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最終章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


 緊張した面持ちの家族と奉公人達に見送られ、孝四郎は門から筧屋敷を出た。

 善国寺の跡地にはほぼ約束通りの刻限に着いた。

 空には下弦の月が顔を見せていた。雲はほとんどない。

 満月に比べれば弱い明かりだが、これならば提灯がなくてもなんとかなる。孝四郎は安堵した。

 善国寺の跡地は草原の空地のはずが、葭簀張りの小屋がいくつか建っていた。

 姿は見えなかったが、孝四郎は多数の人の気配を感じた。

 ――どういうことだ、これは。大の男が四人以上いるぞ……

 馴染みの孝之助の気配も感じた。無事だとホッとした。

 それからしばらく孝四郎は辺りの地面を念入りに見て回った。一度目は川、二度目は穴に落ちた苦い経験から、二度とそんなことが起こらないようにと、足場をじっくり確認してから、おもむろに叫んだ。

「約束通り一人で来たぞ!孝之助を返してもらおう!隠れているのはわかっている!」

 薄暗い中うっすらと見える、手前から二つ目に位置する葭簀張りの小屋から人が出てきた。孝四郎と同じくらい大柄な人影だ。

 孝四郎に覚えのある人影だった。

 あの夜、新し橋で斬りつけてきた人物、土子紋蔵こと、潮田伴次郎に違いないと孝四郎は思った。

 提灯の灯りに浮かび上がった土子は、この日も黒装束で頭巾を被っていた。

 そして、頭巾から見える目は憎悪に燃えていた。そう孝四郎は思った。

 生い立ちを考えると、孝四郎の境遇を妬み、憎悪をつのらせていても不思議はない。

 望月の話からすると、半兵衛と同年くらいのはずだが、憎悪に燃える目も、身体全体から受ける印象ももっと年上に見えた。それだけ辛酸を舐めてきたということなのだろう。

 孝四郎は冷静に憎悪に燃える目を受け止めた。

 少し間を置いて、同じ小屋から今度は二人出てきた。どちらも二刀を差した浪人だ。一人は子供を抱えている。孝之助だ。手足を縛られ、猿轡を噛まされていた。提灯の揺れる灯りに見えた孝之助の目は泣き腫らした目だった。孝四郎は幼い我が子の戒められた姿に頭に血が昇った。

「俺がこうしてやって来たのだ。もう子供に用はないだろう。孝之助を離せ!」

「そうはいかない。まずは一合わせ願おう」

 そう言うと、土子紋蔵はゆっくり刀を抜いた。

 孝四郎は提灯の灯を消して地面に置いた。一瞬暗闇になったが、間もなく目が暗さに馴れた。刀の柄に手をかけ鯉口を切った。

 ゆっくり間合いを計りながら、二人は少しずつ互いに近づいていった。


 刀を抜いてからの土子の目が放つ色は憎悪から冷酷に変わっていた。どこか面白がっている風がある。

 そんな目を見ているうちに、孝四郎は古河屋の番頭と手代は自害ではなく、この男に殺されたのではないかと思った。小人目付の調べで二人が自害した頃、この男が江戸にいなかったのは確かである。その頃、大坂にいたのではないか。

「お主は古河屋の番頭と手代もその手にかけたのではないか?」

 孝四郎の質しに土子は何も返してこなかった。ただその目に面白がる色が増えたと孝四郎は感じた。

 ――俺が言ったことに間違いはないな。

 土子と対峙しながらも、孝四郎は潜んでいる気配が気になっていた。土子に気を取られ過ぎては潜んでいる輩にしてやられる。後方から仕掛ける気だと思われた。

 その時、三味線の音が聞こえてきた。

 孝四郎は何故今頃三味線が……と訝しんだが、土子から目を離すわけにいかず、全身の感覚を研ぎ澄ませてあらゆる気配を感じとることだけに専心した。

 段々三味線の音が近づいてくる。音からしたら、すぐそこまで来ている。

 ――三味線といえば天方だが、目付方に知らせてはいないし、ここ数日屋敷周りを見張っている風もないのだから、ここへ来るわけがない……

 土子が一瞬孝四郎の後ろに目をやった。

 隙ありと斬りかかれる絶好の刹那だった。ところがその時、男達が出てきた小屋の後ろから人影が飛び出した。

 人影は孝之助を抱えている男に体当たりしながら、見事に孝之助を奪い取った。もう一人が慌てて刀を抜き、孝之助を奪った相手に斬りかかる。

 飛び出した人影が喜八だと孝四郎が気づいた時には、刀がぶんと喜八を襲っていた。

「危ない!」

 孝四郎は間に合わないと思いながらも、小柄を抜いて投げようとした。

 土子も何が起こったかと後ろを向いた。

 その土子の鬢を掠めるように何かがピュッと飛んで行った。

 わっと声があがった。喜八を斬ろうとした男がよろめき、刀は喜八の肩を掠めただけで通り過ぎた。

 何が起こったかわからないでいる孝四郎と土子の横を、しなやかに人物が走り抜けた。菅笠を被り、三味線を手にしている。足元は裸足だった。

 ――門付(かどづけ)

 正月には三味線を手に編笠を被って市中に現れ「鳥追い」と呼ばれるが、普段は山の浅い菅笠を被り日和下駄を履いている「門付」、渡りの女芸人だ。

 門付は喜八を斬り付けた男の側へ走り寄ると、腰巻きも露に足を広げて踏ん張り、男の顎を三味線の胴で横殴りした。男は斜め後ろへ吹っ飛んだ。顎の骨が砕けたのではないかと思うくらいの凄まじい一撃だった。

 喜八に体当たりを食らった男はその時までに起き上がっていた。だがその者が刀を抜こうとした時、門付は振り向き様、いつの間にか手にしていた小太刀でその男の胸を貫いた。無駄のない見事な動きだった。

 孝四郎も土子も唖然として門付を見つめた。

「筧様、若様のことも潜んでいる輩もそれがしにお任せを。土子に専念なされませ」

 門付は孝四郎に微笑んで言った。孝四郎はその声にも菅笠の下の白粉顔にも大いに覚えがあった。

 ――天方新十郎!またなんと絶妙な時に絶妙な現れ方を……

 月明かりなので色目はよくわからなかったが、門付ということで、地味な色目の格子模様の着物を着ているようだった。

「喜八、大丈夫か!」

 孝四郎は姿を確認できない喜八に声をかけた。

「へい!孝之助様もおらも大丈夫でございます」

 右奥の小屋の辺りから声がした。

「父上ぇ!喜八は肩から血がぁ!」

 その側から孝之助の元気な声もした。

 その間に門付姿の天方の姿が見えなくなっていた。どこかから「うわっ」という悲鳴と「ギャッ」という悲鳴が聞こえた。

 土子は憎々しげに言った。

「お主一人ではなかったのだな」

「約束通り一人のつもりだった。まさか喜八とあの凄腕の門付がここへ現れるとは、俺も驚いた。しかしお主も卑怯な手を使ったではないか。子供を人質にとり、仲間に俺を背後から襲わせるつもりだったのだろう」

 孝四郎が言い終える前に土子は斬り込んできた。その斬り込みを孝四郎は鎬を当てて逸らした。素早く下から返してきた相手の刃を今度は上へ受け流す。

 土子は受け流された動きからするりと刀を返して孝四郎の肩に斬りつけてきた。

 孝四郎は素早く後ろへ退きながら、また鎬で払った。

 土子はすぐさま、さらに大きく踏み出しながら刀を突きだしてきた。全く動きにぶれも崩れもない。

 孝四郎は斜め下からの突きをまた鎬で払った。払った動きから反転すると見せて上体を捻りかけたところから、相手の小手を狙って刀を振り下ろした。

 相手は悲鳴を上げなかったが、手応えがあった。素早く刀をかえし、今度は下から斬り上げる。

 土子もさるもので、小手を斬られても刀を落とすことなく反対側の斜め下から孝四郎の脇を狙ってきた。

 双方が鎬を当てて己に向かってくる刃を逸らす。直後、孝四郎の刀は鋭く土子の脇腹を切り裂いていた。

「何を一体……」

 土子は驚いていた。よろめいて後ろへ下がった。

 その顔が歪んでいるのは、痛いからよりも悔しいからだと孝四郎は思った。

「お主がそらした動きを利用したのだ。それだけだ」

 それが光右衛門も認める、孝四郎の得意技であり必殺技だ。一刀流の切り落としの一型なのだが、どう刀を動かしても鎬に当てたところからするりと加速したとさえ思う速さで相手の懐へ刀が延びる。鎬への当てかたが上手いと、前に師匠は褒めてくれた。しばらくは畑仕事で忘れかけていた微細な感覚だったが、望月をはじめとする道場仲間のおかげで感覚を取り戻すことができていた。

 脇腹の傷では失血死を待つことになる。介錯を申し出ようかと思った孝四郎だが、驚いたことに土子は雄叫びをあげ、今一度刀を上段に構えて孝四郎に向かってきた。その狂気じみた気迫に孝四郎は再び望月から聞いたこの男の生い立ちを思い起こした。

 孝四郎は光之丞、弥助、勘次郎の仇と、心を鬼にして袈裟斬りを狙った。傷ついた土子はもう孝四郎の敵ではない。


 土子の目を閉じた孝四郎の側で天方新十郎の声がした。

「お見事でございました。さすがは槇田道場の歴代四天王のお一人に挙げられるお方」

「たかが二十年ほどの歴代だ」

 孝四郎は立ち上がり、改めて天方新十郎の顔を見た。相変わらず見事な化けっぷりである。

「いくら仇とはいえ、気分は良くないな……あの手際からして、お主はお役目で人を斬ったことがあるのだろうな」

 天方は微笑んだ。不思議なことに孝四郎は菩薩の微笑みに感じた。

「ですから、わたくしが(とど)めを差そうと思っておりました。ですが、筧様はやはり剣士。中途半端に済ますことはできなかったのでございましょう?後始末はこちらでいたしますから、筧様は若様を連れてお屋敷へお帰りください」

 そうか、では頼むと言いかけ、孝四郎は思い出した。

「ここでこの刻限に果たし合いがあると、どうやって知ったのだ?お主達は神尾様が二度目にやってきた日から俺を見張るのをやめていたろう?」

「直々に見張ってはおりませんでしたが、辻番所にあの界隈で何か変わったことがあれば、我々の繋ぎへ知らせるよう命じてあったのです。あれだけ中間が取り乱せば、五十間(100m近く)離れてても何かあったとわかりますよ」

 孝四郎は喜八の泡をくって戻ってきた様子を思いうかべた。

「確かに……」

「見つからずに筧様のあとをつけるのは難しいと思いましたから、きっと出てくるであろう、筧様の奉公人をつけることにしたのです。案の定、あの喜八という中間が筧様がお出掛けになって間もなく出てきました。筧様より先にここへ着こうと思ったのでしょうね、途中までは回り道を辿りながら、走っていたそうですよ。あ、あとをつけたのは、わたくしではありませぬ。念には念を入れて、顔を知られていない者につけさせました。わたくしはその者の知らせでやって来たのです」

「結局は、お主らに踊らされていた気がするな……だが、まずは礼を言う。お主がいなければ喜八は殺されていた。孝之助も殺されていたかもしれない。誠に忝ない」

「お役目ですから、お気になさらず」

 天方は軽い笑顔に軽い調子で答えた。

「そうだ。他にもお主に礼を言わねばと思っていたことがある」

 天方は不思議そうに軽く首を傾げた。

「お主に言われて屋敷を調べたら、床下から覚えのない請書の紙切れが見つかった。近藤五百之助が我が屋敷へ囲ってくれと言ってきたのは、あの紙切れをしのばせておくためだったのだな。それに、近藤が俺の屋敷を出たところで殺害され、神尾様が俺への疑いを再び強めた時には、弁明してくれたと山井から聞いた。誠に忝い」

 孝四郎は再度一礼した。

「なんてご丁寧な。でもこの度同様、役目を果たしただけです。わざわざお礼を言われることではありませぬ。近藤様殺害の件については、あんな手にひっかかる神尾様の目が節穴なのです」

「おい、御目付にそんなことを言ってよいのか?お主の上役の上役であろうに」

「構いませんとも。本当のことなのですから」

 天方はにっこり笑った。

「お主の役目ではないかもしれぬが、太田家の減俸が少しでも少なくなるよう、光之丞のことも弁明してくれぬか」

 思い切って言った孝四郎に、天方は真顔になった。

「筧様のお気持ちはよくわかりますが、太田様のなさったことは弁明の余地がございませぬ」

 天方の言うとおりだった。孝四郎は言い返せなかった。

「なぜ近藤様の話に乗ってしまったのか、それは太田様ご自身もわからなかったかもしれませぬよ」

「どういうことだ?」

 天方は不思議な笑みを浮かべた。寂しいような、面白がっているような、醒めているような、いくつかの感情が混ざり合っていると思える薄い笑みだった。

「それがしの家はわずか十五俵一人扶持ですが、生まれた時から嫡男だったので、筧様より太田様の心持がわかるかもしれませんね」

 そう言って天方は三味線を少し爪弾いた。

 孝四郎は愁いと達観を同時に感じるような天方の不思議な雰囲気にそれ以上尋ねてはいけないと感じた。

 天方が唄と三味線が好きなのは間違いない。どちらも孝四郎が聞いた中では一番うまいと思ったほどの腕前だ。家筋のとおり小人目付のお役についているのは不本意なのかもしれない。しかも上役も上役だ。

 光之丞もそうした不満を抱えていたのだろうか。

 そうした不満が悪事に引きずり込まれる心の隙を作るのだろうか。

 そんな危ないことが天方にもあったのだろうか。

 そんなことを考えていると、突然、門付姿の天方の周りが漆黒に沈んで見えた。その一瞬は近寄りがたい、気高い孤高の姿だった。

 しかし、次の瞬間には孝四郎に向き直り、茶目っ気たっぷりの、ニタリとした笑顔を見せた。


 いつか素顔の天方と、男同士、侍同士として一献かわし、とことん話をしてみたいと孝四郎は思った。

 天方に言うつもりだった文句の数々は孝四郎の頭からすっかり消えていた。



 早く帰らねば津留が心配しているなと、孝四郎が一緒にいるはずの孝之助と喜八を探して周囲を見回したら、ぼーっと何かに見惚れている喜八がいた。肩を縛っているところをみると、孝四郎が土子と斬りあっている間に天方が応急の手当てをしたのだろう。喜八の視線を追うと、そこには門付姿の天方がいた。

「おい喜八、しっかりしろ。あれは男だぞ。中が男でも良いなら、そりゃなんだが……」

「へ、へぇ。ですが、綺麗です……あんなに綺麗な()()()見たことありやせん。先ほどおらの肩を手当てしてくださったのですが、あんなに綺麗な顔を間近に見れて、夢のようでした……」

「いや、だからあれは女ではない。月明かりでは細かい所までわからぬか?よく見ろ。体格からしたら首も太いし、手足も大きいぞ」

 更に悪いことには孝之助もポカンと口を開けて門付姿の天方を見ていた。

「おい、二人とも目を覚ましてくれ!」


 喜八は怪我をしているので、孝四郎が孝之助を背負って歩き始めた。すれ違う時に孝四郎は再び天方に声をかけた。

「改めて礼を言う。この度は本当に世話になった」

 孝四郎はまた頭を下げた。

「わたくしどもの世話にはならない方がよろしいのですけどもね。確かに今回の件はなかなか大変でした……ですが、同じ過ちはいたしませぬ」

 最後の言葉を不思議に思いつつ顔を上げた孝四郎の目に入ったのは、孝四郎の肩の方を見て微笑んでいる天方だった。

 ――孝之助がまた見惚れているのか?まだ六才なのに、先が思いやられる……

「そうだ。喜八が殺られそうになった時、何を投げて邪魔したのだ?」

 天方が帯に差していた物をあげて見せた。三味線の(ばち)だった。

「三味線は石頭を殴り付けたら、ちょいと壊れてしまいました。買い直さないといけないかもしれませぬ」

「高いのか?金に困るようなら言ってくれ。少しは援助するぞ」

「お気遣い、ありがとう存じます。たぶん公費で落とせるでしょう。筧様の若様と奉公人をお守りするためだったのですから。報償金も少しばかりいただけるでしょうし」

「お主に奢る約束、まだ果たせていないな。素顔のお主と一献交わしたいものだ」

 孝四郎がそう言った直後、天方がまたニタリと恵比寿系の笑みを見せた。

「筧様はそれがしの素顔を見たことあるはずでございますよ」

「何っ?いつ?」

「よおーく思い出してくださいまし」

 天方は壊れたという三味線を抱え直して爪弾いた。楽しそうに唄った。

「海上はるかに見渡せば~、七福神の~宝船ぇ~」




 善国寺跡での果たし合いから半月近く経った非番の夕方、孝四郎は二月ぶりに、いさやを訪れようと思い立った。供をつれず、一人で豊島町への道を歩いた。

 いさやへ行くことは、考えただけで光之丞達を失ったあの夜が思い出されて辛かったのだが、光之丞が巻き込まれた悪事の謎も解け、仇も討ち、孝四郎の中でようやく一区切りついたのだ。


 太田家は百俵に減俸された。厳しい裁決だが、改易にならなかったことに孝四郎は心底から安堵した。

 減俸により、太田家は近々百俵に見合った屋敷へ転居する。幸い、筧屋敷から歩いて半刻(約1時間)はかからない場所に新居が決まったから、孝四郎は今後も時々津留や息子達を連れて訪れるつもりでいた。広さはこれまでの敷地の半分ほどの、百五十坪になるらしい。これまでより狭いとはいえ、町家からしたら十分広い。その半分くらいを畑にしたいというよねの計画に孝四郎は大いに賛同し、助言を約束した。

 よねは少しづつ元気を取り戻している。心中はさぞ複雑だろうが、なみともうまくやっているようだ。

 正之助が元服したら、孝四郎は何かの御役に就けるよう、兄や叔父の力をも頼んで活動するつもりでいる。


 隈屋の詮議はまだ続いている。近藤五百之助が首謀者であるというのが、隈屋の主張らしいが、町方は首謀者かどうかよりも、隈屋が何をしたか、何を企んだかに重きを置いて裁きをつけるつもりらしい。……という天方の言葉を安生が伝えてくれた。


 隈屋は、芸妓姿の天方を気に入ったのが運の尽きだったのだ。正体が小人目付とは夢にも思わなかったことだろう。光之丞もなみを気に入って請け出して囲おうと思ったことが悪事に手を染める切っ掛けだ。色恋は怖いなと、孝四郎はしみじみ思った。

 今のところは他人事だが、孝四郎にもいつそんな魔が差すかわからない。

 そう思ってみたが、こんな食い意地のはった口下手な男に言い寄ってくる女はもちろん、口説いても応えてくれる女はめったにいないと冷静に思い直した。

 ――ちょっと寂し……いや、それで良いのだ。

 突然、芸妓姿の天方が頭に浮かんだ。「うげっ」とまた変な声が出た。

 月明かりで見たせいかもしれないが、実のところ芸妓より門付姿の方が孝四郎の好みだった。もちろんあくまでも「比べたら」の話であり、見惚れるほどではない。なのに、どうして頭に浮かぶのは芸妓の姿なのか。孝四郎は自分の頭が謎だった。

 天方はもう新たな探索に入っているらしい。奢るのは先になりそうである。

 大坂へ発つ前に約束を果たせるといいのだがと、孝四郎は思った。


 いさやの者は皆、ここからの帰りに光之丞と供の中間二人が殺されたことを知っていたから、久しぶりに現れた孝四郎に主人も仙吉も(いたわ)りの言葉をかけてきた。

 孝四郎は以前のように上げ床の奥の方で胡座をかいた。

 二月前のことがまるで一年も前のように感じられた。その間に起きたことを思い返しながらちびりちびりと酒を飲んだ。


 光之丞と弥助を失ったことは取り返しのつかない悲劇だが、生と死は隣り合わせというように、筧家では新たな絆が生まれた。

 喜八をもうひとつ信用できていなかった津留が、拐かされた責任を感じて命懸けで孝之助を救い出そうとしたと知ってからは、すっかり喜八を頼りにするようになったのだ。

 息子達はすぐに喜八を頼っていたから、子供の方が人を見る目は上のようだ。

 喜八の唯一気になるところは、門付姿の天方に見惚れ、今も「綺麗な()()()だった」と言い続けていることだけだ。

 孝之助も時々ため息をついていると思ったら、「父上ぇ、あの門付をここへ呼んでくださいませ。お知り合いなのでしょう?あの門付と会いたくて……ここが苦しくて……」と首の付け根辺りをさすりながら真剣な目差しで訴えてきて、孝四郎は腰を抜かしかけた。あろうことか、六歳にして小人目付が扮した門付に恋したらしい。


 天方といえば……と、孝四郎は最後に天方が投げてきた謎かけを考えた。

 ――どこで俺は素顔の天方を見たのだろう?あの厚化粧だから、素顔が想像つかぬ。

 あの日以来時々考えてみるのだが、どうにもそれらしい人物が思い浮かばない。槇田道場で体格から候補を二人見つけたが、どちらも声が違っていた。

 改めていさやを孝四郎は見回した。

 ――天方に奢るのはこの店が良いな。ここならたっぷり飲み食いできる。多野屋とは大違いだが、こちらが贅沢できないのは向こうも承知しているはずだ。

 そう考えていたとき、仙吉が芋の煮ころがしを運んできた。

 突然、孝四郎の頭に二月前の光景が甦った。思わず調理場に戻ろうとする仙吉を呼び止めた。

「前に俺がここへやって来た時に、そこに商家の手代らしい者が二人いたろう。一人はお主と張り合えそうな男前だった。覚えておらぬか?」

「その二人連れならば、よく覚えておりやすよ」

 仙吉は笑顔で答えた。

「よくここへ来るのか?」

「いいえ、あの日以来一度もお見えになっておりやせん。それまでもお越しになったのは二度くらいでしたね……覚えているのは、筧様達がお帰りになられた後、間もなくあのお二人も帰ろうとなさったんでやすが、そのときに入れ替わるように入って来たお客様と揉めやして……」

 仙吉によると、お店者二人が出ようとした時に、破落戸風の男三人と堅気ではなさそうな女一人が店に入ってきたのだが、その女が小柄な男前に色目を使ったのだという。ところがそれを男三人はお店者が先に色目を使ったのだと言いがかりをつけてきた。早く帰ろうとする二人にしつこく絡んで引き留めた。

美人局(つつもたせ)の変わり種かと思いやした。あっしもここの旦那も止めに入ったんでやすが、三人はなかなか引き下がりやせん」

 とうとうお店者二人は「ここでは迷惑になりますから、外で改めてお話をお聞きしますよ」と男三人を外へ連れ出した。ところがその後、四半刻以上たっても男三人が戻ってこない。気になった仙吉と連れの女が外へ様子を見に行くと、半町程行ったところにある路地で男三人は顔に青痣をつくって気を失っていた。

 孝四郎は笑い出しそうになった。

 ――あの小柄な男前が天方新十郎だったのだ!気がついてみれば、白粉顔にも面影がある。なんということだ!……するとあのとき、光之丞をつけていた?あの大柄な方も小人目付だったのか?

 とうに近藤と光之丞に疑惑の目を向けていたからか、笠置に渡した文で動き出したのか、ともかく、あのとき、既に光之丞と共に自分も見張られていたのだ。今頃になって知った孝四郎は、公儀の手回しの良さに感じ入り、その恐ろしさに背筋は寒くなった。

 同じ過ちはしない。そう言った天方新十郎は、悪漢に絡まれた隙に光之丞達が殺されたことに責任を感じていたのだ。

 ――多野屋での厚化粧は俺が素顔を覚えていると思ってか……

 孝四郎はまた店内を見回した。この店が孝四郎のお気に入りなのは天方もよく知るところだ。ここに通っていれば、そのうち天方が約束です、奢ってくださいと現れる気がした。

 ――ここならば、素顔で現れるのではないか。破落戸に絡まれたから、もう素顔では来ないだろうか?素顔でなくても幇間姿ならば……まぁ女形の格好でも良いが。芸妓姿でも驚かないし。

 孝四郎は天方との再会を考えると、それだけで楽しくなった。今となっては、さんざん振り回されて腹を立てたことも懐かしい思い出になっていた。

 何故だろうと孝四郎は考えた。

 天方がいなかったら、敵討ちどころか、孝四郎が悪事の首謀者にされていたかもしれないという、恩を感じてだろうか。そもそも執念深い性質(たち)ではない孝四郎ではある。

 ――いや、違う。

 天方の小人目付として、武士としての力量を認めたからだ。一瞬見せた、あの孤高を感じさせた姿に感じ入るものがあったからだ。うまく言葉にできない何かが、あの時孝四郎の胸に突き刺さってきた。

 直後の茶目っ気たっぷりの笑顔も思い出した。

――門付でも三河漫才でも、なんでもござれだ。素顔がわかった今、天方新十郎が天方新十郎である限り、どんな格好をしようと、すぐに見抜いてみせるさ。あ、そうだ。隈屋の何に憤ったのかも確めないとな。

 天方にとってはおそらく余計であろうことまで思い出しながら、孝四郎は銚釐に残っていた酒を猪口に注ぎきった。そして、その銚釐を追加の合図に仙吉へ上げてみせた。

 合図に返してきた仙吉の笑顔の向こうに、孝四郎は天方の悪戯小僧のような笑顔が見えた気がした。






 ―― 完 ――



最後までお読みくださり、ありがとうございますm(_ _)m

途中は振り回しておいて、最後は予定調和でした!

最後はやはり(それなりに)主人公は格好いいところを見せないと(^o^)v


「白南風」を読んでくださった方はタイトルで気がついたかもしれませんが、この話は別キャラで書いた「白南風」の補完的(且つ鏡的)な話でもあります。だからこそ、ココへ「白南風」の次に投稿することにしたのです。

名前も役名も作中に書きませんでしたが、○○で真乃達を助けたのが小人目付(という設定)でして、「白南風」では視点の都合上、活躍が影になってしまい、最後にさらりと叙述するだけになってしまった彼らの探索絡みの活動を見せることがこの話の目的の一つだったのです。ではメインの小人目付をどんなキャラにするか……で、清吉系のちょっと厄介な人物にした……という設定順でした。(小人目付視点にしなかったのは、私の天の邪鬼度合いから。たぶん)


アレが実は化粧していない天方だろうと、早くから目星をつけていた方、いらっしゃいましたでしょうか?

あの章のあの辺と第●章の前半は、かなり慎重に、気を使って書いた箇所です。

第●章、お人好しの孝四郎君は騙されましたが、某氏については、さらりと二択の可能性を書いただけでなく、怪しさを感じさせるような描写を入れたつもりです。(あの書き方ではそんなこと思わないと言われたら、アレですが……^^;)…というように、慎重に書いたためか、あの章は誤字脱字のみの修正で済んでおります(^ー^;A……………少なくとも今のところは。


光之丞の心理については、いっぱいヒントを出しているので、大体のところはおわかりになったことでしょう……ね?少し具体的なところを書くと、孝四郎もよねも天方もヒントを出し、さらには土子紋蔵もヒントになります。


天方は途中からは勝手に動き始めました。

とはいえ、天方を主人公にした話を書くかどうかは、現時点では不明です。(2025年7月の追記: 今年のうちに天方が主人公の短~中編をココへ掲載するかも。主人公にすると、なかなかの「嫌な奴」になると思うんですが)


最後に参照した文献のうち、書名をメモしていたり思い出せたもの、かつ「白南風」と被らない文献を記載しておきます。


近世中期大番筋旗本覚書

近世大坂の御用宿と都市社会

豆腐百珍

居酒屋の誕生

文政武鑑

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