悩み事と食欲の勝負
靴屋を出てからのルクフィールはなんとも軽やかな足取りでジェイドの横を歩いていた。
舗装された道というのもあるのだろうが、古い靴で森の中を歩くのとは比べ物にならないほど歩きやすく、その感触に頬が緩むのを隠せない。
今までは何も考えずに使っていた靴だが、この新しい靴を履いた後ではきっともう履こうとは思わないだろう。それくらいの差を感じて、嬉しい思いとは別に少し悲しくもなった。
自分は本当に今までまともな靴すら履けていなかったのだと、改めて気づいてしまったから。
(でももう村に戻る気はないし、これ以上悲しむ方が自分に対して可哀そうだわ)
あの村が閉鎖的だったことは知っていたし、ルクフィールと母が都合よく扱われていたのも感じていた。だけど死なずにここまで生きて来られた。ならばもうこれ以上考えたところでどうにもならないのではないか。
(むしろ考えるだけ無駄っていうか? そもそもこっちの薬だけ当てにして生かしてる感じがむしろ不愉快というか……)
あ、だんだん腹が立ってきた。と思考がそれた瞬間、ルクフィールのお腹が盛大に空腹を訴えて鳴きだした。
咄嗟にお腹を抑えたがすでに遅く、ちらりと見上げた先では面白そうにニヤリと笑うジェイドの顔がある。
「あいかわらず主張の激しい腹で」
「っぐ……」
文句など言えるはずもない。むしろ靴屋に入る前にも大きなパンを食べさせてもらっているのだから、いくら腹持ちが悪いといっても限度があるだろう。
「ギルドの前になんか食うかー」
「………………すみません」
昨夜からまだ半日程度の付き合いだが、ルクフィールが異常なほどの空腹持ちであると彼は気づいていて何度も食べさせてくれているのだ。もう感謝しかない。
そうしてジェイドが足を向けた先は料理を扱う屋台が並んだ通りで、近づくにつれて食欲をそそる香りと、それに対抗するようなお腹の音が鳴りやまない。
ちなみに大きすぎるマントは、裾の部分を内側に折り込み、胸のあたりで縛ってある。これならば裾を引きずることもなく、パッと見は何とかマントに見えるだろう。二重になったことで若干動きづらいのは仕方がない。
ジェイドはまず手近な屋台で何かを買い、それをルクフィールに手渡してきた。受け取ったものは温かいが中身が見えないのでどんな食べ物か分からない。見たことのない食べ物だけどその香りは耐えがたいほど香ばしかった。すぐにでも噛り付きたい衝動を抑えながらなおも進んでいくジェイドの後を追えば、少し開けた広場に出た。
広場には机と椅子がいくつも置いてあって屋台で買ったものをここで食べられるようだ。すぐに空いている机を見つけて腰を落ち着けた。
「先に食べとけ」
それだけを告げてジェイドが別の屋台へと歩いて行った。まだ何かを買うのだろう。
(食べていいって言ってくれたし)
そう言い訳して手の中の包みを開いてみれば、中からは四角くくるまれた何かが出てきた。
端っこをちょっとかじってみる。しっとりと温かい生地の中から葉野菜が見えた。
もう一口かじってみる。今度は味付け肉がゴロっと口の中に転がってきて驚いた。
(粉の生地を薄く焼いて野菜とお肉をくるんでるんだ)
外側の生地はもっちりとしていて、中の具と一緒に食べるととても美味しい。肉は柔らかく煮込まれていてほろりと崩れるし、何より初めて食べる濃い目の甘辛い味付けがたまらない。
今までは調味料も貴重なために薄味だったので、ルクフィールにとってこの濃い味付けは少し辛いけど衝撃的な美味しさだった。
夢中で食べ進め、気が付くと手の中が空っぽになっていてはっと我に返った。
(なんて恐ろしい食べ物なのかしら……気が付いたら消えているなんて……)
しかし夢ではなかった証拠に、口の中にはまだほんのりと甘辛い味が残っている。名残惜し気にそれを感じながら包み紙を片付けているうちに、向かいの席にジェイドが腰を下ろすのが見えた。
「食べるの早いな。ちゃんと噛んでんのか」
その言葉と共に目の前に木のカップが置かれた。中身はなにかの果汁らしく、ほんのりと甘さを含んだ香りがする。
「ちゃんと噛んでます。でもすごく美味しくて気が付いたら消えてました」
「そりゃよかった。まだ食うか?」
その言葉と共に紙袋から小さな丸いパンを手渡された。こちらもほんわりと温かくて焼き立てなのだと分かる。
「……たべます。ありがとうございます」
ほんの数回の食事しかしていないが、どうやらジェイドにはルクフィールのお腹の許容量をなんとなく把握されているようでちょっと恥ずかしい。
確かに空腹を我慢せず、次までにどれだけ残すかを悩まない食事のせいで、かなり食欲のタガがはずれてきているようだと自分でも実感はしている。だけど、ちょっとでもお腹が鳴るとどこからともなく食べ物が出てきて、特に注意されることもなくお腹が満たされていくのだ。
(この状況に慣れたらこの先生きていけないかもしれない)
どこかに連れていくとは聞いたがそこがどんな場所なのかはいまだに不明のまま。着いた先でどこかに預けれらたり離れたりはすると思うけど、そうなった時に一人で今と同じ量の食事が用意できるとは到底思えない。
なにせルクフィールの外見はどう頑張っても十歳に満たない子供なのだ。
まともな仕事があるとは思えないし、たとえ働けたとしても給金はそう高くはないだろう。そうすると必然的に食費に使える金額は少なくなり、今までと同じように常に空腹との戦いになってしまう。
しかも今までと違って美味しい食事で満腹になるという幸福感を知ってしまったのだから、再び空腹感を耐える生活はきっと想像を絶するほど辛いかもしれない。考えれば考えるほど絶望感しか浮かんでこない。
(これは、もしかしなくても、とても不味い状態じゃないの……?)
もし仮に今と同じように美味しい食事を出されると言われてしまったら、無条件で頷いてしまいそうな自分を感じてルクフィールは無意識にパンにかぶりついた。香ばしい木の実と塩気のあるチーズがとても美味しい。
もしくは今後の苦境を耐えるための思い出として、この美味しい時間を堪能するべきではないか。この美味しくも幸せな思い出があれば、この先の空腹も多少は耐えきれるかもしれないし無理かもしれない。柑橘類のジャムが甘酸っぱくて美味しい。
それとも薬師としてどうやってか薬を作って売れないだろうか。薬草さえ採りに行ければなんとか自分の食費くらいは稼げるかもしれない。コショウのきいた肉がピリッと美味しいけどちょっと辛い。
(それともそれとも……)
「なあ、そんなに百面相してないで素直に食えないの?」
「ふぇ?」
「すげぇ食べるのに変な顔してるし、でも味は分かってるぽいから見てる分には面白いんだが消化は悪そうだな」
何かを考えるように眉間にしわを寄せ、でも食べた後は美味しさに口元を緩める。悩んで沈み込み、また美味しくて目をキラキラとさせるルクフィールの姿は、はたから見ればただの変な子供だった。
それでもどんどんと食べるものだから、ジェイドも面白がって次々にパンを渡していたのだが。
そのことを指摘されてルクフィールは驚いて口の中のパンを飲み込み、うっかり詰まらせそうになって再び恥ずかしそうに落ち込むという失態を追加した。
そんなやりとりを経て、最終的にはジェイドに面白い子供だと印象付けることになった。
ちなみにどれだけ悩もうが今すぐに解決しないと気づいたルクフィールは、取り合えずジェイドと別れるまではこの幸せを刻んでおこうと思い直して四つ目のパンを受け取った。
薄焼の皮で野菜と肉を包む・・・お食事クレープ的な感じです。