幸福の白い犬
ユリアーネには、学がない。親がない。金がない。
極め付けには、尽くしに尽くした男に浮気された──あんなに尽くしたのに。
いや、今では付き合っていたかさえ疑問だ。
一体、何が悪かったのだろう。
欲しいと言われれば金も渡した。
料理も、それ以外の家事も通いで全部したのに。
『あんなブス、恋人じゃない。強いて言うなら、家政婦かな。愛しているのは君だけだよ』
彼が好きな料理の材料を持って行った際、彼の部屋の扉の隙間から聞いた声だ。
裸の女と抱き合いながら、話していた。しかも、その女とユリアーネは目が合って嗤われた。
酷い、と傷付くより先に納得した──ユリアーネはブスで、女は綺麗だったから。
結局、世の中は見た目なのだ。
美しい女を、男は選ぶ。
中身なんて関係ない。
男にとって、ユリアーネは金をくれて飯を作るだけの女だった。
それだけの話だ。
ぽつ、と足元に雫が落ちる。
ユリアーネの涙ではない。雨だ。
それは時間を置かずに、ザーッと五月蝿い位の土砂降りになった。
ここまで不幸だと笑える。
いや、笑えないけど笑うしかない。
だって泣きたくないし、それに泣いたって誰も助けてくれない。
小さい時分にすら、助けてもらえなかったのだ。こんな成人済みのブスに誰が優しくするというのか。
メリットは皆無だ。むしろマイナスだ。
「うわっ、きったねえな」
「本当だ〜」
ユリアーネは、一瞬若い男女が自分に言ってるのかと思った。
でも、違った。
子犬だ。
遠目から見ても泥だらけで、目が見えているか不思議な程、よたよたと歩いている。
子犬から目を逸らす──でも、見捨てればあの子犬は確実に死ぬ。
子犬が死んだってユリアーネには関係ないが、しかし……振り返ってしまったらもうダメだった。
ユリアーネは子犬の元に駆けていた。
着ていたびしょびしょの上着を絞り、それで子犬を包んで、そのまま近くの動物病院に連れて行った。
ユリアーネも子犬もずぶ濡れだったが、獣医の老夫婦は嫌な顔一つしなかった。
「優しい人に拾われて良かったねえ、もう大丈夫だからねえ」
愛想の良いお爺ちゃん先生が、震える子犬に間延びした声で話しかける。
ユリアーネは、自分のことしか考えていない、馬鹿で愚かでブスな女だ。
子犬を拾ったのは衝動的というか、思いつきであって、決してユリアーネが優しいからではない。
子犬は綺麗になると、白かった。
毛並みは悪いが、目もきちんと開いたし、怪我も軽症だった。
まん丸い黒目がユリアーネをじっと見るので、何だか不思議な気持ちになる。
ユリアーネは子犬を自分の借りている部屋に連れ帰ることにした。
先生の奥方から借りた傘で、子犬はタオルで包んで濡れないようにして帰る道すがら「なぜ」と呟く。
なんで、こんなことをしているのか。
頭に疑問符が浮かぶ。
分からない──ショックで頭がイカれたのかも知れない。
それなら納得だ。
子犬には、『アルフレート』と名付けた。
アルフレートは大きくならない犬種で、大人しい性格をしていた。
ユリアーネがレストランのウエイトレスの仕事で日中居なくても、ただじっと待っている。
そして帰宅すると尻尾を千切れんばかりに振って出迎えるのだ。
こんなことをされれば、卑屈で根暗なユリアーネの口角も自然に上がる。
ユリアーネは、仕事が終われば男の部屋に食事を作りに行っていたが、それをやめた。
最初の頃はソワソワと落ち着かなかったが、慣れた──というより、アルフレートの方が大事になった。
獣医の老夫婦にも会いに行き、子犬の育て方を熱心に聞いた。
仕事仲間や常連客は、辛気臭いユリアーネの態度が少しづつ軟化しているのを感じるようになった。
そして、変化の理由が『瀕死の犬を拾った』ことだと分かると、ユリアーネの好感度は本人が意図しないところで急上昇した。
ユリアーネは、アルフレートと出会ってから人間関係がうまくいくようになった。
男には別れ話はされていないが、もう別れた気でいた。実際、会っていないのだから、あながち嘘でもない。
男に貢ぐのをやめたおかげで懐に余裕ができ、初めて自分の為にお洒落な服や化粧品を購入し、アルフレートにもおもちゃも与えることができた。
アルフレートは、いつもユリアーネの隣で寝る。
よく舌をしまい忘れたり、半目白目になっていたりする。
寝言も言うし、夢の中で走っているのか手足をくるくるぱたぱた動かしたりもする。
おかしくて、楽しくて、アルフレートが可愛いくて、愛おしい。
──そうして、ユリアーネは尽くしていた男のことを考えなくなった。
「アル」
呼ぶと、信頼しきった黒目がユリアーネを見つめ返した。
その晩、ユリアーネは夢を見た──アルフレートと自分が広い草むらで走り回って笑う夢だ。
そして、ユリアーネとアルフレートを呼ぶ声に振り返ったところで目が覚めた。
隣を見るとまた舌をしまい忘れたアルフレートが安心しきった顔で眠っていた。
ゲスリーは、最近ツイていない。
ユリアーネが部屋に来なくなり、健康的な食事と、掃除が行き届いた部屋と、遊べる小金を失ったからだ。
ユリアーネが飯を作りに来なくなってから約三か月。
その理由は知っている。
女が牽制したのだとゲスリーに自慢げに話してきたからだ。
話を聞いた時は何にも思わなかった。
どうせユリアーネは自分に惚れているから、また自分に尽くしに来るに決まっていると、根拠のない自信があったのだ。
しかし、彼女は部屋に来ない。
ゲスリーは、彼女の住んでる場所も職場も知らない。
孤児院を出たばかりの、十五歳だったユリアーネに三年も尽くさせていたくせに、彼女について何も知らなかった。
今部屋にいる女は、料理も洗濯もできない。
やれ、と言ってもやらないし、怒りだしてヒステリックに叫んでものを投げたりする。
それに比べて、ユリアーネは良かった。
やれ、と言う前に全部用意してくれて、ゲスリーが気まぐれに言った感謝の言葉に嬉しそうに微笑んでくれた。
陰気な女だったが、笑うとそれなりに見れた。
性格も大人しく、口答えしないところも良かった。
プレゼントもデートもないと不機嫌になる目の前の生意気な女と違い、彼女は文句一つも言わなかった。
──ゲスリーは、ここで漸くユリアーネの有難みに気付いた。
日雇いでその日暮らしのゲスリーは、夜勤の仕事が終わり、朝食を摂りに安価なレストランに入った。
コーヒー一杯でも長居できて、喫茶店より質は劣るが安いメニューが多いレストランはそこそこ混んでいる。
「え?」
──注文を取りに来た女が、ユリアーネに似ていた。
本人だと断言できないのは、顔だ。
ゲスリーの知っている彼女はこんなに可愛くない。
「ユリアーネ?」
「……ご注文は?」
「ああ、えっと、モーニングセットを……なあ、お前、ユリアーネか?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ユリアーネは注文だけを受け取ると去っていった。
配膳の時にもう一度聞こうと思っていたが、彼女ではない店員が持ってきた。
野暮ったいもっさりした重たいロングヘアから、短い髪になっていたユリアーネは、薄くおしろいをはたいて、淡い桃色を唇に落としている。
姿勢も良く、常連客らしき男に何か言われたのか、ふざけて打つふりをして笑うユリアーネは以前の彼女ではないくらい明るい。
たった三か月で何があったのか。
──いや、それより、今の彼女なら自分の隣にいても遜色はないのでは?
仕事中に話しかけられて恥ずかしかったのだろうと思ったゲスリーは、店の裏口で彼女を待つことにした。
春といえど夜になると肌寒く、ゲスリーがくしゃみを二連発繰り出したところで、ユリアーネは裏口の専用扉から姿を現した。
ユリアーネは、私服も以前より垢抜けたものになっており、仕事中とは違うはっきりとした色の口紅をしている。
「ユリアーネ!」
「……違います」
「お前のこと待ってたんだ。ユリアーネ、俺達やり直さないか?」
笑めばころっと落ちると思ったユリアーネは、「人違いです」と冷たい声でゲスリーを一蹴する。
その後も声をかけるが無視をされて透明人間扱いを受けてしまう。
甘い声色で話しかけても彼女から返事はない。
こんな対応をされたゲスリーは我慢ならない。
せっかく正式な恋人にしてやろうと思ったのに、この態度はなんだ?
許しがたい態度だ。
「おい! 調子に乗んなよ──」
ユリアーネに向けて振り上げた手は掴まれ、あっと言う間にゲスリーの顔は地面と密着していた。
そして、かぷりと何かに足を噛まれ悲鳴を上げた。
「リカルドさん……と、アル?」
「アルが珍しく吠えるから見に来たんだ。こら、アル、汚いから噛んじゃダメだよ」
リカルドと呼ばれた男がゲスリーの足元から真っ白い毛玉を抱き上げる。
「アルは本当に賢くて良い子だね」
嬉しそうに笑うリカルドに、毛玉は尻尾をぶんぶん振って喜んでいる。
ゲスリーは、リカルドに背中を踏まれ体を動かせない──力一杯地面から離れようとしているのに、だ。
「で、これ、ユリの知り合い?」
「おい! 退けよっ! 俺はユリアーネの、」
「いえ、知らない人です」
リカルドの『これ』呼ばわりに反論するが、その言葉はユリアーネによって遮られた。
「そっか、じゃあ警邏に突き出さないとね」
「は、はあ!? なんで俺が!」
「ユリに暴力を振るおうとした暴漢だからだよ?」
「違う! 俺はそんなこと……痛っ!」
喚くゲスリーの背中が急に痛む。リカルドが足に力を入れたのだ。
そして、しゃがんだリカルドは、ゲスリーにだけ届く声で忠告を囁く。
「見逃すのは一回だけだ、クソ野郎。二度とユリの前に面見せんな。次はこんなもんじゃねえぞ」
ドスの効いた声に、ゲスリーは目の前が真っ暗になった──比喩ではない。
そして目を覚ました時、ゲスリーがいたのは拘留所だった。
意識を落とす前にリカルドが言った言葉を思い出し、ゲスリーは身を震わせて二度とユリアーネの前に姿を現さないと心に決めた。
リカルドは通っている動物病院の、獣医の孫である。
いずれは祖父の跡を継ぐ彼は、ユリアーネより三つ年上の二十一歳の青年だ。
獣医になって一年目の彼は、動物や子供が好きな心優しい男で、いつもにこにこと目じりを下げて笑っているので、ゲスリーへの対応にはとても驚いた──いつの間にか気を失ったゲスリーを警邏隊に突き出したのだ。
「驚きました。リカルドさんって力持ちなんですね」
ゲスリーはさして大柄でもないが平均より背の高い成人男性である。
そんな男を軽々と担ぐものだから驚くのは当然だ。
「見た目よりも軽かったんだよ……ねえ、それよりアルを褒めてあげたら? あいつの足を噛んでユリを守ったんだから」
「ふふ、はい」
心無しか得意げな顔付きのアルフレートをきゅっと抱きしめてからよしよしと撫でる。嬉しそうだ。
「アル、守ってくれてありがとう」
「……いいなあ」
「え?」
「僕にもしてよ」
はい、と頭を下げるリカルドに、ユリアーネは少し戸惑いながら恋人になったばかりの男の頭を撫でた。
童顔で黒目がち。
ミルクティー色のふわふわした髪を持つ彼は、言ったら怒られるかも知れないが、犬っぽい。
年上なのに、とても可愛いのだ。
「……リカルドさん、アルみたいです」
「だってさ、アル。どうする?」
リカルドの言葉に、アルフレートが小さく唸って焼きもちを焼くので、ユリアーネは笑いが止まらなくなった。
動物病院の『お爺ちゃん先生』ことケイレブは、孫の頭を撫でているユリアーネを見て「ふふふ」と笑い声を漏らす。
ほんの少し素行に問題があった孫が改心して、三年経つ頃。
そろそろ引退して、病院を孫のリカルドに譲ろうと思っていた矢先のある日、ユリアーネが現れた。
あの日、ユリアーネは今にも死にそうな子犬──アルフレートを抱いていた。
顔の良い孫に最初から最後まで視界に入っておらず、あろうことか三度目の来院で「初めまして」と挨拶をしたのだ。
リカルドも最初こそ女性として興味がない様子だったが、ケイレブが知らないうちにあのようになっていた。
「あなた、馬に蹴られちゃいますよ?」
「病院に馬は来ないから大丈夫。それより見なよ、『狂犬』と言われたリカルドがさあ」
二人を指差して楽しそうに笑う夫に、夫人も呆れを無くしてころころ笑う。
いつまでも少年みたいな夫である。
「あらあら本当、可愛いワンちゃんが二匹」
小型犬と大型犬が、ユリアーネに甘えている微笑ましい光景に夫人の顔も緩む。
「ユリちゃんがお嫁さんに来てくれる日も近いかもなあ」
「そうですね」
「楽しみだなあ」
「ええ」
抜かりがない孫の性格を思えば、本当に遠い日の話ではなさそうだ。
「──爺ちゃん、婆ちゃん……そこで何してんの?」
呆れ顔のリカルドの後ろには、毛並みの良い白い犬を抱いたユリアーネが幸せそうに微笑んでいた。
【完】