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異界小話

遺命

作者: 野良ゆき

以前、別名で投稿していたもののリメイクです。

 頬に落ちてきた水滴のかすかな感触で、彼は目を覚ました。

 雨が降ってきたのだ、と理解した途端に、地面に横たわる彼の体を大粒の雨が激しく打ち始める。


(ルウの親爺さんが言ってたことは、本当だったんだなあ)


 灰色の空を、仰向けに転がったまま見上げながら、彼は、この戦いが始まる前に騎士団付きの老従者から聞いた話を思い出していた。


「おっきな戦の後にゃ、必ず大雨が降るもんなんでさ。だから、今度のも一雨来るにちげえねえです。旦那方、外套を用意しといたほうがいい。…何で、雨が降るか、ですって? …そりゃあ、あれですよ…水をね、欲しがるんです。地べたに転がってる死人たちが、ね」


(あのときは、戦いの前の緊張も手伝って、そんなことがあるはずないと、皆で親爺さんを嘘つき呼ばわりして笑ったっけ。…謝っておかなきゃな。…もっとも、)


 彼は、思った。


(…親爺さんも、水を欲しがる死人のひとりになっていなければの話だが…)


 激しさを増す雨が、彼の体温を急速に奪っていく

 ぶるりとひとつ身震いをして、彼はようやく、この負け戦の中で自分が命を拾ったらしいことを実感した。




 戦争の理由など、その大本を辿れば、どれも些細なものだ。

 後世の歴史家はこの戦いを「自治貿易港ケーテの保護権をめぐる争い」などと書き残すのだろうが、それは、あくまで表面上の理由に過ぎない。

 ヴァンダルとベネデ。

 この二大国の歴史は、戦争と謀略の歴史と呼んでも過言ではあるまい。数度の大戦と、数えきれないほどの小競り合い。そのような歴史をもう百五十年以上も繰り返してきた両国にとっては、戦いを始める理由などもはや何でもよいのだ。

 ケーテの保護権などはただのきっかけであり、器に満たされた水を溢れさせる最後の小さな一滴でしかない。

 ケーテに軍を駐留させたベネデに対し、ヴァンダルは形式的な抗議文を送り付け、ベネデ側はこれに宣戦布告をもって応じる…。幾度となく繰り返されてきた「かたち」に則って、今回の戦いの幕は開かれたのだった。

 そして、やはり、幾度となく繰り返されてきたように、この戦いもまた、結局は両者痛み分けで幕を閉じる…はずであった。




 雨が止み、辺りが薄暗くなってきても、彼はまだその場を動けずにいた。

 それほどに疲労していたということもあるが、ベネデ軍による残党狩りを恐れたからでもある。

 彼の所属するヴァンダル騎士団は、敵にとっては長らく恐怖の対象であった。噂によれば、下級の団員でも、生け捕りにすれば幾ばくかの報奨金が出るらしい。捕らえられた後のことは分からない。見せしめの処刑か、奴隷としての強制労働か…いずれにせよ、せっかく拾った命を敵に預けたいとは思わなかった。

 辺りに敵兵の気配がないことを十分に確認した後、彼はゆっくりと上体を起こし、立ち上がろうとした。途端、右のすねに鈍い痛みが走る。立ち上がれないほどの痛みではなかったが、彼は慌てて鎧のすね当てを外した。

 小さな傷でも、そこから汚れた泥などが入ると、後々腕や脚を切り落とさねばならなくなることもある。痛む箇所をよく調べてみるが、切り傷はないようだ。落馬したときにできた打ち身なのだろう。彼はそっと安堵のため息をついた。

 近くに転がっていた槍を杖代わりにして立ち上がり、周囲を見渡す。

 眼前に広がるのは、まさに、地獄の光景だった。

 地に横たわる、無数の死。死。死。

 そのほとんどが騎士団員の亡骸だ。


(全滅だな…)


 大陸最強の名をほしいままにしたヴァンダル騎士団千余騎。それが、ただ一度の戦いで全滅するなど、誰が信じるだろう。

 槍を手にしたまま、ゆっくりと歩き出す。

 数歩と歩かないところに、同僚のクレイが死んでいた。

 小さな地方領主の一人息子で、来年にも騎士団を退団し、父親の跡を継ぐ予定だった。

 少し離れたところには、中隊長のドニー男爵の亡骸が転がっていた。形の良い高い鼻と、ピンとはねた口ひげをいつも自慢していた、陽気で洒落者の中隊長殿も、今やいくつもの馬蹄に踏みにじられ、泥だらけになって転がっている。

 歌の上手かったエルンスト、無口だが細かいことにも気の回ったネイ、賭け事に目がなかったビアンキ…。歩を進めるごとに、ひとり、またひとりと、同僚たちの亡骸が彼の目に飛び込んでくる。誰もが、皆、今朝まで寝食を共にし、酒を酌み交わし、冗談を言い合ってきた仲間だった。

 そんな中でも、騎士団で一番の若手だったロンドルの亡骸を見つけたときには、彼は思わず「ああ」と声を漏らした。

 そばかすだらけの童顔に、ブロンドの巻き毛をしたロンドルは「そばかすのロン」というあだ名で、団員皆に可愛がられていた。

 今度の戦で報奨金が出たら、これまで貯めてきた給金と合わせて、惚れた女との結婚資金にするんだと、真っ赤な顔で熱弁をふるって、皆にからかわれていたのは、つい、昨夜のことだ。

 血と泥にまみれたロンは、大きく口を見開いたまま、魂の抜け殻となって冷たく転がっている。

 その、自分の死がまだ信じられないとでも言うような表情から、彼は無理やり視線を引き離した。目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。まぶたに映るのは在りし日のロンや仲間たちの姿、そして、彼ら騎士団に死の突撃を命じた、国王・ハロルド四世の顔、だった。




 ハロルド馬鹿王。

 自国の民衆からも陰口を叩かれるこの男が、国王として即位したことは、ヴァンダルの歴史にとっては最大の不幸であり、宿敵ベネデには最高の幸運であったに違いない。

 酒色に溺れ、それを諫めた近臣を処罰し、口が上手いだけの貴族たちに政治は任せきり。自分にとって都合の悪いことには耳をふさぎ、自分勝手で、極度の自信家。「国王親征」という言葉の甘美さに惑わされ、無謀にも本国を空にして自ら遠征軍を率いるという愚を犯した挙句、最大の戦力である騎士団を、自身が逃亡する時間稼ぎのためだけに、無意味な死に赴かせた。

 その結果が、この惨憺たる負け戦なのだ。

 損害の少ないベネデ軍は、この戦果を好機として、国王ユベール二世を陣頭にそのままヴァンダルの都を目指して進軍を続けるだろう。

 総力戦に敗れ、虎の子の騎士団まで壊滅してしまった以上、ヴァンダルにはもうこの勢いに抗する力は、ない。半月も経たず、都の空はベネデの旗で覆いつくされるに違いない。民衆の被害はどれほどのものになるか、想像もできない。

 …それもこれも、ただ、ひとりの、愚かな王のために。




 遠い山の稜線に、夕日がゆっくりと沈んでいく。

 ふいに、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、彼は辺りを見回した。

 しかし、周囲は相変わらずの死体だらけで、命あるものの気配はない。


(皆が、あっちから呼んでいるのか…)


 そう、考えたとき、また声が聞こえた。

 かすかな声だが、確かに自分の名を呼んでいる。彼は、慌てて辺りの死体をひっくり返し、生存者を探し始めた。


「隊長殿!」


 人馬の死体の下からなんとか引っ張り出したのは、ヴァンダル騎士団の団長、ヘンデル伯爵だった。


「やはり、お前だったか…。…他の者は?」


 その声には、もはや力がない。脇の下、鎧の隙間から入り込んだらしい槍傷と、太股の切り傷が深く、出血もひどい。


「…ドニー、トラディス両中隊長の戦死を確認しました。我が小隊では、クレイ、ビアンキ、エルンスト、それに騎士見習のロンドルが…」


「そうか、ロンの奴も…。可哀想なことをした…」


 そうつぶやくと、ヘンデルは静かに目を閉じた。息が絶えてしまったのかと彼は慌てたが、どうやら死者を悼むためのものだったらしい、やがて眼を開くと、


「お前は、大事ないのか?」と尋ねた。


 彼は、何度も無言でがくがくと頷くことで、その問いに答える。口を開けば涙が溢れてしまいそうだったからだ。この深手では、そう長くは生きられないという確信が、瞳の奥に鈍い痛みを与えている。

 ヘンデルは、両親のいない彼にとって父親のような存在だった。

 やはり騎士団員だった彼の父は、ベネデとの戦いで命を落とし、同じ戦いでヘンデルはひとり息子を失った。それ以降、ヘンデルは何かと彼の面倒を見てくれるようになり、彼もまた、悲しみに暮れていたヘンデル夫人の話し相手をしたり、身の回りの雑用を引き受けたりしてきたのだった。


「私はもう…助からん」


 力無く笑いながら、ヘンデルがつぶやく。


「浅手です。…手当をすれば助かります。どうか、お気を…」


 続く言葉は、こらえきれずに溢れてきた涙に遮られた。

 気休めの嘘さえ、上手についてやれない。そんな「親不孝」な自分の不甲斐なさに、後から後から、涙は溢れてくる。


「死ぬ前に…頼みたいことが、ある…」


 涙を流す彼を、優しい表情で見つめながら、ヘンデルが口を開いた。

 彼は、乱暴に涙を拭うと、しっかりとヘンデルに頷いて見せる。せめて最後の願いを叶えることでしか、もう、これまでの恩に報いる方法がないのだ。


(きっと団長は…奥方様のことを頼まれるに違いない)


 彼は思った。

 死に際し「父」が「子」に、後に残される「母」の身を託す。

 それは当たり前の「親子」の姿であろう。

 そして、彼もまた、ヘンデルが自分にそのような言葉を遺すことを、当然のように期待したのだった。

 …だが。


「…陛下は…ハロルド陛下は、きっと、まだ、ご無事でいらっしゃる…。陛下を探し出し、お守りするのだ…」


 ヘンデルの言葉を聞いた瞬間、彼の顔に、さっと血の気が差した。自分勝手な期待を思いめぐらせていたことへの羞恥と、騎士団を全滅へと導いた国王への怒りが込み上げ、言葉となって流れ出す。


「何をおっしゃいます! 今回の敗戦は、明らかに陛下のご判断の誤りが原因! それを今更、何の義理立てを…」


「貴様!」


 喉元に食い込んだヘンデルの掌によって、彼の言葉は中断させられた。


「貴様…いやしくも王国騎士団員たる者が、王家のことを取り沙汰し、悪し様にののしるとは何事か!」


 瀕死の人間とは思えない力で締め上げてくる。


「…よいか、これは私の遺言だと思え…。お前の生命ある限り、陛下をお助けし、陛下の望まれることを叶えて差し上げるべく、一命を賭すのだ。…良いな!」


 指の力が緩む、と思った瞬間、彼はヘンデルに突き飛ばされ、無様に尻もちをついた。涙が、咳とともに溢れ出し、彼はそれ以上の抗弁の言葉を失った。


「…どうした、団長の命令だぞ…復唱を、せよ」


「…ご命令通り、国王陛下を何としてでも探し出し、そのお言葉に…従います」


 力無く返事をする彼の顔を、ヘンデルは厳しい表情のまましばらく見つめていたが、やがて「よし」と小さくつぶやくと、


「…私の、腰から、剣を抜いてくれ…」


 彼が言われた通りに鞘ごと剣を抜き手渡すと、ヘンデルは震える手でそれを受け取り、しばし目の前にかざした。そして「取れ」と短く命じ、彼のほうに差し出す。

 何事か分からず、とりあえず剣を受け取った彼の手を、ヘンデルの両手が包み込んだ。先ほど喉元に食い込んだものとは違う、柔らかな、優しい所作だった。


「…無銘だが、なかなかのものだ…。持って行け…。その剣で、陛下、の、望みを…必ず…」


 ずるり、と、ヘンデルの両手が滑り落ちる。彼は慌ててヘンデルの名を呼び、肩をゆするが、その瞳にはすでに死の影が濃い。


「その、剣…我が家に、代々…。…家長から、長男、へ…」


 彼は、ヘンデルの言葉の続きを、待った。

 しかし、その瞳に光が戻ることは、なかった。



 

 都へと通じる主要な街道は、ベネデ軍に押さえられているに違いなかった。

 夜に乗じて戦場を離れ、迂回路となる山道を注意深く進みながら、彼は、ヘンデルの遺命について考えていた。

 王の望むことを、自分の命を懸けて叶えてやる。

 不本意な命令には違いないが、敬愛する「父」の遺言なのだ。従わないわけにはいかない。

 王が戦場から逃げきれていたとすれば、とにかく都へと戻ろうとするはずだ。もしかすると、団長や他の騎士団員たちのように、今頃、王も戦場に屍をさらしているかもしれないが…。どちらにせよ、都へ向かえば、そのうち戦いの詳しい経緯も分かるだろう。

 槍を杖に、何度も木の根に足を取られながら、彼は真っ暗な山道を、月明かりを頼りにひたすら歩き続けた。

 どれほど歩いた頃だろうか。

 彼は、ふと、足を止めた。

 何かの気配を感じたような気がしたのだ。

 じっと耳を澄ましてみるが、辺りはしんと静まり返っていて、何の物音も聞こえてはこない。

 再び歩き出そうとした瞬間、今度ははっきりと「ぱきり」と、枝を踏むような音が聞こえた。

 反射的に杖がわりにしていた槍を構え、音の下方向へ素早く向き直る。


「…出てこい」


 すぐ脇の茂みに潜む、何者かの気配を確かに感じ取ると、彼は内心の動揺を押し殺して、できるだけ静かに、しかし殺気のこもった声を投げかけた。

 一瞬の静寂の後、がさがさと音を立てながら、茂みの中から小さな影が転がり出てきた。

 彼は油断なく槍先をその影に向けるが、どうやら、相手は抵抗する気がないらしい。地べたに這いつくばったまま、小さく震えているようだ。


「…追ってきたのか?」


 震える影が、震える声を出す。

 その声に聞き覚えがあるような気がして、彼は闇の中で小首をかしげた。


「私を追ってきたのであろう…。だ、だが、私は生け捕りにはならぬ…こ、殺すがいい…。私の首は、さぞ良い値になるであろうの…」


 まさか、と思いながら、彼は懐から火打石を取り出すと、身にまとった外套の端を破いて火を灯した。小さな炎を影に向かってそっと近づける。


「…へ、陛下! ハロルド国王陛下!」


 明かりの中に浮かんだのは、ヴァンダル国王ハロルド四世の、泥にまみれた姿だった。




 突然、自分の前に跪いた男が、どうやら敵ではないらしいと確認した王は、大きな安堵の息をついた。

 宝冠の装飾がついた兜も、王家の家紋が刻印された鎧も、逃走中にすべて脱ぎ捨ててしまったのだろう。地面に座り込み、泥に汚れたその姿は、惨めで弱弱しい、ただの敗残兵にしか見えない。


「そなた、何者じゃ?」


 惨めな姿になり果てようと、王としての傲慢さがそうさせるのか、先ほどとは打って変わった尊大な口調で、王は彼に尋ねた。


「私は、騎士団で一小隊を率いていた者です」


 慇懃に、彼は答える。

 「騎士団」という言葉を聞いた途端、王の表情が険しくなった。が、地に跪く彼の眼には入らない。


「陛下の御身をお守りしようと、王都へと向かう途中でした。ここでこうしてお目にかかれましたのは―」


「黙れ!」


 突然の怒号に、驚いて顔を上げると同時に、鈍い痛みが彼の横っ面に走った。王が、近くに転がっていた木の枝で、彼の頬を打ったのである。


「貴様ら騎士団があっけなくやられおるから、私の逃げる時間が無くなったのだ! 王家を守るための騎士団が、王の命を危険にさらすとは、怠慢もよいところであろうが! ヘンデルは! あやつはどうした! 私がこのように苦しんでおるときに、騎士団長ともあろう者が馳せ参じもせぬとは!」


 罵声を浴びせながら、王は、彼の体を容赦なく殴打し続けた。


「団長殿は…ヘンデル騎士団長は、討ち死になされました!」


 彼の言葉に、王の手がぴたりと止まった。


「我々、騎士団員一千余騎! ご叱責の通り、後退の時間を稼ぐことも叶わず、全滅の憂き目を見ました。しかし、誰一人敵に背を向けることなく、君命に従うべく戦いましたる次第にございます。…結果、団長殿は最期の瞬間まで戦場に留まられ、奮戦の後、他の多くの団員とともに、無念の最期を遂げられました。…私に、陛下をお守りし、御意に従うようにとの遺言を残して…」


 振りかざした枝を宙に留めたまま、王は彼の言葉を無言で聞いている。

 跪いた姿勢のまま、彼は、王の言葉を、待った。やがて、


「そうか…ヘンデルは、死んだか…」


「…はい」


 つぶやくような王の言葉に、重々しく頷く。


(悔いるがいい、先の言葉を。最も忠実な臣下を…騎士団とヘンデル団長を失ったことを、悔いるがいい…)


 だが、次に発せられた王の言葉は、彼が期待するものではなかった。


「あの、役立たずめが! 俸給を貪るのみで、騎士団長としての責務も果たさぬまま野垂れ死にしおるとは…!」


 その言葉を聞いた瞬間、彼の視界は赤に染まった。

 怒りのあまり、頭に割れるような痛みが走り、全身の血流がごうごうと流れる音さえ聞こえる気がした。

 王はまだヘンデルへの恨み節を吐き出し続けているが、彼の耳にはもはや何の音も聞こえてはいない。

 ヘンデルを、亡き「父」を侮蔑された怒りで、彼の右手は無意識に、腰に佩いた剣の柄を握り締めていた。

 しかし、触り慣れないその柄の感触が、はっと、彼を激情から引き戻す。

 その剣は、ヘンデルがその最期に彼に託したものだった。

 ―その剣で、陛下の望みを、必ず―

 剣を手渡した時のヘンデルの言葉がよみがえり、彼の右手は刀身を鞘からわずかに滑らせたところで、ぴたりと停止した。

 なおも未練がましく柄から離れようとしない指を、苦心して引き剥がしながら、彼は亡き「父」に問うた。


(あなたは、王を守れと、その望みを命を賭して叶えよと言われた…。ご自分が、これほど、その当人から侮蔑され、誇りを踏みにじられると分かっていても、それでも同じ言葉を遺されたでしょうか…?)


「…ふん。まあ、よい。…そなた、無事に私を守り通して、騎士団の恥を雪いで見せよ。よいな?」


 どこか、遠くのほうで、王の声が聞こえる。


「御意」と、彼は短く答えた。


「よし、では行くぞ。そなた、先導するのだ」


「行く…と、仰せられますと、どちらへ?」


「決まっておろう。ラグナズ砦だ。あそこにはクルーベ率いる別動隊が、ざっと二千はおる。それを率いて、戦勝で油断しきっているベネデの豚どもに、ひと泡ふかせてくれるのだ! はは、ははははは! 今に見ておれ!」


 高笑いを上げるハロルド王を、彼はただ、愕然とした表情で見上げる。


(…この「馬鹿王」めが…!)


 危うく、声に出しそうになるのを、かろうじてこらえた。

 主戦場の後方に位置するラグナズ砦は、クルーベ侯爵率いる別動隊が守備にあたっていた。しかし、本隊の決戦が始まる前に、戦場を大きく迂回したベネデ軍の奇襲を受け、壊滅しているのだ。

 騎士団は、決戦前にすでに全員がこの報を受けていた。前線の部隊に伝わっていた情報が、本陣の王に届いていなかったはずがない。

 おそらくは、報告を受けた側近たちが、王の怒りを買うことを恐れ、その場で報告を握りつぶしてしまったのだろう。勝てばよい、勝ちさえすれば、王はいち砦の失陥くらい笑って許すに決まっている、と。

 ハロルド王の治世となって、宮廷の腐敗は、王都の物乞いでも知らぬものはいないと噂されるほど、ひどいものになっている。たとえ事実であっても、国の命運を左右するような情報であっても、王の機嫌を損ねるような報告は一切されず、ただご機嫌取りに終始する近臣たち。そして、その捻じ曲げられた報告を、一切の疑念もなく真実だと信じきる王。


(…この男は、何も知らされず、何事にも気づくことができず、想像をはたらかすことさえできないのだ…。騎士団の連中がどのような想いで死んでいったのかも、団長殿がどれほど王の身を案じていたのかも、俺が、たった今、剣を抜いて斬りかかろうとしたことも…。何も、分かっていないのだ…)


 先ほどまで、自分の中で渦巻いていた激しい怒りの炎が、急速に小さくしぼんでいくのを、彼は感じた。

 哀しかった。ただ、ただ、哀しかった。

 このような男のために死なねばならなかった騎士団の仲間たちが。

 王を批判した自分を叱ったヘンデルが。

 そして、この愚かな男の、愚かな望みを叶えてやらねばならない自分自身が。

 無性に、哀しく、滑稽なものに思えて仕方なかった。


(このような目に遭うくらいなら…命など、拾わねば良かった…)


 理不尽な突撃の命令に戸惑いながらも、騎士団の誇りと言う旗の下に死んでいった仲間たちを、彼は、このとき初めて、うらやましいと感じた。




 ラグナズ砦への移動は、困難を極めた。

 ハロルド王の行方が未だ分からないということもあり、道という道にはベネデ軍が陣を構えており、とても敗残兵ふたりで突破できるものではない。

 谷を渡り、川を越え、野草や木の実を食しながらの道行きは、はじめこそ威勢の良かったハロルド王を、すぐに疲弊させた。

 足が痛い、腹が減った、まだ着かないのかと文句を垂れ流し続ける王に閉口しながらも、彼は黙々と砦への裏道を先導していった。

 もう、やけになっていたのだ。

 このままラグナズ砦にたどり着いたとしても、待っているのは味方の別動隊などではなく、何百もの敵兵なのだ。やけにならないほうがおかしい。

 ラグナズ砦がすでに敵の手に落ちていることを、彼は結局王に告げなかった。告げたところで、王は役立たずの騎士団の生き残りより、口の上手い側近たちの報告を信じるに決まっている。


(…砦で敵に囲まれたとき、王はどうするのだろうか? そして、俺も、どうすればよいのか…?)


 道中、彼は繰り返し考えた。

 そのときの、愕然とした王の顔を見れば、自分のこのやるせなさも少しは和らぐだろうか、と。

 当然、そのときには、彼もまたヘンデルの剣を手に、王を守り抜いて戦死しなければならない。王の望みを叶え、王を守るために剣をふるうのが「父」ヘンデルの遺命だったからだ。


(…俺の行動は、矛盾しているだろうか?)


 彼は、また、考える。

 本来なら、どれほど罵声を浴び去られようとも王を説得し、ラグナズ砦ではなく王都へと逃れ、軍を立て直し、やがて王都へと殺到するであろうベネデ軍との最終決戦の場で、王とともに討ち死にするべきなのだ。

 ヘンデルなら一も二もなくそうするだろうし、彼もまた、正常な判断の下でならその道を選んだに違いない。

 あの言葉…ヘンデルを役立たずと罵ったあの王の言葉が、彼を静かに狂わせていた。自分の身を最期まで案じた臣下に対し、非情な言葉を吐きつけることしかできない男を、彼は、そこまでして守りたくはなかった。

 どの道を辿ろうと、結局、王も自分も、死ぬ。

 ならば、「父」を侮辱されたことへの復讐心を少しでも満たすために、その死期をちょっとくらい早めてもよいではないか。


(…馬鹿王の望みを叶えつつ、王への復讐も果たす…。ただ、ひとつ残念なことは…)


 彼は、考える。


(俺自身が、あの男に手を下せないことだ…!)




 幾度目かの夜が訪れた。

 もうひと山越えれば、ラグナズ砦は目と鼻の先だ。

 だが、ハロルド王の体力はすでに限界を超えたらしい。先ほどから地面に座り込んだまま、その場を動こうとしない。


「陛下、もう一息です。この山を越えればラグナズです。さあ、お手を…」


「うるさい! この、役立たずめが!」


 差し出された手を、王は怒号とともに振り払おうとした。だが、その手は虚しく空を切り、王の身体は勢い余って地面に転がった。彼が慌てて抱き起こそうとすると、王は荒い息の下、何事かをつぶやいている。


「…おのれ…ユベールの小僧めが…。絶対に許さぬぞ…。このハロルドに、このような苦汁を嘗めさせおって…。今に見ておれ、ラグナズの兵力を結集して、あやつの首を足蹴にしてくれる…! ふ、ふはははは!」


 ぼろぼろで泥にまみれ、疲れ果てて一歩も動けない、この貧相な敗残兵が、未だに国王としての傲慢さを捨てていないことに、彼は反吐を吐きたくなるような嫌悪を覚えた。


「見ておれ…私の命に代えても、ユベール、貴様を地獄に叩き落してくれる…!」


 その言葉を聞いた瞬間、彼の頭に、あるひとつの考えが浮かんだ。

 「父」ヘンデルの遺命通り、王の望みを叶えるために剣をふるい、かつ、彼自身の復讐心をも充足させる手段を。


「…今のお言葉、ご本心からのものでございましょうか…?」


 突然の問いに、ハロルド王はきょとんとした顔で彼を見つめる。


「…ご自身の命に代えても…と先ほど仰せられましたが、本当に、そのお覚悟が、陛下にございますか?」


「何を言う! この恥辱を晴らすためなら、この命など…捨ててくれるわ!」


 怒りで顔を真っ赤にしながら、王が声を荒げた。

 彼は、満足そうに頷くと、慎重に、次の言葉をつないだ。


「…私に、妙案がございます。陛下に、それほどのお覚悟があれば、ユベール王のお命を頂戴するのも、難しいことではないでしょう」


 王は、彼の言葉が信じられない様子で、ぽかん、と口を開けた。


「ま、まことか…? 本当に、そなた、ユベールめを討ち取る策があるというのか?」


「ございます。…ただ」


「ただ?」


「この策、成功するか否かは、陛下のご決断に掛かっております。…無礼を承知でもう一度お聞きします。…ユベール王を討つために、お命を投げ出すお覚悟が…おありですか?」


 ある。というハロルド王の言葉を聞くや否や、彼は迷うことなく、亡父の剣を抜き放った。




 次の日、ユベール二世は、ひとりの刺客によって暗殺された。

 勝ち戦の直後に起こったこの事件は、ベネデ軍を大いに動揺させ、軍事的に圧倒的優位を保ちながらも、ベネデはヴァンダルと再度の休戦協定を結ばざるを得なくなった。

 暗殺者は、敵王ハロルド四世の首を手に、ユベール王の陣を訪れ、恩賞を求めての謁見の最中、懐中の短刀で王を刺殺した、と、されている。

 暗殺者がどのような経緯でハロルド王の首を手に入れたのか、その首が本物であったのか、そもそも暗殺者は何者であったのか。

 様々な謎に関して、ベネデ、ヴァンダル、双方の史書は多くを語ってはいない。





おしまい

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