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吾輩になるまで 後

怒鳴り声がしたと思ったら、ツウという音がした。相手が激情のまま電話を切ったらしい。


真奈美は溜息をついて、頭からヘッドセットを外した。

ノートパソコンに今の通話内容をメモしていく。

時計を見ると既に昼時間を三十分も過ぎていた。


コールセンター業務は心も減るが、お腹ももっと減る。メ

モもそこそこにしてパソコンを閉じると、かばんから弁当が入った巾着を取り出し給湯室へ向かう。

給湯室の冷蔵庫からペットボトルを取り出して、休憩スペースへ。


同僚の女性スタッフたちが昼食を終えて団欒していた。



「佐藤さん、今から食事?」



先輩スタッフが真奈美の姿に気付いた。


「またクレーム?」


「はい、注文したスニーカーに傷がついてたんですけど、商品そのものを返品してくれないんです。傷だってソール部分に一ミリほど凹んでる場所があるだけらしくてこちらのミスだし直接謝りに来いって。室長も対応してくれないから長引いちゃいました」



またかといった様子で同僚達は苦笑いした。

クレーマーからの電話は日常茶飯事だ。

大抵相手の気の済むまでひたすら謝り続けているが、クレームすることが生きがいのような人間もいるので、どうあっても電話が長引きやすい。



「それよりさ、今日の合コンどうする。たまには来てよ。ああ、でももしかして彼氏さんいる? いつも帰るの早いよね」



真奈美とはあまり仲が良くないスタッフが意地悪くいった。

彼女は日々の言動から仕事よりアフターファイブに命を懸けている節があり、何故か真奈美は彼女の目の敵にされている。気合を入れているのか口紅がいつもより朱が差している。



「あー、いいですよ。今日は行きます。たぶん、大丈夫です。」


「あはは、彼氏はちゃんと構ってくれないの?」



 彼女は尚も挑戦的に笑ってきた。

真奈美はぐっとこらえてにこやかに笑い返す。



「さあ、どうなんでしょう。あたしに興味ないのかもしれませんね。夜はいつもどっかぶらついてるんで、勝手に外で食べてくると思います。あ、報告書を書くのでそろそろ行きます」



真奈美は手早く弁当を食べ終えると背後から佐藤さんも大変だねーと笑う声が聞こえた。

きっと今頃勝ち誇ったような顔をしているのだろう。

電話業務も大変だが、こういう職場の付き合いは無駄に長引く分もっと面倒だ。


そう思いつつも真奈美も、一応は少しめかしこんだ。

真奈美も合コンに興味がないわけではなかった。

田舎の両親はいつ結婚するかせっついてくる。



けれど合コンは散々だった。


相手の男の一人は結婚していたし、幹事の男は実は彼女がいた。

そして残りの男に女性が集中する形となる。

殺気立つ同僚女子の手前、真奈美は目立たないよう隅で黙っていた。

てもちぶさたになって酒を飲んでいるうちにどんどん酔ってしまって、「佐藤さんやばくない?」と一人タクシーで送られた。



なんとかタクシー運転手にお金をはらって、家の玄関にたどり着く。

酔いがぶり返して、吐きそうになった。廊下を這ってようやくリビングの床にたどり着いたが頭がぐるぐるとした。

マナミはパッと顔を上げて、何事かとそばに寄ってきたコウの腰に抱きついた。



「コウ! 帰ってたんだ! 浮気してごめん! やっぱり私にはコウしかいない!」



 コウは真奈美の頭を鬱陶しそうに叩いた。

 真奈美の頭はこけしのようにぐらんぐらんとしてしまうし、眼は焦点が合わないしで大変な様子となっていた。



「慰めてくれてるのね。なんてイケメンなの!ああ、コウと私が結婚できれば!」



叩かれているのにへこたれない真奈美。

コウは眉を寄せて顔をしかめた。

こいつは頭がおかしいとでもいいたげだった。



「あれ、耳からなんか血が出てる」



耳以外にもコウの体にはあちこちに切り傷がついていた。目の上は少し腫れていた。



「また喧嘩してきたの!  だから家でおとなしくしててって何度も!」



コウは真奈美を鬱陶しがり、真奈美の顔を殴った。



「いた」



頬を抑えて座り込んだ真奈美を放って、コウは隣の部屋へと行ってしまった。

クッションを枕にして寝ている。


その背中は話しかけるなと語っていた。

深夜に起こされて不機嫌な様子だった。


それでも。


どんなに冷たくされようと、真奈美はコウが心配で仕方なかった。


すぐ手当てをしなければと体を動かそうとする。

しかし、手に力が入らない。

ずるりとまた床に突っ伏する。気持ち悪くなって胃の中のものが逆流しそうになる。

思わず飲み込んで口の中が酸っぱくなって、もう何が何だかわからなくなり、そして意識が遠くなった。

 




部屋の向こうでマナミが動く気配がなくなった。

俺は気になってリビングに戻った。

真奈美は泣きながら吐いて、しかし幸せそうに眠っていた。

真奈美の横には吐しゃ物が頬について臭い。



俺は彼女の側に寄り添うと彼女の頬をペロリと舐めてやった。


ザラザラの舌がむず痒いのか、赤くした瞼がぴくぴくして、小さく呻いた。

なぜか笑っている。



まったく仕方のないやつだ。



コウと呼ばれた黒猫はため息をついた。



しかし、俺を相変わらずよくわからなく愛してくれる。

俺にはそれが不思議で堪らない。

俺はいつか俺を優しくしてくれた人に、なにかを返したい。


それこそ自分が立派に生きて、周りが誇れるような。

目の前の女をまず幸せにすること。

それが今の俺にとっての生きがいだった。



俺もいつか曾祖父さんのように人間をわかってやれるだろうか。

是非なりたいものだ。


そしていつかマナミやシゲマツ夫妻、産婆とのんびり過ごして行きたい。



そうだ、俺は急に母親のことを思い出した。

なぜ思い出したのかわからない。

真奈美を見て、母を思い出したら不快にならないが、それでも母も女であり大切にすべき雌であった。


思いついたことは単純だ。

それは曾祖父さんのことだった。

俺の原点はどこにあってもそこにある。



俺も曾祖父さんに倣いたい。

追いつきたい。


冷蔵庫をよじ登っていればよかったガキの頃とはわけが違う。

登ることに夢中な人間は、降りることに気が回らない。

それが俺の生き方であってこれからも変わらない。


まず一歩目として。

「俺」等と安っぽく自分を言わないこととしよう。

決意を新たにすることにしよう。


日本のどこか。

アパートのキッチンの隅で倒れ込む女性のもとで座り込む一匹の黒猫。

ただの猫である。

しかし世界に名を残そうと大望を抱いている。

それは誰も知る由もない。



黒猫は倒れ込んだ飼い主の横でニャアと鳴いた。



吾輩はコウである。


ご覧の通り、夏目漱石のオマージュ作品になりました。

夏目漱石ファンの方のお怒りに触れないことを切に願っております。

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