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吾輩になるまで 中

ぶうと電車が、駅のホームを離れてゆく。


線路の脇には地元の高校の学生が赤いネクタイをして頭が悪そうにはしゃぎあっている。

低俗な所だ。海辺の町だった。

日が強いせいか押し寄せる波がまぶしく、眼がくらむ。港町のようだったので、食い物には困らないかもしれないと思えた。

近くの商店街をぶらりと回ったり、店先の干物を盗んだり、ゴミ箱を漁ったりした。


あまり盗んでばかりでも悪いから、たまに港の方に足を向ける。

この町の漁師はいいやつが多くて、俺みたいのがよってきても嫌がる顔をしなかった。

俺が申し訳無さそうに、愛想笑いを浮かべて近づくと「しょうがねぇなぁ。ほれ持ってけ」と形の悪い魚を数匹よこしてくれたりした。



そのうち身体が大きくなって、食うのに困るようになった。

小さいうちは見逃してもらえていたようだが、どこへ行って寝泊まりするにも絡まれるようになる。

殴られたり、時には切られたり、急に大声を出されたりして、這々の体で逃げ回る毎日に疲れていった。

俺としては少ない食い物を恵んでもらえれば良かったのだが、顔が割れたのか、段々盗みも厳しくなっていった。

中には同情してくれる奴もいて、コンビニの裏のごみ箱から弁当が出されるタイミングや、定期的に飯を配給してくれる人間を教えてくれたりして、なんとか俺も食いつないだ。

ごみ箱を漁って誰かが食った腐りかけのパンを貪ることも少なくなった。



しかし、落ち着く場所がなければ、食い物は安定しない。

盗んで喧嘩して殴られて、無理が祟ったのかとうとう道端で倒れてしまう。

行き着いて倒れた先は、かびた乳のようなツンとした臭いを放つゴミ袋の上だった。



『きゅう』



極限まで腹が減る感覚とは不思議なもので、腹の奥が変に鳴って、浮いた心地になり痛みが消えた。

身体の機能が失われつつあることは脳が理解しているのに、身体の毛という毛が鋭敏になる。

耳も鼻も目も使えなくなっているのに、俺を狙っているカラスの気配だけはずっとわかる。不覚にも涙が浮かんでいた。


ふいに抱きしめられた感触があった。

産婆の懐かしい匂いがした気がした。


まさか産婆がここまで追ってきたわけではあるまい。

目やにがこすりついた瞼をようやく開けると、一人の女がいた。

年の頃は二十とちょっとだろうか。

OL姿にショートヘアーのマナミだった。


マナミは就活帰りにドブにまみれた薄汚い雑巾のような俺を拾って、家に置いてくれた。

自分が汚れるのも構うことなく、自宅へ俺を引っ張り込むと、暖かい風呂へ入れてくれ、飯をたんまりとよそってくれた。


いつまでいていいかと聞いたが、マナミは答えなかった。

代わりに俺の頭を撫でるだけだった。俺はなんともむずがゆい思いをして、その手を思わず払って横になった。

それについては今でもすまないと思っている。


あのときの飯はきっと一生忘れない。

俺は猫舌だから熱いものは好きではないが、あの時だけは格別だった。

一宿のつもりだったけれど、マナミは翌日も翌々日も飯を用意してくれた。

俺みたいな小汚い奴を置いてくれようとするのだから、産婆やシゲマツ夫妻同様に大層変わった奴だ。

それまでの俺ならやはりまたうんざりして飛び出していただろう。

しかし、俺も疲れていたし甘えることにした。


いつかは俺も出ていくだろうが、今日までマナミと暮らしている。

世の中には良い人間が多すぎる。


俺はろくでなしだから、理解できないがありがたいことに変わりない。



マナミの家に置いてもらっているうちに、近所の連中と顔見知りになっていった。

俺は喧嘩が強かったから、慕う者もできてきて、やがてなんとなくやることも決まってきた。



そして今のシマに納まった。

仕事の名前はないが、用心棒のようなものだ。喧嘩があれば、仲裁するので仲裁屋でもあるかもしれん。


後からわかったことだが、この町にもチンピラ同士の序列というものがあった。それは俺が元いたところで、兄としていたことと変わらない。


くだらないことだが序列を守らずにいると、蹴飛ばされる。落ち着いた頃、俺はたまたま誰にも見られず上物を手に入れたので、気を利かせて近くのボスに土産にしたところ、そのまま今のシマに入れられてしまったというわけだ。



シマには持ち回りというのがあった。


ボスの元につく下っ端の俺たちが代わる代わるに務める。

狩場を荒らしている者がいれば切った張ったをするし、捨てられた奴がいればオヤジの元へ一旦連れて行くことになっている。

ただし、同じ下っ端の狸と赤スカーフは違った。

何でこの両人が義務を免れるのかと聞いてみたら、官吏待遇だからという。

彼らはオヤジの横を陣取り、古参だからという理由で勝手な規則をこしらえて、それが当たり前だというような顔をしている。

狸と赤巻という名は言い得て妙だ。狸はふてぶてしく飯を食い散らかす仕草が本当に狸だし、赤スカーフはその名の通り首に巻く赤スカーフが自慢のナルシスト野郎だ。


赤スカーフは自分たちの周りをネズミを見つけ、捕まえることが得意だとよく俺に自慢した。

こそこそと俺たちの周りを嗅ぎ回り、たまに飯のタネをうばったり、牙をむいたりする。

ネズミは実に汚い連中だ。


君はネズミを殺したことがあるかと聞かれたので、



「ネズミならどこにでも潜んでいる。見つけることも珍しくもないし、殺す価値もない」と答えたら鼻で笑われた。



赤スカーフはネズミを見つける作法を教えてしんぜようとほくほくと言った。

赤スカーフは狸といつも一緒にいた。

狸の方が大柄だから、赤スカーフは常にご機嫌をとっていた。

だからか、町にどんな女がいるか奴らは詳しかった。

赤スカーフが手頃な女を見つけ、狸に教える。

赤スカーフと狸は二人で、女に猫なで声を出すのだった。


こんな奴らにマナミが付け回されたらと思うと、ぞっとした。

俺はこんな下品な連中と会ったことがなかった。



あくる日、俺はオヤジの元へ持ち回りの報告をしに行こうとすると、煙草屋の店先で栗色の下品な髪の色をしたココアが待ち構えていた。


「君、狸と赤巻が今夜オヤジの女にちょっかいをかける気だぞ」


「とうとうアイツラも終わりだな」


「どっこいボスを追い出そうとすら考えているらしい」


「とんでもない連中だ」


「どうだ、君。あんな奸物をあのままにしておくと、町のためにならない。僕がボスに代わって制裁してやろうと思う。一緒にどうか」


ココアは得意そうに太い腕をくいくいさせた。


ココアとはもちろんあだ名である。

ココアは、飲み物のココアなんか別に好きでもなんでもない。

一緒の女がココアちゃんとあだ名をつけるものだから、周りにも結果呼ばれるようになったらしい。

「男なのにココアちゃんと言われて腹が立たんのか」と聞いたら、「俺も君と同じように女に世話になっているからな」とココアは遠い目をしていてた。


俺たちはとにかく女に弱い。


ココアは俺がシマに入ったときからの付き合いだった。

こういうのは初めが肝心だ。

ボスにしたのと同じように、初対面のときにはココアに丁寧にお辞儀をした。

それなのにこいつときたら見向きもせず、やあ君が新入りか、今度遊びに付き合いたまえアハハハと云った。

何がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものかと思ったものだ。

しかし、狸などと違って一本気質のようだったので、まだ相手に値する。ちなみに赤スカーフと狸に挨拶なんかしたことない。見ただけで馬が合わないのがわかることもあるのだ。やつは狸だったが。



「そいつは愉快だ」



俺はココアの提案に乗ることにした。

狸の剥げかけた頭と、赤スカーフの間抜けに開けた口を思い出した。



「あいつらは二言目には品性知性といって鼻持ちならない。ココア、お前に加勢してやる」



夜は決戦となった。


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