第十章
食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。
「隈屋が町方に捕縛されたことは聞き及んでおるな」
神尾清左衛門は渋い顔つきで孝四郎に確認するように訊ねてきた。
「はい、昨日のうちに。やはり太田殿殺害の件と関わりがあるのですね」
「太田光之丞と近藤五百之助が幼馴染みなのは存じておるな」
孝四郎は神尾の目をまっすぐに見つめながら頷いた。
「屋敷替えしてからはあまり行き来しなくなったようだが、家督を継ぐまでは二人でよく町地を徘徊していたらしい。その近藤が大坂在番で御金奉行を勤め始める直前に、つまり今から三年ほど前ということだな、新旧の貨幣交換に関わる不正が発覚し、為替両組のひとつ、古河屋が闕所となったのは存じておるかな?」
孝四郎は天方が言ったことを思い出し、隈屋の話になるのかと思った。ともかくも頷いて知っていることを示した。
「はい。大坂店の番頭と手代が江戸へ送るはずの旧貨幣を着服したという、古河屋内での監督不行き届きと聞いております。確か、その番頭と手代は捕まる前に自ら死を選んだのでしたね」
「その通りだ。だがこの件はそれで終わりとはならなかったのだ。二人が着服したはずの二千両近い旧貨がどこにも見当たらなかったのでな」
孝四郎には全く初耳のことだった。番頭と手代の自害のあとに巷で話題になることはなかったから、てっきりすべて片がついたのだと思っていた。
「使い切っていたのですか?」
そう言いながら、孝四郎の頭では近藤が言った「右から左へ動かした荷」がそれかと思っていた。それならば、確かに御金蔵の金ではない。
「手代は生前知り合いに『侍に騙されて巻き上げられた』と漏らしていたそうだ。しかも、その相手は役人を名乗っていたのだが、その御役も名前も嘘だったというのだ」
孝四郎はどこかで聞いた話だと思った。
「その偽っていた名前も御役も、その知り合いは聞いておらなんだが、古河屋や件の番頭と手代につながりのある武家を探し出して一人一人調べていき、ようやく怪しい人物が浮かんできたのが三月前」
「その人物が近藤殿と光之丞を騙したのですね?」
いったい誰だと孝四郎は緊張しながら言ったのに、神尾から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「違う。近藤五百之助こそがその人物だ」
「へっ?!……で、ですが、その頃はまだ御金奉行に就いていなかったではありませぬか。それに、近藤殿はわたくしに自分は騙されたのだと申されたのです」
「違う。奴は騙されてなどおらぬ。逆だ。騙しておったのだ。あれはとんでもない嘘つきの悪党だった。御金奉行出役を命じられて近藤は面食らったはずだ。御金奉行の屋敷は出入りしやすい城外だし、金絡みは真っ先に疑われるからな」
「ええぇっ?!」
孝四郎は驚き過ぎて御目付様の前なのに大きな声を出したうえに、後ろへひっくり返りそうになった。
嘘をついているとは思っていたが、言ったことのほとんどすべてが嘘だとは、孝四郎は思いもしなかった。
驚いた後には呆気にとられた。相手の芝居のうまさと己の芝居を見抜けなかった間抜けさに、だ。
よねが「油断ならない御方」と言っていたのを思い出した。油断ならないどころではない。
ものの見事に騙されていた衝撃から立ち直れず、孝四郎は控えめに、小声で言った。
「近藤殿は荷を右から左へ動かしただけだとも申されたのですが……」
「それをやったのは近藤ではない。太田光之丞だ」
神尾の言いきりに今度は大きく動揺した孝四郎だった。だが何がどうなっているのか訳がわからず、黙って神尾が続きを言うのを待った。
しかし神尾はそこで孝四郎が何か言ってくると思っていたらしい。妙な沈黙が起こった。
神尾の後ろに控えている徒目付と小人目付達が一斉にうつむき、その肩が震え始めた。
今さら口を開くのもさらに墓穴を掘るだけの気がして、孝四郎は神尾を見つめたまま黙りを続けた。
神尾はひとつ咳払いをし、一口茶を飲んで話を再開した。
「実はな、近藤への疑惑を固めたのは太田光之丞の動向だった」
遊女を請け出し、内緒で囲っていることが目付方にわかり、金の出所に疑惑を持たれたということだ。孝四郎の気持ちは沈んだ。
「そのあたりのことは、貴公の方が我らよりよく存じておるであろう。太田光之丞という男は根っからの悪人ではない。悪事を働くのに向いてはいなかったようだ。それだけになかなか疑惑を向けられなかったが、隠すことも下手だった」
「近藤殿が光之丞を巻き込んだのです。先ほど神尾様は近藤殿は騙した側だと仰った。光之丞は騙された側です」
孝四郎の光之丞をかばう言葉が聞こえなかったように神尾は続けた。
「近藤に頼まれ、太田は旧貨を一年間隠し江戸へ運ぶ役目を引き受けた。全部ではなかったようだが、かなりの量をだ。当初は近藤が自身の店に隠して持ち帰るつもりだったらしいが、御金奉行という思わぬ役付きに、光之丞に話を持ちかけたのだな」
渋い顔つきのままの、淡々とした神尾の語り口だったが、その内容に孝四郎は顔も身体も強ばってきていた。
なるほど、いったん大坂城内に番衆小屋へ引き継ぎ時に荷物に紛れこませて入れてしまえば、荷の中身をいちいち調べることはしていないし、よっぽど確かな証しを示さない限り、後から中に入って調べることはできない。荷に紛れこませるのも、城に入る前に数日間、城の西側にある町屋に宿泊するから、機会も得やすい。大坂在番の番士に預けるのが一番みつかりにくいかもしれない。さらには一年たてば、ほとぼりも冷めると思っていたのかもしれない。
しかし、そもそもの始まりが孝四郎に疑問だった。神尾の話からは光之丞達が大坂へ行くかなり前から悪事は始まっていたことになる。近藤が騙した側としても、大坂へ手を回せるとは思えない。黒幕は隈屋なのか。それとももう一人、絡んでいるのか。
光之丞への疑問も再燃した。心に隙があったとしても、途中で引き返せなかったのは何故なのか。一年も考え直す期間があったのである。
考えられることは、後戻りできないように脅されていた、だ。
江戸へ戻ってからも、ずっと光之丞は怯えていたのだろうか。
そもそも、なみと光之丞を目会わせたのも近藤の策だったのかもしれない。そう考えたら、孝四郎は寒気がしてきた。おそらく近藤が孝四郎に話したことの、数少ない、ひょっとしたら唯一の真実が、なみを光之丞に引き合わせたことだ。これだけ近藤の悪事を聞かされれば、そこに何の計算もなかったとは思えない。
いや、さすがにそれは考えすぎだと、孝四郎は考え直した。近藤に何らかの計算はあったろうが、怪しい話に乗るほど、光之丞がなみに惚れ込むとは事前に計算できなかっただろう。思わぬ展開につけこんだということではないか。
神尾に聞きたいことがありすぎた。話の続きを待たず、孝四郎は神尾に訊ねてしまった。
「しかしそれならば、何故光之丞は殺されたのですか?単なる運び役ならば、礼金の授受で終わる話でしょう。しかも二年も経った今頃になって土子が殺害に及んだのは何故です?」
「太田光之丞という男は悪事を働いてシラを切り続けることのできる男かな?」
そうだ。そんなことのできる男ではない。だから孝四郎は仲良くなれたのだ。そして、この半年ほどの間悩んでいる風があった光之丞だ。
「運んだ中身に気づいた光之丞は思い詰めて目付方へ告白しようとしていた……」
孝四郎の呟きに、神尾は頷いた。
「近藤はそれを察して先手を打ったのだ」
「ええっ?近藤五百之助が、光之丞を?」
「そうだ。近藤が光之丞を斬殺させたのだ」
神尾は平然と返してきた。
孝四郎は愕然とした。
――やはりあやつの亡骸は小塚原へ持っていくのだった!
「ただし、そこにはもう一枚絡んでいる者がおる」
「隈屋ですな」
孝四郎はいつその名前が出るかと思いながら話を聞いていた。
「古河屋の番頭と手代を唆したのは近藤だが、その近藤に入れ知恵したのは隈屋だったと思われる。近藤は太田から自分に疑惑が向いてきたと知り、しかも太田が良心の呵責に苦しんでいるのを察し、隈屋の手の者を使い太田の口を封じた。そういうことだったらしい。旧貨の横領を我らに暴かれ、突きつけられ、近藤はなんとか言い逃れし、罪を他の者にきせようとしたが、そんな近藤を土子が許さなかったのだ。おそらく光之丞殺害の礼金が少なかったとか、払おうとしなかったとか、そういったこともあったのだろう」
その、近藤が罪を着せようとしたのが、目の前にいる俺じゃないかと、あえて名前を出さない神尾が孝四郎には不気味だった。真意を図りかねた。それに……
「お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。何かな?」
「土子が近藤五百之助殺害の下手人と白状したのですか?」
「他に誰がおる」
「え?いや、しかし、土子は一人で動いては……」
言いかけて、孝四郎はまずいと口をつぐんだ。長いものには巻かれろが、番士として生き抜く術である。
「実際に手を下したのは土子ではないかもしれぬが、土子の指図には違いない」
神尾の不確かだと認めるきっぱりとした言い方に孝四郎はがっくりきた。
当初は孝四郎も土子が下手人と思ったのだが、その後冷静に状況を振り返り、匕首を使った手口と前から刺していたことから、近藤を刺したのは土子以外だっただろうと考えていた。もしも土子が前から近づいてきたら、近藤は警戒し、もっと大きな騒ぎが起こったと思うからだ。つまり、近藤が油断する相手に刺されたということだ。では、誰が手を下したのかといえば、土子と組んでいる三人のうち、一番あり得るのは、新し橋で振売りの格好をしていた男だ。それが孝四郎がひそかに出していた結論だった。
しかし、御目付は誰が刺していようと、土子が指図したのだから、それで良いという考えらしい。皆まとめてお縄にしたから、それで良いということか。……と、考えたところで、孝四郎は思った。
――聞こえてきたのは隈屋だけだが、もちろん土子も、組んでいた三人も捕らえたのだろうな。天方は町方とそのための打ち合わせをしていると安生は言っていたし、先ほどから神尾様が言いきっていることは、土子から聞き出したとしか思えないし。近藤五百之助は死んでいるのだから。まぁ、昨日の今日だしな。そう簡単にすべてのことは話さないか……
近藤殺害の下手人のことはひとまず置いて、孝四郎は一番の謎について訊ねることにした。
「近藤殿はどうやって古河屋の番頭と手代を唆したのです?二人は大坂、近藤殿は江戸にいたでしょう?」
「番頭と手代はずっと大坂にいたわけではない。年に二度ほど江戸に来ておった。江戸に来た時に近藤が説得したのだな」
孝四郎は近藤の面の皮の厚さに言葉が出なくなってきた。
入れ知恵したのは隈屋とはいえ、これまでの話では実際に動いたのはすべて近藤である。
孝四郎の前で見せた、あくまでも自分は騙されたのだと言い張り、小心者を装った態度を思い出すと、孝四郎はもう誰の言うことも信じられなくなりそうだった。
「隈屋と近藤とのつながりがなかなかわからんでな」
神尾は孝四郎の様子は気にせず、どんどん話を進めることにしたらしい。
「どうやら二人は大昔に知り合っていたらしい。詳しいことはこれから町方が隈屋から聞き出すと思うが、浪費癖のある近藤が昔馴染みの源右衛門から金を借りようとしたのが、今回の企みが動き出すきっかけだったようだ。その前から隈屋は御用達の両替商の鑑札を手に入れる策を色々考えていたのだと思うが、自分の代わりに実際に動ける人物がなかなか見つからなかったのだろうな」
「隈屋の狙いは旧貨よりも古河屋が持つ鑑札だったということですか……」
鑑札を手に入れるための資金と鑑札そのものを手に入れる機会の一石二鳥を狙ったということだろう。
孝四郎は源右衛門とのやりとりを思い出しながら、納得した。柔らかそうな物腰の中に抜け目のなさが確かにあった。芸妓姿の天方を執拗に口説いていたらしいことからも、欲しいと思ったものはなんとしても手に入れようとする執着心を感じる。
神尾はまた茶を一口飲んで、間を空けた。
「隈屋の追及は町方の管轄だが、貴公と気の合っておる天方が助太刀しておるから、逃れられぬだろう。なにやら隈屋の主人に憤ることがあったらしく、張り切っておる」
――ん?いつの間に俺と天方が気の合うことに?
天方が隈屋の旦那に「憤ることがあった」というのには孝四郎の頭に様々な可能性が浮かんだが、いずれも御目付様の前では口に出せないものだった。
「その天方殿は書付を探していると申しておられた。見つけたと聞いておりますが、一体何の書付だったのでしょう?」
「事の首謀者が近藤だということを示す書付だ。ただし、本当の首謀者は今も言ったように、隈屋だと思われるがな。隈屋の方が近藤より一枚上手だったということだ」
そこで神尾はふっふっふっと笑った。
孝四郎は神尾がそこで笑った意味がわからなかった。孝四郎は笑うどころではない。
「太田家は……太田家と近藤家は御取り潰しですか?」
「貨幣改鋳に絡む横領に幕臣が絡んでいたとあっては示しがつかぬから、真相は決して表へ出さず、うまく理屈をつけて近藤家はそうなる」
「太田家も、でございますか?」
孝四郎は思わず身を乗り出していた。
「貴公の探索への助力と、太田光之丞の取り分は近藤に比べれば僅かであるし、罪を告白しようとしていた心根から、なんとか改易は免れるようにしたいと思うておる。減俸は避けられまい」
――よね殿、正之助、すえ……
と、三人の顔を思い浮かべた後で、孝四郎は気づいた。神尾は重大なことを言った。
「御目付方が光之丞が罪を告白しようとしていたのをご存知だったということは、光之丞はあの時までに、こ、殺される前に、御目付方へ文か何かでその意を示していたのですか?」
「大きな不正に手を貸したかもしれない、知っていること、自分が推し量れることを話すから、改易は避けてもらいたい。そのような文を殺される前日の朝番の日に城内の詰所におった笠置へこっそりと渡してきた。笠置とも昔の顔馴染みだったらしい。それほど仲が良かったわけではなかったそうだが。既に近藤と自身に疑惑が向けられているとは気づいてなかったようだな」
孝四郎は神尾の後ろに控えている、新し橋の時から神尾に従っていた笠置弥一郎の顔を見た。無表情だった。孝四郎が見た限りでは、いつも無表情だ。何を考えているのかわからない。常に無表情でいることが、徒目付の心得なのかもしれない。
光之丞自身が妻子のため、お家のために改易を避けようと動いていたと知り、孝四郎に安堵の気持ちが湧いた。悪事に手を貸してしまったことは痛恨の失態だが、光之丞なりに妻子のため、お家のため、自身で落とし前をつけようとしていたのだ。それでこそ光之丞だと孝四郎は思った。脅されていたと思われるから、命がけの行為だ。話があると孝四郎をいさやへ誘ってきた時には死を覚悟していたのだ。
「何卒ご厚情をもってお取り計らいくださいますようお願い申し上げます。わたくしにできることがあれば、なんなりとお申し付けくださいませ」
孝四郎は畳に額がつかんばかりに頭を下げた。
「そこでだ」
「はい」
孝四郎は頭を上げた。何を言われてもなんとか対処するのだと、気持ちを引き締めた。
「実は太田や貴公の奉公人を殺害した者どもを捕らえそこねてな」
「……は?」
先ほどまさかと打ち消した疑念をあっさり神尾に肯定され、孝四郎の引き締めた気持ちは思わず弛んだ。
「町地で起こった上に下手人は浪人と町人だからと、町方に任せたのがいかんかった」
では、今まで自信たっぷりに言いきっていたのは何だったのか。推測に過ぎないのか。孝四郎は頭がくらくらしかけた。目付方には人を振り回すのが好きな連中が集まっているのかと、半分呆れながら、なんとか平静を取り繕った。
「四人とも……でございますか?」
「うむ……そやつらは貴公を襲うやもしれぬ」
「わたくしが生き証人だから、でありますか?」
「それもあるかもしれぬが、天方によると、頭格の土子紋蔵は貴公の剣豪ぶりを聞いて対抗心を燃やしているらしい。貴公は槇田道場の歴代四天王の一人だそうではないか」
孝四郎は神尾の「歴代四天王の一人」に照れるよりも、羞恥心が湧いた。確かにそう呼ばれているのだが、「歴代四天王の一人」といっても、わずか二十年ほどの歴代なのだ。しかも槇田道場は中堅の道場で入門者がそれほど多いわけではない。
「貴公もよく存じているように土子という輩は相当な遣い手だ。もし現れたなら、遠慮なく返り討ちにしてくれ」
「は、はい……えっ?」
小人目付の山井は、確か全員を裁きの場に引きずりださないといけないと言っていなかったか。いつの間に方針が変わったのか。配下に発破をかけるための方便だったのか。
残念ながら、上役が配下の者に全部を教えないことはよくある。
孝四郎はちらりと山井を窺い見た。笠置同様、こちらも無表情だった。
神尾の言うことに大いに疑問を感じたが、経緯や裏の事情はともかく、土子との対決そのものは光之丞達の仇を討てという天の采配と、孝四郎は前向きに考えることにした。
御目付御一行が門から出ていくとき、孝四郎は我慢しきれず、小人目付の最後尾にいた安生の袖を引いて囁いた。
「すまぬが、お主にどうしても訊ねたいことがある。いつでも良いから、ここへまた来てくれぬか」
安生は苦笑いを浮かべた。孝四郎が何を訊ねたいか、察しているようだ。
「すぐに戻って参ります」
そう言って門から外へ出た安生は、宣言通り、間もなく潜り戸から再び筧の屋敷へ入ってきた。
「筧様がお聞きになりたいことの見当はついております。今日、神尾様が仰ったことは、ほとんどが我々が集めた事実からまとめあげた天方の推量です。隈屋の取り調べは昨日の今日でまだあまり進んでおりませぬし、近藤殿を首謀者にするつもりと思われるので、口にすることのどこまでが真実かも怪しいと我々は考えております。そのような有り様なので、近藤殿が死んでしまった今、確かめられないのが残念ですが、天方の推量はまず間違いないでしょう」
「配下の推量を神尾様はえらそうに、さも己が確かめたかのように申されたのか……」
孝四郎は思った。面の皮が厚いのは近藤五百之助だけではなかったと。
「しかし、それではなおさら土子を捕まえて裏付けをとらないといけないのではないか?俺に遠慮なく討てと神尾様は申されたが……」
「これ以上、幕臣の悪い話を出したくないというのが上つ方のご意向なのだと思います」
「それでお主達は納得できるのか?」
「上の命令には逆らえませぬ。逆らえるのは天方くらいですが、天方もその点に異存はなさそうです」
「天方は上に逆らえる……か。推量を御目付様が信じて大見得きって言うくらいだからなぁ。あいつのことだから、何か御目付様の弱みを握っているのではないか?」
「さぁ……」
安生は意味深な笑みを浮かべた。
「それがしが思うに、その推し量る能力が天方の一番の強みだと思います。一見では関わりがないように見える事柄をも推量で繋ぎ、一つに組み立てることができるのです。そして、その組み立てを元に調べていくと、推量した部分が確かだと示す事物が見つかるのです」
「へーぇ……すごいな……ひょっとして、奴の短所というか、厄介な点は人をからかわずにいられないことぐらいなのかな。化粧と女装も人をからかうための道具のような気もするし……」
安生が吹き出した。
「おっしゃるとおりかもしれませぬ」
「天方の見立てが正しいとなると、光之丞は幼馴染みに殺されたことになる。なんともやりきれぬな……よね殿から聞いた話では、光之丞は、信頼してはいなかったろうが、周りになんと言われようと、近藤と幼馴染みとしてのつき合いを続けようとしていたのだから」
「そうですね……ですが、筧様も同じことをなさるのではありませぬか?」
「え?そうだろうか?」
「幸い、悪い癖のある幼馴染みの方はおられないようですが、もしもそんな幼馴染みの御方がいて、ある日筧様を頼ってきたら、無下にできないのではありませぬか。困りつつも、苦言を呈しつつも、筧様は最後まで幼馴染みとして、友人であり続けようとなさるのではありませぬか。それがしにはそう思えます」
安生は明るい笑顔を見せていた。
孝四郎は頭にかかっていた霧が少し晴れた気がした。
御目付御一行の二度めの筧屋敷訪問の二日後のことだった。
目付の来訪は済んだからと、泊まり番明けだったこの日、孝四郎は八つ近くまで寝ていた。起き出して畑を見回り始めて間もなく、長男、孝之助の供をして孝四郎の実家へ行ったはずの喜八が、泡を食ったような状態で屋敷へ戻ってきた。孝之助が行ってくると挨拶に来たのは、孝四郎が目覚めてすぐのことだったから、出掛けて四半刻経つかどうかである。
ようやく産まれた嫡子が去年三才で病死してしまった孝四郎の同腹の兄である現新谷家当主は、どうやら孝四郎の元気がありあまっている二人の息子のどちらかを養子に迎えて嫡子にしようと考えているらしく、最近やたらと幼い二人を屋敷に呼ぶ。呼ばれる息子達の方も、物心ついてきた孝之助は新谷家の広い屋敷で皆にちやほやされるのが楽しくて、近頃では三日に一度は遊びに行っていた。この日もいつものように喜八と出掛けた孝之助だった。
さっき出掛けたと思った喜八が手に握った紙を振り回し喚きながら門を駆け込んできたのが畑からちらりと見え、孝四郎は何事かと作業の手を止めて門へと急いだ。
ところが涙と洟で顔はぐちゃぐちゃ、息も上がっている喜八は何を言っているのかさっぱりわからない。よく見たら、左のこめかみの色が変わり始めていた。何かにぶつかったか、ぶつけられた痕だ。
とにかく落ち着けと孝四郎は喜八を諭し、その手からしわくちゃになった紙をもぎ取るように受け取った。開くと、孝四郎宛ての短い文だった。
《御子息は預かった。返して欲しくば、今夜四つ(午後9時頃)、善国寺跡に必ず御一人で来られたし。他言無用のこと》とあった。
善国寺跡は筧屋敷から西へ半刻(1時間)くらい歩いたところにある。建物が取り壊されて何年も経つが、放置されていて今では草原になっていると聞いていた。
喜八の途切れ途切れの言葉から「浪人」と「四人」と聞き取れた時、孝四郎は何が起こったかを察した。愕然とした。まさか子供に手を出すとは夢にも思っていなかった。望月の心配は心配しすぎではなく、妥当なものだった。
「なんと卑怯な!」
孝四郎は言葉を吐き捨てた。
ようやく少し落ち着いてきた喜八は泣きながら土下座した。ボタボタと涙と洟が地面に落ちた。
「だ、だ、大事な若様を危ない目にあわせて、も、申し訳のしようもありやせん!お殿様、お手打ちにしてください!でないと、おら……あ、あっしは……うぐっ……うぐっ……ううっ……」
「そのようなことで手打ちにはせぬ。奴らの狙いは俺なのだ。大元をたどれば俺のせいだ。子供を人質にするとは思っていなかった俺の落ち度だ。お前の落ち度ではない」
孝四郎の言葉に喜八は涙と洟でぐちゃぐちゃの顔をわずかにあげた。
「いつまで土下座してるんだ。早く顔を洗って来い!」
津留は孝之助が拐かされたと聞くと、衝撃のあまり膝が崩れた。慌てて支えた孝四郎の腕の中で、津留は「弥助がいてくれてたら……」と、呟くように言った。孝四郎には何より辛い一言だった。
いったん消えた喜八への疑念がまた湧いてきていた。
――あの慌てようと泣き崩れようは芝居ではないだろう。芝居であそこまではできまい。そもそも、新しく雇う奉公人に気を付けろとは、俺に罪を着せようとした大嘘つきの近藤が言ったことだ。
そう思いたいのだが、その近藤の芝居に騙されていた孝四郎は、自分の判断を信じられなくなってきていた。
考えるのをやめようとしたが、なかなか止まらない。
ともかくも、行くのは自分ひとりだ。たとえ喜八が相手の一味であっても、善国寺へはついてこないだろうし、やって来たところで大した戦力増にはならない。余計なことは考えるな。孝四郎はそう自分に言い聞かせた。
自室で心を落ち着けようとしている孝四郎に、半兵衛が庭から声をかけてきた。
「わたくしはひそかに参れば良いでしょうか?」
二刀を帯びる家臣として、ついていくのは当然という尋ね方だ。
先ほど義父も同じことを言ってきた。孝之助の祖父として、筧家の大殿としての申し出だった。
孝四郎はかぶりをふり、義父に返した内容を調子だけ変えて半兵衛に言った。
「向こうは一人で来いと申しているし、お前には俺がいない間の屋敷の守りを頼む。俺が他のことを気にすることなく、奴との果たし合いに専心できるようにな」
そう命じた孝四郎に日頃はあまり表情を変えない半兵衛が複雑な表情を見せた。家臣であるから、主に命じられればよほどのことがないかぎり、否とは言えない。ましてや、剣士としての腕は孝四郎の方が上なのだ。
「御目付様へ知らせなくて良いのですか?」
「神尾様へか?」
これまた先ほど義父も同じことを言ってきた。
義父にそう言われたとき、孝四郎は二日前の神尾の言葉を頭の中で反芻した。遠慮なく返り討ちにしろとは言ったが、助成するとは言わなかった。
今度も義父へ返した内容を言葉尻を変え、孝四郎は半兵衛に告げた。
「ことが終わってからで良いだろう。これは俺と奴との因縁なのだから」
そう、因縁だ。今度こそ、互いに力を出しきり、決着をつけねばならない。今度こそは、川に落ちたり穴に落ちたりと、不本意な頓挫を招いてはならない。決着をつけない限り、消えることのないのが因縁なのだから。