くるくるホウレンソウⅡ
「仕事と俺と……どっちが大事なんだ?」
そう言って別れた依子は何も言わずに去っていった。
あれから4年。依子と結婚するはずだった俺は、31歳になってもまだ独身だ。
仕事で毎日帰りが遅く、デートの約束の日にも『ごめん。仕事が入った』と直前になって連絡してくる依子とは、やっていける自信がなかった。
『俺より仕事が大事なんだな……』そう自分の中で結論づけた俺は、彼女を忘れるため、それまで勤めていた会社を辞め、国際スパイに転職した。
国際スパイの求人をハローワークで募集しているとは思わなかった。その情報を見て、俺は即座にスパイになることを決意した。だってカッコいいじゃないか。
そう思ったのが間違いだった。
俺の名前はデイヴィッド・タナカ。本名はもちろんふつうの日本人名だが、国際スパイとしては本名を名乗ることはできない。ちなみにコードネームは0011だ。
韓国で一仕事を終え、俺はスマホでボスに電話をした。いつもこうだ。スマホでボスに直接連絡し、そこで初めて次の任務内容を知る。
ボスは電話に出なかった。……まぁ、よくあることだ。
こういう時はとりあえず基地に向かって飛行機で帰還する決まりになっている。時計を見ると、基地に帰り着くのがちょうど昼前になりそうだ。この時間に仕事を言い渡されることはない。どこもかしこも昼休みに入るからだ。
「昼飯にしよう。コンビニで弁当でも買って、ゆっくり食べるか」
今の時代、『空の駅』が世界中のあちこちにあり、コンビニを併設しているところも多い。俺が雲の上の滑走路に一人乗り小型飛行機を停め、コンビニで弁当を買い、あたためてもらっている時にボスから電話がかかってきた。
『デビッド。こっちへ向かって帰ってきてるか?』
「あ……はい。韓国からなのですぐに着きますよ」
『まさかコンビニなんかで道草食ってないだろうな?』
「す……っ、すぐに帰ります!」
俺は飛行機を飛ばしながら、操縦しながらコンビニ弁当を口にかき込んだ。
腹は膨れたが、食べた気はしなかった。
基地に帰り、司令室のドアを開けると、おおきく開いた老人の口が見えた。
老人の両手にはおおきなハンバーガーが掴まれていた。
小柄な老人は、俺が入ってきたのを見ると、嬉しそうにハンバーガーにかぶりつこうとしていたのを中断し、言った。
「お帰り、0011」
「ただいま帰りました、ボス。次の司令をお願いします」
「昼飯時間だからね、どっこも休憩中だよ。君も昼ごはん食べておいで」
「わかりました」
言いたいことは山ほどあったが押し殺した。腹は減っていないので、片付ける暇のなかった書類整理をすることにした。
しかしハンバーガー、うまそうだったな。
あれはマク・ドゥーネルの新作『ダブルチーズ生ハンバーガー』だった。畜生、俺も食べてみたいのに、ハンバーガーショップになんか寄る暇がない。
そうだ。今度の土曜日は、麻由美とハンバーガーショップでデートしよう。
昼時間が終わり、司令室に再び顔を出すと、ボスはハンバーガーを食べ終え、満足そうな顔で回転椅子に背中を預けて、昼寝中だった。
「ボス。次の司令をお願いします」
「ン……? ああ、そうか。今からすぐにアメリカへ飛んでくれ」
「今からですか?」
「うん。今からだ」
アメリカは遠い。
全速力でこなして三日かかる仕事だ。
今日は火曜日だから、帰ってくるのは木曜日の昼ぐらいになるだろう。
念のため、俺は釘を刺しておいた。
「今週の土曜日、用事があるので休ませてもらえるよう、半月前にお願いしておりましたが……、大丈夫ですよね?」
「ああ、わかっとる、わかっとる。しっかり覚えとるよ」
俺は一旦、自分のアパートに戻ると、大急ぎでアメリカ行きの準備をした。
シャワーを浴び、冷蔵庫に用意してある食糧と飲み物を持ち、着替えをバッグに詰め込む。すべて現地調達することも出来るが、それではカネを使いに仕事に行くようなものだ。
水槽の中で飼っているマリモのマッくんが俺の帰りを嬉しそうに踊っている。
「すまん、マッくん。かまってやってる暇はないんだ」
俺はマッくんに大好物のミルクだけ与えてやると、大急ぎでまたアパートを飛び出した。
アメリカに向かって飛行機を飛ばしながら、麻由美に電話をかけた。
『ハイ、K太郎! 元気?』
「ああ、元気だよ。大丈夫。君も元気かい?」
『体はね。でも心は元気じゃないわよ。だってもう三日もあなたと会えていないんですもの』
「ふふふ。かわいいやつめ。今度の土曜日、会えるじゃないか」
『楽しみだわ、デート。どこへ連れて行ってくれるの?』
「とりあえずハンバーガーショップでまず昼飯を食って……って考えてるんだけど、貧乏くさいかい?」
『ううん。大好きよ、ハンバーガー』
「よかった。新発売のダブルチーズ生ハンバーガーってのがうまそうでね、一緒に食べてみたかったんだ」
『その後は?』
「ふふふ。当日のお楽しみだよ」
今度の土曜日、俺は麻由美にプロポーズをしようと決めていた。
指輪は買ってある。海の見える丘で、ムードたっぷりになったところで、彼女にコイツを渡すんだ。
『じゃ、土曜日の朝10時半に』
「ああ。楽しみにしてるよ」
麻由美との約束が俺を元気百倍にした。
日曜日の夜からぶっ続けで仕事をしていたが、これからほぼ不眠不休でアメリカと日本を往復するのなんてへっちゃらのように思えてきた。
結婚するんだ、俺。この仕事を終えたら、彼女と結婚するんだ!
アメリカで仕事を終わらせ、日本に帰ったのが木曜日の朝9時だった。ボスに電話をする。
まだ金曜日があるのか……。まぁ、言われても日帰りの仕事だろう。台湾あたりかな。
「ボス、アメリカから帰りました」
『ご苦労さん。もう一発、今からアメリカに行ってくれ』
「ちょっ……!? 土曜日は……」
『うん。何か用事があるんだろう? じつは002が体を壊してね、アレなんだ。大丈夫、朝までには帰れるから』
002は63歳のご老体だ。
そんなおじいちゃんにどんな無理な仕事させたんだか……。
「アメリカへ物資を運んで、それですぐに帰れるんですか?」
『うん、たぶん。ネバダで物資を下ろして、アメリカでなんかあって、なんかあるらしいから。それですぐ帰れる』
「よくわかりませんが、すぐ帰れるんですよね?」
『そうだって言ってるでしょ! もう! 何回言わせるの!? みんなにキミの悪口書かせてクビにされたいの!?』
アメリカに行くしかなくなった。
アメリカで物資を下ろしたのが朝9時。日本まで飛ばせば10時間で着くので、少なくとも深夜0時ぐらいには帰れるだろうと思った。
現地の依頼主に電話をすると、牛乳石鹸を飛行機に積んで日本へ届けてほしいということだった。
積めるようになるのが早くて14時、遅ければ16時ぐらいになるだろうとのことだ。
そう言っておいて、実際に飛行機に荷物を積み終わったのは18時だった。ボスに電話で報告したが、出にくいのか、出てくれなかった。
休憩なしで10時間飛行機を飛ばし続ければなんとか朝方の4時には帰れる。しかし、寝ないわけにはいかない。シャワーも浴びなければ。クタクタな格好で麻由美に会いに行くわけにはいかない。
約束は10時半。4時に帰れれば6時間半ある。移動に1時間はかかるので、実質5時間半だ。その時間でシャワーを浴びて、飯を食って、睡眠をとって……よし、ギリギリいける!
途中、疲れてどうしても眠たくなったので、雲の上の『空の駅』で3時間ほど寝ることにした。
4時間寝てしまった! なんてやつだ、俺は!
日本に帰り着いた頃には飛行機の燃料メーターが残り一目盛まで減っていた。次の仕事が何かはまだわからんが、これじゃどんな仕事も無理だ。しかし燃料など補給している暇はない。
麻由美とのデートが終わってから急いで飛行機に戻って補給するしかない。忘れるといけないのでスマホのアラームメモをセットした。
アパートに駆け足で戻ると、水槽の中でマリモのマッくん嬉しそうにが飛び跳ねて迎えてくれた。
「悪い、マッくん! かまってやってる暇がない!」
時計を見ると8時半を回っている。大急ぎでシャワーを浴びて、着替えて、出なければ!
気がつくとシャワーを浴びながら気を失ってしまっていた。
「な、何分気を失っていた……!?」
時計を見ると9時45分。間に合わないので麻由美に電話をした。
『ハイ! K太郎! もう待ち合わせ場所にそろそろ着くとこだよ』
「悪い、麻由美! 30分ぐらい遅れる!」
『どうしたの?』
「仕事が遅くなった! 今から頑張ってそっち行くから待っていてくれ!」
『……あなたって、いつもそう。何の仕事をしてるか教えてくれないけど、よくデートの約束をキャンセルしたり、遅刻したり……』
「すまない! どうしても今は、俺が何の仕事をしてるかは言えないんだ! 極秘任務なんだ!」
『私と仕事と……どっちが大事なの?』
これはこたえた。
4年前に依子に言った台詞を、まさか自分が言われるとは……。
しかし俺は依子のように、何も答えずに大切なひとを手放すなんてことはしない。
「もちろん君だ! 麻由美!」
『信じられないよ』
「愛してる! 愛してるんだ、麻由美!」
『あなたとはもうやって行けない。さよなら』
「麻由美! 麻由美ーーっ!」
電話が切られた。
わかってほしかった。俺がろくに先の予定を守ることができず、気になっていてもダブルチーズ生ハンバーガーを食べることさえ出来ないのは、ただひたすらに一寸先が何もわからないホウレンソウ皆無の仕事をしているからだということを。
しかし国際スパイは秘密を守らなければならない。自分がスパイをやっていることを明かしていいのは身内だけだ。結婚したら、麻由美には明かすつもりだった。
畜生、こんなことなら大型トラックの運転手にでも転職すればよかった。大型トラックの運転手なら、運行管理者がきっちりとスケジュールを決めて、一週間くらい先までの自分の予定が把握出来るっていうじゃないか。
そう思っているとスマホが鳴った。
麻由美が考えを改めて電話してきてくれたのかと思い、画面を見るとアラームメモが表示されていた。
『ネンリョウ、ホキュウ』
意味がわからなかったし、どうでもよかった。