連絡を待ちつつ、しなければいけないことが色々あった。

 光之丞の葬儀に参列し、弥助の葬儀を済ませた次の非番の日には、馴染みの人宿、信濃屋が紹介してきた新しい奉公人の人となりを(あるじ)として確認した。

 奉公人は知行地から名主が推挙する者を雇うのが理想なのだが、これから繁忙期に入ろうという彼らに急に人手を減らす話を持ちかけるのは気が引け、孝四郎は人宿に依頼するよう用人の五兵衛に指図した。

 そうして、これまで新しく中間や小者を雇った時には人選びも手解きも弥助に任せていたから、慣れない五兵衛と重助に全てを任せるのは荷が重いだろうし、不安もあったから、孝四郎は他のやらないといけないことに結びつけ、自分で判断しようと思ったのだった。

 長年筧家で務めてきた弥助の代わりになるような人物がいるはずはなく、今は孝四郎自身もまだ年は三十手前と元気で無理もきくので、孝四郎の求める人物の条件は、武家奉公の経験は不問、農作業の経験があれば良し、なくても可、一番重視するのは、十年後に頼りになるような実直な人物というものだった。昨今の状況ではこの条件が決して容易いものでないことは承知していた。だからこそ、自身の目で確かめるのだ。


 ということで、信濃屋が連れてきた喜八という、武州から江戸へ出てきて間もない満二十一歳の若者の殿様との顔合わせも、筧家での初仕事も、敷地内に広がる畑の一角だった。


 筧の屋敷は番士の屋敷が集まる番町のお堀寄りにある。長く屋敷替えをしていないこともあり、録高三百石としては広めの四百坪の敷地に約八十坪の母屋、三十坪ほどの土蔵二棟、門の両側に三店ずつ、計六店の長屋がある長屋門に厩一棟が建っていて、元当主夫妻、現当主夫妻、その子供二人に、男の奉公人が 六人、女の奉公人四人が暮らしている。

 以前は百坪近くあった庭は孝四郎が婿入りしてからは次第に狭くなり、今では母屋周辺だけになっていた。

 敷地の半分近い約百八十坪が菜園だ。孝四郎はそこに青菜(小松菜や明日葉)、葱、瓜、茄子、大根、粟、小豆、大豆を連作しないように植える場所を回しながら育てていた。

 元々は百姓の出である庄五郎と弥助の二人が細々と世話していた、自家消費分を賄うためだけの二十坪ほどの菜園が、あっという間に十倍近く拡大し、房総の知行地から小百姓の次男、卯吉が菜園専任として奉公人に加わり、下女二人も手伝うようになっている。

 収穫量も屋敷内で消費する分より遥かに多く、表向きは物々交換、実際には問屋に売り払えるまでの量と質となり、下肥の収入が無くなったのを遥かに超えて、今では筧家の大事な副収入原となっていた。

 殿様の乗馬として飼われていたはずの芦毛馬は、農耕馬と化して逞しい姿になってきていたのだが、それはそれで大柄な孝四郎が乗るのにふさわしいと言えないこともなかった。家族や家臣達はそう考えて自分達を納得させているらしい。

 喜八が筧家に足を踏み入れるなり、いきなり先輩中間の重助に連れて来られたのは、そんな武家屋敷内に広がる畑だったのだ。


 細身だが、肩から腕にはしっかりと筋肉をつけている、見るからに木訥な青年は、笠の下に汗取りとして手拭いを頬かむりし、着流しを尻端折りにして鋤を手に土と格闘している殿様の姿を目にして呆気にとられていた。

「江戸へ出てきて畑仕事をするとは思ってもみなかったかな?」

 孝四郎が緊張をほぐそうと喜八にかけた言葉だったが、更に喜八を強張らせただけだった。

「ここの殿様は心優しいお方だ。畑仕事は馴れていると申していたろうが」

 重助はそう言って、ポンと喜八の背中を叩いた。

 喜八は「へ、へぇ…」と小声で答えただけだった。

 少し心配になった孝四郎だったが、指図を与えるとこくこく頷き、鍬をふるいはじめれば、さすがの手慣れた風だった。……と、孝四郎は思っていたのだが、よく見たら鍬を持つ手も足も震えていた。

 孝四郎は黙々と鋤を振るう喜八に一休みしようと声をかけた。

 ちょうど鍬を上げようとしていた喜八は心底驚いたらしく、うわっと声をあげて鍬を放り出して飛び上がった。孝四郎も驚いて二歩後ろへ引いた。

「も、申し訳ございやせん!」と叫びながら孝四郎に向かって土下座しようとする喜八を慌てて孝四郎は止めた。

「畑で一々土下座などせんでよい。信濃屋に何を言われたか知らぬが、そこまで堅苦しい家風にはしておらぬ」

 孝四郎は喜八を気楽にしようと軽く肩を叩いたのだが、またしてもひえっと強張らせただけだった。

 ――信濃屋が何をどう言い含めたのか確かめねばならぬな……

 

  夕方に喜八と顔を合わせた津留は無表情だった。

「重助とあの若者で大丈夫でございますか?」と、喜八が長屋門へ下がったあとで孝四郎に聞いてきた。

「大丈夫だ。半兵衛もいるのだから。実直な若者だ。人柄は間違いない」

 孝四郎は津留を安心させようと、明快に請け合った。だが孝四郎の言葉に津留は無表情から不機嫌な顔になってしまった。孝四郎は首を傾げた。


 次の巡りの非番の日、孝四郎は喜八一人を供にして出掛けた。目的地はかつて通いつめた剣術道場だ。刀を避けようとして川に落ちた不甲斐なさから、剣術の腕を鍛え直すつもりだった。

 さらにはもうひとつ大事な目的があった。下手人の情報集めである。剣術の世界は案外狭い。府内にある道場ならば、どこも各道場の三番手くらいまでの遣い手の名は把握しているものだ。


 初めての殿様の御供に、どんな様子かと後ろを歩いている喜八を窺うと、手土産の風呂敷包みを両手で大事そうに抱えて畏まって歩きながらも、どうにも周囲が気になって仕方ないようだった。

 田舎から出てきて間もないのだから、何もかもが珍しいのだろうと孝四郎は微笑ましかった。

 小綺麗な若女房とすれ違った時には目だけでなく顔までもその姿を追いかけていた。実に分かりやすい。

「喜八、ちゃんと前を見て歩けよ。ぶつかったら面倒だぞ」

「へ、へぇ。すいやせん。江戸の女の人はみんな色が白くて綺麗なもんで……」

「たいてい白粉塗ってるからな」

 ――喜八とは好みが違うのか、喜八も今は珍しさに目が眩んでいるだけなのか。

 喜八の言葉に孝四郎の頭にはその昔実家、新谷の知行地で見た汗水垂らして田畑の手入れをする女たちの姿が浮かんでいた。

 日焼け止めのない時代である。外で労働する女たちは男たち同様に真っ黒に日焼けしていたし、体つきも江戸で見かける女たちより逞しかった。

 そんな彼女たちを孝四郎は心底から美しいと思ったものだ。命の躍動とでもいおうか、飾り気のない美しさと簡単に折れたり萎びたりしない、しなやかな強さを感じたのだ。そうして短めの着物の裾から見えるふっくらとしたふくらはぎから足首のきゅっと締まった形の良さ……まで思い浮かべかけたところで、孝四郎は思い出の像を頭から振り払った。

「見とれるだけなら構わぬが、奇麗どころから声をかけられたら用心しろよ。のこのこついていったら、強面どもにお前が身ぐるみはがされるぞ」

 孝四郎は少し強めに言っておこうと思い、大袈裟にそう言ったのだが、喜八は神妙な顔で頷いた。

「信濃屋のご主人にも言われやした。そんなことになったら、お殿様にもご迷惑がかかるから、絶対に騙されるなと。お手打ちになっても知らんぞと」

 孝四郎は呆れた。

 ――今時、誰がそんなことで手打ちにするか!誇張するにも程がある。信濃屋め……一言、言わねばなるまい。


 神田三河町にある槇田道場は、孝四郎が数えの十才から筧家へ婿入りする直前まで、駿河台にある新谷屋敷からほぼ毎日通い続けた道場である。重助に前触れさせていたので、久しぶりに顔を出した孝四郎を懐かしい面々が出迎えた。

 手土産に持ってきた煎餅をバリバリ食べながら、孝四郎は旧友四人と近況を伝えあった。

 光之丞達の斬殺事件はかわら版になったこともあり、道場でも大いに関心を持たれていた。おかげで下手人の心当たりを尋ねる前に、孝四郎の方が質問攻めにあってしまった。

「薄暗い中での抜刀の一撃しか見ておらぬが、あの抜刀術は無外流ではないかと思う」

 孝四郎は情けなく辛い一瞬の記憶を呼び起こして旧友に告げた。

「無外流か。無外流ならば一刀流や直新陰流と違って道場の数は少ないから、すぐに見当がつきそうだが」

「江戸で習ったとは限るまい。生国で習い、江戸へ出てきたのなら、調べるのはちと面倒だぞ」

「孝四郎が相当の遣い手と言うのだから、名は知れてる奴だろう」

 心当たりの人物があるという話は出ず、旧友達の物言いはどこか浮き立っていた。泰平が二百年も続けば、他人事である限りは斬殺事件も好奇心を掻き立てられる出来事になってしまうのだ。

 孝四郎は複雑な気持ちになり、居心地の悪さを覚えた。


 話に一段落つき、道場に人影も少なくなったところで孝四郎は木刀を握った。

 暫く一人で素振りをしたあとに、孝四郎の一つ年上の師範代、望月光右衛門(もちづきこうえもん)が手合わせをしてくれた。

「始め!」の声がかかっても、一分の隙もない望月の構えに孝四郎はなかなか動けなかった。やはりかなり落ちていると実感した。

 どちらも正眼に構えたまま随分時間が経った。

 全く動かないのに孝四郎は汗が全身から滲み出てきた。嘗てはこれくらいのことで汗などかかなかった。望月は全く平静だ。

 ――くそっ!

 日頃はのんびりしている孝四郎の中の負けん気が久しぶりに起きてきた。

 自分から動くのは危険と分かっていたが、孝四郎は賭けに出た。望月の肩を狙って動いた。

 孝四郎の木刀を鎬で反らした望月は、その反らした動きから孝四郎の胴を狙ってきた。

 反らされた木刀を孝四郎も瞬時に返し、胴を狙ってきた望月の木刀を鎬で跳ねた。

  二人が同時に間を開ける。仕切り直しだ。

 今度は相手が動くまで動くまいと、孝四郎は心に決めた。正眼ではなく下段の構えをとった。

 望月は今度も正眼である。

 二人は三間近く間を取って対峙した。

 再び緊迫した沈黙が道場に広がっていく。

 この時、視界の隅に孝四郎は喜八の姿を認めていた。道場の入り口脇に正座してじっと孝四郎を見つめていた。緊張しているようだったが怖がってはおらず、寧ろ興奮しているようだった。村に住み着いた浪人に剣術を少々習ったというから、師範代と主との立ち会いはさぞ興味津々だろう。

 そんなことを考えていた時も油断したつもりはなかったのだが、望月が仕掛けてきた。

 孝四郎は望月の鋭い突きを下から鎬で弾いた。その動きから滑らかに、瞬時に望月の右肩をついた。無意識にできた動きだった。寸止めもできた。

 何人かが「あっ!」というような短い声を漏らしただけで、道場は暫く沈黙した。

 ふふふと笑い、その沈黙を破ったのは望月だった。

 孝四郎は一瞬にすべての力を出した形で、肩で息をしていた。

「さすがだ、孝四郎。もっと鈍っておるかと思っていたのに」

「いや、かなり鈍っております。今の動きだけで、息が乱れてしまった……情けない……」

「何をいうか。力はむしろ強くなったのではないか?前と変わらぬか、以前よりも鋭いくらいの突きだったぞ」

 孝四郎は菜作りで鋤鍬を使っているおかげだなと心の中ではにんまりとした。

 ――ということは、必要なのは勘を取り戻すことだけか……それが簡単ではないのだが……


 さらに暫く歓談し、孝四郎は道場を辞した。帰り際に、非番の三日のうちに一度は来ると孝四郎は宣言した。そして、下手人らしい人物の話が耳に入ったらすぐに知らせると、望月をはじめ、道場にいた者、全員が約束してくれた。


 道場を出た瞬間、孝四郎は悟った。ここへ来るまでに感じていた気配は間違いではなかった。

 ――常に一人か二人に見張られている。御目付の配下だとしたら、御小人目付か?

 光之丞達を失った夜の神尾の目を孝四郎は思い出した。疑われていると感じたのは間違いではなかったということである。

 淋しさを感じた。

 真面目にやって来たのだ。学問の出来は可も無し不可も無しだったが、母方から丈夫な身体を受け継いだ孝四郎は、剣術と菜作りに励んで、その長所を活かしてきた……つもりだった。

 というのも、父親が二千石の旗本とはいえ、妾腹の四男である孝四郎には生まれた時に明るい未来が約束されていたわけではなかったのだ。正妻の子がみな夭折し、同腹の兄が正妻の子として嫡子になるまで、孝四郎は母や同腹の兄、姉と町家でひっそりと暮らしていた。成人できたのが二番目の妾が産んだ三男と孝四郎の母が産んだ次男、三女、四男だったという結果が立場を変えた。

 二千石の御旗本の若様という扱いはあとから巡ってきたのだ。それだけに孝四郎には二千石のお家の若様という気持ちは薄く、三百石への婿入りも自分には十分過ぎる録高だと思ったのだった。


 喜八は黙って孝四郎の後ろを歩いていた。何か言いたそうな様子を時々見せるものの、口を開くことができないらしい。

「なんだ?言いたいことがあるなら、申してみよ。道場では熱心に稽古や立ち会いを見ておったから、剣術のことではないのか?」

 孝四郎は立ち止まり、後ろを向いてそう声をかけた。

 慌てて立ち止まった喜八が大きく頷いた。

「と、殿様はお強いのですね!久しぶりに少し稽古して、師範代に勝てるなんて!おら……あ、あっしは興奮しやしたぁ!村に来る浪人なんて口先だけで、おら、今時のお侍ぇはあんな程度なのかと思ってたけんど、御直参となると、やっぱごうぎだぁ!」

 孝四郎は喜八のごちゃ混ぜの言葉遣いに少し面食らいながらも、自分の強さに感心していることは嬉しかった。

 ただ、望月は防具なしの木刀での手合わせは久しぶりだという孝四郎に、手加減したのだと孝四郎は思っていた。そんなことを口にすれば、却って無礼になりかねないので、一月に数度ではあっても、必ず道場へ顔を出すと宣言したのだ。

「殿様、ちょっと気になることがあるんでやすが……」

 喜八が急に声を潜めて言ってきた。

「どうした?」

「お笑いにならないでくださいやし」

 喜八はもじもじと落ち着かない風である。

 孝四郎は小用かと思い、「笑わぬから、さっさと申せ。我慢は良くないぞ」と、気軽に返した。

 喜八は更に声を潜めて言った。

「そのぉ……どうもつけられている気がするんでやす……」

 孝四郎は驚いた。

「どんな奴にだ?」

「あの、少し離れたところを歩いている笠を被ったお武家様です」

 喜八は体の前でそっと人差し指で左後方を指した。

「もう一人と入れ替わり立ち代わりで後ろを歩いておられやす。道場へ向かってた時には気のせいだと思ってたんでやすが、気がつけば帰りも後ろにおられて……」

 孝四郎は更に驚いた。

「お前も気がついていたのか。なかなかやるではないか」

 孝四郎は喜八に笑ってみせた。

「え?じ、じゃあお殿様もお気がついておられたんですね?」

「うむ。どうやら俺は見張られているらしい。見張っているのは、おそらく御小人目付だ。御目付方に俺は弥助たちを殺した下手人との関わりを疑われているのだろう」

 喜八は目を丸くした。

「と、殿様をお疑いになるなんて、そんな……おら……いや、あっしは、ひょっとしたら、その下手人の仲間がお殿様のお命を狙ってるんじゃないかと思ったんでやす……」

「俺の命を?」

「だって、お殿様は下手人の声を聞かれたんでやしょう?証人でやす。悪党どもからしたら、お、お殿様のお、お口を塞げば……」

 喜八は最後まで言い切らなかった。

 孝四郎はというと、自身の呆けぶりに苦笑いが出た。自分が下手人に狙われるとは全く考えていなかったのだ。

 言われてみれば、喜八の言うとおり、大いにあり得る話である。

 あの小人目付たちが見張っているのは、孝四郎を疑っているからではなく、下手人か、その仲間が現れる可能性を考えてのことなのかもしれない。

 孝四郎はこいつ、見た目よりかなりしっかりしているぞと喜八を見直した。


 その次の次の巡りの非番の日も、孝四郎は頬かむりに尻端折りの股引き履きで、卯吉と庄五郎に手伝わせながら、朝から黙々と夏に収穫する菜のための土づくりに励んでいた。特に真桑瓜を植える予定の畑には力が入った。正之助だけでなく、太田家の全員が大好きな真桑瓜を美味しく作り、屋敷へ持っていくことが孝四郎が残された家族を喜ばせることのできる数少ないことだと思っていたからだ。


「お殿様、大変です!御目付の神尾様がいらっしゃいました!」

 門番をしていた喜八が興奮ぎみに叫びながら走ってきた。

 わざわざ御目付が屋敷にやって来たというのには孝四郎も驚いた。目付の屋敷に呼びつけられると思っていた。確かに大変だ。

 このときの孝四郎は土作りで手も足も土まみれだった。ひょっとしたら、青菜へ追肥した時のよろしくない臭いも染み付いているかもしれない。しかし長く待たせるわけにはいかない。

 こんなとき、弥助ならうまい理由を言って時間稼ぎしてくれたろうが、まだ若い喜八も重助も、御目付様御一行を目の前に、「嘘も方便」など思い付かなかったろう。

 さらに間の悪いことに、舅、姑と妻の津留は子供達と用人の五兵衛に女中のそでを引き連れ、親戚の家へ遊びに行っていた。

 津留は弥助の後釜として喜八を雇うのに難色を示していたが、これまでのところ孝四郎に不満はなかった。しかしこの時にはもう少し年取った者を雇えばよかったと初めて後悔した。

 中小姓の半兵衛もまだ二十三才と若い。気性もいたって実直だから、「嘘も方便」には頭が回っていないだろう。

「喜八、半兵衛に俺が羽織袴に着替えるまでなんとかもたせろと伝えてくれ」

「は、はい。畏まりやした」

 喜八が駆けていく後ろ姿を見送りながら、孝四郎は頬かむりしていた手拭いを外し、母家へ戻ろうとした。そこへ今度は重助が駆けてきた。

「御殿様、神尾様が仰るには、前ぶれなくやって来たのだから、着流しのままで構わないとのことです」

 素直な筧家の若い奉公人たちは孝四郎が何をしているか、率直に御目付様御一行に申し上げたらしい。


 孝四郎が急いで顔と手足を洗い、股引きを脱いで尻端折りをおろしただけの、農作業用の着古した長着の着流し姿で庭から現れても、御目付一行は誰も表情を変えなかった。

「このような姿で申し訳ございませぬが、神尾様のお言葉に甘えました」

「突然に参った身共が礼を欠いておるのだから、気にすることはない」

 神尾の後ろには徒目付二人に小人目付が六人も控えていた。徒目付の二人が四十才前後に見えるのに対して小人目付は皆若く、孝四郎より年下に見えた。

 各自の前に茶が置かれているのに、孝四郎はホッとした。色も来客用の煎茶の色だ。

 孝四郎は畳の部屋を汚しては津留に叱られると、濡れ縁に正座した。

「汚れておりますれば、ここにて」

 孝四郎は丁寧に深く礼をした。

「かねてから新谷殿の御四男はなかなか興味深い御仁と聞いていたが、噂以上だな」

 隠居後や小普請組ならともかく、勤めがありながら畑作業に勤しむ旗本の当主はめったにいない。

 孝四郎は神尾の言葉を聞き流した。

「わざわざ拙宅に御目付様御自らお越しになるとは、太田殿殺害の探索に進展があったのでございますね?」

「さよう。ある料理茶屋に集まる者どもの中に下手人がいるらしいと突き止めた。あとは確認だ」

 孝四郎は驚いた。動かせる人員が大勢いるとはいえ、そこまでたどり着いているとは思っていなかった。

「わたくしがあの時聞いた声の主かどうか確認するのでございますね?」

「その通り。だがそのためには数日間料理茶屋に潜んでもらわねばならぬ。下手人がいつその料理茶屋に現れるかはわからぬのでな」

 神尾はそこで一息入れて、また続けた。

「そこでだ。連中が集まる部屋の隣の小部屋に非番の夜に潜んでいただきたい。目立つといかぬゆえ、小人目付が一人だけ貴殿に付き申す。子細はその小人目付から聞いてもらいたい」

「承知いたしました。で、いつから?」

「明日は警護の番だというから、明後日から潜んでもらえるかな。暮れ六つ(午後六時頃)にここにいる小人目付の内の二人が当屋敷に迎えに参る。行き先は両国広小路近く、米沢町の料理茶屋、多野屋だ。帰りも小人目付の二人が出入口に控えておるから、筧殿は家士を連れていく必要はない。潜む座敷にはここにいる安生七之助(あんじょうしちのすけ)が貴殿を待っておる」

 孝四郎から見て小人目付の六人で一番左端に座る男が一礼した。

 孝四郎はその顔に見覚えがあった。光之丞達が殺害された夜にも神尾に付き従っていた小人目付である。年は半兵衛と同じくらいと思われたが、落ち着いた雰囲気があり、孝四郎はなんとなく好感を持っていたから、この男が潜む片割れなのにほっとした。

 それにしても肝心なことを御目付様は教えてくれていない。

「神尾様、その『連中』とは一体どのような連中なのですか?見当はついておられますでしょう?」

「背後については絞りきれておらぬゆえ、まだ話すわけにはいかぬ。多野屋へ集まる連中も、ひとつの関わりで集まるのではない。全ては声の主を突き止めることから始まるのだ」

 目付の神尾は相変わらず冷ややかな目で孝四郎を見つめていた。

 孝四郎ははぐらかされたと感じた。御目付は間違いなく何か大きなことを掴んでいる。

 だが孝四郎には言えないらしい。協力を頼まれながら、全てを話してもらえないのは、自分の微妙な立場故か、ことの大きさ故なのか。

 御目付の思惑がなんであれ、自分には下手人を確定させることしかできない。孝四郎は今は割り切るしかないと思った。

 多野屋での張り込みできっと大きな手掛かりが掴めるに違いない。そう思うと、孝四郎にやる気が漲ってきた。




 

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