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第一章

食べることと菜作り(農業)の大好きな大御番の番士を勤めるお人好しの三百石の殿様が、探索を行う多芸で茶目っ気のありすぎる小人目付に翻弄されながら、友人と家臣を殺された仇を討とうとするお話です。


* 飲酒シーンが多くなりそうなこと、日本刀による殺し/斬り合いがあるので、R15にしました。

「話したいこととは、今の話だったのか」

 筧孝四郎(かけいこうしろう)は猪口を片手に太田光之丞(おおたみつのじょう)を見つめながら言った。

 店に入ってかれこれ一刻(約二時間)近く経とうというのに、話があると自分を誘っておきながら一向に肝心の話に入らない光之丞に、のんびりした気性の孝四郎もさすがに焦れてきた。

「いや、違う……」

 光之丞はまた辺りを窺った。この店に入ってからいったい何度めか。孝四郎はもう覚えていなかった。孝四郎と目が合うのを避けている風まである。

 孝四郎と光之丞の二人は豊島町にある居酒屋、いさやの縦に長い六畳の上げ床の奥に座っていた。最近は三日続く非番のうちに一度は光之丞といさやで一杯やるのが常になっている。

 夜食の頃合いだったこともあり、この日のいさやは満席に近く、上げ床には孝四郎達の他にお店者の二人組が座り、土間に置かれた六台の縁台にもそれぞれ町人の男女が三、四人ずつ腰かけていた。

 店の若い衆の三人が常にどこかに何かを運び、帰りには空の皿や銚釐(ちろり)を下げている。

 店内はずっとざわついていて、客は誰もが自分たちの話に夢中だと孝四郎には思えた。

 上げ床の縁に腰かけている孝四郎と光之丞の中間(ちゅうげん)、弥助と勘次郎も猪口を片手に自分達の話に夢中になっている。年は十以上違うのだが、主の仲の良さが伝染するのか、供の中間二人も仲が良い。

 上げ床にいるもう一組のお店者は光之丞の後ろに一間近く開けて座り、手前側に座っている小柄な方の男は孝四郎達に半分以上背中を向けている。相方の大柄な男はこちらを向いているが、孝四郎が見ている限りでは、これまた話しながらの飲み食いに忙しそうだ。

「誰も我々の話すことなど気にしていないさ」

 この喧騒の中では、光之丞の座っている向きからして、小声で話せば聞こえやしない。孝四郎は話を促すつもりで頷いてみせた。

 だが光之丞は俯くと、また黙って酒をちびりちびりと飲み始めた。いざ話そうとすると迷いが出てくるらしい。

 孝四郎は光之丞が話さないのなら、こっちが聞きたいことを聞こうという気になった。

 この店の孝四郎の一番のお気に入りである芋の煮ころがしと酒の追加を頼んでから、少しばかり姿勢を正して言った。

「俺もいよいこの秋は大坂行きだ。お主は二年前に大坂勤めだったろう。色々教えてくれ」

 光之丞はぎくりとしたようだった。

 孝四郎が「二年前に大坂勤め」と言った時に顔色が変わった気がした。


 孝四郎は禄高三百石で九組、光之丞は禄高二百俵で三組と禄高も組も違うが、二人とも大御番の番士を勤める旗本である。

 大御番とは戦時には将軍の御先手を勤める役だが、平時は十二組に分かれて交代で江戸城の二の丸、大坂城、京の二条城を警護している。

 大坂と京の警護、上方在番には二組ずつ出向くので、三年に一度上方在番の勤務が巡ってきて一年間外出もままならない男ばかりに囲まれた日々を過ごす代わりに、上方へ向かう前には準備のため半月ほど休暇をもらえ、江戸での勤めは四日に一度程度と余裕がある。また赴任費用として、通常の禄に加えて金子と米、大豆の追加支給もあり、わりと恵まれた方のお役だった。

 一番大変なのが軍役令通りに編成される上方への行き帰り、その行軍の手間と費用だ。

 孝四郎達、大御番衆は騎馬での行軍になる。馬の口取りと草履取りを兼ねさせることもせず、徒侍、槍持、具足櫃持ちと、供を五人揃えなければならない。

 しかも上方に赴任している間、江戸の屋敷を女子供だけにするわけにもいかず、留守を任せる信頼のおける人物も確保しておかなければいけない。

 奉公人の遣り繰りが難しいお役だ。


 孝四郎は二千石の旗本、新谷清兵衛(しんたにせいべえ)の四男として生まれ、八年前に十九才で代々大御番組頭を勤めてきた三百石の筧家へ婿入りした。禄高に大きな差があったが、間に千石の永井家を挟んで縁続きだったことから婿養子の話が新谷家に舞い込み、孝四郎は生き甲斐である菜作りに適した土地が敷地内にあったことで、あっさりと筧家に婿入りを決めた。

 三年前に家督を継いで番士となった孝四郎は、いきなり二条城へ赴任する羽目になり、重々しい行軍と上方独特の勤めにかなり面食らったのだが、いよいよこの夏の終わりには初めての大坂行きが待っている。

 二条在番同様に、舅が大御番衆として長く勤めた経験と伝手(つて)に加え、摂州にある筧家の知行地の名主も頼ることができるが、朋輩からもできるだけ話を聞いておきたいと思っていた。

 しかし同じ組の先輩に尋ねても何故かはぐらかされ、義父にもぼかした言い方をされたのだ。


 光之丞とは京から戻ってきた後で親しくなった。共に上方在番を担当する組以外の番士とは知り合う機会があまりないから、実のところ孝四郎と光之丞のような仲の良い組み合わせは珍しい。年は孝四郎より二つ上なだけだが、代々番士を勤めてきた家に生まれた光之丞はもう八年もお役に就いていて、番士として経験することは一通り経験済みだった。体格は孝四郎より一寸程低いだけの、この時代としては大柄な男だったが、細面の顔つきも中身もいたって穏やかで、組内でも年下や新入りの番士達に慕われていると聞いている。

 そんな日頃は穏やかな光之丞が、孝四郎が大坂という口にした時にギクリとしたのだ。


「お主は大坂へ行ったことがないのだったな」

 光之丞は笑みを浮かべたが、いつもと違ってどこか作った風があった。

「町中へ出る機会はあまりないが、江戸とあまりに違うことに面食らうことばかりだろうな」

義父上(ちちうえ)もそう申されたが、何がどう違うのかを教えてくださらんのだ。言葉の違いはともかく、他に何がどう違うのだ?」

「うむ……まぁ言葉以外もほぼ全てのことが違うと思っていた方が戸惑わなくて済むだろう」

 光之丞はまたうつむき加減になり、猪口を口許へと運んだ。

 どうやら光之丞もぼかして済ますつもりらしい。

 なんとかもう少し具体的なことを聞き出そうと孝四郎が口を開きかけたとき、追加した酒と芋の煮ころがしを持って仙吉がやって来た。

 この仙吉という、いさやの若い衆が孝四郎も初めて見た時には思わず二度見したくらい整った顔立ちで、この居酒屋にこの時代としては珍しく女の客が多いのは、味だけでなく仙吉のせいだと巷で評判だった。

 本当にそうなのかどうか、この居酒屋が繁盛しているのは確かだ。

 光之丞に教えてもらった店だが、孝四郎自身にも値段の割に美味しい料理を出す良い店だと、お気に入りの店である。

 光之丞は仙吉が愛想よく孝四郎の前に煮ころがしを置いた後に、後ろのお店者の注文を聞いて調理場へ戻るのをじっと見届けてから、孝四郎に向き直ると唐突に言った。

「もしも俺に何かあったら、よねと子供達を頼む」

 孝四郎は仙吉に声をかけた後ろのお店者も仙吉と張り合えるくらいの男前なのに軽く驚いていたところへの光之丞の思いがけない緊迫した発言だったから、飲みかけていた酒が違う所へ入った。

「ゲホッ、み、光之丞、そ、そのような…ゲホッゴホッ」

 ゲホゴホ言う音に客の何人かが孝四郎達の方を向いた。弥助が慌てて上げ床へ上がろうとするのを咳き込みながら、孝四郎は片手で制した。

「大丈夫か?そんなにむせるほどのことか?」

 光之丞が苦笑いを浮かべながら、孝四郎の背中を擦りにきた。

「も、もう大丈夫だ。もちろん、いつでも喜んでお主や御家族の力になるが、『何かあったら』とは、いったい何があるというのだ?穏やかではないぞ」

「仮に、の話だ。人生、いつ何が起こるかわからないからな」

 そう言った光之丞は孝四郎と目を合わせていなかった。

「松波殿の父上がこの前急な病でお亡くなりになったことはお主も知っているだろう」

 光之丞は先日近所の「殺しても死なないのでは」とまで言われたごうつく隠居が心の臓の発作で呆気なく亡くなった話から、世間の似たような話へと持っていった。


 結局、光之丞は「何かあったら」の中身は言わず、理由も言わずに帰ろうと言い出した。

 最近は物思いに耽ることの多い光之丞だった。この日も酒は変わらずよく飲んでいたが、肴にはほとんど手をつけていなかった。

 孝四郎は中途半端な気持ちになりながらも、言う言わないは光之丞が決めることだと、いさやを後にした。

 空は西の端に微かに青みが残るだけで、闇が覆い尽くそうとしていた。雲が多くて月は見えなかった。冬から春への移り変わりに降る、春雨の季節だが、雨が降るほどの雲ではない。


 後ろに弥助と勘次郎を従え、孝四郎が提灯片手に光之丞と肩を並べて新し橋の中程まで来たときだった。

 前から橋を渡ってきた棒手振りが急に向きを変え、孝四郎が手にしていた提灯に天秤棒にぶら下がる桶をぶつけてきた。軽く柄を握っていたから、孝四郎の手から提灯が飛んだ。

 気を付けろと孝四郎が言う間もなく、直後にぬっと黒い人影が前を塞いだ。と思ったら、刀が孝四郎めがけて突き出された。

 仰天して斜め後ろに勢いよく下がった孝四郎は腰を強か欄干にぶつけた。そして「痛っ」と思う間に周囲が回転していった。ぶつかった勢いで孝四郎は欄干を後ろ向きに超えてしまったのだ。

「うわーっ」

 思わず声が出た。耳には「しまった!」という見知らぬ男の声と複数の悲鳴が聞こえた。

 ――光之丞!弥助!

 咄嗟に身体を丸めて一回転し、どぼんと孝四郎は足から水に入った。

 もう少し背が低かったら欄干で動きを止められたろうが、六尺(約180cm)もの長身には欄干が後ろにひっくり返るのにちょうど良い高さだったらしい。刀を避けようと、のけ反り気味だったのも不味かった。

 川底に足がつき、落下の衝撃をしゃがんで吸収させたところから、孝四郎は水面を目指して手足を動かした。身体が重い。羽織も袴も空気を取り込んでの浮き輪代わりになってくれず、二刀は錘だった。

 だが水深は浅かった。顔はすぐに水面の上に出た。なんのことはない、立とうと思えば立てた。しかし鳩尾の辺りまで浸かって川中に立っているのはかなりきつい。岸を確認しようと周りを見回した。

 灯りが近くに見える方へ向かって孝四郎は泳いでいった。そこは番方の旗本である。二刀と羽織袴の足枷もなんのその、下流へ流されながらも着実に岸に近づいていった。

 さすがに河岸に上がった時にはぜいぜいと息が切れていたが、一息もつかず、袴の裾や袖を絞りながらまた辺りを見回した。落ちた橋は二十間ほど(40m弱)川上になっていて、橋の上に複数の提灯の明かりが見えた。

 孝四郎は滴を垂らしながら、橋へ向かって走った。走り出してからやっと孝四郎は草履が無いことに気づいた。落ちたときにどこかへ飛んだのだろう。足袋だけの方が走りやすい。

 陸に上がっても水を吸った袴と刀は錘だった。思うように走れない。

 孝四郎がやっと橋の袂に辿り着いた時には橋の上に人だかりがあった。ほとんどが町人風体だ。

「下がった、下がった!お役人様が来るまで触っても動かしてもいかんのだ!」

 橋近くの番所に詰めている番人と思われる男の怒鳴り声がしていた。

 孝四郎は人だかりの後ろから叫んだ。

「通してくれ!光之丞は無事か?さっきまで一緒にいたのだ!」

 野次馬達はずぶ濡れの二本差しにぎょっとした目を向け、黙って道を開けた。

 番人と思われる男は孝四郎の有り様に一瞬目をむいたが、落ち着いた声をかけてきた。

「大きな水音がしましたが、お武家様でしたか」

「そうだ。刀を避けようとしたところが勢い余ってこの橋から落ちてしまい……」

 言いながら孝四郎は恥ずかしさに顔が熱くなった。だが次の瞬間には目に入った光景に一気に血の気が引いていった。

 番人の足元に生気のない光之丞の顔が見えていた。その向こうには同じく生気の無い弥助の顔と太田家の看板を着た男の斬り割かれた背中があった。勘次郎だ。

 よろよろと孝四郎は三人に近づいていった。

 ――なんと言うことだ。ついさっきまで元気に一緒に歩いていた三人が、俺が川に落ちて流されている間にこんな姿になるとは……

 孝四郎は何もできなかった自分に腹が立った。

 一見ではのんびりしているが、孝四郎は小野派一刀流の剣士である。数えの十歳から通った道場では天才と言われたこともある。

 四人の中で一番刀を遣える自分が刀を抜くこともなく真っ先に川へ落ちて生き延びるとは、なんという皮肉だろう。

 孝四郎はへなへなと三人の亡骸の側に座り込みそうになった。なんとか威厳を保って亡骸の傍らに片膝をついた。

「賊は?」

 番人の方は見ずに言った。きっと泣きそうな顔になっている。そんな顔を見られたくなかった。

「あっしが物音で番所から出た時には向こう側へ走り出してやした。目撃した者の話では三人組だったそうです。お武家様の財布が抜かれておりやす。金目あての盗賊でやすね。いや、なんとも大胆な」

 ――三人もいたのか。後の二人も黒装束だっただろうが。あの棒手振りも仲間だったのだろうが……

 孝四郎が覚えているのはいきなり斬りつけてきた黒装束の男だけだ。その凄みと二本差しの武士を狙ってきたことから、番人の盗賊の仕業という説に孝四郎は納得できなかった。

 何故わざわざ全員が武器を持つ四人を狙ってきたのか。その上そもそも武士はあまり金を持ち歩かない。金品狙いなら刀が一番価値がある。なのに光之丞の刀は持ち去られていない。小銭が少々入った財布だけを抜き取るなど、あの棒手振りと刺客の息の合い方から推し量れる計画性と釣り合わない。

「目撃者はいるのか?」

「はい。ですが、怖くて橋の袂に隠れてやり過ごしたそうで、人数しかわかりやせん」

 孝四郎は一つ深呼吸し、恐る恐る亡骸の傷口を改めた。賊は袈裟懸けの一刀で三人の息の根を止めていた。即死だったろう。

 孝四郎は亡骸を目の前にしながら、まだどこか信じられないでいた。ほんの四半刻(約30分)足らず前までの出来事が次から次へと頭に浮かんでくる。

 光之丞の言葉も甦った。

『何かあったら、よねと子供たちを頼む』

 何かあったら。その何かが起きてしまった。


 孝四郎には長い時間に思えたが、町奉行所の同心は小者を二人引き連れ、すぐに駆け付けてきたらしい。殺された一人が旗本で、唯一の生き残りの孝四郎も旗本と知ると、抱席の御家人である町方同心は低姿勢で御目付が来るまで番所で待つよう孝四郎に勧めた。番町にある太田家と筧家へは同心の小者が知らせに走った。

  孝四郎は新し橋から少し離れた所にある番所へ向かいながら、光之丞の家族を思った。

 孝四郎と同じく、光之丞にも二人の子がいる。八才の正之助と四才のすえである。

 ――まだ幼い二人は父親の突然の死をどう受け止めるだろう?

 後悔先に立たずでしかないが、光之丞も孝四郎も木刀一本の中間一人ではなく二本差しの徒侍(かちざむらい)も連れておくのだったと、孝四郎は悔やみきれない思いに苛まれた。今日は非番の、お互い所用を済ませた帰りに落ち合っての一献だったから、二人とも供は一人ずつで良いと思ったのだ。しかし、筧家の菊池半兵衛も太田家の木村左門もあの黒装束の侍たちに敵わなかったかもしれない。

 ――半兵衛と左門を連れていたら、ひょっとしたら、橋の上にさらに二つの亡骸が横たわっていたのかもしれない……

 孝四郎はその光景を想像してゾッとした。剣の腕前は二人より孝四郎の方が上なのだ。

 孝四郎は川に落ちたことを悔やみに悔やんだ。今までで最大の、取り返しのつかない大失態だと思った。

 自分に何かあったら妻と子を頼むと言った光之丞の言葉がしつこく頭の中に甦る。

 ――こうなることを予期していたのか?


 自身の家のこともある。孝四郎の妻であり、筧家の一人娘である津留にとって弥助はただの奉公人ではない。三年に一度、一年以上も不在になる父親の代わりに、物心ついた時からいつも側にいてくれた、父親以上に親しみを覚え、頼りにしていた存在なのだ。

 弥助の方も、自身の妻と子を早くに亡くしたからか、言動は奉公人としての節度を守りながらも津留を見守る目には父親か祖父のような暖かみがあり、孝四郎が見ていてもほほえましい二人の姿だった。

 弥助はまた「お人柄のとても良い殿様です。あっしらにも気を使ってくださいます。お仕えしがいがあります」と、孝四郎のことを津留や舅に婿入り直後から売り込んでくれたという。五十になったばかりで、まだまだ元気だった。孝四郎の生き甲斐である菜作りを快く手伝ってくれた心優しい力持ちの男だった。

 ――津留は弥助を助けられなかった俺を責めるだろうな……

 孝四郎の視界が曇ってきた。誰に何を言われようと返す言葉がないと思っていた。


「筧孝四郎殿」

 番屋でぼうっと座っていた孝四郎は、名前を呼ばれて我に返った。

 声の方を向くと、番所の戸が開いていて、侍が三人立っていた。その後ろにも侍が何人か見えた。

身共(みども)は目付の神尾清左衛門(かみおせいざえもん)と申す。後ろに控えておるのは、徒目付の笠置(かさぎ)弥一郎と井上源兵衛」

  真ん中の一番貫禄のある侍が自ら名乗って下役を紹介し、徒目付(かちめつけ)の二人は無言で孝四郎に一礼した。

 目付は徒目付二人を引き連れ、徒目付はそれぞれ小人目付(こびとめつけ)を二人引き連れていると聞いてはいたが、実際に孝四郎が大所帯の御目付御一行を目にしたのは、このときが初めてだった。

 孝四郎は町方同心に語った、あっという間の出来事を御目付一行にも繰り返した。

「ふむ。賊の声を聞いたのだな」

「はい。たった一言ですが、聞こえました。今も耳にはっきりと残っております」

「それは大きな手懸りだ。探索に力添えしてもらえるであろうな」

「もちろんです。わたくしにできることならなんでもいたします。友と長く筧家に仕えてきた中間を失ったのです。どうしてこのようなことが起こったのか知りたいし、なんとしても彼等の仇をとりたい」

 孝四郎は神尾の目をまっすぐにとらえて言った。

 御目付の神尾は冷ややかなくらい落ち着いた目をしていた。その目に孝四郎は気持ちを逆撫でされた。

「先程はこの度の襲撃に心当たりは全くないということだったが、改めて振り返ってみて、何か気になるようなことは思い浮かばぬかな」

「辻斬りや強盗ではないというお見立てですね?」

「もちろんそれらも頭に置いておくが、こういった場合、まずは襲われた者の怨恨の有無から確かめていくのでな」

「光之丞が恨まれる?物静かな男で、怒っているのを見たことがありませぬ。私にはその線こそ考えられない。私自身にも何も思い当たることがありませぬが、ただ……」

「ただ?」

「ほんの一刻前までいた居酒屋で光……太田殿は気になることを申された。自分に何かあったら、家族を頼むと私に言ったのです。理由を聞いても教えてくれませんでしたが、今から考えると……考えたくはありませんが、不吉なことが起こることを予期していたとしか……」

 孝四郎は声を詰まらせた。

「その他に太田殿の様子で何か気になったことは御座らぬかな。ごく些細なことでよいのだが」

「……気のせいかもしれませぬが、私が今度初めて勤める大坂在番のことを尋ねようとしたら、聞いてほしくないような気配がありました」

「ほう。大坂のことは聞いてほしくないような様子があった……それから?」

「思い浮かぶのは、それくらいです……」

 孝四郎への御目付の問い質しは、ちょうど太田家と筧家の家士が到着したこともあり、それで終わった。


 太田家からは左門と下男の甚吾が、筧家からは半兵衛ともう一人の中間、重吉と下男の庄五郎の三人が信じられないという面持ちで駆けつけてきていた。

 太田家へは目付と町方の配下が手伝い、戸板に乗せて二つの亡骸を運び、弥助の亡骸は半兵衛、重吉、庄五郎と目付の小者が屋敷へ連れて帰った。

 孝四郎は半兵衛に津留への言伝てを頼み、神尾が騎馬で先導する光之丞と勘次郎の亡骸について太田家へ自分の無力さを詫びに行ったから、筧家に帰りついたのは夜の九つ(午前0時頃)に近かった。

 潜り戸から敷地内に入った孝四郎がその足で弥助が長く住んできた門に連なる長屋の一室を覗くと、部屋の真ん中に弥助は白布をかけられ横たえられていた。その側には女中の()()に付き添われ、津留が呆然とした面持ちで座っていた。

 その姿は先ほど太田家で目にした光之丞の奥方、よねと重なった。


 太田家の屋敷に入り、まず孝四郎の目に入ってきたのは、式台に嫡男の正之助と並んで心ここにあらずの風で座っているよねだったのだ。

 父親の死がわかっていない正之助が「真桑瓜の叔父様だ!」と孝四郎の姿を見て喜んだのが、孝四郎にはいっそう辛かった。その呼び名の由縁は夏になると孝四郎が正之助の大好物である真桑瓜を持ってくるからだが、光之丞がやめさせようとしていた呼び方だった。


 孝四郎は黙って弥助が何十年と寝起きしてきた部屋に上がり、線香をあげて手を合わせた。津留の萎れた姿にかける言葉が思い浮かばず、無言で津留の橫に座り、弥助の亡骸を前に項垂れた。

「どうして弥助は斬られたのですか……?旦那様は何をしてらしたのですか……?」

 津留の震える声に横を向くと、その目から涙が溢れていた。どんどん涙が溢れに溢れた。と、津留は大泣きしながら、幼子のように孝四郎を握り拳で叩いてきた。痛くはなかった。叩くのを止めた後にも顔を覆って泣き続けた。孝四郎はそんな津留を抱きかかえることしかできなかった。

「すまぬ。本当にすまぬ!刀を避けたのが、勢い余って川に……」

 口に出すたび、情けない気持ちが高波のように膨れあがってくる。

 勘次郎は逃げようとしたと見えて背中を斬られていたが、弥助は前から袈裟懸けで斬られ、手には木刀が握られたまま事切れていた。おそらく光之丞を庇おうとして、賊の前に立ち塞がったのだ。

「弥助は最後まで立派だった。悔しくてたまらぬが、俺は弥助を誇りに思う……御目付様が動いてくださるし、きっと三人を斬った下手人は見つかる。俺もできることがあれば何でもすると御目付様に申し上げた。なんとしても下手人どもを見つけ出し、仇を討つ。それしか俺にはできない……津留、許してくれ……」

 孝四郎の目からもぽろぽろと涙がこぼれた。


 弥助の傍で寝ずの番をすると言い張る津留をそでに任せ、孝四郎は一人母屋へ向かった。川に落ちてずぶ濡れになった着物はとうに乾いていたが、乾いてもいつもより重たく身体にまとわりつくように感じられ、孝四郎は着替えたかった。着替えたらまた弥助の店へ戻り、津留と共に通夜の不寝番をするつもりでいた。

 舅も姑もとうに休んでいるだろうと思っていたのに、二人は式台奥の畳の間で用人の五兵衛と共に孝四郎を待っていた。

 三人は孝四郎がすたすたと戻ってくる様子に安堵の表情を見せた。

「先ほど戻りました。お二方はもうお休みと思い、ご挨拶が遅れて申し訳ありませぬ」

 孝四郎は式台に上がる前に義父母に頭を下げた。

「どこもお怪我は負っておられぬのですね?」

 姑が確認するように尋ねてきた。

「どこも怪我はしておりませぬ。刀を避けたのが勢い余って川へ落ちたもので……」

 あれから何度口にしていることか。口にする度に悔しさ、恥ずかしさに心苦しさを孝四郎は感じていた。明日にでも書状に認めて、今後尋ねられたら、これを読んでくれと渡して済ませようかと真剣に思うくらいだった。

「婿殿がご無事で何より。町方の使いから何者かに襲われ、弥助が斬られたと聞いたときは心の臓が止まるかと思いましたよ。弥助はかわいそうなことをしたけれど、あれもそなたが無事なことにあの世で安堵しておりましょう……」

 姑は涙ぐんでいた。舅は長年連れ添ってきた妻の言葉に大きく二回頷いた。

「弥助のことを悔やんでいようが、あまり気に病みすぎぬようにしてくだされ。津留のことだから、そなたに余計なことを申したかもしれぬが、そなたが無事だと聞いた時は安堵のあまり座り込んだほどでしてな」

 舅までが孝四郎に丁寧語を使う。

 筧の隠居夫婦は、妾腹の四男とはいえ、二千石の家からわずか三百石の家に無条件で婿入りしてくれた孝四郎を大切に思い、色々気を使うあまり、娘に厳しくなっているくらいだった。

 それなのに、孝四郎の生き甲斐が菜作りなもので、非番の日に早朝から笠を被り古着の尻端折りで、農家出身の奉公人と一緒に土を耕したり、草刈りをしているものだから、逆の噂が流れて困ると影でこぼしているという。面と向かっては決して言わない。

「しかし一体誰がそなた達を襲ったのか。思い当たることはないのですかな?」

「ありませぬ。刺客は黒覆面に黒装束で顔がわかりませんでしたが、私が持っている提灯に桶をぶつけてきた棒手振りに見覚えはありませんでした。屋敷へ戻る間も思い返したのですが……」

「太田殿も穏やかな御仁であったしのう。……間違われたのであろうか?」

「そ、そんな……人違いで三人も……」

 姑の声が震えた。

「刺客は無言で斬りかかってきましたから、なんとも申せませぬ。人違いであってほしいような、人違いで殺されるなどあってはならないとも……」

 孝四郎は複雑な気持ちを素直に口にした。

「弥助には我々が交代でつくから、婿殿は休んでくだされ。朝になれば御目付様が改めてお越しになるやもしれませぬぞ」

「お気遣い、忝なく存じます。ですが、とても今夜は眠れぬでしょう。一晩、津留と共に弥助についていたいと思います。今となってはそんなことしか出来ぬゆえ……弥助は私も頼りにしておりました。弥助を失ったことは私も辛い。言葉にできぬくらい、辛い……」


 着替えを手伝おうという義母の申し出を断って一人式台から自室へ向かう途中、孝四郎は二人の子が寝ている津留の部屋をそっと覗いた。津留の代わりに昼間に子守をしているますが添い寝をしていた。すやすやと寝息が聞こえる六歳の孝之助と三才の鐵之助、息子二人の平安な姿に孝四郎の胸に熱いものが込み上げてきた。

 ――ひょっとしたら、俺はここにこうして戻ってこれなかったかもしれないのだ。

 時々世間を騒がす刃傷沙汰も、これまで親しい人が関わりをもったことがなかったから、孝四郎は対岸の火と眺めてきた。

 初めて経験した親しい者達の理不尽な命の奪われ方に、改めて腹もたってきた。自身の運命の危うさも痛感した。この事態を乗り越えるためには、なによりも自身を立て直さねばならないと、孝四郎は思った。


 一人で着替えながら、孝四郎は太田家での出来事を反芻した。

 神尾が光之丞の奥方、よねに問い質しているのを横で聞いた孝四郎だったが、孝四郎も感じていた半年ほど前から元気が無くなり、なにやら悩んでいる様子があったことと、その頃にも最近にも、屋敷内に揉め事は一切なかったことを奥方は明言しただけで、一番の手がかりは孝四郎が見聞きしたことだった。

 太田家を辞す前に、神尾は冷静というよりも冷たさを感じる目で孝四郎を見つめながらこう言った。

「筧殿、いつでも連絡がつくようにしておいてもらいたい。俄に力添えを頼むことになるやもしれぬ」

 その目に自分が疑われていると感じた孝四郎だった。




ココへ投稿するには主な登場人物の年齢が軒並み高めかなとも思ったのですが、誕生の経緯から、思いきってココに投稿/公開することにしました。

というのも、「白南風」から派生した話なので。

同じく江戸時代後期が舞台ですが、派生したといっても、人物は全く被りません。

「白南風」を書いているうちに、こーゆー感じの人物をもっと書いてみたいと思ったのがこの話を書き始めるきっかけでした。(前書きに大きなヒントあり)

もちろんそれだけで話をつくったわけではありませんけども。

具体的なことは、もう少し話が進んだところで…m(_ _)m

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