吾輩になるまで 前
ガキの頃から後先考えぬ性分で損ばかりしている。
マンションのベランダの格子の上を歩いて見せて、二階から落ちて尻餅をついたことがある。
うまく着地できず、砂利に額をこすりつける形で転んでしまった。なぜそんな所に登ったかと問われれば、ただ歩いてみたかっただけに過ぎない。
俺はひときわ小さかったし、そんなバカなことばかりするからからか、兄たちはいつも俺を見下していた。兄たちはとかく偉ぶる。そう生きるしかないのだと思う。
「このチビめ。たまには度胸を見せてみろ」と兄たちが俺を囃してる。
それが兄たちの日常であり、生きがいであった。
俺は言われた通り、俺はテーブルや冷蔵庫の上など至る所に登って見下ろしてやった。
そしてたまに足を滑らせた。
登ることに夢中なものだから、降りるときのことなど考えないのだ。
俺はそれでいい。
俺はずっと兄たちとその仲間との世界しか知らなかったら、舐められたら終わりだと信じていた。
俺が高いところから落ちるたびに血相を変えてくれたのは産婆だけだった。
それ以外の者は大抵指を指して笑っていた。
産婆は落ちた俺を急ぎ抱え「あんな危ないことをして」と、臀部を優しくさすりながらも厳しく叱ってきた。
幸いまだ幼く身体が柔らかったので怪我は殆どしなかった。
しかし、傷は深くないものの目の上にでかい痣はできてしまった。
喧嘩に絡まれようと、この痣を見れば相手は怯んだ。はったりにはちょうど良い。
俺や兄たちの世話は大抵産婆がしていて、母はときどき顔を見せに来るだけだった。
おやじはいなかった。
マンションの部屋へは母や祖母の元へ毎年男が来た。母にヤる時だけ媚びて、あとは俺たち兄弟を殴ったり怒鳴ったりと暴力を振るった。
あの男の中に、もしかしたらおやじがいたのかもしれない。別に知りたくもない。
母は何か商売をしていて、男に人気があった。祖母の元にも男が多くやってきた。
子供に関心はなくとも、母は強かさもある女だった。
気に入らない男がいれば叩き出したし、子どもは気が向いたときだけ相手をするおもちゃだった。
俺たち兄弟の名前は、全て産婆がつけたものだった。
母の艶やかな淫靡さは幼い俺に軽蔑の感情を教えた。
母が母らしいことを言うのは曾祖父さんの話をするときだけだった。
俺が兄やその仲間と喧嘩ばかりするものだから煩くて仕方なかったのだろう。
母は俺に「ひいおじいさんを見習いなさい」とたしなめてその時だけ母親の顔をした。
俺の曾祖父さんはその界隈では有名な奴だった。
哲学家であり、詩人であった。偉い人だったからか、いろんな本にも取り上げられた、らしい。
あいにく俺は文字が読めるほどの学がない。
そんな曾祖父さんも生まれは不詳だし、幼少時代はじめじめと湿った劣悪な環境で生まれ育ったという。
その点は俺と同じである。俺の居場所は大抵キッチンの隅だった。
曾祖父さんの周りは打算的な人間ばかりで、おおよそまともな者など一人もいなかったが、生を大いに謳歌したらしい。
細かく人間観察を毎日飽きもせずに続けていき、それを本にして末に有名になった。
曾祖父さんは俺と違い、暇を好奇心に変え、そして金にする知恵があった。俺は同じように暇でも、喧嘩ばかりのチンピラである。
母が俺をどう見ていたか知らないか、母の自尊心は曾祖父さんによって保たれていた。
だからか、自分から男を誘いつつも、簡単に男になびくことはなかった。
たまに相手にされなかった男が腹いせに、まだ俺同様に小さい兄をベランダに摘まみ上げて落とそうとした時があった。
たとえ憎い兄でも血が繋がった兄弟である。
俺は烈火の如くがなり立てて、男を部屋からたたき出した。
そんな兄が礼を言うことはなかったが、少しだけ俺への悪口が減った。
悪いことだけでもなかった。
生まれてまもなくしわくちゃで呼吸もままならかったらしい俺を、体が大きくなるまで産婆が必死に世話してくれたことだ。産婆は優しくていい奴だ。
母は産んで早々に俺たち兄弟を見捨てて、産婆に世話を任せた。
産婆は兄弟の中でもひときわ小さい俺を兎角可愛がってくれた。子供心になぜあんなに可愛がるのかとわからず、気味が悪かった。
兄弟達と飯を囲むとそれは戦争で、小さい俺は食卓からいつも爪弾きにされてしまう。
部屋の隅で恨めしく奪われた茶色い飯を眺めていると、産婆が気を利かせて兄弟達には見えぬようそっと飯をあとで分け与えてくれた。こんな生存競争で負けた奴など放っておけば良いのに。
それでも産婆は美味い飯をくれる。兄弟達の中ではちゃんと飯が食えず身体が弱く死んだ奴もいた。
俺は産婆がいたおかげで生き抜けた。
俺が記憶する限り俺が産婆に何かしてやったことはない。
対して産婆は俺が「あー」とか「うー」とか手持ち無沙汰にしているだけでも駆け寄ってくる。
「あなたは本当に凛々しくて、美しい」
俺たちには生きる道理がある。俺も母達も兄弟も自分以外に感心がない人でなしだから、その可愛がり方が理解できなかった。もしかすると産婆は老後に俺に面倒をみてもらうつもりだったのかもしれない。
そのうち、俺の下に弟が沢山出来て部屋はもっと手狭になって、兄たちは次々と独り立ちしていった。俺も奉公に出なければならなくなった。こんな窮屈な所、いつか抜け出してやろうと思っていたから好都合だったが、心配なのは産婆のことだった。俺は連れていける身分ではない。だが、いざ出立する際、産婆は里親から何か手渡されていたので安心した。
産婆は俺の顔を覗き込んで「もうお別れなのね。元気でね」とおいおい泣いた。
俺は泣かなかった。
しかし、もう少しで泣くところだった。その後どう生きても産婆のようなへんてこりんな愛を持てないとわかって、寂しさを感じた。その寂しさは、人とは良いものであると悟らせた。
奉公先は一軒の煎餅屋だった。シゲマツという子供がいない老夫妻で、今思い出してみればこいつらも良い奴らだった。少なくとも産婆のように俺を第一に愛し続けてくれたからだ
「ほんとうにお前さんはかしこい」
シゲマツ夫妻の口癖だった。そしていつも俺の頭を撫でて飯を沢山くれる。
奉公した当初も窮屈な部屋から一転、広い庭付きの一戸建てに来たものだから、俺は嬉しくなって家中を走り回ったものだ。ツルツルとした木の廊下を勢い良く駆けるあまり足を壺に引っ掛けてしまった。
俺にもやっていいことと悪いことの区別はつく。
知らぬ存ぜぬも通せたと思うが、すぐにシゲマツの爺さんを呼んで、頭を垂れた。爺さんは俺が怪我をしなかったか心配して、婆さんに壺の場所を変えるよう相談し始めた。俺にお咎めは一切なかった。
謝ろうと思ったが、どうすればよいかわからなかった。もどかしくなった末、爺さんの腹に頭をうずめた。
「悪いと思っているのか。やっぱりお前さんは賢いな」
どんなにイタズラしても、何をしても許されてしまう。
急に俺は俺自身が怖くなった。
このまま甘やかされては、俺は駄目になってしまうのではないか。
それはただの思いつきだった。
思い付けばそのままどんどん悪い想像が膨らんでいった。
シゲマツ夫妻もかなり高齢である。
俺が大人になるほうが早いか、彼らが病院に入るか死ぬのが早いかほどだ。
俺が煎餅の作り方以前に、味を覚えるまえに死んでしまうのではないか。
考えだしたら眠れなくなった。俺はとにかく自分の小心さが嫌になった。
ついに爺さん達が店先に出ている隙に家出をしてしまった。
小心なのに家出をする根性があるのが自分でも驚きだ。
板の塀の下を潜り抜け、隣家に出て、塀沿いに気づかれぬようにすたすた逃げていった。
家出は大層辛かった。
シゲマツの婆さんも泣き虫だったから、きっと俺にも泣いてくれたことだろう。
以来、生まれた場所へもシゲマツ夫妻の所へも帰っていない。