災いを呼ぶ狼
――あれの出自について語ることはないが、それは美しい獣であった。
ピィと指笛を鳴らすと、草原の彼方から毛並みも体躯もいい狼が走り寄ってくる。
今朝がた殺したばかりの羊をご馳走してやると、彼女は一度鼻を鳴らしてからそれを貪る。
彼女の食事が終わると、一緒に草原に横たわって太陽の光を浴びるのが習慣になっていた。
女人の姿になった彼女が、俺の腕を枕にして横たわっている。
ふと初めて彼女に食事を与えた時のことを思い出す。
「みんな私を見て怖がるのに、どうしてお前は私を怖がらない?」
燃えるような赤い瞳が、俺を値踏みするように見つめていた。
恐怖と言う言葉は戦士には似合わない。
そう答えると、やっと彼女は俺の与えた食事に口を付けた。
あれから幾度こんな日々を過ごしただろう。
心を許してくれた彼女が、今や人の姿になって、こうして俺の横で安らかに寝息を立てている。
それがどうしようもなく嬉しくて、無意識に彼女の赤い髪を撫でる。
薄く目を開けた彼女が、そっと微笑む。
テュール、と彼女の口が声を出さずに動く。
俺も微笑みを返して、そっと彼女の額に……口づけた。
こんな日々がずっと続くものだと信じていた。
『あれは災いを呼ぶ狼だ』
気が付くと、そんな予言が蔓延していた。
そんなはずがない。彼女はこんなにも気高く、愛らしいのに……。
だというのに、未来を見据えるものは誰しもがそう断言する。
オーディンもミーミルさえも!!
草原を走る一匹の狼は、いずれこの世界の脅威になると言う。
一体彼女がどのような悪行を働いたのであろうか。
声を上げたとて、誰も怖がって彼女の本性を知らない。知ろうともしない。
誰も彼もが俺の言葉に耳を傾けようともせず、フェンリルを捕らえるための策を練る。
しかし、彼らはすぐに知ることになる。
どんな鉄鎖でも、気高い狼を捕まえることはできない、と。
よしんば足枷を付けたところで、すぐに彼女は引きちぎってしまう。
だから、それでもどこかで安心していたんだ。
いつものように食事をした後のことだった。
「私は怖い。いつか奴らは私から自由を奪うだろう」
俺の横に寝そべった彼女は震えていた。
そんなことは初めてだった。
「そんなことにはならないさ。お前は強い」
髪を撫でてやると、彼女が体を更に寄せてくる。
「私が一体何をしたっていうんだ」
「フェンリル……」
思わず口から出そうになった言葉を飲み込む。
それは誰のためにもならない言葉だ。
だから、冷え切った彼女の手を握ってやり、違う言葉を伝える。
「きっとみんなわかってくれる」
その言葉の空虚さは、俺が一番わかっていた。
彼女の体を強く抱きしめた。
神々の顔に喜びが満ちる。
ドワーフが魔法の鎖を完成させたという。
俺とフェンリルを呼び出してロキが言う。
「この魔法の鎖をちぎれなければ、お前は大した力のない狼だということになる。
その場合、お前は神々の脅威にはならないだろう。すぐに開放してやる」
フェンリルが言う。
「わかった。だが約束してくれ。もし私がそれをちぎれなければ、必ず私を解放すると」
ロキが首を縦に振って、俺に目配せをした。
俺は彼女の前に出て、その鼻を優しく撫でた。
「必ず約束は守らせよう。その証に、俺の右腕を賭けよう」
狼の口に、俺は右腕を差し込む。
彼女の口内は温かかったが、緊張のためか乾ききっていた。
グレイプニルと呼ばれる鎖が彼女の全身に巻かれると、素直な彼女はいつものようにそれを引きちぎろうとする。
俺は祈る。どうか彼女がそれを壊しませんように。
引っ張り、噛みつき、転げまわり。
様々な方法を試していたが、結局彼女はそれをちぎることができなかった。
「さぁ、ロキ。彼女を解放してやれ。彼女は神々の災いにはなりえない」
ロキが手を挙げる。
するとグレイプニルがフェンリルにより強固に纏わりつく。
身体に巻き付いた鎖は巨大な石と合わさるようにして絡み合い、手や足に巻き付いたそれは、そのまま枷となった。
フェンリルは驚いた拍子に口を閉じてしまい、俺の血の味を知る。
痛みのため視界が明転したが、憎悪がすぐに痛みをかき消した。
「ロキ!! どういうことだ!!」
彼の姿を探すまでもない。不敵な笑みを浮かべた彼はすぐ目の前まで来ていた。
混乱したフェンリルが口を開ける。
俺の右腕は、俺の体から離れ今や彼女の中にあった。
「ごめん、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
フェンリルが泣いている。縛り付けられた孤高な狼が泣いている。
「ロキ!!」
剣を抜き、彼を斬りつける。
だが、慣れない左手で振った剣は空を斬り、逆に彼に剣を奪われてしまった。
ロキはそのまま狼の前に立つ。
「お前!! どうして!!」
唯一自由になる口で、フェンリルはロキに噛みつこうとした。
「おおっと」
ロキは大きく開かれた彼女の口が閉じられなくなるように、剣を立てたまま差し込んだ。
閉じることのできない口からダラダラと唾液を垂らし、全ての自由を失い泣き叫ぶ彼女の絶叫が、腕の痛みよりもなお痛ましい。
「貴様、それでも彼女の父親か!!」
ロキに殴りかかろうとする俺を、今までどこに隠れていたのか、他の神々が彼から引き離す。
(全て仕組まれたことだったのか……)
ロキ一人の判断ではない。これは恐怖に支配された神々の計略だったのだ。
「ただ正義と誇りを信条とするお前にわかるものか。
俺の子どもたちの誰もが、あれと同じ運命をたどるのさ」
そうつぶやいたロキの瞳は暗く、絶望に染まっていた。
その後、俺は彼女と会うことを禁じられた。
我々は自らの滅びを、自らの手で作り出しているのではないだろうか。
失った右腕を見ては、そう思わざるを得ない。
ラグナロクの日、隻腕の俺は満足に戦うことができないだろう。
けれど知っている。
彼女は真っ先に俺のもとに来てくれることを。
喩え今度はこの身の全てを喰われたとしても、俺はその日を待ち遠しく思う。